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2011/08/19

『龍樹 あるように見えても「空」という』増刷

006
ちょっと、前に撮った写真ですが、うつくしい。

さて、
おかげさまで、佼成出版社より出ました拙著

『構築された仏教思想 龍樹 
あるように見えても「空」という』

増刷になるそうです。

どうも、ありがとうございました。


どんな本だっけ?

あら、やだわ、ピンクの本です。
これです↓
002

とてもコンパクトに書きました。

自分で書いたものを、自分で読むというのも、
ちょっと変な感じですが、

自分で分析して見るのも、
いっそう変な感じです。

書いた本は、世に出てしまえば、他人事のようですねん。

で、読んでわかったことは、以下のことがらです。


★この本は、龍樹について書いた本です。

★ブッダから龍樹への流れを大事にしています。

★龍樹の『中論』を中心にしながら、「空」を語ります。

★ブッダの「有無の二辺の中道」から、
 龍樹経由で、 「空」へと広がると、
 大乗仏教の世界にいくことを道筋として示します。

★現代人の知性を刺激する龍樹の論理があります。

★悩める人々とともに歩む菩薩の仕事を探訪できます。


おおよその龍樹の人物像が見えてきた、という感じでしょうか。

これから先にやるべきことは、

龍樹の菩薩行から見た論法の実践 を

明らかにしていくことかな、って、ちょっと思ったりしています。

「空」の理論から、菩薩行を眺める
菩薩の実践から、空観を体感する

菩薩と空は、仲良し。

菩薩は空で、空は菩薩。

食うはランチで、ランチはご飯。

ご飯炊かなきゃ。。


まとまりないけど、急がなくちゃいけないので。
今日の日記をおわります。


それでは、今日も病院に行ってきます。

(日記書いてから、一日はじまるって?? 変ね)


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コメント

前世は一在家さま

興味深いお話しをいろいろありがとうございます。
ほんとに暇がほしいです。興味があってもなかなかじっくり経典散策できません。宿題がいっぱいです。

>でも大天津神(梵天)クラスは人に下生することは無理だと伺っております。

そうでしたっけ。。あ、そうか、梵天界は色界だからですね。六欲天は、人間界に下生できますね。すみません、気にしたことがなかったので、こんがらがっています。よく『大智度論』を読んでみます。
いつになるかわかりませんが、もし、何かわかりましたら、お知らせしますね。

>同感です。宗教の元は一つ、と信じながら原始○教や異教との共通箇所(法、真理)を探しております。

「すべての人の幸せのため」というところで共通していますものね。

わたしは、誰か、出口王仁三郎氏の『法華経』解釈をきっちりとできる研究者はいないだろうか、と探しておりました。

村上重郎氏の『出口王仁三郎』からの引用です。

 穴太寺の月例の通夜講では、念仏のあと説教が行われていたが、喜三郎は、法華経普門品と観音経の解説を、滔々とやってのけ、参会者を感心させた。この話を伝え聞いて、教徒に本部を置く法華系の新宗教・本門仏立講から、布教師になるようにと誘いが来たという。

このようにありますので、二〇代にになるかならぬかで、法華経の解説ができたとわかります。
後に、サンスクリット語の原典やその訳にも触れたようです。サンスクリット語が「霊界物語」にもどんどん出てまいります。少し調べました。
何か、すごい人であったのだと、これだけでも伺い知ることができます。
今は、このくらいしか書けません。

また、是非教えてください。お願いします。

投稿: 管理人エム | 2011/08/26 09:50

法とは真理のことで、道といいます

だれが決めたというわけではありませんが、
(わたしが決めて)
聖徳太子の道と トモに 知られてきました

二千年の道が アアソッカ !
とあるとわかりますが、
歩かなければ、真理はありません

道は足の下にあり、歩かれて道となり、
立ち止まって道は(ソック ザニ)消えます

ミッチャン 道道ウンコする 、、、、   

投稿: 春間 則廣 | 2011/08/25 08:12

ミチ先生、おはようございます。

>【梵天と菩薩】は、大本神論の神さまを一番におく立場がでてきますね。

大本神論の神様はガガ○ルの悪神と壮絶な戦いを繰り返しておられます。
その戦いを見ておられる大梵天達がおられると師より伺っておりますが、異教の文献になりますので提示は控えます。

