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2011年10月

2011/10/28

秋 と 

009
今しかない秋。
雪虫も飛んで、すぐ冬がやってくる、

はず。

なんだけど、最近、ほんと温暖化してますね。

なかなか寒くなりません。
昨日も、小春日和のような、こんなお天気。
010

どういうわけか、忙しいです。

父の世話もなく、病院に行くこともないのに、
どうして、こんなに忙しいのでしょう。

気のせいかな。。
ってことはない、さすがに。

ふうむ、これは、やっぱり多少「暇」になってるということかも。

つまり、

忙しいと気づくだけの「暇」があるということかもしれない。

前は、忙しいなんて、思ってる「暇」もなかったなぁ。。

地面を見るゆとりもあるし
015
門をはう赤いつたにも気づけます。
021

日記も、更新!
予習も、するぞ!

===
ああ、よかった、何とか、日記っぽく仕上げました。

な~んにも思いつかない日ってのも、あるのね。


そう言えば、書き終わって、思い出したけど、

「インドラ・ジャトラの祭り」というビデオを借りてきて

授業で使おうかと見ていましたら、

子ヤギやアヒルや羊などが、
供犠にささげられるシーンがありまして、
血の滴る光景に

わたしが、ダウン。。

ネパールの大がかりなお祭りです。
バイラヴァやドゥルガーといった神さまも出てくるお祭りは、
なかなかすさまじいです。

そういえば、
仏典にも、たくさんの動物を殺すお祭りのお話しがあったなあと
思い出しました。

みんな涙を流しながら、祭りのために働いていました

と書いてあったなあと、思いだして、妙に実感してしまいました。

はあ~、百聞は一見にしかず。。。

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2011/10/16

秋は空(くう)なり、山は空なり

005

001

山と建物。

季節がちょっと変化するだけで、風景は変わります。
病院の屋上からの眺めは、見るたびに新しい。

このような様をなんと言うでしょう?

はい!どうぞ。

「無常」ですっ。

そうですねぇ。
「諸行無常」って、わたしたちにはなじみ深いことばです。


何の話をしようとしているかと言いますと

スマナサーラ長老さまの著作『ブッダの質問箱』(サンガ新書)の

ある質問についてなのです。


25頁に、

「無常」「空」とはなんですか?

という質問があって、それには、このような答えがあります。

=======
すべてのものは現れては消えます。
世界は「現れては消える」ことの連続です。
実体的なものはなにもないということを
「無常」といいます。
「空」「無我」も同じ意味です。
世界は蜃気楼のようなものだということです。
=======

なるほど!
上の二枚の写真も、少しアングルがずれてますけど、
「現れては消える」いろいろなものを写し出していますね。

雲は、現れて消えてます。
緑も、現れて消えてます。
山もくっきり現れて消えてます。
建物は現れて。。。消えてないみたいです。
でも、形や色が少し異なって見えます。

実体的なものはなにもない、というのは、
見ている眼には、納得されるでしょう。

ここまではいいのです。

ちょっと疑問が出てくるのは、「空」や「無我」についてです。
「無常」と同じ意味でいいのかもしれませんが、
少し引っかかります。
だって、やっぱり、ちがうことばだからです。

=======
世界は蜃気楼のようなものだということです。
=======

この文は、「空」「無我」の説明になっているのでしょうね。
もう少し説明を読みましょう。

=======
「空」とは「空っぽ」ではなく、蜃気楼です。
蜃気楼は、光の屈折により作られている現象ですが、
私たちの肉眼には、ほんとうにそこに山や木や湖があるように見えます。
=======

う~~~むむ。。「空」は「空っぽ」ではなく蜃気楼。。
引っかかりました。
ここから、動きません。

もう少し読みましょうか。
========
しかも、「なんてきれいなんだ」と思うなど、私たちの感情まで、
実体のない蜃気楼によって変化します。
ところが実際に行ってみると何もありません。
しかしそれは、「本当になにもない(虚空)」という意味ではありません。
原因によって一時的に現れている現象なのです。
========

