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2011年6月

2011/06/28

一切智者龍樹とゲーデルの不完全性定理 部派の立場を支える(上)

006
大通り公園の昼下がり。

サンドイッチと水で、忙しく昼食。
あわただしいけど、
それでも、
緑はくつろぐなぁ。

008

木陰も気持ちがいいね、
っと言いつつ、
なごり惜しくも

「さ!出かけよ」

~~~~~~~~

さて、そろそろ書いておくべきだろうか。

龍樹について、いろいろ論文を発表したり、本も出したりして、
龍樹のなしたさまざまな仕事を、みなさまに、
できるだけ、あるがままに伝えようとしてきました。

わたしの原点は、やっぱり

『方便心論』

だと思います。

この書の中身が、いかにすごいかを、伝えることが、
使命であるようにも、思ったのですが、
力不足と暇不足のため
中だるみの感がいなめません。

さらには、

龍樹について、従来の説以上には
その理解も進んでいるようには、思えないのです。

やっぱり、このままいくと、
また、龍樹は、詭弁論者のように思われて、
埋没していくのだろうと、思うのです。

だから、やっぱり、言うべきことは言っておきましょう。

何となく、言い争わないように、と思って、
遠慮してきましたが、

別に、

何に遠慮しなければならないこともない、と
思い直したので、

ここに
書いておきましょう。

================

龍樹は、一切智者であります。

================

これが、何を意味するかを分かる人は、あまりいないのです。

とくに、仏教の内部では、ほとんど希望がもてないことを知りました。

こんなことを言っては、まことに申し訳ないのですが、
仏教の宗派などにこだわっている限り、
「一切智」のことなど、
思いつきようもないのです。

一切智を得ている人を、一切智者といいます。

「一切智」は、文字通りに「一切」について、
何らかの形で言及できることを言うのです。

そうできるためには、

仏教の内部にとどまるだけでは、だめなのです。
ましてや、宗派にこだわるのでは、もう終わっています。

仏教の外部の人々とこそ、語り合えることが、必須なのです。

仏教の内外を掌握してこそ、一切智者でしょう?
そうではないでしょうか。

ですから、

語り合う手段(方便)をもっていること、

ここが大事なのです。
その方便の核心が説かれているのが、


『方便心論』なのです。


ここには、語り合うための「論理」と「論法」が
あるのです。

『方便心論』は、

仏教外部の人々と、さらには、仏教内部で意見の異なる人々と
対話する術を記した画期的な書なのであります。

このような書は、仏教広しといえども、論書としては、
わたしの知る限りでは、この一冊しかありません。

===============
何が書いてあるのでしょう。

★1 仏教の世界の中で語るための、文法(論理)です。

いわば、経典の読み方、解読の仕方です。

★2 仏教を知らない人と語り合うための共通のルールです。

妥当な、推論の方法や説得の仕方です。

★3 争わないで、討論を収拾する方法です。

誤った説明方法、論議で敗北するところなどです。

================

この ★3 は、とても大切なのです。

ブッダの法に絶対理解を示さない人、自分の意見に固執している人、
このような人々と、最終的に、

どういう関係を持つか 

ということが、大事なことだからです。


最終的には、互いに関わりあわない、という
離れた関係を構築することになります。

    ***

争わないでいるためには、
相手の意見は、そのまま尊重するしかありません。

しかし、だからといって
相手の意見を受け入れてしまっては、
ブッダの法によって生きようとする立場が保てません。

「あなたの意見は、受け入れられない」と、、
はっきり言わなければ、
なし崩し的に、相手に取り込まれてしまうかもしれません。


    ***

このとき、ただ、「相手の説を否定する」というだけの論法が
必要なのです。

というのは、論法もなく、相手の説を否定するだけなら、
相手は、論拠をもって、こちらにせまってきて、
何とか認めさせようと、ねらうでしょうから。

自説を説かずにいて、しかも、相手の説を認めずにいるためには、
それなりに高度な討論の術を要するのです。

独自の論法をもたねばならないのです。

