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2010年12月

2010/12/26

アンドレ・コント・スポンヴィル氏と龍樹

003
ようやく、何とか、仕事が一段落。。。
 
そう言えば、クリスマス・プレゼントになるのだろうか、これ!

こんな問題をもらいましたよ。
 
アンドレ・コント・スポンヴィルという名の哲学者をご存じでしょうか。

http://www.saysibon.com/yoriai_sub/jinbutsuarchive/A_CS.html
 
フランスで哲学ブームを巻き起こした哲学者、とありますね。
世界20カ国で翻訳されてるんですね。

ぜんぜん知りませんでした。。。すみません。

でも、よかったです、ここで知ることができました。

そして、ちょっとしか読んでないのですが

何か、すごく、いい感じのする文章です。

引きつけられる文章、って、言ってもいいでしょうか。
 
ベストセラーになるのも、わかるかな。
 
 
で、


かれの著作 『精神の自由ということ』 (紀伊国屋書店)
        『幸福は絶望の上に』 (紀伊国屋書店)

ですが、

じつは、龍樹のことばが引用されているのです。

「それについて、どう思いますか?」

というご質問です。
 

西洋の哲学者も、龍樹に関心があるんですね。

すばらしいことだっ!


おそらく東洋を専門に研究している人ではないと思いますが、

スポンヴィル氏は、なかなか見事に龍樹をつかまえてるような気がします。


==================
私のみるところ、精神性(スピリシュアリテ)のあらゆる歴史において
もっとも決定的でとてつもない龍樹の定式がある。

それは「輪廻と涅槃の間に区別を設けているかぎりは、
けっして輪廻からはのがれられない」

というものだ。
(『精神の自由ということ』p.261)
======================

あたっているようです。

たしかに、あたってる。。。

『中論』にも
輪廻は涅槃とまったく区別なく、涅槃は輪廻とまったく区別がない。
(25-19)

涅槃の究極は輪廻の究極である。
両者にはいかなる微細な隙間も存在しない。(25-20)
とあります。

『幸福は絶望の上に』 の中にも、
スピノザの至福に対比させて
仏教の涅槃をとりあげ

この龍樹の定式を紹介して
スピノザに対抗しています。

なかなか深く、しかし、簡潔に書いてあるので、
すっきりとわかります。

簡単なように思えてしまうけど
じつは、スポンヴィル氏の考察が
非常に論理的で深いので
こういうわかりやすい説き方になるのでしょう。

今のところ、龍樹をよく理解しているように見えますね。

うーーん、いいんじゃない!