う~~むむ。。何が、どう引っかかるんでしょうか。

わかった!
長老さまが、
「空」を「空っぽ」でない、というのは、
「空」を「虚空」と見るな、ということでしょう。

一時的に現れている現象なのだから、
実体がない蜃気楼のようなものだけど、
何もない、ということではない

ということを、言わんとしているのでしょうね。

でも、それなら、やっぱり!
これは「無常」ということばがふさわしい
と思います。

わざわざ「空」という意味がでないような気がします。

なぜって、「空」というのは、
素直に読めば、やっぱり「空っぽ」ということだからです。

*****

「空」というのは、「虚空」でもなく「蜃気楼」でもなく、
「空っぽ」と採る方が、有益です。

★「無常」というのは、一つの「ものの見方」です。
ものごと(諸行)がたえず変化するさまを言い表すことばです。

★「空」というのも、また、一つの「ものの見方」です。
(ものごとをで言い表す)ことばが実体をもたず、
意味については空っぽだ、空虚だ、ということを
言い表すことばです。

ブッダが、「世界を空なりと見よ」というとき、
「世界」ということばで示されたものを、「空である」と見なさい、
ということになるかもしれませんね。

その場合、それは

あなたが「世界」ということばで示されていると思っているもの、

それを、「空虚だ」「空っぽだ」と見なさいって、ことでしょうね。

ということは、

「世界」と言ったって、
人それぞれに、示されると思うものはちがうでしょうから、
けっきょく、

「世界」ということばについて、
それを「空っぽ」「空虚」と見なさい、

ということと変わりませんよね。


上の写真で言えば、
「山」「建物」「雲」と名指して、
何となく、
それらのことばで示されるものが、写真に写っているように思っている
そのような見方や言い方に
注意をうながしていると思います。

**たとえば**
「無常」を見るのは、二枚の写真を比べれば、わかりやすいです。
有った雲がなくなっていたり、なかった山が有ったりします。
色も変わり、形も変わります。変化のさまが見てとれます。

**一方**
「空」を見るのは、写真を一枚見るだけで、OKです。
「これは秋の景色だね」
「これは山の景色だね」
見る人によって説明のことばが変わります。
「秋の景色」が実体に即していれば、「山の景色」は間違いになるでしょう。
逆もまたありえます。

でも、
実際は「秋の景色」も「山の景色」も、どちらもおかしくないでしょう。
説明している人の見方によって、ことばは変化するのです。

それは、ことばは意味の上では「空っぽ」だからに他なりません。

「秋の景色だね」「きれいだね」
「山の景色はいいね」「そうだね」

「秋」と言い、「山」と言い、そう言いながら
二人で一枚の写真を見るならば、

ことばは空であって、

ただなにかしら心が通じあうのを互いに実感するでしょう。

それぞれが、空(くう)のことば「秋」や「山」に、
それぞれの思いをつめて、肯くのです。
空っぽだから、詰められるんだよね、そうでしょ。

「空」というのは、心の中の想いと関わるのです。
だから、「ことば」が対象になるのだと思います。

やっぱり、「空(くう)」は、大乗のものかなぁ。

008
「紫の花と白い花の二色カラーだね」
「ちがうよぉぉ、とんがった花と円い花の二種の形だよ」

おいおい!けんかしないで。ことばは空だよ。
空っぽだから、いろんな言い方ができるんだからね。
「空(くう)」を知れば、けんかしないよ、ねっ!

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2011/10/13

抜け道を探せ!智慧の道を。

012

病院の屋上から見た風景です。
山は、そろそろ色づいてきて、ずいぶん秋が進んできているようです。

=====
前回、「よだかの星」で、よだかが天上に輝く星になったことについて触れました。

これは、現実の回避とか、問題の提示とか、そういう意味合いではなくて、

書いてあるとおりに、

このような生き方があることを、賢治は示したのだろう、と

わたしは述べました。


ずっと考えているのですが、やっぱり、これでいいと思います。


空の星になる!

という、生き方が、あるのです。


世俗から離れる道 でもある
出離に向かう道 でもある

でも

完全に世俗を離れているわけではない
完全に出離した手の届かないところなのでもない

世俗によらず涅槃によらず

空の、微妙に中途半端な位置にかかったよだかの星は
そんな立場を示している

だから、悲しく寂しく瞬くのでしょうね。

菩薩の生き方ですね。

『法華経』ということを、念頭に置くと、
こんな考えが浮かんできます。


相対的な価値の中で揺れ動く人間社会。
善悪の諸相を示します。

しかし、それを見つめて、
善にもよらない
悪にもよらない

そういう生き方もある。

たしかに、そうだ。

人間の生き方として、
にっちもさっちもならなくなったとき、
抜け出す道があることを、
ブッダの法は示します。

どんなところにも、解決への道がある

ブッダの法は、実は、そういうことも示しているのかもしれません。

だから、誰もが、この世の中で生きられる!