>仏教の解釈では、菩薩と梵天たちは、やはりちがいますね。梵天など神々は、わたしたちのように輪廻の存在であります。

日本神道でも神々が人に下生することはありますので輪廻と言えます。
でも大天津神(梵天)クラスは人に下生することは無理だと伺っております。

もし原始仏典や大智度論で梵天の輪廻の一節がございましたらご教示いただきたく。
最初の梵天の誕生に関する話は長部経典にあったと記憶しておりますが、まだ私は見つけておりませんので。

>どこか仏教っぽくないな、って思うところなんでしょうね。

そうだと思います。もしまったく同じでしたら十方の異教のミッションも空(から)かと存じます。

>いろいろありがとうございます。宗教は、いろいろ比べてみると、おもしろいですね。

同感です。宗教の元は一つ、と信じながら原始○教や異教との共通箇所(法、真理)を探しております。

投稿: 前世は一在家 | 2011/08/25 06:37

前世は一在家さま

お日様とお月様が並んで、見た目にも楽しいコメントありがとうございます。

【地獄の詳細】【人の神性、仏性】は、興味深く拝読。原始キリスト教の文献は、とても興味を引きますね。そうなんですねぇ。「人は神性を宿す」のか、とおもしろくうかがっています。
自分でも、暇をみていろいろ読んでみたいです。

【梵天と菩薩】は、大本神論の神さまを一番におく立場がでてきますね。

仏教の解釈では、菩薩と梵天たちは、やはりちがいますね。梵天など神々は、わたしたちのように輪廻の存在であります。
菩薩も輪廻しますが、弥勒菩薩のような大菩薩になりますと、次に仏になることがわかっている一生補処の菩薩で、やはり神々とは違うとされます。
神さまは、一回人間界に生まれないと悟れません。

>梵天達も因と縁との影響を受けない無為法であるというのが、上記のお二人の共通箇所の候補でございます。

なるほど。出口氏と庭野氏の読み方ですと、そういう風になるのかもしれませんね。
このあたりの感覚の違いが、わたしには、新鮮でおもしろいです。

どこか仏教っぽくないな、って思うところなんでしょうね。
こうしてみると、やはり、仏教は人間中心ですね。

いろいろありがとうございます。宗教は、いろいろ比べてみると、おもしろいですね。
出口氏がバハイ教に理解を示したというのも思い出しました。

また、いろいろ教えてくださいませ。

投稿: 管理人エム | 2011/08/24 19:03

ミチ先生、おはようございます。

>きっと、庭野氏、出口氏は、『法華経』の述べている「真の」意図をつかまえたのではないでしょうか。。。はあ(笑)、なんかため息の出るようなお話しで、

真の意図ですか。お二人の共通箇所ならば少し整理してみました。>審美楽者さま

【地獄の詳細】
原始仏典、大智度論でも「地獄」に関する説法が詳しく記載されております。
出口氏の「霊界物語」でも「地獄」に関する詳細なレポートがあり。

【人の神性、仏性】
法華経の方便品には、人は仏性を宿した仏子であり、やがて仏になり得ると。
出口氏は神道系の巨人。神道では人は神の子で、やがて神に近付き得るという考えもあり。
仏教では如来蔵が近いかも。
※キリスト教でも、旧約では「人は神の似姿」。新約のルカ伝でも「神の国は人の間(within)」
※ニケーア公会議以降に焚書された原初キリスト教文献が近年次々に復活しており、それら文献では「人は光から来た」、「人は神性を宿す」と。