感触がいい。。。


もう少し検討してみます。


引用個所のところしか読んでいないので
数頁分だけなのですが

このスポンヴィル氏の哲学の書は

おもしろいのではないだろうか、

という予感がしています。

~~~~~~~~~~~~~
 
紀伊国屋で、少し立ち読みしながら

買おうかどうしようか、迷ったあげく

図書館で借りよう

って、思うところが、
クリスマスになりきれない自分です。
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まあ、こんなわけで、サンタさんは来なかった。。ね。。


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2010/12/24

『サンガジャパン』vol.4 女ですわよ、今回は!

こ、これは??
004_2
何を撮ったのか、って?

へへっ、皆既月食から復活してきたお月さまです。。。半分くらいね。

なぜ、皆既月食を撮らなかったのだ、っと、いっちゃいやん。
このカメラでは、全部真っ黒けになるだけですたい。

それにしても、暗いなぁ。。まっくろ
さっぷーけい!

申し訳ないので、バランスをとって、これでどうだっ!
004
これまた、何を撮ったのか、って?

ゆきみちです。。。とぼとぼ。。つるつる。。そろそろ。。

==================
白と黒の風景に、ちょっと華やぎを加えよう。
Samjap_vol_4_p

『サンガジャパン』vol.4 が、出たようです。
 
「仏教と女」というテーマですね。

こりゃぁ、むずかしいですね。
 
 
よく「仏教は男尊女卑だ」なんて、言われたりもするから
ここは、スマ長老さまの、講演をしっかりお聞きしておきたい。。
 
さまざまな社会的な意味合いで用いられる「男女の区別」を
バシッとしりぞけ
仏教における「男女の区別」を説いています。

身体と心の分析が、阿毘達磨ですから、

男女も、「性色(せいしき)」という「色」の区別によって説明されます。

男性色と女性色という色がある。

これらは、混じることはない。

男性は男性で、女性は女性。

女性は、次の世代を作る生命体。簡単に言うと、子供を産む。
男性は、言うまでもなく、子供を産まない。

この差が、仏教では、微妙に影を落として
女性の出家は、なかなか厳しいものとなってくるようです。

これは、わたしもわかります。

子育てしてるときに、出家はできない。
赤ちゃんおんぶした、出家の修行者はいません。

そういうことからすると、

輪廻に向かうのが女性、ということになりますね。

そういうことからすると、

輪廻から逃れやすいのが男性、ということにもなるか?
 
 
原理的には、そうかな。。。
あくまで、原理的なものだけどね。


というのは、教団での戒律などの細かな条目では

こういう原理的な男女の差からくるものだけではなく

当時の社会的・思想的な女性観からくるのも

けっこうあるような気もするからです。


どうも、煮え切らない部分もあるのが、ちょっと気になりますね。
 
たとえば、
台湾の仏学院では、女性は、一度だけしか出家は認められていないけど
男性は何度もできる、と聞きました。

なぜだろね?
 
それに、女性は、子供を産むといっても
かならず産むわけでもなく
いつでも産むわけでもありません。

産まないときは、男女にそれほど差はないように思います。
 
このあたりも、ちょっと引っかかりますよね。

だから、わたしは、女性問題には、あんまり深入りしないことにしています。
 

というわけで、
 
わたしの書いたとこは、女性っけないでございます。

タイトルは

「悟り」は証明できるのか?
 
という、色気のないお話ですが、よかったら読んでね!


今回は、女性の執筆者が多くて、
なかなか華やいで見えますね。

お料理の話もあったり、チェルノブイリの子供たちのお話があったり、
ちょっと女性らしさのただようできばえです。
 
==============

書こうとしていた話題とは、ぜんぜんちがうことを
書いてしまいました。
 
ほんとは、龍樹とフランスの哲学者のお話を書きたかったけど、

それは、あ、と、でっ。


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2010/12/18

よきクシャトリアの道、よきサマリア人の道

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赤いナナカマドに雪が積もって、雪明かりの街
っていうか

ライトがまぶしいんですけど。。

いちおーロマンチックモードで、ね!

こんな雪の降る夜は、やっぱ

キリスト教でしょうね。

ぶっきょ、より。。

================= 
学生さんに問題出してみました。

ゴータマ・ブッダ  VS  イエス・キリスト
 
 
地球世界が、全宇宙に誇る、哲人ふたり

ブッダは、自己と他者との関係について、こう言っています。
わたし的には、なじんだ文句です。

自己を一番愛しく思うパセーナディ王に、ブッダが語った詩です。


         ☆★☆★☆
   心があらゆる方角にさまよいいくとも
   自己より愛しいものにたどり着くことは決してない。
   同じように他の人々にとっても自己はひじょうに愛しい。
   それだから
   自己を愛しく求めるものは他を害してはならない。
   (『サンユッタ・ニカーヤ』三・一・八)
         ☆★☆★☆
 
よきクシャトリア(王族階級)としては、このように生きなさい、
って、メッセージだよね。 


では、では、次に、イエスのことば、というより、聖書のことばを。。長いすよ。

     ~~~*******~~~
ある律法学者が立ち上がりイエスを試そうとして言った。
「先生、なにをしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」

イエスが、
「律法には何と書いてあるか。
あなたは、それをどう読んでいるのか。」
と問われると、彼は答えた。

「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。
また、
隣人を自分のように愛しなさい。』
とあります。」

イエスは言われた。
       
「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」
しかし、彼は自分を正当化しようとして
「では、わたしの隣人とは誰ですか」と言った。

 そこで、イエスはお答えになった。
「あるひとりの旅人がエルサレムからエリコに下っていく途中で
追いはぎに襲われた。
追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、
半殺しにしたまま立ち去った。
ある祭司がたまたまその道を下ってきたが、
その人を見ると、道の向こう側を通って云った。
同じように、レビ人(ユダヤ教の下級祭司)もその場所にやって来たが、
その人を見ると道の向こう側を通って行った。
ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、
その人を見て憐れに思い、近寄って、傷に油とブドウ酒を注ぎ、
包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
そして翌日になると、デナリオン銀貨2枚を取り出し、
宿屋の主人に渡して言った。
『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』

さて、あなたはこの三人の中で、
誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」

律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」

そこで、イエスは言われた。
「行ってあなたも同じようにしなさい。」(ルカ10章25-37)