ううん、やっぱり、すごいや。ブッダ。。。。

015

。。すごいけど、どれも、それなりに茨の道だよね、人生って。
ブッダのせいじゃないんだけどね。


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2011/10/09

よだかの星よ、輝け

010

お隣のおうちからいただいたお供えのお花。命日でした。
手紙も添えられて、花屋さんから届きました。

人の心が身に沁みる秋。
涙が出るので、お礼は電話にしました。

お隣同士なのに、何だかおかしいですね、お互いに。

===============
西郷竹彦氏の『宮沢賢治 「二相のゆらぎ」の世界』の中には

「よだかの星」についても、解説があります。

「よだかの星」は、有名な童話なので、ほとんどの人が知っているでしょう。

http://reception.aozora.gr.jp/aozora/cards/000081/files/473.html

「よだかは、実にみにくい鳥です」という書き出しではじまります。

よだかは、鷹の兄弟ではないのに、「よだか」と、「鷹」の名が入っています。

それで、あるとき、鷹がやってきて、むりやり改名をせまります。
そうしないと、「おまえを殺すぞ」と脅すのです。

よだかは、「殺すぞ」と言われて、自分もたくさんの羽虫を殺してきたことに気づきます。

=======
ああ、かぶとむしや、たくさんの羽虫が、毎晩僕に殺される。
そしてそのただ一つの僕がこんどは鷹に殺される。
それがこんなにつらいのだ。ああ、つらい、つらい。
=======