【梵天と菩薩】
長部経典「三明経」でも、菩薩が都卒天から下生する前は梵天界で梵天達と共生していたとの説法。
・大智度論でも梵天界は七界中の最上界で、都卒天は真ん中界と。菩薩も異国を含む十方の仏土から集結。
神道は多神ですが、最上位の神々は「大神」とか「大天津神」と呼称されている。
※旧約聖書でも、創造は複数神?「我ら」によってという箇所や、「異国の神々」という箇所あり。

「一切皆苦」、「一切無常」と説かれた際の「一切」には仏が含まれていないとの先生の見解でしたが、梵天達も因と縁との影響を受けない無為法であるというのが、上記のお二人の共通箇所の候補でございます。
庭野氏が「常住するものがないとするのは浅はかな見方」と如来寿量品を訳されたのも、最重要な法華経の意図かと。

以上、仏教、神道、一部キリスト教を交えて好日の朝のご挨拶。 合掌

投稿: 前世は一在家 | 2011/08/24 06:20

まえにも述べたが、
あなたは、論理学者であるよりも、
シンビ学者 である方が 
似あっている ( 素敵だ・魅惑的だ ということです )

みずからの美しさを知らずに、
ヒトゴトを自らと顛倒する者は、
審美家ではありません

元が  “濁っている”  、、、、

といっても、あなたの理論 が・ に 誤って いる
とは、言っていません

誤りは苦を生み、苦は真実を生みます

あなたが生むのは、安らぎという “名称”

顛倒さえしなければ、
“明称” に 顛倒が ない ことを知ります

命名歴々  “メイメイ ガ シルコト” です

知ってどうする ? と言われても、
見てこうなっているということは、こうなっていることです

美しさを知るものは、苦渋にあることを知るモノです

その苦渋に対する必要性が、他の安らぎに見えます 、、、、

写真がなければ、真実が “ ミニクイ ” !

ボタンがきれいといっても、
ボタンは  カケ(虚仮) 間違えられ ます 、、、、

バラバラ は “ ばら ニ ” 似た非なるモノゾ 、、、、

投稿: 春間 則廣 | 2011/08/22 10:39

前世は一在家さま

>余談ですが、方便品の「人に仏性が宿る」という法も晩年の悟りではないでしょうか。

晩年の悟り、というのは、ないかと思います。
「悟り」は、何度もあるのではなく、悟るときには一度に悟りますので、ただ、語る機縁があった、ということかと受けとめています。

法華経は、天台智顗(ちぎ)の五時八教では、五つにわけていろんな教えを説き、法華経は最後に説かれたことになっていますので、最後に説くべき教えではあったのかもしれませんね。

この五時八教説は、法華経讃美に用いられることが多いため、あげにくいのですが、ブッダの説の理論構造という点からしますと、すごくおもしろい内容です。
きっと、庭野氏、出口氏は、『法華経』の述べている「真の」意図をつかまえたのではないでしょうか。。。はあ(笑)、なんかため息の出るようなお話しで、っと、独りごちております。

投稿: 管理人エム | 2011/08/21 12:51

ミチ先生、こんにちはです。今日もで好い天気です。

>その秘密(?)のことばは、ひとつには、仏性、如来蔵(タターガタ・ガルバ)。。。うーーん、トレビア~ンです(笑)。

出口氏は、仏性を神魂と説かれたと記憶しますが、また調べておきます。
※神道系の大神達は原始仏典での梵天達に相当します。

今朝、大智度論を読んでおりましたら、七巻で22菩薩の名のお話があり、十方の仏土で仏処を補うとのことでした。
尚、観世音菩薩等は、他方(他国?)の仏土より来られた菩薩だそうですね。