これによって、相手と無意味に言い争うことなく
討論を終わらせることができるのです。

    ***

相手と完全に、意見が異なる、ということを示し、

なおかつ、

そうでありながら、自説はとくにもたない


ここを世界に明瞭に示したのが、

ブッダや龍樹です。

    ***

これは、20世紀最大級の功績とも言われる
ゲーデルの不完全性定理と関連させて
話をすることができます。

なぜ、ゲーデルを持ち出すかと言えば、
まず第一に
現代にいたるまでの一切の人々を対象として
ブッダと龍樹は、話をすることができるからです。

また、第二に
ゲーデルの定理は、ブッダや龍樹の解明したものと
等しい内容を持っていて、人々によく知られているからです。

    ***

さて、
龍樹の説く ★3が、ゲーデルに匹敵する内容です。

============

ゲーデルの定理は、意見の対立の究極に決着を与える内容です。
決裂の定理、とも名づけてもいいかもしれません。

では、その内容を見ていきます。

    ***

意見を持つためには、まず、自説を体系づけて構築しなければなりません。

たんなる意見ではなく、ある種の根拠をもった意見を述べるためには
体系立てて、論理的に根拠づける必要があります。


もし、ブッダにも何か意見なり何なりがあるならば
体系があることになります。

実際
=======================
ブッダは、縁起という論理を基盤にして、体系を作りました。
=======================

ブッダの縁起の体系は、その内部においては、矛盾なく、完全に閉じています。
その体系の内部においては、なんでも分かるので、一切智者なのです。

しかし、体系の外部においては、どうでしょうか。

ふつうは、体系外は、当然、だめに決まってます。

ところが、ブッダの場合、なんとぉー!
体系外が、ないのであります。

なぜなら、縁起は、他に縁って起こる関係なので、
誰でも、話しかければ、仏教の反対派であろうとなんだろうと
縁起が成り立ち、体系内に入ってきてしまうからなのです。


なにぃ~~、そんなぁ~。。ずるいぞ、ブッダ。。

などと言っても、仕方ありません。


ブッダは、体系内部では、一切智者!
しかも、外部がない。。。みたい。。

ではでは、ブッダに逆らうものは、いないのでありましょうか。

それが、そうでもありません。
どんな人にも、逆らうヤツというのはいるのです。

そういう人に対するとき、
ここで、ゲーデル問題が浮上してきます。

◇ゲーデルの第一不完全性定理~~~~~~~
体系の内部では、無矛盾であることが分かっていても、
体系内に、論証も反証もできない命題(文)が存在する
◇~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

◇ゲーデルの第二不完全性定理~~~~~~~~~~~~
公理系において、無矛盾であれば、その体系の無矛盾性は証明できない
◇~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

この二つの定理によって、
体系を楯にして、ブッダが好き放題できるということはないのです。
相手に自説を証明することはできないのですから。

ブッダは、そのことを知っていたので、
意見を異にする人とは、争わず、自説を引っ込めました。


控えめブッダ、自説を立てて言い争わない!
えらいぞ、ブッダ、なんでも知っている一切智者!

    ***

そしてまた、龍樹もそうしたのです。
たとえば、こんな風です。

「空なるものは、一切だ」と、主張したくても、
それは、反対派の人には、証明することはできないことを
知っていたので、主張することはありません。

でも、一方、、

相手が、反証したくても、それもできないことも、知っていたので、
この「空なるものは一切だ」という言明は、反証されないないことも
明らかにしたのです。

すなわち
ゲーデルの第一定理と同じ内容を、明らかにして、
かれは、議論をすることなく、相手との討論を終えたのです。

    ***

このようなことを知るとき、龍樹についての見解に
訂正を入れておきたいと思います。

スマナサーラ長老さまの『般若心経は間違い?』にある次の説を取り上げます。


===========
 しかし、本人(龍樹を指す)も相対論を持ってきて、
「すべては空だ」と言ってしまったところで困ったことになったのです。

 だって、仏教はみんな修行して悟る世界でしょう?
