神さま、神さま、神さまって何なの、教えてよ!
ぱちっ!
スイセンみたいですね。
まさか、去年の咲き残りじゃないよね。
って、いうくらい、目立ちません。
なので、めいっぱいアップです。
さて、っと、
昨日、土曜日、目覚めた時間が、なんと午前0時台。
晩ご飯の後、爆睡してしまい、変な時間に目覚めました。
キリもよいので、そのまま予習をはじめ、
ずっと、起きてて、そのまま朝に突入。
がんばって仕事にも行き、無事終えて、
午後の3時頃、地下街を歩いていました。
と、とつぜん、
歩くスピードが、いつもの半分くらいになってしまいました。
あれ?おかしいな?
エネルギーが切れた?
なんだろ?
はっ!
もう、わたし的には、夜なんだ。
15時間も働いてる!
帰ったら、即、寝る時間!ってことかぁ。
ま、まぎらわしい生活だわ、まったく。
でも、仕方ない。
1日24時間じゃ、足りないのよ。
寝る時間削って、勝手に変更してます、ハイ。
=====
さて、さて、
シャン坊さまとおちゃらけさまの宿題が、あったっけ。。
さっさと、宿題しなくちゃなっ!
>「神」についての、インドの論理と、王仁三郎の論理の違いを、もう少し、具体的に教えて頂けませんか。
>ちょっと気になっていましたし、とても重要な点のように思いますので。
へいへい、すんごくいい加減ですが、
口から出任せにやってみます。
気分だけ、王仁三郎のまね!っこだい。。。霊界物語口述をイメージしてね。
~~~
インドで神の存在証明を行ったのが、
ニヤーヤ学派。
また、他の学派では、ヨーガ学派が神を説きます。
(サーンキヤ学派は、神を説かないけどね)
いろいろ哲学的には言えるのですが、
そんなこたぁ、どうでもいいのです。。。
いや、
どうでもよくないかもしれないけど、でも、やっぱりどうでもいいのです。
なぜなら、インドの「神さま論」は、
しょせん仏教の無我論に対抗する役目しかないかのように
仏教の論理の枠組みをこえでるものではないからです。
はっきり言って、物足りないのです。
え?これが、神さま?
なんか、何にもしてないじゃん。。。みたいな。
たとえば、鉄を引きつける磁石の力のような、
そんな程度の影響力しか、神の力を認めないような。。。さびしいのです。
ま
そもそも、神さま”目線”というのが、まるきりないのです。
いくら、人間が被造物であってもですよ、
神さまとはかけ離れているとしてもですよ、
神さまがいるなら、
神さまがいる、と感じ取れるような存在感が
わたしたちに向かって
醸し出されてしかるべきであります
が、
そういう感覚が、まるきり感じられません。
人間を超える創造主たる ”えらそうな神さまぶり”、ってのがないのです。
そういえば、
ヴェーダの頃から、神さまは肩身が狭かったっちゃ(しみじみ)。
バラモンの祭式の道具みたいなもんで、傀儡でした。
バラモンの唱えるヴェーダのことばは、呪力がありました。
神さまは、そのことばに操られるがごとく
招福除障にかかわる現世的な願いに応えてきたのです。
なんて、かわいそうなインドの神さま。。
神さまに代わって、力をもってきたのがブラフマン(ことばの力)
また、自己であるアートマン。
これらは、宇宙の原理とされていきます。
こうして、ウパニシャッドの世界が、広がっていきます。
神より、ダンゴ。。じゃなかった、人間を形作る要素が主役に。
たとえば、プラーナ、たとえば、アートマン、たとえば、プルシャなどなどなど。
この中で、最高のアートマンを、神(イーシュヴァラ)として
哲学的にとらえ、検討するようになりますが、
あくまで、論理的に、仏教の無我思想の枠(すなわち、因果)を
超えない力しか与えられてこないのです。
★バラモン教においても、神さまは、肩身が狭い
★仏教においては、もちろん、神さまは仏・菩薩の下
なんか、神さまに冷たいのが、インドなのです。
あんなにたくさんの神さまがいて、人気を博しているにもかかわらず。。
で、
=============
こんな神さまがいるインドは、やっぱり、人間が主役で中心の世界なのですね。
=============
さあて、
ところで、極東の島国、われらが日本。
八百万の神々が住まう山や川や田に暮らす人々。
『古事記』『日本書紀』の神話とともに生きてきました。。どうかな?
出口王仁三郎が、取り上げた
日本にあって、インドにない神さまの属性は、
★一つには 「言挙げしない」という点。
ことばで言い表せないことにより、人間と神の間には線引きがなされます。
一神教的な側面も持ちえますし、何にもしない邪魔にならない神さまにもなれます。
★もう一つは、神は意志をもつという点。
しかも、人間とは基本的に異なり、善という属性のみからなる、とするのです。
ここで、善悪を説き、倫理を説く神が出てきます。
これが大きいです!!!!
インドでは、神は、けっきょく倫理・道徳を説けないのです。
解脱を目標にする人間と、天界を目指す人間の補助の役目をするだけ。
王仁三郎の神論では、
すべての人間を平等に愛して、社会をよりよいものにすべし、
という社会性が出てくるのです。
神は主導的なのです。。。神さまっぽいわん。
しかし、だからといって、民を圧迫する神ではありません。
言挙げしない国の神は、ことばで押しつけるという苦しみを与えることはないのです。
すごいぞ!神さま
神さまらしい神さまでありながら
しかも
人間の暮らしに役に立って、彼らを支えます。
さらに
人間に、あるべき理想をも示し、苦や恐れを除くのです。
そのために
神は、神を生んで、多方面に能力を発揮するべく多神教を取ります。
こうして、
次第に人間っぽい神さまの事情も語られはじめます。
神の性格は微妙に変化しうるのですが、自然に無理なくなされます。
日本の神だけでなく、いろんな名前の神や仏が、縦横に結びつけられて、
霊的な世界と現実世界を行き交います。
人間は、神から影響を受けて、宣伝使となってはたらき
神と人とを結びつけます。
(なんか、いい加減な表現です、もうちょっと、よく調べなきゃね)
とにかく、なかなか、すごいです。
わたしの力では、まだまだ、語りきれてません。
未熟ものっ!
ははっ、もうしわけござんせんです。
以上、ぼろが出たところで終わります。
===
まだまだ、いろんな要素をあげられると思いますが、
検討不足のため、アバウトに述べてみました。
王仁三郎と、『法華経』や『大日経』などとの関係も調べると
おもしろいと思います。
読んでいますと、
かれがあらゆる思想・宗教を手中に収めようとしているさまが、
著作の行間から読み取れるようです。
聞いた話では、王仁三郎は、暇さえあれば辞書や辞典を
読んでいたそうです。
そんな王仁三郎の霊的な精神を、
著作や伝記の中から、わたしなりに
キャッチしようとして、悪戦苦闘中です。

最後は、妖しい花で、終わります。。暗がりに白い。。。こわっ!
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コメント
苺矢毒蛙さま
お!シンプル合戦ですね。
>そこまできたら、えい
>時間と死刑囚の自分だけ
ぬぬ!さすがに、これ以上は無理か。
>時間もクロノスさんになったり、カーラチャクラさんになったり、
矢のごとくになったり、お金になったり、人の心にも合わせます。。わたし?
時よ、止まれ。ねむたいよん。
投稿: 管理人エム | 2011/05/03 23:02
時間もクロノスさんになったり、カーラチャクラさんになったり、その土地土地の好みに合わせるのですね(-人-)ナムー
投稿: 苺矢毒蛙 | 2011/05/03 13:21
マニカナ先生、こんばんわ
>無駄のない主婦感覚でいくと
むむ。冷蔵庫にあるものを全て使い尽くす恐るべき実用主義者。
>他(タ)と時間と死刑囚の自分だけ
おお。宇宙もいらないとな。
宇宙も自分も生じるもので滅しそうですしいいか。
そこまできたら、えい
時間と死刑囚の自分だけ
投稿: 苺矢毒蛙 | 2011/05/02 21:25
苺矢毒蛙さま
わたしも、シンプルは好き!
宇宙と時間と死刑囚の自分だけ、かぁ。。
もう少し小さくてもいいか、無駄のない主婦感覚でいくと
他(タ)と時間と死刑囚の自分だけ
投稿: 管理人エム | 2011/05/02 10:14
> 宇宙と時間と死刑囚の自分だけとか
宇宙に時間はありません
あなたがそれを、
決めて(適用していると“顛倒”して)量るだけです
死刑囚は、
死刑のない国には、存在できません
神のもと( の(ブツ)コク ) では、
永遠の生を 受けています
死刑は、あなたの心に、あなたが作っています
( その自分を、疎外している“自分” )
あなたは、あなたである という 保証は 、
(あなたの量では)必用とされていませんが 、、、、
必要ないことに、
“わたし”が言及している(意乗る)という
判断(量) は
あなたのどこを、覆っていますか ?
投稿: 春間 則廣 | 2011/05/02 08:41
宇宙と時間と死刑囚の自分だけとか
投稿: 苺矢毒蛙 | 2011/05/02 01:30
マニカナ先生、こんばんわ。
宗教や信仰はその人の好みの反映ですよね。
どれを選ぶかでその人の好みがわかる。
わたしはシンプルなのがいいなぁ。
投稿: 苺矢毒蛙 | 2011/05/01 22:05
ぽけっとさま、こちらこそ失礼しました。
このブログのコメントも、かなり話題が拡散してきましたので、そろそろ幕引きにしたいと思いますが、せっかくのご質問ですので、お答えさせて頂きます。
>>「空のはたらき」「空用」
>>「空」はあらゆる無明を消し去りますね。
>とはどういうことでしょうか?