出口氏に神諭の艮(うしとら)の金神も方位に関わり、十方の仏土の一方と関わりがありそうだと感じました。

現代では宗教がバラバラで分かりにくくなりましたが、菩薩、梵天は共生されていたようです。
長部経典の「三明経」では、釈尊も都卒天から生まれてくる以前は、梵天界にて梵天達と共生されていたそうです。

投稿: 前世は一在家 | 2011/08/21 12:25

前世は一在家さま

おはようございます。

>5年近く前に他仏教板で庭野氏の如来寿量品の訳を紹介しましたら、大勢の仏教徒達から「ひどい訳だ」と酷評されたことを鮮明に覚えております。

あ、わたしも、先ほど検索していましたら、庭野氏の訳を酷評している方のブログに出合いました。
わたしは、訳は読んでいないのでわかりませんが、でも、その方は、庭野氏は、『四諦』『八正道』『六波羅蜜』を真実の教えのように説いている、と批判されていました。

これからしますと、庭野氏の訳は、とてもいい訳のように推測されます。法華経の精神をよくご存じのように思われます。

>尚、如来寿量品、方便品と出口氏の大本神諭とが矛盾なくリンクしているように感じております。

思いの外、深い!コメントをちょうだいして、うれしく存じます。

少しつながりました。
出口王仁三郎は、法華経だったから、ブッダのことを評価したのかしら、って、ちょっと疑問がありました。
もし、法華経ではなく、『中論』みたいなトンデモ本に出合ってしまっていたら、仏教は、評価されなかっただろうか、いや、おもしろがってもらえたのだろうか、とか、いろいろ考えていました。

庭野氏、出口氏からブッダへ向かう脈絡があるんですね。

その秘密(?)のことばは、ひとつには、仏性、如来蔵(タターガタ・ガルバ)。。。うーーん、トレビア~ンです(笑)。
ありがとうございます。この辺、知りたいことがいっぱいなんです。

わかりませんが、手塚治虫の「神性」というのは、かれの感性から出たことばかもしれませんね。こちらも読んでないので、わからないのですが。かれは、ヒューマニズムの人という感じがするものですから。
仏性とつながるのか?。。ニュアンスがちがうかもしれません。
この辺、想像しているだけなので、無視してください。

教えていただいたので、わたしも、一つ。
わたし的には、「一切智」が、大本神論とブッダの法をつなぐヒントになるかな、と思ってみていました。それ以上にいけてないので、ちょっとちがうかもしれません。


投稿: 管理人エム | 2011/08/21 11:23

>余談ですが、方便品の「人に仏性が宿る」という法も晩年の悟りではないでしょうか。

手塚氏「ブッダ」にて、釈尊が晩年に治療していた父王殺しのアジャセ王の内に「神性」を見出して歓喜したという一節がありました。
どの仏典を手塚氏が参照にされたかは不明です。

投稿: 前世は一在家 | 2011/08/20 08:44

ミチ先生、おはようございます。

>有為・無為は、(因と縁によって)作られた法と作られざる法のことですが、

>無為は、「常住」に関わる、っていうのが、加わりますか。これでいいのかな?
>おもしろいですね。何だか、きれいに並んだような。

無為法、因と縁によって作らざる法、「常住」、仏、涅槃。。。

5年近く前に他仏教板で庭野氏の如来寿量品の訳を紹介しましたら、大勢の仏教徒達から「ひどい訳だ」と酷評されたことを鮮明に覚えております。

当時は異教の私が仏典を調べ出してから1年目位でしたので、なぜ酷評されるのか分かりませんでした。
多分、「無為法も空」というのが常識なんだなと、今は認識しております。

如来寿量品にて、釈尊がわざわざ晩年に弥勒菩薩ら高弟に説いたという一節には深い意味があったと直感します。
余談ですが、方便品の「人に仏性が宿る」という法も晩年の悟りではないでしょうか。

