« 急がばまわる、目が回る | トップページ | 汝も耕せ! »

2011/05/27

花とことば

前の日記では、レンギョウの花盛りをごらんいただきましたが、
あわれ、レンギョウも、散りゆく頃となりました。。。001

ああ、さびし。

なので、次の花!
奥に見えまするは、八重桜かな。
ここに大きく写します、どかんと。
002
おお、うるわし。

この盛りをのがしては、二度とチャンスはない。
アップして撮って、アップしなくちゃ。
003
わわっ!ちょっと大きすぎ。
もうちょっと、控えめにしてほしい?

はい、はい。
004

こんなところでどうでっしゃろ。
あんまり変わらん?

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
=====
花にちなんで
=====

うるわしく、あでやかに咲く花でも、香りのないものがあるように、
善く説かれたことばでも、それを実行しない人には実りがない。


うるわしく、あでやかに咲く花で、しかも香りのあるものがあるように、
善く説かれたことばも、それを実行する人には、実りがある。
(『ダンマ・パダ』51,52)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

うるわしい花で、香りのない花というのもあるんですね。
善いことばで、実行されないことば、というのは、あるのがわかるけど。

しかし、
花よりダンゴ。。ではなく
花よりことば。。ことばの方に

気が引かれます。。

花を見ながら、しみじみ、ことばも観察しちゃおう。

ことばは、不思議なものだと思う。

よく「ことばで言い表せないものがある」とか言われるけど、
昔、そんなことはあるはずがないと思っていました。

どうにかすれば、絶対ことばで表して、
相手に伝えることができるだろう

そう信じていた頃もありました。


今でも、そう思う気持ちは、ないわけではありません。
ことばに対する信頼、というのか、
そういうものが、どこかに残り香のように残っています。

ことばが自由であれば、なんでも伝えられるのではないか
と、思ったりもするのです。

ことばが自由である、とは
思惟が自由であることです。

思惟が自由である、とは
ことばにとらわれずに
ことばが出てくるということです。

そのとき、ことばはことばであることを忘れている。

そうであれば、ことばは、なんでも伝えられるのだろう、
と思います。


ことばを信頼したので、
龍樹は、「空」と言ったのでしょう。

ことばは自由だと知ったので
龍樹は、「空」と言ったのでしょう。

ことばは、ことばを打ち消すことができるし、
ことばは、ことばを生み出すこともできる。

ことばによって、思想が生まれる。
ことばによって、思想が消える。

ことばが心のままであれば、
心はことばのままである。

こうして、ことばによって、
世界が動いていくのです。
人の心が動いていくのです。

======
はじめにことばありき。
======

このことばによって、まさしく、
世界がはじまったのでしょう。

だって、そう書いてある。
書いてあるなら、そうなる。

ことばの真実において、
ことばはことばを実行する。。そうなれ!

だから、いっそ

仏教でよく言う、「ことばで言い表せない境地」は
ほんとうは
ものすごく多種多様なことばの花開いた世界を示している。。んだろ。

ことばで言い表せないものなど、

やっぱり

ほんとうは

一つもないのだ

って、いう気が

どうしてもしてくる。。なぁ、花を見ていると、ね。

花開くなら、ことばも開くだろ。。
言い表せないことばが、花開くのだろうね。

こうして、ことばは、真実の花となる。
こうして、真実のことばは、花となる。

だから、集めてください、真実の花とことば。

============
わざに巧みな人が花を摘むように、学びつとめる人々こそ
善く説かれた真理のことばを摘み集めるであろう。
(『ダンマパダ』45)
============

(うーーむ、管理人
新境地か、はたまた、でたらめか。。
ことばのおもむくままです、はい)

|

« 急がばまわる、目が回る | トップページ | 汝も耕せ! »

コメント

シャン坊さま

『エネルゲイアと光の神学』をご紹介くださって、どうもありがとうございます。
探して読んでみましょう。

リンクもありがとうございます。パラマスのことは知りませんでしたが、非常に興味深いですね。

ちょうど、わたしも『龍樹と語れ!』のことを思い出していたところでした。

自分で言うのも何ですが、あの本は、すごく可能性を秘めた本だったと、自分でも思っていたところだったものですから。

神の「エネルゲイア」は、「アディシュターナ」に相当する。。。
ニヤーヤ学派の神の論証を思い出しました。

因果律を損なうことなく、しかし、生類を支える、しかも、自由自在に支える、と言われる神です。

ここも気になっているところです。

よくわかりませんが、何かありますね。何か、さらに、可能性が開けてきそうなコメントをいただいてありがとうございました。

論証を乗り越えて見えてくるのは、「光明」かな。。もう少しじっくり勉強してみなくちゃいけないな。

投稿: 管理人エム | 2011/06/02 06:06

エム先生、補足です。

パラマスの思想は、十代後半から関心を持っていましたが、結局、今、それを見直して思い出したのは、以下の先生の言葉です。もちろん、正確に一致するものかどうかは、わかりませんが。。

>『方便心論』の中にある「似因」には、ことばのもつ底力が、しめされていますね。
>「似て非なる原因・理由」という誤ったものを指し示すように見えて、概念的な思考を超えた言語の応用をも示しているのではないかと、かなり前から考えているところです。