>これだと、空という「もの」があってそれが影響を及ぼすという風に読めるのですが
空のはたらき」「空用」とは、『中論』24・7に
「これにたいしてわれわれは言う。汝は、空性における有用性も、空性をも、空の実義も知らない。そのために、かくの如く自ら害せられるのである。」(平川彰訳)
とある部分の「空性における有用性」のことです。
そして、それによって戯論が寂滅されていくことについては、以前にもご紹介したことのある山口益先生『空の世界』(大法輪閣から復刊)で、真宗の教えも視野に入れながら的確な説明がありますので、ぜひ、そちらをご覧下さい。
>「空」の実体視はチベット仏教関連の本を読むと強くみられるので、違和感を覚えます。
>(バルドゥ・トゥドルに出てくる「空の顕現」とかです)
「空の実体視」という表現は、現代の学者がよく使うものですが、少し慎重に扱うべきかもしれません。さしたる検討もないままに、ちょっとそう感じると、いとも安易に使われている感じもしますから(笑)。
「空の顕現」というのは、「空という実体があって、それが現れる」というのではなく、「心のはたらきによる現れが止滅して、存在の真実である空が直観される」ということです。「戯論寂滅」のこと、といってもよいかもしれません。
ただ、この「顕現」という概念は、やや唯識的です。「空の顕現」というのも、空を表現するにしても、唯識の「無分別智」に引き寄せて表現している印象はありますね。このあたり、七世紀に正しい戒律を求めてインドに渡った中国の義浄がいうように「大乗の二大潮流」である中観と唯識の交渉史にかかわって、なかなか複雑です。ただ、『仏教の思想3 空の論理<中観>』(角川書店)前半の梶山雄一先生が書かれた部分(特に、終わりの方)は、それを見事に描き出していますので、これも参照をお勧めします。
oさまもおっしゃっていましたが、近代日本で龍樹の「空の思想」を的確に解明した二大巨頭が、山口・梶山の両先生である、といえるでしょう。これに、龍樹の菩薩行の思想を丹念に追った瓜生津隆真先生を加えることもできます。
そして、梶山先生の路線を、特に「論理」にしぼって、さらに飛躍させたのが、エム先生ということになるかと思います。私もいろいろ、エム先生とは言い合いますが、これはある意味で、先生の「包容力」を心から信頼しているからですね。やはり、立派な先生です(笑)。
投稿: シャン坊 | 2011/04/29 21:25
シャン坊さま
色々と浄土真宗に関して生意気なことを言ったかも知れませんが、
エム先生がいくつか真宗が仏教たりえるポイントを示してくれたので、僕的には真宗の教えは仏教だな、と納得した感じです。
ただ実践はとてつもなく複雑で難しいなと感じますね。
エム先生の、
>もし、浄土真宗が善悪を捨てた非仏教になってしまったとしたら、親鸞の意図するところではないのではないかと思います。
というコメントはその通りだと思います。
阿弥陀仏は彼岸へ渡るときに手助けしてもらう渡し守といった感じでしょうか。
こう考えると絶対神のような問題はありません。親鸞が阿弥陀仏を称賛するのも、ひとえに成仏を助けてくれるから。
菩薩道というポイントは親鸞の著作のそこかしこに散見されます。
「還相回向」を強調するのも、親鸞の菩薩としての自覚を表明したものでしょう。
また、「他力」については違和感はありません。無我を徹底するための思想かなと漠然と考えています。
ただ、
>「空のはたらき」「空用」
>「空」はあらゆる無明を消し去りますね。
とはどういうことでしょうか?
これだと、空という「もの」があってそれが影響を及ぼすという風に読めるのですが
「空」の実体視はチベット仏教関連の本を読むと強くみられるので、違和感を覚えます。
(バルドゥ・トゥドルに出てくる「空の顕現」とかです)
投稿: ポケット | 2011/04/29 13:10
マジカル広場 に、コメントを転記して置きました
よむ気が あれば 、、、 (あってもなくても)
面倒なことに首を突っ込んで
投稿: 春間 則廣 | 2011/04/29 08:30
エム先生、重ねて失礼します。
さて、親鸞の話は、ちょっと余論でしたから、この辺にしておきましょう。
ただ、この一連のお話で、結局、私がもっとも感じていたことは、仏教にせよ、ヒンドゥーにせよ、王仁三郎にせよ、いかなる宗教であっても、その理解には、やはり、先にクマちゃんが代弁してくれたように、
>カレ的には、いろーんな「宗教的古典」も、やっぱ、その世界の「生きた体験」を持った「行者の目線」がないと、その本当の「宗教的メッセージ」は読み取れないのでは?ってことなんだそーです。もお、文献学とは別のセカイかもしれませんけどネ。。。
>「愛がなければ、理解できない」(アウグスティヌス)
ということでした。もちろん、全ての宗教の「行者」になることはできませんが、少なくとも、そうした「目線」を想定すれば、それぞれに「暖かなまなざし」を注ぐことはできるはずです。(これは、特に、先にご紹介を頂いた伊藤武先生の『図説・ヨーガ大全』に、強く感じたものでした。あの本は、細部はともかく(笑)、私にとって大切な本になりました。)
そうした視点から見れば、やはりインドの霊性もラーマクリシュナなどのように、近代においてもすばらしい「果実」を実らせていることは事実だと思います。
それでは。
投稿: シャン坊 | 2011/04/29 07:23
エム先生、おはようございます。
横から、かもしれませんが、親鸞の問題はぽけっとさまが私にも尋ねてこられたことですので、お許し下さい。
「仏教を知っている」という表現をすらりとされるあたり、やはり、ちょっと私とは違う感覚は感じます。どのような意味なのでしょうか。
ごく表面的に考えれば、ブッダや龍樹から読み取れる思想構造(=先生のおっしゃる「論理」)を知っている、ということのようにも見えますが。。
あるいは、その自分の狭い「知識」にさまたげられて、親鸞が理解できない、という告白なのでしょうか。それならばよくわかりますが、でも、先生の言葉のニュアンスとは、微妙に違う印象も感じます。(ちなみに、親鸞は『愚禿鈔』で「 賢者の信は、内は賢にして外は愚なり。 愚禿が心は、内は愚にして外は賢なり」と述べています。)
率直にいうと、原始仏典の「文字(表現)」だけにとらわれて、「仏教を知っている」つもりになってしまうと、
>仏教を知らないと、親鸞にはいけないですが、仏教を知っていると、親鸞にはなかなか行き着けない。。。
という印象は起きるかもしれませんね。ただ、エム先生はもっと深く、その「論理」を掘り下げっておられるはずですから、少なくとも先生については、こうしたことはないはず、と思います。
いずれにせよ「仏教を知る」ということはどのようなことか、少なくとも私にとっては、大きな問題として残されています。
で、「空」を考えると、親鸞のいいたいこと、おぼろげながらでもわかるのではないでしょうか? 弥陀は無限の光明とされますが、光明は空の「喩え」として良く用いられるものです。
「他力」という表現が、ブッダ以来の「善因楽果、悪因苦果」から見ると違和感を感じるのかも知れませんが、これは「空のはたらき」「空用」と言い換えることができるでしょう。「空」はあらゆる無明を消し去りますね。(こうしたことは、真宗大谷派僧侶でもあった碩学・山口益先生も『空の世界』で述べています。)
まあ、こうした議論は、確かに、春間さまがおっしゃるように「わずかな知識にすがる」ことになりますが、エム先生とぽけっとさまのご参考になれば、と思って、あえて触れさせて頂きました。
投稿: シャン坊 | 2011/04/29 06:48
春間さま
>わずかも きけず と 知れば、
>わずかに すがる こともなくなります
その通りです。
あえて「わずか」と書いたのは、実際、その私が「わずか」にすがっている事実を、ごまかしたくないからでした。
いずれにせよ、「仏教を知っている」などとは、そう簡単に口にしたくない、というのは、本心ですね。
投稿: シャン坊 | 2011/04/29 06:00
ポケットさま
なんだか同じ気持ちみたいですね。
龍樹は、それでも、まだついていけるところがあります。
子供の心をもてばよい、という感じなんですが、親鸞の場合、子供程度じゃだめだ、赤ん坊の心をもたなくちゃ、と思って、とうてい無理だとあきらめます。
すごい人ですよね。
投稿: 管理人エム | 2011/04/29 04:05
> せいぜい、仏教について、わずかばかり聞くところがある、という位です。
その “ワズカ バカノリノ トコロ” に、
思い上がりがあるから、
わずか が、
ワズカ バカリ デハナク
延べられる わけです
わずかも きけず と 知れば、
わずかに すがる こともなくなります
口ばっかりで、
見つめる目 と、立ち処 を、失っているから、
自分の姿が見えなくなっているのです
投稿: 春間 則廣 | 2011/04/28 22:20
結局、以下で語った趣旨は「諸仏や聖者の境涯は容易に知りうるものではないのだから、たとえ、その教えに理解できないことがあっても、疑ったり誹謗してはいけない」という古来、仏教で語られ続ける誡めですね。
「仏教で語られる真実を、直接知覚する」とは、つまり悟りを開くこと、つまり、聖者になることです。
自身で真実を見て、始めて、そこから流れ出た様々な教えの意義も、完全に理解できるようになるはずです。それまでは、『大智度論』にいわれるように「信を能入」として、信によって導かれて歩むほかはないでしょう。
投稿: シャン坊 | 2011/04/28 21:56
>仏教で語られる真実を、いまだ直接知覚せずに、どうして本当の意味で「仏教を知っている」といえるでしょう?
今、ぽけっとさまが引用されたエム先生の言葉について、先に以上のように書きましたが、やはり、まず「仏教を知るとは何か」ということが問われるべきではないでしょうか?
私でしたら、そう簡単には「仏教を知っている」などとは、とうてい、いえません。せいぜい、仏教について、わずかばかり聞くところがある、という位です。
投稿: シャン坊 | 2011/04/28 21:41
エム先生
>仏教を知らないと、親鸞にはいけないですが、仏教を知っていると、親鸞にはなかなか行き着けない。。。
これが親鸞の思想とは何かを端的に表しているという気がします・・・
まったく関係のない横入りの話題、御迷惑だったかも知れないですが、回答頂き感謝です。
投稿: ポケット | 2011/04/28 20:56
プチ・クレームをトッピングしてるスィート・クマつぁん、ちょうど電源を切るとこでしたっ!とりいそぎレス!