それをどうするのか、という問題が出てくるのです。

 龍樹の失敗は、「哲学を作るなかれ」というお釈迦さまの戒めを
破ったことなのです。(p.108)
============


これは、『方便心論』『中論』『廻諍論』により、
あたっていません。
「すべては空だ」とは、龍樹は、言っていないのです。

龍樹は、「すべては空だ(空なるものは一切だ)」と主張するなら、
この文は、論証することも反論することもできない、と
述べたのです。


=============
論争の中で反駁を行うとき、空性を持ちだして語る人は、
何ものをも反駁できていないのであって、
ただ証明すべきものに等しいものが生じているだけである。
(『中論』4.8)

論証の中で非難を行うとき、空性をもちだして語る人は、
何ものも非難できていないのであって、
ただ証明すべきものに等しいものが生じているだけである。
(『中論』4.9)
===============


「空性を持ち出す」とは「一切は空だ」と主張することを言います。
「一切は空だ」と主張しても、証明できないし、
反論者は、反証することもできない、と言うことが説かれています。

    ***

だから、お釈迦さまの「哲学するなかれ」という戒めも
破っていないのです。
むしろ、哲学できませんから、自説も説きませんよ、と、
龍樹は、他の人々に述べて、部派の「ブッダの体系」を守ったのです。


部派の持つ「ブッダの体系」とは、
十二因縁、苦集滅道、三十七菩提道品、四沙門果のような教説をいうのです。
これは、仏の正義と名づけられている、とあります。(『方便心論』一・三・七・一)


スマナサーラ長老さまは、きっと、
これらは、修行の方法であって、哲学ではない、とおっしゃるでしょう。
「ブッダの哲学体系」はない、とおっしゃるかもしれません。

それは、それでよいのですが、
反対派の人々は、そんなことにかまわず、いろんなことを
やいのやいのと言うでしょう。

縁起の理法を持ち出せば、哲学体系だ、とか何とか、
やいのやいの言うかもしれません。
逆らうヤツは、どこにでもいて、いろんなことを言うのです。

そうなってくると、長老さまは、議論できませんので、
黙ってしまうことになります。

   ***

ですが、龍樹ならば、相手が哲学体系と見ても、対話できるのです。

このような哲学体系を打ち立てて言い争うことは、
決着のつかない水掛け論になることを
ゲーデルの第一と第二定理は示しているのです。

そのような内容のことを、龍樹もまた語ることができるのです。
なぜ、水掛け論になるかを、立証できるのです!!

お黙り、君たち、議論は終わった。
ぼくも証明できない「すべては空だ」は主張しないさ。
だから、君らも黙れよ。
君らだって、反証しきれる論理を持たないのだからね。
スマちゃん、いじめるのは、よせっ!

==========
こうして、龍樹は、テーラワーダ仏教を、大乗の言い争わない立場で
支えているのです。
==========

●スマナサーラ長老さまは、智慧あるサーリプッタ尊者のようですが、

しかし、

哲学するなかれ

という教えを守って、修行の方法をとくにとどめます。


●龍樹は、智慧波羅蜜により、一切智者となって、

哲学するなかれ

という教えを守って、哲学しても意味がないことを

ことばで説明しているのです。


えらいね、龍樹。
なのに、みんなは、分かってくれない。。。

いいよ、わたしが、嫌っていうほど、しつこく書いてあげるからさっ!