そして、つらいこの状況から脱しようと、
幾たびも星の世界に飛び上がり、連れて行ってもらおうとしますが、
他の星たちは相手にもしてくれません。

しかし、よだかは、心に決めます。
とうとう星の世界へ何処までも何処までものぼっていくのです。

そして、よだかは、ついに天上に輝く星になるのです。

~~~~
西郷氏の本の中に、こんな風なことが書いてありました。

===
ついに「ヨダカ」は、天上に輝く星になります。
ところが、この結末に対して、ある論者は、それは問題の回避であって、
提示された矛盾の何らの解決にもなっていない、と批判しました。
(p.52)
===

「提示された矛盾」とは、
自分の命が鷹に奪われる理不尽さに対して、
自分もまた、多くの羽虫の命を理不尽に奪ってきた
という事実です。

殺される自分は、殺すものでもあったのだ!

この矛盾に対して、宮沢賢治のこの作品は、
「問いにとどまって、答えになっていない」と一部の論者は批判するようです。

これに対して、
西郷氏は、いくらか他の論者たちにも理解を示しながら、

===
人間にとってこのように悲しい「問い」があることを
まざまざと見せてくれているのです。(p。53)
===

と、述べます。
そして、

=====
この問いは賢治が、その生い立ちからはじまって、
生涯いだきつづけた問いであったということなのです。(p。53)
=====

と締めくくっています。


うーーーん、「問い」だけなんだろうか。
そうなのかしら。

「問い」に対して、「答え」がちゃんとあるように見えるな、わたしには。。


よだかは、何処までも何処までものぼって行くことによって、
もはや、殺し・殺される世界から
逃れています。

空の星になって輝くことによって、

もう、何ものに危害を加えることもなく
もう、何ものからも害されることもない

そんな境涯を得ているのじゃないでしょか。

自分のからだが燐の火のような青い美しい光になって
燃えているのを見るのです。

お話しは

===
いつまでもいつまでも燃えつづけました。
今でもまだ燃えています。
===

と、いう文章で終わっています。
永遠の命を得たように見えます。

殺すものにもならず、殺されるものにもならない、
そんな永遠なる命の輝かせ方が、あるのだ!

と、宮沢賢治は、語っているようです。

ですが、

その道は、寂しくも悲しい一人行く世界のようですね。

青く凛と輝く夜空の星のように

美しいけれど

どこか切なく悲しい結末が、胸を打ちます。


殺し殺される世界も、悲しく
そこを離れる世界も、また、悲しい。。
003

どっちに転んでも、人の世は悲しい。

これが、『法華経』の世界かな?


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2011/10/04

「二相ゆらぎ」の世界へ

昨日10月3日は、寒かったですね。
北海道では、各地で雪を見ました。
では、さっそく!
001
どこだ? 雪って?

正面後ろの遠くの山です。樽前山の頂上付近にうっすら白いものが!
うーーーん、携帯のカメラじゃ、きびしーーーーい!

雲の方が白いですね。
我が家は、暖房なしで寒いっす。

父が生きていれば、ぜったい暖房入れてるね、って、言いながら

寒いのがまん。

父が亡くなってから、うちは、すごくシンプルライフになりました。

父のために、いろんな高価な食材も惜しげなく買っていたのが、
今では、ゼロ。ほとんど買い物しなくなって、食事がビンボーです。

牛肉って、何だっけ。。って、感じです。

=======

さて、さて、そんな話より、今、一生懸命読んでいる本のお話しを!

西郷竹彦氏の 『宮沢賢治 「二相ゆらぎ」の世界』 (黎明書房)

文芸学、文芸教育学の分野では著名な専門家です。
が、
著名なのに。。わたしは知りませんでした。

しょうがないなあ。。もう。

でも、いいのよ、そんなこと。
この著作が大事なんですから。

宮沢賢治の文学作品を、

『法華経』に説かれる「諸法実相」という観点で、

切り取って見せた斬新な研究なのです。
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宮沢賢治の作品には、不思議な魅力があります。
その魅力の正体にもせまるのではないかと、わたしも、ちょっと興味津々なのです。

「やまなし」という作品の中には、

「やまなし」ということばが何度が出てくるのですが、

その「やまなし」は、一個所「山なし」と表記が変わっているところがある

というのです。

うっかりミスだろ、ですって。

ちゃいますよ。

宮沢賢治の作品には、おそらく意図的だろうと思われるような

このような「表記のゆらぎ」がいくつも見つかるのです。

そこから、著者の探究がはじまります。

このような「表記のゆらぎ」は、認識にかんする

相対的で対比的な二相が、ひびきあい、もつれ合い、あらがいあう姿を
表している

というのです。

二相とは、明暗とか強弱とか善悪など、さまざまな対立を含んで、

諸法の実相を示す特徴に他ならない、と著者は考えます。
「やまなし」をどうぞ。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/472_42317.html
かなり最後の方にある次のような文章を読んでください。

「三疋(びき)はぽかぽか流れて行くやまなしのあとを追ひました。
 その横あるきと、底の黒い三つの影法師が、合せて六つ踊るやうにして、
山なしの円い影を追ひました。」

「やまなし」とあるけど、次には、「山なし」と書いてあります。

文字を目で見ると、ほんと!なんか印象が違いますね。

「やまなし」の方は、
流れていくやまなしが、やまなしそのものの姿を柔らかくそっと伝えているようです。
「やまなし」が「やまなし」であることをそんなに主張していない感じです。

ところが

「山なし」とあると、何か物体としての「円い山なし」の感じが強くなるようです。

気のせいだ、って。
そんなことないですよ。
一つのことばなのに、ひらがなだけで書くのと漢字を混ぜて書くのと入れると
こんなに情景や状況が豊かに変化するんですね。

著者の西郷氏は、「やまなし」だけではなく、
多くの作品について、このような「二相のゆらぎ」を見いだし、解説しているのです。

このような表現の微妙な違いによって、その言い表されているものの

特徴や性質などを、『法華経』の「十如是」を用いて説明しようとしています。

宮沢賢治の作品に、現象のありのままの姿を、「二相のゆらぎ」として、
見いだそうとしているのです。

どこか、龍樹を思わせる、このような用語の用い方。。。表記法。
「十如是」にも龍樹の影響があるのではないか、とにらんでいる、このわたし。

はっきりしたことは、まだ言えませんが、何かとても示唆的で

印象深く、西郷氏の研究を拝読しているのです。

ずいぶん大事なことが、ここに眠っているような、そんな感じがします。

宮沢賢治の作品理解にも、また、宮沢賢治の『法華経』の理解にも

せまっていけそうな、そんな予感がして、

じっと著書を見つめているわたしです。

=========

それにしても、宮沢賢治の作品の、はるかに遠くに、

かすかに龍樹の姿が見えるようなきがするとは!

樽前山の初冠雪くらい、ぼんやりとして目立たないけど、

きっと龍樹はそこにいるんだろうなぁ、って、思ったのです。


ああ、宮沢賢治の童話は、ほんとにいいですね。
007


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