だってクマちゃん、ヒトじゃぁないでしょぉ~。
虹の世界に住まうお方は「人の(対する社会、自他の)」仁とか倫理を越えたところにいらっさるんだもの。そこんとこ、クマちゃんが妹だとしても、虹の国のお方だもの、ちゃんと尊敬してるのよぉ~。だから外したのぉ~。アンド、私にとって神仏さまとのお付き合いは「(語れない)ちょ~プライベート」な部分なのよっ。ポッ♪
たぶん、
> 仏教からも、アドヴァイタからもアプローチできる世界かもしれませんネ。
って、つっこまれるわよぉ~。
クマちゃんが語れないところを語るのがシャン坊おにぃさまの踏ん張り所かもですね~。
(とプレッシャーをかけてみる)
「地」に戻るってのは、最初の「階段/段階」に戻っちゃうってことかもです。
何度でも、何度でも。
うー、クラクラ目が廻りそう。。。@~@
(このコメント欄もスクロール、スクロールで「巻き巻き」ですね)
投稿: おちゃらけ | 2011/04/28 18:31
補足、です(笑)。
>仏教からも、アドヴァイタからもアプローチできる世界かもしれませんネ。
クマちゃんがいってたこれ、もし仏教からいうと「色即是空、空即是色」になりますね。アドヴァイタからいうと、どうでしょう? あおみさまのおっしゃる「真我の戯論」が、これをいおうとしたものであったのかもしれませんね。もちろん「同じもの」ではないのでしょうが、氏が『般若心経』にユニークな解釈をしていたのが、なつかしく思い出されます。
やはり、インドあってこその仏教、仏教あってこそのシャンカラ、シャンカラあってこその近代インドの霊性なのでしょう。おや、ちょっと「縁起」っぽくなりました(笑)。
では、では。
投稿: シャン坊 | 2011/04/28 18:11
おっちゃらけお姉さま〜♪
ほーんと、今日はキラキラ輝くような青空と若葉さーん♪
>エム先生:王仁三郎の神論とインドの神(ここからスタート)
> シャン坊さま:王仁三郎と仏教世界
> おちゃらけ:大本と時代背景
>下に行くほど焦点がぼやけてくるのかもです。
ちょっとぉ。。。
クマ:神さまにフラれたウダヤナさんと、
恋に恋する女の子の論証式
ってのもあるんですよーーーーーーーー♪♪ーーーーーーーーーー♪
ま、アタシのは、ほとんどダッセンですけど、いいたかったのは、神さまでもカレシでも、おつきあいして見ないと、やっぱホントのとこ、わかんなーいんじゃなーい??ってこと。ついでに「愛がなければ、理解できない」(アウグスティヌス)なーんちて(カレのマネ!)。
で、カレ的には、王仁さまを「神道のマハーサットヴァ」ってことに、もー「しとく」んですって!?(ごーいん。。)ほんとの「マハーサットヴァ」さまは、真実ちゃん(王仁さま的には神さまネ)とラブラブだから、もー論証なーんていーらないの♪♪ こーんなカンジで「上求菩提」して、お姉さまのおっしゃる
>世間的な関心
で「下化衆生」するんですネ!
エーム・セーンセ♪
>『マハーバーラタ』は、寂静の味わい(シャーンタ・ラサ)
これって、あんがいカレのカンジに近いかも?(ちなみに、クマのお名前もそーでーーす♪)
キラキラマーヤーさま(これって、いまはむかしのあおみさま的にはカーリーさまのダンスですネ!)のおすがたに「寂滅為楽」を見とおす、ってかーんじかしら。。
仏教からも、アドヴァイタからもアプローチできる世界かもしれませんネ。
そんでもって、カレがいってた
>こうやって、勝ち負け全てが消えていくところ、神をまのあたりに見れる者なら、ここにこそ「神の任運な遊戯(ゆげ)の幻(マーヤー)」を見て、その荘厳な光景に圧倒されるでしょうに。。
ちゃーんと読んではいないんだけど、たぶん、ラーマクリシュナさまなんかも、こんなノリ、あるんじゃないかしら?
カレ的には、いろーんな「宗教的古典」も、やっぱ、その世界の「生きた体験」を持った「行者の目線」がないと、その本当の「宗教的メッセージ」は読み取れないのでは?ってことなんだそーです。もお、文献学とは別のセカイかもしれませんけどネ。。。
セーンセ、お姉さま〜♪
クマからも、あーりがと!
投稿: シャーンティクマーリー | 2011/04/28 17:58
お集まりのみなさま、こんにちわわわ~ん!
ひゃー、今日はいい天気でるんるんです。
はい、残りの関心を捨てまーす。
ええっと、ざっくりと流れを追いますと、こんなかんじでしょうか?
エム先生:王仁三郎の神論とインドの神(ここからスタート)
シャン坊さま:王仁三郎と仏教世界
おちゃらけ:大本と時代背景
下に行くほど焦点がぼやけてくるのかもです。今回は世間的な関心ってのがシャン坊さまと重なったのかもしれません。で、大本の登場は神のお告げによる社会改革を訴えたから弾圧を受けたとしたら、大本の「みろくの世」は「どの世」に対しての「世直し」なんだろう?という感じです(大本はあえて弾圧されるほうを選んだ、と思ってます)。
だとしたら、先に国粋主義者と書きましたが、「狂信的な」と付け加えればよかったのか、それとも愛国主義とか、「何が」大本に反対していたのかいまのところピンとこないんです。というのは、玄洋社にも興味がありまして、このグループも一筋縄でいかないです。あ、またズレてきましたっ!戻れ、戻れ。
エム先生
「やっかいな問題」は確かに非常にやっかいですぅ!おっしゃるように「使う人次第」なので。果から語るというのもなかなかきわどいですよね。常に果が自分に返ってくるので。
> やっぱり目線が人間の側に立つからでしょうか。
語らぬ神のことばを伝えるのは人間なので、下に書いたように「祀り方(心のあり方)ってのは神の声(言挙げせぬコト)の聴き方でもある」と思います。「神さまのゆうことをどうやって聞いたらいいのか、どうやって祀ったらいいのか」ってのが「個人的な」関心です。
倫理・哲学が「語り得ぬものに沈黙(前記事より)」ならば、問われたら(無記という答えも含めて)問いに答える仏教の「方便」は、どこまで「他人の懐に入る」のか、そのさじ加減というか、バランスというか、倫理が関わるところというか。「善」とは?という問い(課題)に何回も戻ってきちゃいます。しかも善の語り方よって(あり方は違う?同じ?)「仏教的」とか「インド的」とかとか、形容がついたりして。
仏教に関心がない人びとにとって、仏説(方便)はどのように聞こえるのか、言う方が善ならば聞く方にとっても善なるものになるんだろうか、という問いも何度もスタート(地)に戻ってきます(自分に戻ってきちゃいます)。なぜなら、ひとりごとでさえ「ことばを介した会話」なので。つまり、ひとりごとにも倫理が関わってくるのでは?と。(それゆえ、私はネット人格と日常の人格を書き分けないほうを選びたいと思っているのです。人格が混乱して分裂しちゃうので。もちこのシバリは自分に対して<のみ>。)
日本の神が「善という属性のみからなる(本文より)」なら、その声を聴く側の倫理が関わってくるとしたら、確かに一神教的な側面がありますね。神は善きものなので聴き方が間違えば(問いをタテル)、聞くものが間違ってるってこと(問いがタタル)?みたいな。(そういう過程でギーターってど~よ?という問いが出てきたのでした)
「神」はかなり難しく、とてもやっかいです。なにせ、人間の言葉を越えているので。。。
あーあー、、、やっぱり、焦点が絞れなくって、おおざっぱになってしまいました。。。すみません。
> これからインドはどこに行くのか
> これから日本はどう進むのか
アンド、その国とこの国の人びとの心はどこに、どのように、、、
(キリがなくなってきたので私もここで一旦キリま~す=黙りまーす)m__m
投稿: おちゃらけ | 2011/04/28 16:22
シャン坊さま
『マハーバーラタ』は、寂静の味わい(シャーンタ・ラサ)だというのが、後代の解釈らしいですが、これも、また、インドの人々の心情を伝えているように思います。
ここに、ヒンドゥーのダルマを見切れなかった、とも、とらえることができるかもしれません。
叙事詩とはなり得ても、宗教的な聖典には物足りないという。
わたしは、今日に至るまで、インドの苦悩する姿を、ずっと見続けているような気がしています。
仏教が衰退し、イスラム教も排除して、8割がヒンドゥー教徒となった今日のインドは、思想的には閉塞感が漂います。わたしの印象です。
投稿: 管理人エム | 2011/04/27 09:01
エム先生、おはようございます。
最初から、ちょっと脱線しますが、まず、上村先生の『マハーバーラタ』への感想について、
>こうやって、勝ち負け全てが消えていくところ、神をまのあたりに見れる者なら、ここにこそ「神の任運な遊戯(ゆげ)の幻(マーヤー)」を見て、その荘厳な光景に圧倒されるでしょうに。。
と述べましたが、これを、日本的に親しみ深い形で述べると、良寛の以下の言葉のような感じになるかもしれませんね。
>災難に逢う時節には災難に逢うがよく候。
>死ぬる時節には死ぬがよく候。
>これはこれ災難をのがるる妙法にて候。
それにしても、、、龍樹の「戯論寂滅」「無諍」を『大智度論』や『方便心論』によって見事に解明されたエム先生への私の感嘆にのっかって、クマちゃんもつい、お姉さまと一緒にブログ更新をお願いしてしまったようですが、思いがけずエキサイトしてしまいましたね。
私としては、「仏教優位のバイアス」をかけて他宗教を見ることは、かえって「無諍」に反するのではないか……と思っていて、これは、スマ師とはちょっとスタンスが異なります。
少なくとも「善き心」を育てる上においては、様々な宗教も、それぞれに役立つ……というダライ・ラマ法王や空海(一応、第二〜三住心がそれに当たりますが、実は十住心全てが、究極の第十住心の現れであるともします)の教えを、私は仰ぎたいと思います。これは、宗教的なものも含めて「世俗の慣習」をできるだけ否定せずに、包容しようとしたブッダの立場、「無諍」の実践につながるものともいえるでしょう。
おちゃらけさまと合わせて、色々と有益な示唆、ありがとうございました。
王仁三郎を教えて頂いたこと、改めて感謝いたします。
投稿: シャン坊 | 2011/04/27 08:46
シャン坊さま
>人がそれぞれに、その幻の一幕の役割を演じきることこそ、『バガヴァット・ギーター』が説く人間のなすべきこと、「倫理」なのかもしれません。仏教からの見方は別にして、あえていえば、それが『バガヴァット・ギーター』における善、ともいえるのではないでしょうか。
このように、『バガヴァッドギーター』自身が語るのであれば、あるいは、それを聖典とするものたちが語ってこそ、宗教的な見地が生まれてくると思います。
ギーターは、スムリティ(伝承聖典、伝承文学)とされ、それは、ある宗教の根本聖典のような役割を、まだ持っているとは言えません。
シャン坊さまが、そのように主張されて、はじめてそういう宗教的なメッセージが生まれてくると思います。
投稿: 管理人エム | 2011/04/27 08:46
おちゃらけさま シャン坊さま おっと、クマちゃま、忘れまいぞ!