次は、一切智者龍樹は、般若経典をも支える、という点について、
述べてみます。


でも、何で、こんなに、龍樹のために尽くしてるんだろう。。
少しは、自分で何とかしてほしいわよ、龍樹ってば。
わたしみたいな能力ないのを頼りにしないでね、ブツブツ。


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2011/06/20

生者と死者と

014

『お葬式の才覚』を読んだからではないでしょうが、
親族の死に出合ってしまいました。

『お葬式の才覚』で説かれていたことが、
実況中継するかのように起こってしまって、
いったんはまるとそうなるシステムを体験してしまいました。

悲しむ暇も何もなく、
レールに乗った哀れな死者と生者は、
お葬式セレモニーの嵐にもまれながら
すべてを無事に終えて、ホッとしているのです。

これからさびしくなってきそうですが、
まだ、
感覚が麻痺しているので、
今のうちに
こんな話を書いてみましょう。

===========
火葬場で待ちながら、従兄弟がこんな話をしてくれました。

昔、ぼくが、まだ学生だった頃、あるお通夜の席で、
おじさん(わたしの父)と、ずっと夜通し話をしていたことがあった。

そのとき、ぼくは、若かったので、おじさんに、

「こんなに科学が発達して、なんでも可能になってくると、
そのうち、宗教なんて必要なくなるんじゃないでしょうか」

と、聞いてみた。

そうしたら、おじさんは、忘れられないことを言ったんだ。

「いや、科学がどんなに発達しても、
人間に死というものがあるかぎり、
宗教はなくなることはない」

ぼくは、そのことばが忘れられなくて、ずっと心に残った。

それから、いろいろな出来事にであってきたけど、

このことばは、いつも、つじつまが合っているんだ。

なんて、おじさんはすごい人なんだと、思ったんだよ。
============

へぇ~、知らなかった。
こんなことを覚えている従兄弟も、すごい人です。


でも、わたしが、お通夜で法話を聞きながら、
思ったことも、同じことでした。


お坊さまは、いろんな話をしていました。

死は、誰にでも訪れ、他の誰も代わってくれない。
不老不死を求めても、得られることはない。
だから、老いや病や死は、受け入れるしかない。
お釈迦様も、あるがままに受け入れよ、と言っている。

このようなことを語っていたように思います。

最近は、浄土真宗でも、極楽往生を積極的に説かないのでしょうか。


ああ、だめだなぁ、死を説けない。
死について語ることができない宗教家は、
宗教家になれない。
人々の疑問に答えられないのだから。

だから、葬式仏教と言われるのだなぁ。

葬式仏教と言われるのは、お布施が多額だからではありません。

宗教家なのに、死について語れないからです。
死について語るだけのものがないと、どうしても、
世俗の価値の中だけで生きることになる。

こうして、葬式仏教という、うれしくない呼び名がついてしまうのか。。

こんなことを考えながら、

不死を求めて、ついには不死を得た沙門ゴータマのことを
考えていました。


死は苦しみである。
苦しみからの解脱は、涅槃である。


もっと、死について語れ!


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2011/06/12

『お葬式の才覚』という本あります

002
キングサリという名の木です。
名前とぴったり、とても印象的です。お花が鎖のよう。

さて、こちらは、鎖は鎖でも、輪廻の鎖に絡む
こんな本はいかがでしょう。
Photo

藤本晃氏 『お葬式の才覚』(新人物往来社)

「日本人なら知っておきたい」という副題がついています。

浄土真宗のお坊さまである藤本氏が、
みずからの仏教とお葬式について、
ふつうの人が知りたい疑問に答えていきます。

お葬式って?
遺骨や遺体は、どうしたら?
戒名って?
お布施って?
お金はいくら?

このように書くと、
「お葬式のやり方」にかんするノウハウを教えてくれるだけのように見えます

が、

それはちがいます。

仏教という宗教が、一般の人の死に対して、
どのように向き合うかを書いた本とも言えます。

また、

一般の人には、「死」とは何か、他者の死を弔うとか何か、
仏教の立場から、わかりやすく教えてくれます。

また、

お坊さんが抱える葬式仏教という仏教のあり方にも
一つの見識を示します。

宗教の立場
一般の人の立場
僧侶の立場

それぞれ三つの立場へ向けられた
藤本氏のメッセージです。


そこにあるのは、貫かれた仏法の一つの立場

公平性 が見られます。

公平性?
なんの?


お葬式をしなければ、
死んだ人も
生きている人も
僧侶も

この世で安楽ではありません。
公平に不安があるのです。


死んだ人にも不安があるのか、ですって。

死んでいくときに、あるいは、生きているときに
死についての不安があって、
それが、尾を引いて、お葬式などにかかわる不安へと
発展していくのです。


そもそも、死について、語れる人がいないので、
一様に漠然とした不安があります。

まずは、この「死」ということについて
=================
「心」が「身体」をあきらめて離れること
=================
と説明して


「心」を故人ととらえて、その心に敬意を表するのが

お葬式である

という説明が、なされます。

そして、お葬式にかかわる一切のことは、
一つの基準で語られます。

それは、どんな基準?