少なくとも「仏教における」以上の問題については、今後の先生の展開に期待するところは、やはり、とても大きいですね。

投稿: シャン坊 | 2011/06/01 19:14

エム先生

もうブログも更新されましたが、いずれかといえば、こちらの話題に関係するでしょうから、遅ればせながら。。

>はじめにことばありき。

有名な『ヨハネ福音書』冒頭の言葉ですね。
私の個人的な思い出としては、若い頃、復活祭にニコライ堂に行った時、土曜日の夜11時頃から翌日曜日の明け方にかけて、文字通り「徹夜」で行われる典礼が佳境に入った真夜中に、無数の蝋燭で照らされた薄闇の中で朗々と節をつけて朗読されていたのを聞いたのが、深く心に刻みこまれています。
具体的にキリストの復活を述べた言葉ではありませんが、それによって与えられる「光」「いのち」の永遠性(「造られざるもの」ということで、仏教的にいえば「無為法」としての涅槃のようなもの、ということになるでしょう)を、これ以上、雄弁に述べたものはないからこそ、この夜に朗読されるのかもしれません。東方キリスト教においては、『ヨハネ福音書』における「言葉(ロゴス)」そして「光」としてのキリストが、高らかに謳いあげられますから。。

先日、大森正樹先生の『エネルゲイアと光の神学』(創文社)という本を入手しました。東方正教会の神秘主義的神学者グレゴリオス・パラマスについての研究です。パラマスはほぼ14世紀前半に活躍した人ですから、チベット仏教でいえばニンマ派の大成者ロンチェンパと同時代、ゲルク派の祖ツォンカパが生まれる直前に、ほぼ相当します。
で、なぜここでこの話題を取り上げたのかといいますと、神と人間との出会いを語る時に「(神は)分かたれずして、分かたれる」などの一見、矛盾をはらんだ言明をするパラマスと、同時代に、それを「神の単一性に反するもの」として批判した西欧的教育を受けたバルラアム、そして、その流れを引くカトリック側の批判者たちとの対立が、どこか、龍樹とチャラカを思わせるところがあったからです。
パラマスは「神秘家(もしくは行者)の論理」、その批判者たちは「アリストテレス的実在論哲学の論理」といえるかもしれません。実際、著者の大森先生(この方自身は、東方正教会に深い理解を寄せるカトリック神父です)は、本書で、それを「二つの異なる論理の問題」として示唆しているところさえありますが(たとえばpp.152〜158「二律背反の吟味」)、もとより論理学研究者ではないので、あくまでもおよその見通しに留まっています。
ともあれ、エム先生の研究とは、とりあえず別の視点から手にした本でしたが、そこでの議論からは、先生の『龍樹と、語れ!』(大法輪閣)を想い起こさざるを得ませんでした。全くのご専門外なので、なかなか通読されることもないかと思いますが、出口王仁三郎と同じく「他山の石」として、何かの参考になることもあるかと思いましたので、ここに言及させて頂いた次第です。

なお、ネット上に書評がありましたので、ご参考までにリンクします。

http://c-faculty.chuo-u.ac.jp/~tsuchi/gyoseki.review6.html

ここに出てくる、パラマスのいう神の「エネルゲイア(働き)」に、もし仏教の枠内で比較可能な言葉を探すなら、それはまさしく「加持(アディシュターナ)」でしょう。いずれも「光」に喩えられるものです。もちろん、その思想的・宗教的背景の違いは踏まえた上での話、ではありますが。。

投稿: シャン坊 | 2011/06/01 18:48

シャン坊さま

用心深くおっしゃいましたが、あたりっ!です。

わたしの心に描いていたことばは、もはや「分別」の領域を超えでています。

空即是色、後得清浄世間智。。こちらにかかわるものの方が、大きいかもしれません。

『方便心論』の中にある「似因」には、ことばのもつ底力が、しめされていますね。
「似て非なる原因・理由」という誤ったものを指し示すように見えて、概念的な思考を超えた言語の応用をも示しているのではないかと、かなり前から考えているところです。

マントラの世界を知るべく、出口鬼三郎の言霊学にも触手を伸ばしておりますです、はい。

そのうち、形にしていきたいと願っています。

投稿: 管理人エム | 2011/05/29 07:21

エム先生、こんばんは。

>ことばで言い表せないものなど、
>やっぱり
>ほんとうは
>一つもないのだ
>って、いう気が

おっしゃろうとすること、何となくわかる気もしますが、一方で「ことば」は、いわゆる「分別」とも密接に関連するもの。場合によっては「分別」(=概念的思考)によって何でも割り切れる……と誤解される可能性もあるかもしれません。
唯識的にいえば、先生のおっしゃることは、「分別」を超え、さらに「無分別智」をも超えた、「後得清浄世間智」においていえること、かもしれませんね(要は「空即是色」ということです)。

もちろん、これは、

>ことばの真実において、

>ものすごく多種多様なことばの花開いた世界

というご発言において、先生がそうした「後得清浄世間智」というか、さらには密教にも通じるような世界を、たぶん意図されているのだろう……と察した上でのことです。

投稿: シャン坊 | 2011/05/28 20:49

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 花とことば:

« 急がばまわる、目が回る | トップページ | 汝も耕せ! »