なかなか、やっかいな問題が乱れ込んでる感があります今日この頃、おはようさん、です。
こんがらがりそうですが、若干、とりとめなくお話ししますと
イスラーム教に関心が向いていた、というのは、これは、想像ですが、万教同根、人類愛善などのうたい文句で、すべての人や宗教への広がりを考慮するとき、イスラーム教は有効に働くと思われたからではないでしょうか。
共同体ウンマという理想をかかげ、たんなる個人の救済を超えた、人々全体を丸ごと救おうという願いをもつところには、その時代が共感するものをもっていたと言うことかな、と思ったりしています。
その意味では、『バガヴァッドギーター』は、ほとんど役に立たないかもね。アルジュナ王子の救済には効果があったかもしれませんけども。
それに、込み入った哲学思想がごった煮風に入っていて、インド思想を知らないと非常にむずかしいです。ギーターは、実際には、インドの人でも、そんなに楽じゃないと思います。
そして、むずかしい割には、とりとめなくてメッセージのポイントをしぼりきれない恨みもあります。使う人次第というところが、もやもや感を生みますね。
やっぱり目線が人間の側に立つからでしょうか。
シャン坊さま
王仁三郎の思想的な源泉は、いろいろな学者や研究家が、あれこれあげていますね。伝記などの研究もあります。だいぶ借りてきてます(笑)。
あげていただいた本田親徳、さらには平田篤胤、他にも、言霊の方でもいろいろあって、ちょっとチェックを入れてみてますが、確かに、見て取れる影響関係は、すでに研究者たちが指摘しているとおりであろうと思われます。
ただ、王仁三郎の場合、それだけではないのであって、研究書などによっても、部分を押さえたという感じが強くて、その人間像に迫る、という作品はない感じです。
まだまだ、これから研究されていく人なんだろうと思います。
わたしが知りたいのは、彼の宗教者としての器、人間としての力量、といったものです。
それが、彼の思想の大きさにつながりますので。
比較宗教的なお話では、おっしゃるようにシンクレティズムの傾向は、インドにも日本にも見られます。インダス文明の印章のプロト・シヴァも指摘されるとおりですが、でも、今のところ、そんなものなんですよね。
まだまだ、あいまいすぎます。
似てるというだけなら、誰でも言えるのであって、問題は、そこからどう進むかではないでしょうか。
比較宗教、比較思想のもつ問題点ですね。こういう比較をする学問は、何か共通の根本的な原理をもつか、方法論的に共通の基盤に立つか、どこかに何らかの支点を定めてからやらないと、けっきょく、「似てますね」で終わってしまうと思います。あるいは「ちがいますね」で。
人間の営みや文化的な面で、哲学的な考察がはじまっていないと、思想や宗教の比較は有益な成果を生まないのではないかと思ったりもします。
辛口キムチになっちゃったですが、比較宗教というと、どうしても、自らの宗教的立場にかかわる価値的なものをはらんできたり、没価値的にやろうとすると我々人間の営みということが出てこなかったり、むずかしいです。
これからインドはどこに行くのか
これから日本はどう進むのか
こういう視点をもちながら、宗教というのは研究されねばならないのではないか、と思うのでした。
投稿: 管理人エム | 2011/04/27 08:36
もう一つ、追伸。
>仏教を知らないと、親鸞にはいけないですが、仏教を知っていると、親鸞にはなかなか行き着けない。。。
後半の文は、やはり「仏教を知らないから、親鸞にはなかなか行きつけない」ではないでしょうか。
その故は、先の論証式(もどき)の如し。仏教で語られる真実を、いまだ直接知覚せずに、どうして本当の意味で「仏教を知っている」といえるでしょう?
それを直接知覚し、「諸仏の家に生まれる」ようになる道を説くのが、『十住毘婆沙論』です。「ゴータマの門」や「神の家」に入れなかった境涯を「超え出る」道、ですね。
投稿: シャン坊 | 2011/04/27 07:46
おやおや、今度は私がクマちゃんのHNですね。
本当に、同じパソコン使ってると、困ります。失礼(笑)。
投稿: シャン坊 | 2011/04/27 07:34
さて、おはようございます。
横から、失礼します。
>上村先生は、『マハーバーラタ』は人間存在のむなしさを描いた作品だとしていますね。
なんだが、いかにもさびしい、近代的解釈ですね。
こうやって、勝ち負け全てが消えていくところ、神をまのあたりに見れる者なら、ここにこそ「神の任運な遊戯(ゆげ)の幻(マーヤー)」を見て、その荘厳な光景に圧倒されるでしょうに。。
人がそれぞれに、その幻の一幕の役割を演じきることこそ、『バガヴァット・ギーター』が説く人間のなすべきこと、「倫理」なのかもしれません。仏教からの見方は別にして、あえていえば、それが『バガヴァット・ギーター』における善、ともいえるのではないでしょうか。
で、もちろん、王仁三郎は、いつも神を見れた人でしょう。一方、ウダヤナが神殿から追い出されたのは、当然です(というより、本当は、彼自身がまだ神を見るには、ほど遠い境涯でしかなかった、ということですね)。もちろん、後者の解釈は、あくまでも自由な「喩え」としてのもので、もともと、どのような意味で語られていたか、ということとは、また別ですが。
西洋でも、「神の存在証明」を行ったトマス・アクィナスは、晩年、ミサを捧げている時にある体験をして、それに比べれば、今までの私の著作など無意味だ、といったとか。。
スマ師の解釈とは別に、以上のような境涯も、祈りや瞑想における、一種の「見ること(直接知覚)」の世界、ではあるのでしょう。
先のクマちゃんの論証式(もどき)を、もう少し整理しときますね。
「推理を試みるものは、いまだ認識対象についての確実な知識を持たず」
「直接知覚せざるが故に」
「凡夫の如し」
投稿: シャーンティクマーリー | 2011/04/27 07:29
oさま
ヴェーダやウパニシャッドは、まだまだうまくとっかかりが得られていないのです。
しかしながら、brahmanなる語の変遷をみていきますと、これまで言われているような語に潜む「力」というものを認め解釈が有効かなと思いますので、これをとっています。
やっぱ、解釈ということでしょうね、これ。
投稿: 管理人エム | 2011/04/27 07:17
すごいコメント群で、どうしましょう。
ポケットさま
スマ長老さまの、『バガヴァッドギーター』には怒りがある、というご発言!
そうそう、ありました。
それと『ウパニシャッド』には怒りがない、とも言われていたような。
これは、わたしも、すごいなと思いました。瞑想の力といいますか、sati(気づき)の力と言いますか、本当にそうだと思います。
『バガヴァッドギーター』には、ジュニャーナ・ヨーガ、カルマ・ヨーガ、バクティ・ヨーガの三つが説かれています。
シャン坊さまのご意見とは反しますが、やはりヨーガ(道、方法)であって、倫理そのものとは言えないと思います。
『バガヴァッドギーター』は、『マハーバーラタ』に含まれます。バラタ族の大戦争という大きなテーマの中で、そこに哲学・神話・伝承・物語など種々の要素が混ざり込んだ膨大な叙事詩です。
『マハーバーラタ』の最後には、戦争の勝者だった人々も、次々になくなっていき、ギーターに出てくるクリシュナ神ですらもジャラーという猟師に踝を射られて亡くなってしまいます。
上村先生は、『マハーバーラタ』は人間存在のむなしさを描いた作品だとしていますね。
ギーターにある種の倫理(義務を果たせ)があるとしても、ポケットさまも指摘されるとおり、最終的に善悪に行きつくものではないという意味で、危ういと思います。人間の意志の究極が説かれないからでしょう。
さて、そこで、親鸞の教えにいたるわけですが、ここは、わたしは、詳しくはわかりません。
もし、浄土真宗が善悪を捨てた非仏教になってしまったとしたら、親鸞の意図するところではないのではないかと思います。
極楽往生を望むのは、成仏を目標にするからですよね。
「仏になる」とは、自ら悟りに達して人々を救うという、そういう大きな目標を心に秘めるからで、たんに天国のようなところに行くことを望んでいるのとはちがうと思います。
そして、成仏するためには、どんなことができなきゃいけないか(変な言い方ですが)
これは、けっきょく諸仏の教えである、悪いことをせず善いことをして心を清らかにする、ということができるようになること、をさしているのじゃないでしょうか。
人々すべてが、輪廻を逃れ、ブッダになったあかつきには、諸仏の教えは完成されていることになるのではないでしょうか。
輪廻を説かないで、阿弥陀仏だけを強調しますと、一神教のようになりそうです。
あるいは、自分たちが菩薩なんだ、ということを身にしみてないと、道から外れそうです。
仏教を知らないと、親鸞にはいけないですが、仏教を知っていると、親鸞にはなかなか行き着けない。。。親鸞の教えは、すごくむずかしい教えであると思っています。
投稿: 管理人エム | 2011/04/27 05:37
おちゃらけお姉さま♪ こーんばんは。カレ、仕事相手と一杯やって、さらっと打ち合わせして、いま帰ってきたとこでーす。もぉ、東京は初夏の空気ですネ! 夜風に吹かれながら、今はおっしゃべりーーーーーーーーー♪♪ーーーーーーーー♪
で、チベットに伝わるお話。むかしむかし、あの唯識の無着さまが、山にこもって一生懸命修行していたんだけど、どうしたんだか、ぜーんぜんダメ。そんなある時、膿んだ傷口に虫がたかった無残な病気のワンちゃんを助けたら、なーんと、それが弥勒さま。ワンちゃんへの優しい心になって、ようやく、いっつも離れず見守っていてくれた、その本当のお姿が見えるようになったんですって。
喜び勇んだ無着さま。弥勒さまを背負って街に出たんですけど、ほとんどの人にはそれは見えず、ほんのちょっと、心のきれい人には、ワンちゃんの姿が見えたとか。。
で、カレ。「まあ、星空のように遠い彼方の話ではありますが、ふと、そんな世界に思いをはせながら、私もクマちゃんを背負って、街に仕事に出るのは楽しいことですね。」なーんですって。これって、どーゆーこと???