それは、
善なる行為になるかならぬか
ということなのです。


ノウハウ本のようでありながら、
さりげなく、真理(法)がひそんでいます。

心の問題を解決するのが
仏教である

という、根本的な方針で貫かれているので
お葬式という儀式にも、ぶれがありません。

論理的な側面から
人々の安心が得られるように
巧みに説かれています。

論理的であることは安心であり、
そこに
倫理的でもあればいっそう安心なのです。

この二つを柱にして

人々が、語りたいと思いながら
語るすべをもたなかった一つのもの

こころ

それが、死の現場をとおして語られています。

葬式仏教は、死をとおして生きることを見つめる大事な場面を
受け持っていると思います。

もっと、死を語れ!

具体的で実際的でありながら
倫理的・道徳的であり
奥底に、哲学的な深淵を秘めた本でした。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
さて、さて、
お葬式より、もっと「死」そのものへ
といきたいわたしの思うところは、次のよう。


より深く、わたしたちが考えるなら

不生を求めて、不死へと到達した

お釈迦様にまで行きつくことができますが、

それは、遠い遠い道です。

「不生」「不死」

このことばは、わたしたちを迷宮に誘って

いまだに、仏教は、むずかしい教えのまま

わたしたちの前に横たわっています。

生があるなら、不生があっても良いだろう。
そして、それを求めることもできるだろう。

ここに、人間の可能性が広がります。
こう思ったのは、お釈迦さまが菩薩だった頃

はるか昔、昔、スメーダといわれるバラモンのとき、

このときから、輪廻を乗り越える長い旅がはじまるのです。

生まれたら死んでいくのがならいなら
生まれないことを求めることもありうる!

なんて、すごいことを考えるんでしょうか。
人間を超えるためには、限界を超えなくちゃだめなんだと

思うのでありました。

とりあえず、終わり。

005
庭の牡丹が見事です。

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2011/06/05

龍樹と語れ!って。。創作かぁ

010
バスの窓から、ぱちっと。
菩薩も売ってます。
お墓も売ってます。

007_3
なんだかかわいいでしょう。
何の花でしょうね?

菩薩や菩薩行のお話が、サイトでも、
たくさん出てくるようになりましたね。

龍樹菩薩は、どんな菩薩行をしたのかな?
かれは、いつから菩薩行をはじめたんでしょうか?

龍樹菩薩に聞いてみましょう。

龍ちゃん、こんばんは。
菩薩行について、教えてよ。

龍ちゃん、って気安く呼ぶなよ。
ぼく、龍樹、って、かっこいい名前があるんだからさ。

ごめんよ、龍ちゃん。。じゃなかった龍樹。。
でも、名前全部呼ぶと、呼び捨てになっちゃうけど、な。。
ま、いいか、龍樹っ、菩薩行って、どんな行したの?

ぼくの菩薩行かい。
それはね。。。。
えっへん、ぼくの菩薩行は、とってもたいへんなのさ。

なんだ、なんだ。「えっへん」って、いばってないでおせーてよ。
どんな風にたいへんなのよ。
他の菩薩さまたちだって、
みーーーんな、たいへんだったんでしょ。

ぼくの、ぐすっ、ぼくの菩薩行は、ぐすっ、
他とちがって
なかなか理解されないタイプの菩薩行なんだ。
ぐすぐす。。

あらら、今度は、泣いてるよ。
どうした、龍樹ぅ、泣かないで、話してよ、聞いたげるから。

話す。話す。話してるだろ、今だって。

何言ってるの。「話す」って、わかったから、話してよ。

だから、「話す」なのさ。「話す」という菩薩行なんだ。

へぇ~~、そんな菩薩行って、あるの???

ないかも。。だから、理解されないんだな、きっと。。
ぼくの菩薩行は、語ることによって、
ブッダの法の世界をこの世に現前させることさ。

へぇ、「現前」ってむずかしいことばね。
龍樹、ってば、あったまいいのね。

そんなことば一つで感心するなよ。
ぼくは、どんなことばでも使えるよ。
そして、使えることばはみんな使って、
そこに、ブッダの法の行き渡る世界を示す、と決めたんだ。
そうすると、みんなの苦しみがなくなっていくだろう。
だから、とにかくみんなと話すんだ。

ふーーーん、龍樹って、おしゃべりなのね。

ちゃうよ、おしゃべり、ってひどいなぁ。
こういうの、法施、っていうんだぜ。
法を語って、みんなにお布施をするのさ。

ふーーーーん、龍樹ぅぅぅ、えらいのねぇぇぇ~。

いや、それほどでもないけど、なはは、えらいかな。。
ま、ちょっとね。。それに、おしゃべりすると楽しいし。

あら、何だか、げんきんね。
けっきょく、おしゃべりなんじゃない?