~~~*******~~~

ブッダもすごいが、イエスもなかなかですね。
「隣人」ということばの意味を、ぐぐっと、拡張したイエス。
当時、差別されていたサマリア人をたとえにあげました。

それによって、ユダヤの律法を守る者同士が、隣人になるのではなく
人を助ける人が、隣人になることになりました。

よきサマリア人として生きなさい、っていうことだよね。


ブッダ:   自己を愛しく求めるものは他を害してはならない

イエス:   隣人を自分のように愛しなさい

 
【難問】 
上の二つのことばを比べてみましょう。
それぞれ実行すると、ちょっとちがった生き方になりそうですね。
どうちがうか、思うところを述べてみましょう。

さて、さて、ところで

あなたは、どっちで生きる? 
よきクシャトリアの生き方か、よきサマリア人の生き方か。

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おや、サンタさんが隠れてる。。
君は、どっち?

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2010/12/12

目覚めたひと

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なんか一生懸命寝てました。

寝てるなぁ、って思いながら、
無駄に寝ないで、有意義に寝なくちゃ、と

一生懸命考えていました。。。


 
ここは。。。夢の中。。。ぽわん。。。
 
 ☆★☆

もし、ブッダと二人きりで無人島に残されたら、どうなる?
 
 ☆★☆

ど、どうしよう、
ブッダが死んだら、わたしはひとりぼっち。

ほっといたら、すぐ涅槃に入っちゃうし、
涅槃に入ったら、わたしはひとりぼっち。

たいへんだ、なんかお供えしなくちゃ。
生きててもらわないと。。アセアセ


無人島だしね。
拾った木の実とか、そんなもんしかないよね。

魚とるといっても、ブッダのために殺したら
食べてくれないから、
まず、自分が食べて、食べ残しをブッダにお供えしなくちゃならない。。。

で、でも、魚つっても、そういえば、生きてる魚に触れなかったっけ。

魚は食べるのあきらめよう。

昆虫とかなら、死んでるの拾ってお布施をすれば、
ブッダなら、食べられるかも。。


ああ、なんて、ブッダって、手がかかるんでしょ。
悟った人って、イヤだわ。

ぜんぜん、心が安まらない。。おかしいわね。


それに、もし、
ブッダが滅尽定なんていう瞑想に入ってしまったら

どうしよ。


死んでるのか、生きてるのか、わからないじゃん

まずいす。。
あ、瞑想に入ってるみたいだわ。。

もしかして、ほんとに瞑想? 

え、もしかして、死んじゃった??
 