でね、さっきはお姉さまのコメント、出かける前は、クマあてのとこしか読んでなかったけど、いま、エム先生あてのとこも読ませてもらって、カレへのあったかい共感に、アタシからも感謝ネ♪
>ここんとこ、どちらかというとシャン坊さま寄りかもしれません。中立的ってゆうより、困ってる時に助けてくれるんならだれでもオケーイ、みたいな。
あと、前のブログのコメント、、、
>仏典に出てくる神は協力者を指すとかいわなくて、まんま「神」でいいじゃん!って。
>まさにちょうどそのとき、理は「もれなく一切」どこにでもどうやってもついてくる、ってかんじです。
>(くっついてくるとは<語感が>違うんですよぅ)
だいじょうぶ。大乗ぶ。。ってカンジで、カレ、とっても感動してたの! 無戯論くんの愛ちゃんーーー♪って!
エム・センセの愛のピリカラキムチ味も、お家の味、母の味だわ。ときどき、カレの家風とズレちゃうのが、クマもちょっとカナシイけど。。
そんでもって、センセのお姉さまへのレスにあった、「神の存在証明」しちゃったウダヤナさまのお話。。
>そのカレが、あるとき、ヒンドゥー教の寺院に入ろうとしたら、断られたのだそうで、
これって、クマ的には、きっと神さまにフラれちゃって、ウダヤナさま、ヤブレカブレになっちゃたのかも?? だって、もしカレシに、「ボクは君のこと、ホントに信じてる。その証拠に、君のボクへの愛を証明してあげるからね!」なーんていわれっちゃったら、どお?? もお、イッキにこのカレ、フラレちゃうわよネ♪ そんでもって、もし、このオトコがキレちゃったら、もぉサイテー!!!

ホントの信頼、ホントの愛には、証明いらない。。それがないから、証明なんてこと、考えちゃうのかも?
神さま、仏さまにホンキでラブラブな人の前には、いつも、そのお姿が見えるから、なーんにも疑いもムツカシイこともなーいの♪ 無着さまミタイにネ♪♪
(で、この神殿に入れなかった、っての、どっか龍樹さまが、まだ悟る前に「ゴータマの門」へ入るのを門番の神さまに拒否された、ってお話に似てますネ。。修行途上での「壁」を示す、一種のパターンなのかしら?)
おしまいに、クマのちゃっかり論証式。
いっくよーーーーーーーーーーーーーー♪♪ーーーーーーーーーーー♪
「論証しちゃお!って思う人は、まだ真実を知らないわ!」
「まだ、真実とまのあたりに出会ってナイから。。」
「恋に恋する、女の子みたいなカーンジ♪」
投稿: シャーンティクマーリー | 2011/04/26 23:43
おちゃっらけお姉さま♪
カレ、あいもかわらず、荒魂(あらみたま)モード。。ほんとに、もっ!(まあ、アタシたち、シヴァ派ちょい似のタントリック・ペアだから、やっぱ、そんなもんかしら。。)
でネ、これからクマといっしょに、ちょっとおしごとでお出かけ♪♪
クワシイことは、まったあとでネ♪
投稿: シャーンティクマーリー | 2011/04/26 16:07
エム先生、補足です。
先にご紹介した二冊の新書の内、斎藤英喜『読みかえられた神々』(講談社現代新書)は各種の先行研究を要約して、古代から近代までの日本神話解釈の展開を追った便利な入門書ですが、そのpp.185〜186頁には王仁三郎が触れられています。
特に、p,185その源流には本田親徳、さらには平田篤胤があることを指摘し、pp.153〜154では、創世神話の「創造的解釈」において、中世神道と共通する面があることを指摘しています。篤胤自身は激しい反仏教の立場ですが、その発想においては、中世の神仏習合思想に近いものがあったようですね。
そして、これは私見ですが、土着の基層信仰のシンクレティズム的体系化という意味では、日本の中世神道は、やはりインドのタントリズムに類する「中世的宗教」としての位相を示しているように思われます。
先アーリアの宗教については、もちろん、不明な点は多いですが、タントリスムでも主導的な役割を果たしたシヴァ神の原型と思われる図像が、インダス文明の印章に見られるのは有名な話ですね。インドの女神信仰も、多くはシヴァ信仰に関連して吸収づけられていきましたが、宗教学的には、こうした潮流が、仏教タントリズムにも大きな影響を与えたことが指摘されています。
投稿: シャン坊 | 2011/04/26 16:00
ねーねー、クマつぁ~ん
私は即レス、おにぃさまは力作レスでセンセにブログ講義の感謝の意を表したのに、愛のピリ辛スパイスが目にしみるわ。。。T_T。でも言えるからこそ言えることですよね。で、私も、、、あんのぉ、そのぉ、どうしてイスラームでギーターじゃないんでしょ、なのでして。。。で、「アジア」って言葉は日本人がよく使う割には日本以外(かつて日本から侵略された側)はあまり使われないそうで。ギーターとか忠臣蔵みたいな忠義物語は「大アジア主義」に向いてなかったのかしらんと。
エム先生
どーしましょっ。すんごく長くなっちゃったので一回全文捨てましたっ。
大本に関しては時代背景も興味を持ってます。で、ちょーはしょって言いますが、なんでインドは「愛と革命のカレー」なんでしょ?ってかんじです。たとえば、代々木のモスク(東京ジャーミィトルコ文化センター)開堂式(1938年)の際に軍人も参加してバンザーイとやったそうなんですが、戦後の今、カレー屋多けれど、知られたヒンドゥー寺院は少なく、イスラーム諸国料理屋少なけれど、知られたモスクは東西そこそこある、という違い?みたいな。多神教より一神教にアマテラスを重ねたから???国粋主義の台頭に拮抗するように「皇道大本」が「世直し」に現れたってかんじです。
あと、法華経については、先に書きましたように災時になるとそのエッセンスが社会に出てくるってのが私の印象です。教理的というより、土地や人びとに染みこんだ深層からって感じで。最近のことでいえば米軍の地震援助に端を発した「アリガトウ作戦」なんて、できすぎなくらいな「ありがとう」です。お念仏のような「ありがとう」です。(川端康成の「掌の小説」の「有難う」を思い出してしまいました)。
ここんとこ、どちらかというとシャン坊さま寄りかもしれません。中立的ってゆうより、困ってる時に助けてくれるんならだれでもオケーイ、みたいな。
で、王仁三郎は神仏を割り切らずに神仏と暮らしていた時代の名残りを身につけていたのかも、って思っています。大本は和光同塵的日本的要素が入ってくるのでややこしそうです。王仁三郎が批判する神道というか、宗教はいろいろと「読み替えられて」きたみたいですし。
そういえば、伊藤武先生はプルシャを「プルくん」なんて気弱な草食系男子みたいに描いてらっしゃいますね。ちょうどいい機会なので、むずかすぃ~ですがセンセの「論証された神」「中世インドの主宰神」論文をおさらいちゅぅ~。
あーんど王仁三郎もスケールが大きくて大変にむずかすぃ~です。難しすぎて挫折したので、エム先生を通して再度その機会を得られましたです~。
これからもマニカナエア通信学校のエア生徒たちをよろしくおねがいしまーす!
投稿: おちゃらけ | 2011/04/26 15:43
ぽけっとさま、おはようございます。
過分なお言葉、恐れ入ります。先のコメントを書いてから、補足しなければと思っていた点を、ご指摘頂きました。
で、先に、
>ただ、それが世俗の価値ではなく、一途に、宗教的な信仰にもとづく倫理である、というところに大きな特徴があるといえるでしょう。
と書きましたが、『バガヴァット・ギーター』の場合には、その「宗教的な価値」である「ダルマ」が、カーストに応じた義務として、ある意味で「特定の方向へ向かって」世俗を強化してしまう可能性はありますね。同じことは、ユダヤ・キリスト教でいう、いわゆる「律法主義」についてもいえるようです。
おっしゃるように、仏教からは「邪見」といわれる立場につながる恐れは否定できません。
ただ、私も個人的には仏教の立場にありますが、先のコメントでは、oさまに少し冗談めかして
>まずは、エム先生の比較宗教の講義での「生徒のレポート」位のつもりで、ご笑覧下されば幸いです。
といったように、まずは宗教学的な中立的立場から論じています。ですから、その仏教から見た「正邪」は別にして、『バガヴァット・ギーター』に倫理(つまり、人間の行為の規範です)と呼びうるものが説かれていることは事実だと思います。
ですから、「インドの神は善悪・倫理が説けない」ということは、その「善悪・倫理」の内容を、もう少し、詳しく説明した上でないといえないのではないでしょうか?