ま、よく考えると、そうかな。わはは。
でも、ぼくは、法を語るのが好きなのさ。
ブッダの法は、語ってだめなものは、一つもない。
語り方も無数にある。
でも、その場で語れることは、ただ一つに決まるんだ、
話す相手の人に合わせるからね。
無数のことばの中で、ぴったりくるのは、
たった一つの表現だけになる。
相手のために、その一つの表現が選び取られるんだ。

ふーーーーーん、龍樹って意外と繊細なのねぇ。。

ずいぶん、「ー」が多いじゃないか。五つもあるぞ!

変なとこ、数えないでよ。感心してるのにぃーー。

まあ、わからないだろ、こんなところで、苦労してるなんて。

うん、うん。ぜーーーーーーんぜん、わからない。
苦労知らずで、適当に詭弁をでっち上げてるように見えるもん。

ああ、ひどいなぁ。
だから、ぼくは、ぐす、理解されにくいタイプなんだよ、ぐす。

だよねぇーーー。
ま、いいじゃん!
みんなが、龍樹だっていうだけで、
どんなにおかしくても読んでくれるんだから。

あ、ひどい!ぼくの書いたの、おかしくなんかないのに。
管理人まで、そんなことを言うなんて、ひどいや。

ああ、ごめん。
おかしくないけど。。。やっぱり、ちょこっと。。ははは、
そういえば、「おかしい」の意味がちょっとちがうけど、
大まじめなおかしさがあるよね、龍樹って。
おかしくないのに、ほんとはマジにおかしくないのに、
どこか笑っちゃうような、そんな中身なんだもん。

ううむ、真理は、案外そんなもんかもなぁ。。
それに、ぼくちゃん、歓喜地っていう地なんだ。

「地」って?

「地」って、そういう階梯ってことさ。菩薩の階梯だよ。
笑っちゃう地、それは、ぼくの地さ。
おかしくなって、楽しくなって、笑う地なんだ。
真理に出合うからだろ。うれしいからだろね。
それと
最後に、一つ教えてあげるよ。
歓喜地は、もっとも、ことばを多用する地なんだよ。
ことばとともにあるんだ。

そうなの?

そうさ、でも、これ、文献には載ってないよ。

え?じゃ、誰が、言ったの?龍樹?

いや、きみさ、管理人、きみが、ぼくを生んだんじゃないか。
これはきみの意見だよ。
あ、でも、ぼくが語るけどね。。

おしゃべりは、きみもだろ。。 じゃぁね、 by 龍樹

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2011/06/02

自然は、自然にあるのが、自然である

008
昨日、病院で会計を待っているとき
テレビを見ていました。

自然農法の、福岡正信さんという方の生き方を
放映してました。
昔の番組の再放送みたいでした。
2008年に亡くなられた方のようです。

その方は、ほんとに、

何にもしない農法を、実践してる

のでした。

何もしない、というのは、農業として何もしないのです。
ほんとに!

http://www.creative.co.jp/space/nature/farm/sizen2.html
このリンクでご覧ください。

そして、アフリカなどの砂漠化したところに
農業指導にも行って
人々を助けている様子も紹介されていました。

「粘土団子」というのが、アイディアです。

種と土を混ぜて、小さいお団子をたくさん作って、
それを
ぽんぽん地面に投げて、蒔くのです。

鳥たちにも食べられず
団子の栄養で
すぐに芽を出して育っていきます。

おもしろいですね。。  


うちのにわ。。


ほとんど自然農法に近い。。

なにもしてないところが、そっくり。。

種を投げてみようかな。。004
こんな風に、咲いてくれるかも。。

おお、予習しなくちゃ。。
別の種も蒔こうっと。

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