 
ブッダ、ブッダ~、まさか、死んじゃったんじゃ。。
わたしをおいてかないでぇ~

かってに涅槃に入らないでよぉ
わたしも救ってほしいぃぃよぉお
 
ブッダッ!目覚めてくれいぃ~
お願いします、目覚めてくださいませませぇ~

 
ブッダ:

「さわぐでない。そうぞうしい。

目覚めたもの(ブッダ)とは、わたしなのだよ
  
わたしは、いつでも目覚めている」


びゅーーーん!
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ああ、心休まらない夢だった。
オチまでついてて、まったく。。。


でも、悟ったことがある!のよ

わたしも、目覚めてよかった!!。。って

(なんかちょっとちがうけど。。)

 


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2010/12/05

一粒の麦っこと一粒の豆っこ

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いつ見ても、仲むつまじいっすね。

題して 「 語らい 」 なんて、どうでしょう。

いいすね。骨になっても、語り合えるなんて。

いつもは、ここから、学生さんが首を出して
「せんせ~」と叫ぶが
今日は、おとなしいです。

しばし、密やかに、語らっててくださいニャン。

================
さて、今、一生懸命日記を書いていたら
二度も、途中で、ブチッと消えてしまいました。

焦って操作を間違えたのと、なんかのトラブルと
二度の悲劇に、ほとんどめげそうです。

でも、三度目の正直だ。。根性で書きます、予習もせずに(ぐす)

最近、聖書を読んでいます。

☆★☆★
よくよくあなたがたに言っておく。
一粒の麦が地に落ちて死ななければ、
それはただ一粒のままである。
しかし、もし死んだなら、
豊かに実を結ぶようになる。
(ヨハネ福音書12.24)
☆★☆★

わたしは、昔、この詩の意味がわからなかった。
どうして、死んだら実を結ぶのだろう、って。

最近、よくわかってきました。

一粒の麦が、麦として死ななければ
それは、いつまでも、一粒の麦である。

もし、麦として「死んで」壊れて
そこから、新しい芽が生ずるなら
大きく育って実を結ぶ。

こういうことだね。
麦が、麦の自性をもったままで
そのまま死なずにあるなら、
永遠に麦でしかない。

いったん、麦としては死んで、壊れるなら、
そこから、新たな誕生がある。

なるほどぉぉ!!

イエスは、十字架にかけられて
人の子として、死んだのです。

だから、そこから、復活があるのです!

神の子イエスが、復活したのでしょう。
きっと、そうでしょうね。

*************
死んだら、復活できる
*************

これは、キリスト教の思想として、おぼえておこう。

===========
では、次です。
わたしは、こんなのも読んでました。
『菩提資糧論』です。

☆★☆★
菩薩は煩悩を性とし、涅槃を性としない。
諸煩悩を焼くことはない。
菩提の種子を生ずるから。(四・四三)
☆★☆★

こちらの方が、なじみがあります。
菩薩は、煩悩を焼いて滅してしまうことはない!

なぜなら、そこから、菩提(悟り)の芽が生まれてくるから。

煩悩が滅して、死んでしまうなら、どうして、
「悟りたい、ブッダになりたい」という
「願」が生まれるだろうか。

*************
生ずる性質のものは滅する性質である
*************

煩悩が滅してしまったなら、そこは
涅槃である、寂静の境地である

菩薩は、こうして、涅槃の証をとらず
煩悩を残すのです。

だから、声聞乗や縁覚乗に入って
悟ってしまうならば、

菩薩の死

といわれるのです。
阿羅漢、縁覚となって
ブッダになれないからです。
衆生を救えないのです。

煩悩の炎は、吹き消してはならない
滅してしまえば、生じません。

========

ちがいますね。

死んだからこそ、復活した神の子イエス
麦っ子イエスは、たくさんの実を結んだ

菩薩よ、死せるな、煩悩は菩提の種。
まめっ子菩薩は、種を育てて今日もいく


生と死は、思想によって、その意味を変えていきます。
001
この前降ったこの雪も、今は滅してしまいました。
でも
また、また、復活するだろな。。雪っ子だもんね。

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