浄土真宗については、親鸞も「毒を治す薬を得たからといって、さらに毒を飲む必要があろうか?」といっているように、「善悪・倫理」を全否定している訳ではないと思います。それは「本願誇り」ですね。
ただ、救いのためには自力の善は役立たないが、他力によって救われた以上は、その上に立って、人としてしっかりと生きていくべだ……ということではないでしょうか。ここに「自信教人信」、自利利他円満の浄土の菩薩行が生まれる、ということでしょう。
なお、スマ師は
>スマナサーラ長老も『バガヴァットギーター』は怒りの教えだと言ってましたね。
といわれているとのこと、前後の文脈がわからないので、正確な意味はわかりませんが、いかにも同師らしいですね。
ただ、「不害(アヒンサー)」の立場からいっても、他の宗教の聖典について、このような言い方をするのは、少なくとも私には、ちょっと違和感があります。
とはいえ、それなりの道理があっての発言でしょうから、まずは、それはそれ、ですね。
投稿: シャン坊 | 2011/04/26 10:01
楽しみの一つ と

苦しみの一つ (全部)
があるときに、
ドチラヲ選ぶかは、
煩悩に沿って為されます
あなたの 煩悩 か

私の迷誤(明吾)か
という二つに一つです
( ヨクヨク ヨマズニワカルカナ ? )
投稿: 春間 則廣 | 2011/04/26 08:35
シャン坊さま
横から失礼します
シャン坊さまの東西にわたる幅広い博識にもとづくお話、いつもROMりながら楽しみに読ませてもらってます。(マニカナを読む上での僕の楽しみのひとつです
)
スヴァダルマに関する問題点では、僕は、ある人の職業が兵士だったらと考えてみます。彼にとっての仕事とは、戦争において敵を多く倒し、自国を勝利に導くことです。極端に言えば(敵を)殺せば殺すほど、彼の義務は果たされ、スヴァダルマの教えに従うことになるわけです。
これは原始仏典で否定される、「戦士が奮戦し戦の最中に死んだならば死後サランジタ天に生まれる」という邪見と似たものではないでしょうか?
倫理と言えば倫理といえそうですが、善悪という観点からみれば明確に悪です。(殺人を悪としない宗教は殆どないでしょう)
「宗教的な信仰にもとづく倫理」とは敬虔で美しいようですが、凡夫からすればとんでもない大迷惑、です。
真宗にも一神教にもそういう危うさを感じます。
これらの教えが論理的道筋がどうであれ人を善悪に導く教えであるとは思います。(言葉になりにくい、微妙な道徳を説いてると思います。)
しかし、論理的に欠陥があるために、行間の読めない者、悪意のある者には危険な思想になるのではないでしょうか。
投稿: ポケット | 2011/04/26 07:58
> 親鸞は阿弥陀仏への無疑なる信心を説きます。
どのように(無疑なる信心を)説いていますか ?
再度、典拠と、あなたのその解説を述べてください
(わたしはどんこにも無碍なるシンジンを見出さないからです)
無碍 の 「碍」は、あなたにとって、どのようにあらわれていますか ?
> 鎌倉浄土教は、浄土往生とはもっぱら金剛不壊の信心によるとして、善悪を問題としません。
此処も典拠が必要なところです
「 善 導 」 と、名付け られる ものに、
拠り所を 置い(得)て、法然の立場を 得て、
親鸞もソコ( 具 高低ノ愚 )に、立っています
立っているところを、見ることはできますか
( ソコに立つことができますか ?)
( 立って、見てから、景色をいうのが、正しくはありませんか ? )
> 阿弥陀仏への信心もバクティに近いです。ひたすらなる感謝、讃嘆、絶対帰依など、
それは、“あなたの 阿弥陀仏への信心” の解釈 に すぎません
それが、
> 非常に激情的な信心で、明らかに一神教に近い(一神教そのものではないとしても)。
であるにすぎません
その 過ぎないさま が、アナタサマ だと言っているわけです
もうひとつ、バクティとは何かを、分かるように、
(長く、煩雑になってもいいから)正確に示してください
>そして、善悪(罪福)を信じることは本願の力を疑う罪であり、胎宮に落ちて罪を償わねばならないとまで言い切っています。
そう言いきるのは、あなたです
> 親鸞がここまで言い切ることで、浄土教は仏教でない、善悪を捨てた非仏教になり果てたのではないでしょうか。
そう だとすれば(言えば)、そう だと言われて(されて)います
> 欧米の学者が真宗を、(そのプロテスタント的近代性を評価しつつ)全く仏教として扱っていないのも当然だと思います。
当然は、あなたに起こって、他に波及するのですが、
当然 !
あなたに起こっている かの 知れないことは、
他にも 起こる かも 知れないことで、
起こるかもしれない と、 予測 されること 、、、、
分からないこと と、 今に起きていること 、、、、
投稿: 春間 則廣 | 2011/04/26 07:18
エム先生、お忙しい中、詳しいご感想、ありがとうございました。
少し、私の考えを補足します。
まず、仏身論ですが、あくまでも仏教において比較可能な要素、というだけで、直接的な影響関係をいっている訳ではありません。ですから、王仁三郎に「空」思想があるとも考えてはいません。
ただ、『古事記』『日本書紀』における創世神話を神学的に「体系化する」という発想は、少なくとも、中世の神仏習合思想以来、やはり仏教(特に密教)からの大きな影響を受けていて、そうした潮流が、姿を変えながらも近世にまで及んでいるという事情があります(以前、おちゃらけさまにご紹介頂いた斎藤英喜『読みかえられた神々』講談社現代新書、山本ひろ子『中世神話』岩波新書)。王仁三郎も、様々な国学者や神道家の著書は読んでいたのでしょうから、間接的な思想史的背景としては、こうしたことはあったのかもしれない、ということです。
次に、『バガバット・ギーター』との比較ですが、これはもちろん、私の専門外ですから、あまり詳しくはいえません。ただ、そこで「善悪」という概念を使うかどうかは別として、少なくとも「ダルマ」という倫理的規範は説かれている訳です。ただ、それが世俗の価値ではなく、一途に、宗教的な信仰にもとづく倫理である、というところに大きな特徴があるといえるでしょう。
これは、ぽけっとさまのおっしゃる浄土真宗にも似たところがありますし、また、ユダヤ・キリスト教にも、そうした一面(あくまでも「一面」ですが)があります。
まさしく「神」もしくは何らかの帰依の対象に、「一向に」信順する「倫理」が説かれているということかと思います(たとえ、真宗のように「善悪」という言葉を避けるとしても、そうした立場にもとづく「倫理」が説かれている訳です)。
最後に、タントリズムへの言及は、あくまでも「太古からの宗教的伝統を、時代の課題に応じて再生させた」という「宗教史的意義」においてのことです。私が王仁三郎について「神道タントリスト」という言葉を用いたのも、そのような意味で、その思想内容がタントラ的であることを主張している訳ではありません。シャーマニズムという言葉も「一種の」と保留を加えて使っています。
ただ、そうした「宗教的ルネッサンス」や、その思想内容の普遍性という意味では、私自身は、やはりラーマクリシュナとも比較はできるか、と考えています。また、王仁三郎の宗教の「済世利人」的理想は、やはり、すばらしいものだ、との想いを深くしています。
やや、述べようとする趣旨が食い違ってしまった印象もありますが、別に、すぐにそれを一致させる必要もありませんね。エム先生のお考えを知り、また、それを通して、改めて王仁三郎について注目できたことだけでも収穫です。
ただ、以上に述べた中世神道の思索には、極めて高度なものがありますので、王仁三郎理解のためにも、注目される価値はあるかもしれません。その上で、その仏教側のソースとなった密教思想をご覧になると、また違った視点も生まれてくるかと思います。
ブログの更新と、重ねてのご教示に、クマちゃんともども、深くお礼申し上げます。
================
oさま、ご返信、ありがとうございます。
本当は、もっとお話したいこともあったのですが、密教に関することなので、機会を改めましょう。
投稿: シャン坊 | 2011/04/26 07:08
シャン坊さま、
そうですね。記号の整合性も重要だと思いますが、ああ書いたのは実在論・歴史主義に基づく文献学解釈を念頭に置いてです。
言葉足らずですいません。
エム先生、
解説ありがとうございます。エム先生なら何かこれだという典拠があるのかと思いまして。
投稿: o | 2011/04/26 04:55
エム先生
『バガヴァッドギーター』に対する批判、賛成です。
シャン坊さまの意見に疑問を感じていたのですが、先生の明快な説明ですっきりしました。
スマナサーラ長老も『バガヴァットギーター』は怒りの教えだと言ってましたね。
そこで、話は全然変わるのですが、この問題は浄土真宗の教学に付随する問題点にも少し似てるのではないでしょうか?