>おもしろいですね。何だか、きれいに並んだような。
↑このように評されたのはミチ先生が始めてです。 

尚、如来寿量品、方便品と出口氏の大本神諭とが矛盾なくリンクしているように感じております。

久々に扇風機がいらないほど涼しい朝にて。 出口氏、庭野氏ら先達に 合掌

投稿: 前世は一在家 | 2011/08/20 08:33

前世は一在家さま こんばんは。

>有為法と無為法との二辺の中道。。

あ、ええと、有為法と無為法ではなくて、仏教以外の説のことです。
「有無の二辺」は、「(ものは)有る」という説と「(ものは)無い」という説のことです。
それの中道です。

>無為法も「空」ですか???と問う人がおります。

有為法と無為法という法の分け方とは、ぜんぜん違った観点から見ますので、「空」になるかと。

有為・無為は、(因と縁によって)作られた法と作られざる法のことですが、

そういう風にいわれる法は、「有るんですか」「無いんですか」と聞かれますと、そんなこと言われても、なんと答えりゃいいのか、わからないです。そこで、「空」と。

「有るのでもなく、無いのでもない」という中道でしょうか。

有為は、「無常」に関わり
有無は、「空」に関わる、というのでどうでしょう。

さらに進んで、法華経では
>「仏の眼で見れば、仏も世界も常住」

となると、こちらは

無為は、「常住」に関わる、

っていうのが、加わりますか。これでいいのかな?
おもしろいですね。何だか、きれいに並んだような。

>あれー、たった今気付きました。庭野氏→?→佼成出版社の縁起を。。一切必然にして偶然無しでしょうか。

ほんと!すごい。
つられて、如来寿量品、読んでしまいました。 

投稿: 管理人エム | 2011/08/20 04:22

ワンカップ狼藉さま お名前がすてきです(笑)。

ゲーデルから見た龍樹菩薩の本ですか!
どんな風に見えるでしょうね。。。妄想、妄想。

西洋的な思考でも、龍樹の得体の知れなさは魅力かもしれない。。

でも、売れないでしょうねぇ

投稿: 管理人エム | 2011/08/20 03:54

>一在家:「仏の眼で見れば、仏も世界も常住」と法華経の方便品を訳した庭野氏は

如来寿量品との記憶間違いだったようです。


投稿: 前世は一在家 | 2011/08/20 01:54

ミチ先生:さて、おかげさまで、佼成出版社より出ました拙著

一在家:「仏の眼で見れば、仏も世界も常住」と法華経の方便品を訳した庭野氏は

あれー、たった今気付きました。庭野氏→?→佼成出版社の縁起を。。一切必然にして偶然無しでしょうか。

法華経では、これまで「常住不変のものは無い」と説いてこられた 釈尊が一転して、「実は世界も仏も実相は常住不滅である」と説き、弥勒菩薩ら高弟でもびっくり仰天した次第と記載あり。
↑この訳は庭野氏の訳からの記憶モードでの引用でした。

確か、物事が常住するように考えるのも迷いであり、現象面だけで常住するものが無いと考えるのも浅い見方である、という内容だったように記憶します。

投稿: 前世は一在家 | 2011/08/20 01:49

ミチ先生、こんばんは。

>★ブッダの「有無の二辺の中道」から、龍樹経由で、「空」へと広がると、

有為法と無為法との二辺の中道。。
無為法も「空」ですか???と問う人がおります。

「仏の眼で見れば、仏も世界も常住」と法華経の方便品を訳した庭野氏は
師とよく話されたと伺っております。

常と空の二辺の中道はありんすか。
先生のミッション成就を楽しみにしております。

投稿: 前世は一在家 | 2011/08/19 20:23

増刷、お目出度う御座います。
ゲーデルから見た龍樹菩薩の本、書いて下さい。論理記号を駆使する論理学者を説得しつつ、実在論嫌いな庶民に迎合する本です。売れた暁には、石飛版龍樹撰集ということで、頑張りましょう。

投稿: ワンカップ狼藉 | 2011/08/19 18:39

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