親鸞は阿弥陀仏への無疑なる信心を説きます。
鎌倉浄土教は、浄土往生とはもっぱら金剛不壊の信心によるとして、善悪を問題としません。
阿弥陀仏への信心もバクティに近いです。ひたすらなる感謝、讃嘆、絶対帰依など、非常に激情的な信心で、明らかに一神教に近い(一神教そのものではないとしても)。
そして、善悪(罪福)を信じることは本願の力を疑う罪であり、胎宮に落ちて罪を償わねばならないとまで言い切っています。
親鸞がここまで言い切ることで、浄土教は仏教でない、善悪を捨てた非仏教になり果てたのではないでしょうか。
欧米の学者が真宗を、(そのプロテスタント的近代性を評価しつつ)全く仏教として扱っていないのも当然だと思います。
>バクティそれ自体も、善悪とは関係しません。ただひたすらなる神への自己投企を意味しています。
これはまさに浄土教における信心(バクティ)を言い換えたものです。
「”信心”それ自体も、善悪とは関係しません。ただひたすらなる”阿弥陀仏”への自己投企を意味しています。」
これを真宗僧侶の説法の一部に挿入したとしても何の違和感もないでしょう。
浄土真宗(一向宗)が仏教で、珍しく宗教戦争を起こしたのむべなるかなという気がします。
投稿: ポケット | 2011/04/26 03:14
おちゃらけさま、シャン坊さま、クマちゃま
こんばんは。
おちゃらけさまには、速攻でコメント頂き、ありがとうさんでございます。
インドの神さまは、人間に弱い。。って思う理由の一つなんですが
10世紀頃にウダヤナという人が、神の存在を証明する『ニヤーヤ・クスマーンジャリ』という書を著しています。
そのカレが、あるとき、ヒンドゥー教の寺院に入ろうとしたら、断られたのだそうで、そのとき、カレは怒って、祭られている神さまに「おまえの存在を証明したのは、おれさまなんだぞ」と言ったとか。。
強気っ!うろ覚えなので、少しちがっているかもしれませんけど、証明されなければ、神さまだって肩身が狭いのが、インドなんす。。
イスラーム研究もはやったというのは知りませんでした。そうなんですか。
『バガヴァッドギーター』については、シャン坊さまとはちょっとちがってますので、そちらで、一言ぶってみますね。
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シャン坊さま 『本教創世記』をお買いになったとはぁ。。
という、わたしも『出口王仁三郎著作集』第一巻を古本屋でゲットしました。
法身、色身との対比は、やりたくなりますけど、ちょっとちゃうなぁ、と思います。
わたしもはじめ、大乗仏教の影響もかなりあるんじゃないかと見ていたんですが、どうも、ちょっとちがうようですね。
「空」とか使いたくなるけど、そして、仏教的には「空」でいいかもしれませんが、王仁三郎に、それを当てはめてしまうと、かれの真意をはずすような気がします。
おちゃらけさまが道場であげてくれた、天御中主神にはじまる天地創造神話の別天神 (ことあまつかみ)なんかのお話の方が、先ですね。
『法華経』も、そういった神話の流れの中で、解釈されているような感じがします。
はじめわたしも逆かと思ったんですが、いろいろ、読んでいくとやっぱり無理じゃないかと。。ですので、ちょっと、シャン坊さま的に解釈するのは、ちゃうなぁと思います。
シャン坊さまには、残念ながら、かなり反対意見が多くなっちゃって、すんませんが
バクティ思想に倫理・道徳をみるのも、これもちゃうなぁと思います。
『バガヴァッドギーター』 のカルマ・ヨーガは、「スヴァダルマ(自らのなすべき義務)を果たせ」という意味で、行為の道を説くものですから、それこそ、善悪を超えたところに「行為」がおかれてしまいます。
クシャトリアとして、行為の結果を動機とせず、ただ行為そのものに専念せよ、と言われます。要するに、戦え、というわけです。
また、バクティそれ自体も、善悪とは関係しません。ただひたすらなる神への自己投企を意味しています。
カースト制度を基盤とするヒンドゥー社会の枠組みの中で、人々はダルマにしたがった行為を求められていることになります。
また、王仁三郎の思想・宗教を仏教タントリズムと対比させるのは、あまりに乱暴ではないでしょうか。
アーリア人以前の古代の民間信仰も、インダス文明の宗教思想などが明らかではないので、想像の範囲にまだとどまっていますし。
一方、王仁三郎の思想的な源泉も、もう少し丁寧に探ってみる必要があるかと思います。
神懸かりは、かれにとって、大きいと思っています。が、たんなるシャーマニズムに終わるものでもありません。
また、神道と言っても、陰陽道などの影響も受けていることが指摘されてもいますし、王仁三郎を探るのは、ほんとに、一筋縄ではいかないと思います。
いろんな学問や思想の影響はあるのですが、それだけでなく、必ず、かれの独自性がみられるので、何とも言えません。亦、あらゆる思想を知って、そこから吸収しているものもあるので、これをメインに使ったと言えるものもないような気もしてきます。
そんなわけで、あくまで、仏教は補助的な要素であるように、わたしには見えています。
ものすごいスケールの人ですね。
仏教をクリティカルにみることのできる目をもった人というのを、はじめてみました。
「バラモン教で説けなかった」というのは、「ヒンドゥー教で説けなかった」ということでもいいと思います。でも、やっぱり、それは、インドで説けなかったということになるでしょう。わたしは、そう思っています。
こんなところかな。それじゃ、よろしく!
投稿: 管理人エム | 2011/04/25 23:33
あ、苺矢毒蛙さま、みっけ!
>マニカナ先生がどんどん遠くへ(笑)
行ってない、行ってない
。。。あれぇ、どこ行くだぁ(笑)
投稿: 管理人エム | 2011/04/25 21:45
oさま
ブラフマンを「ことばの力」としたのは、若干ことば足らずでしたか。かなり端折ってしまいましたので、少し補いますね。
ヴェーダにおいては、ブラフマンは、いろいろな意味を持ちますが、まずは「祈祷」でしょうか。さらに祭官(ブラフマン)が唱える祈祷のことば、聖なることば、呪詞、讃歌なども指します。
また、このようなヴェーダの語に潜む潜在的な神秘の力をも意味しているといわれます。これを「ことばの力」と書いたのです。
祭式万能の時代になってきますと、神さまを、ヴェーダの讃歌・祭詞・呪詞の中に潜む力によって、操作して、願い事などがかなえられると考えられてきます。
ヴェーダの知識をもち祭式を行うブラフマン(バラモン)の唱えることばの中に、その神秘力が顕在化すると見ることができますね。
辻直四郎先生の『ウパニシャッド』(講談社学術文庫)や、服部先生の『古代インドの神秘思想』ほか、概説書などに書いてある内容です。
投稿: 管理人エム | 2011/04/25 21:43
マニカナ先生がどんどん遠くへ(笑)
投稿: 苺矢毒蛙 | 2011/04/25 21:08
oさま、おはようございます。
クマちゃんでは、やはり、なかなか議論しにくいので、伝言を託した、私から(笑)。
「法身説法」以下、全て、おっしゃる通りですね。まあ、これについては、本文でも括弧内に入れてある通り、ここでは、あくまでも関連して一言触れただけです。
>だから、其れ時々の言語習慣的特徴が見られるだけで、
>重要なのは内容で記号じゃないという意識があったと思います。
これもおっしゃる通りです。っていうか、正直いいますと、ここまで、大乗や密教のブッダを、他の宗教の「神」と比較すると、きっと「いや、それも空なのだ」という疑問も出てくるかと思って、最後の付記でさらっとですが、一応「宗教や哲学的背景の違いはあるとしても、」とことわっておいた次第です。
で、確かに、最終的には「内容」が大切なのですが、「記号」も、それに衆生を引き入れるために、やはり大切なものかもしれません。日本の用語でいえば、前者が「本地」、後者が「垂迹」ということでしょう。
そして、そうした「記号」「垂迹」を現すにあたっては、土地それぞれの「宗教心」に応じた「かたち」が取られた訳ですね。ちょうど、観音菩薩や大日如来が、他の宗教の「神」を含む、さまざまな変化のすがたを示されるように。
このように「土着の宗教心」を深く吸い上げる形で、法界に引き入れていくところに、大乗や密教ならではの「方便」の豊かさがあるのではないかと思います。『華厳経』にも「随順衆生」とあるように。
oさまのコメントが入って、ぐっと議論が深まりました。(でも、本当は、見のがしてもらえることを、期待していたのですが。笑)
まずは、エム先生の比較宗教の講義での「生徒のレポート」位のつもりで、ご笑覧下されば幸いです。
投稿: シャン坊 | 2011/04/25 07:43
まとめてどうする

ああ言えばこういう
風も あれば 空もある
> 結論的に、王仁三郎について私が感じたところをまとめてみますと
まとめてどうする ?
思って何が起きている ?
( 日々 ) 「 何やってんの ? 」
自己評価して、どうなってることが起きているの ?
起きてるものを語りなさい !
( ない カラ 欲しいものだったら 、、、、
、 、、、ありよう を證って語りなさい )
キレーの ワルイ 朝が来た !
投稿: 春間 則廣 | 2011/04/25 07:08
エム先生、
ブラフマンが言葉の力というのはどこら辺に説かれているのでしょうか。
やっぱ言葉ですよね。ヒンドゥーは。
それと三昧体験だと思ってます。
シャーンティ・クマーリーさま、
法身説法と言っても言語分節してないでしょう。
言語分節するのは、世俗に戻った行者の意識。
自然法爾説法とかマンダラは、そんなものだと思ってます。
大乗経典もそれを行者が言語分節したものでしょう。
だから、其れ時々の言語習慣的特徴が見られるだけで、
重要なのは内容で記号じゃないという意識があったと思います。
投稿: o | 2011/04/25 04:58
こーんばんは! エーム・セーンセ〜♪
うへへへ、ごめんなさい。。。(←笑ってゴマカスの、トクイなの。。)睡眠不足のとこ、すっかりご無理な「宿題」でゴメイワク、かけちゃいました。
でも、しっかりご教示くださって、感謝、グラツィエー、あなかしこ、あなかしこ。。でーーーーーーーーーーーーすーーーーーーーーーーー♪♪ーーーーーーーーーー♪
(でも、ちょっとぉ、、、
>へいへい、
これって、カレ、「ふーん。王仁三郎的な口吻(こうふん)でいえば、たぶん、“自由なる言論を恣(ほしいまま)にせること、かの青鞜(せいとう)の輩(やから)にも比ぶべき女因明家(いんみょうか)が御用聞の如き口振にて、出任せに余に説いて曰へることには、”なーんて、とこかな?」なーんてブツブツいってるわ。んもぉ! セーカクわるくて、ごめんなさい。。。クマ、いつもシリぬぐいばっかし。でもネ、カレ、実はしっかり王仁さまの『本教創世記』買って、予習してたの♪ カレ、センセのおっしゃること、とってもインパクトなう!)
でね、キャッ! クマのだーいスキなおちゃらけお姉さま〜♪♪
すんごく詳しく書いてくれて、びっくり! やっぱ、ブログ更新勧請は、お姉さま!でーすもんネ♪
さってと。以下、カレの伝言でーす。
「テオロギアは、昔とった杵柄じゃ!」なーんて、息巻いてますよーーーーーーーーーーーーーー♪♪ーーーーーーーーーーーー♪
(テオロギアは「神学」。でも、前のセンセのブログのタイトルにあった「神論」のほーが、もっと直訳的かしら? ヤマトコトバでゆーと「かみごと」ネ!)
====================
まず、ここからいきます。
>出口王仁三郎が、取り上げた
>日本にあって、インドにない神さまの属性は、
>★一つには 「言挙げしない」という点。
>ことばで言い表せないことにより、人間と神の間には線引きがなされます。
>一神教的な側面も持ちえますし、何にもしない邪魔に
>ならない神さまにもなれます。
>★もう一つは、神は意志をもつという点。
>しかも、人間とは基本的に異なり、善という属性のみからなる、とするのです。
>ここで、善悪を説き、倫理を説く神が出てきます。
これを、仏教の「仏身論」と比べて考えてみます。
★「言挙げしない」:これは法身もそうですね。法身とは、簡単にいえば戯論寂滅した空性の真実=法界であり、また、それを悟ったブッダの智慧です。「言葉」を超えた世界です(空海の「法身説法」のような例外はありますが)。
★「意志をもつ」:これは色身と比べられるでしょう。法身としての智慧を持つ人格としてのブッダということです(龍樹では色身だけですが、後世、それが報身と変化身に分けられます)。言葉で説法をするブッダですね。
そして、衆生は色身のブッダの説法を聞いて、そこから法身としての真実に至ることができます。これは龍樹がいう「世俗諦から勝義諦へ」「善悪から空へ」ということと、軌を一にするものでしょう。
さて、こうして見ると、王仁三郎のいう「神」とは、かなり仏教的(それも大乗仏教的)な雰囲気があるようです。
王仁三郎はもちろん教派神道ですが、やはりその教義的体系化にあたっては、神仏習合以来の仏教からの影響も、間接的にはあったのかもしれません(一神教的性格の強調には、キリスト教の影響も考えられますが)。エム先生がおっしゃった、彼の『法華経』や『大日経』への造詣も役立っているのでしょう。日本における『法華経』の意義については、おちゃらけさまも、的確に指摘されている通りです。こうした大乗経典に説かれる「永遠のブッダ」は、王仁三郎が説く「神」に、かなり近い雰囲気があるようです。
○ ○
で、次に順序が前後しますが、
>★バラモン教においても、神さまは、肩身が狭い
>★仏教においては、もちろん、神さまは仏・菩薩の下
>なんか、神さまに冷たいのが、インドなのです。 あんなにたくさんの神さまがいて、人気を博しているにもかかわらず。。
について考えてみます。
まず、思うのは、エム先生のおっしゃることも、一応、もっともなのですが、では、ヒンドゥー教ではどうなのでしょうか?
バラモン教以来のアートマン説にもとづきながらも、ヒンドゥー教では、シヴァやヴィシュヌ、あるいはカーリーなどの人格神が大活躍します。そして、これに対して、人々の側からは熱い「バクティ(信愛)」が捧げられますが、これは神道でいう「清き明(あか)き心」にも通じるものともいえそうです。おちゃらけさまが『バガヴァット・ギーター』をあげられたのも、もっともなことですね。
バラモン教の「神」についての考え方が少し精彩を欠くというのはその通りです。ですが、ヒンドゥー教では、必ずしも、そうではないのかもしれません。
>インドでは、神は、けっきょく倫理・道徳を説けないのです。
とのことですが、『バガヴァット・ギーター』ではカルマ・ヨーガが力説されるのは、どう考えるべきでしょうか?
(ちなみに、エム先生のご主人の研究テーマの一つは、ヴィシュヌ派のバクティなのだそうですね。)
○ ○
最後に、
>王仁三郎の神論では、 すべての人間を平等に愛して、社会をよりよいものにすべし、 という社会性が出てくるのです。
という点は、王仁三郎の宗教の、もっとも大きな特徴といえるかもしれません。『本教創世記』の冒頭を見ると、彼の「地主や資本家による富の独占を改めて、全ての人々が神ながらに豊かに暮らせる社会を目指す」という理想が説かれています。これは、ほとんど「宗教的(もしくは神道的)社会主義」とさえ、いえるものでしょう。
やがて、彼の宗教が、軍国主義へ邁進する国家に大弾圧を受けるのも、もっともなことです。これは、博学な王仁三郎のことですから、やはり近代西洋の社会思想からの影響もあったのではないかと思います。
仏教(特に、大乗仏教)の立場からいえば、彼のこうした姿勢は、先にこのブログのコメントで触れた、龍樹の『ラトナーヴァリー』における王への善政の勧めや、『瑜伽師地論』に説かれる「悪しき権力者に立ち向かう菩薩」に通じるものがあるようです。
その「大きな志」においては、王仁三郎は、まさにマハーッサットヴァ(大いなる人)としての「神道の菩薩」といっても過言ではないでしょう。これは、彼の宗教の、もっともすばらしい点であるように思います。
ただ、こうした理想主義から始まる『本教創世記』ですが、読み進めるにつれて繰り広げられるのは、神秘的で不可思議な、一種のシャーマニズムともいえる「幽斎」の実践の数々です。これは、卑弥呼以来の太古の伝統が、近世のいわゆる「古神道」運動の中で発見されて、新たな時代に即応した彼の理想のもとに再構築されたものともいえそうです。これは、インドではアーリア人の侵入以前に遡る太古の伝統を、仏教の立場から再構築したという一面も持つ密教、特に、仏教タントリズムとしての後期密教と、まさにパラレルな展開です。その意味では、彼は「神道タントリスト」であった、ともいえそうですし、私やクマちゃんとも、案外、近いスタンスなのかもしれませんね(笑)。
その人生に決定的な影響を与えたのが出口なおという女性の開祖、タントリズムでいえば、まさに「ヨーギニー」というべき存在であったのも示唆的です(この点は、インドのラーマクリシュナにも似たところがあります)。
○ ○
結論的に、王仁三郎について私が感じたところをまとめてみますと、「太古の伝統を、近代の問題意識と絡めつつ、人類全体の理想への道として再構築した、明治生まれならではのスケールの大きな宗教家」ということになるでしょうか。
そして、この点も、ラーマクリシュナと根本的に通じ合うところがあるようです。
こうした世界は、私にとっても理想です。そして、たぶん、仏教そのものにとっても、理想なのではないでしょうか。ブッダも、「自らの道は、古(いにしえ)の聖者が歩んだ道を再発見したものにすぎない」といいながらも、その道によって、「平和(寂静)」「非暴力(アヒンサー)」という人類全体の理想を説くことができたように。
王仁三郎が説く「神」について、エム先生が「インドでは説けなかった点」というのは、私としては、まずは「バラモン教では説けなかった点」として理解しておきたいと思います。
そして、その点とは、やはり「語り得ぬものに由来しながらも、なおかつ、生き生きとした人格性を持ち、人類全体に通じる善と愛を説く“神”」……ということではないかと思います。
○ ○
<参考資料>
補足として、王仁三郎が説く「神」を考える参考までに、二点、資料紹介をしておきます。
いずれも、宗教や哲学的背景の違いはあるとしても、王仁三郎の「神」に、かなり通じる雰囲気もあるようです。
まず、『初会金剛頂経』の冒頭部分に説かれる、金剛界マンダラの諸尊の性格について述べた論文です。法身「大ビルシャナ」から、マンダラの諸尊が出生してくる部分について、この経典の研究に生涯を捧げた碩学・堀内寛仁先生(高野山大学)が論じたものです。
http://www.journalarchive.jst.go.jp/jnlpdf.php?cdjournal=jeb1947&cdvol=1986&noissue=156&startpage=1&chr=ja
次に、キリスト教の神について、一般には「審判」「正義」などのイメージも広まっているようですが、それとは別に、全人類に及ぶ「愛」「善」を強調して理解する考え方もあったことをご紹介します。「東西文明の接点」アレクサンドリアにおいて、三世紀に活躍したキリスト教神学者・オリゲネスについて、その研究の世界的権威であるネメシェギ神父(上智大学)が述べた一節です。
>ヒューマニズム的な思想を持っているもう一人のギリシア教父として、三世紀のオリゲネスの名をあげることができる。彼は宇宙全体の歴史を、善良な神による全人類の教育課程として理解した。自由意志をもっているものとして創造された人間たちは、この教育を受けて、自由に善を選び、行うようになる。死の後でも続くこの教育的な浄化過程によってついに全ての人間が善を選び、善である神と一致して生きるようになる。オリゲネスはこの万民救済のことを、断言としてではなく、希望として述べているが、万民救済という多きな希望を、彼だけではなく、他のギリシア教父、例えば、ニュッサのグレゴリオスも抱いていたのである。
http://www.jesuits.or.jp/sj-humanism.html
====================
……ってのが、カレからのでーんごーん♪
長くて、ごめんネ!
あしたは晴れ! キレイな朝だと、いーなーーーー。。。
投稿: シャーンティクマーリー | 2011/04/25 00:05
エム先生、ちょーーーお忙しいところ、ありがとうございます。
別件ですが、道場No.11869のエム先生のご意見は、なんか縁側で濃ゆ~い緑茶と豆大福をじっくりいただきながら「うーん、ひさびさにエム先生のすっきりとした論理天界を拝見させていただきました。いいものみました、ありがたや~」ってかんじでした。
んで、ブログ記事本文の感想。
なるほどです。
インドの神さまは人間ががんばって近づくってかんじです。努力しない人には実にそっけない、逆に力のある人には弱みを握られてしまみたいなかんじでしょうか。うぉ~傀儡と表現しちゃうなんて!やっぱ、きっぱりクリアー姉御肌ですぅ。でも、おっしゃりたいこと、伝わってきます。先生が長年印哲をやってらした上での発言ですし。
日本の神さまはひょいっ!と人間のそばにいる、ってかんじです。でもギリシャの神さまみたいに強気じゃないってゆうか、おだやか。このおだやかさ、ってのは天災の対応には強いけれど、人災にはいまいち。日本の神さまは今、非常に気を揉んでいるんではないでしょうか。祀り方(心のあり方)ってのは神の声(言挙げせぬコト)の聴き方でもあると思うので。神さまのゆうことをどうやって聞いたらいいのか、どうやって祀ったらいいのか、ちょっと考えてます。
そこんとこは仏教、やっぱ法華経って「この国」の柱ですね。普段はひっそりと護持されているけれど、災時になるとオモテに出てきますね。
あと、大本がらみなんですが、当時は国家神道、アジア主義とともにイスラーム研究も流行ったらしく、なんでイスラームでバガバット・ギーターじゃないんだろ、って思いました。
なーんちて、思いついたままのすんごいてきとーな感想ですみません。
詳細なところはシャン・クマちゃんコンビが「かたち」にしてくれると思うので、あとはまかせたぞよ!
投稿: おちゃらけ | 2011/04/24 20:43