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2010/08/20

原田和宗氏『「般若心経」成立史論』 あまりに衝撃的な!

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いやはや、すごい本が出ました。

=====================

原田和宗 『「般若心経」の成立史論  大乗仏教と密教の交差路』
(大蔵出版、2010年8月)

=====================

まだ、全部を読んではいませんが、
すごすぎて、
さっそくご紹介することにしました。
 


『般若心経』と言えば、

我が国ではなく子も黙る

大乗経典の中の一番人気の経典とされています。
 

しかし
膨大な解説書が書かれていますが、

仏教の文献学に基づいた緻密な研究は

ほとんどないといってもよいでしょう。
 
 

この現状を憂えて、著者原田氏は
 
『小本・般若心経』の正体を探るべく

気の遠くなるような膨大な諸文献と

格闘し、その成果を、ここに明らかにしました。


非常に計画的であり、かつ、論理的に整合性のある研究方針の下で

次々と、画期的な内容が、開示されていきます。

==========
一つ。 
『小本・般若心経』は

『二万五千頌般若』の核心を圧縮した<般若経典>なのではなく!

本体の<心呪(マントラ)>に対して、散文部分を前書きとして付加した

「マントラ文献」である
というものです。
大乗経典でもなく、密教の経典でもない、という位置づけです。


===========
一つ。
『小本・般若心経』の散文部分は、<般若経典>の一種として

編纂されたのではなく、多種多様な大乗経典や初期密教経典の

定型句を継ぎ足したものである
というものです。

おもしろい!

いろんなアイディアがわくけど、ぐっとおさえて、
一つ刺激的なところを
お話したいです。


わたしも、一つ、今度の龍樹本で、『般若心経』を
解釈に使っているのです。


これを、ぜひ、原田氏にお見せしたいです。

『中論』の一文は、『般若心経』に使われている可能性もある

ということで、試みに解釈しています。


===========
また、一つ。
原田氏は、『大智度論』の著作者問題にもふれています。

『大智度論』は、梵文『二万五千頌』の註釈ではなく、

羅什訳の漢訳『大品般若』に対する中国撰述の

註釈文献ではなかろうか、という考えも述べておられます。

龍樹作ではなく、羅什を中心とする翻訳家集団による作品

ということです。
 

これも、また、おもしろいです。

『大智度論』の作者問題は、簡単には決まらないでしょう。

わたしは、今のところ、基本的には、龍樹作でもよいのではないか、と思っています。

龍樹全作品と、般若経典をはじめとする大乗経典の

しらみつぶしの精査の果てに、ある結論が出てくるのじゃないでしょうか。


文献資料の比較研究と
経典・論書の思想研究とが

両方並行して進まないと、なかなか結論は得られないかもしれませんね。

=============
あ、最後に一つ。
大事な<般若波羅蜜多心呪>について。

二つの部分に分かれ、

(A)がてー がてー ぱーらがてー ぱーらさんがてー

(B)たど やたー ‥‥ ぼーでぃ すう゛ぁーはー

となりますが

(B)は、初期密教経典に由来し、本来<般若波羅蜜多>信仰とは無関係。
(A)は、後代になって<般若波羅蜜多女尊>信仰のもとで、別個に発生した
陀羅尼句にに由来する

のだそうです。


あらゆる大乗・密教の諸経典類から、その精髄を集め
パッチワークのように貼り合わせた文献

と言って、いいのでしょうね。


このような解釈をお聞きして

わたしのもってる『般若心経』観と

違和感なく

つながるところが、興奮してしまいます。


これから、詳細に拝読します。


あまり、丁寧なご紹介でなくて
すみませんが


これは、ご紹介するだけでも

価値があると思って

とりあえず、アップします。


21世紀は、原田氏の『「般若心経」成立史論』で

一気に、『般若心経』研究が進むのではないか

非常に心強く期待するものでありますっ!

ありがとう!

原田和宗さま。

すばらしい研究を!


|

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コメント

乃名 真覺

投稿: 春間 則廣 | 2010/09/04 08:24

唯識二十論: 無分別智/nirvikalpajn~aana
若時得彼出世對治無分別智。
yadaa tu tatpratipaks.alokottara-nirvikalpajn~aana-laabhaat prabuddho bhavati
http://www.sub.uni-goettingen.de/ebene_1/fiindolo/gretil/1_sanskr/6_sastra/3_phil/buddh/vasvvmsu.htm

妙法蓮華經: 無分別法/vikalpavarjitaa
T0262_.09.0010a23:     我今亦如是 説無分別法
mamaapi es.aiva vikalpavarjitaa tathaiva ham. des′ayi adya tubhyam // Saddhp_2.134 //
http://www.sub.uni-goettingen.de/ebene_1/fiindolo/gretil/1_sanskr/4_rellit/buddh/bsu036_u.htm

攝大乘論本: 無分別智/ye shes rnam par mi rtog pa
予想される梵語: jn~aananirvikalpa/nirvikalpajn~aana
T1594_.31.0143a15: 爾時菩薩平等平等所縁能縁。無分別智已
T1594_.31.0143a16: 得生起。
de'i tshe / byang chub sems dpa' de'i dmigs par bya ba dang / dmigs par byed pa mnyam pa'i ye shes rnam par mi rtog pa 'byung ste / [長尾III.9]
攝大乘論釋:
T1597_.31.0351c17: 爾時菩薩平等平等所縁能
T1597_.31.0351c18: 縁無分別智已得生起。
de'i tshe byang chub sems dpa' de'i dmigs par bya ba dang dmigs par byed pa mnyam pas mnyam pa'i ye shes rnam par mi rtog pa 'byung ba ste [acip: TD4045, 161b]

投稿: o | 2010/09/04 04:40

ナマステー

漢訳の無分別智。。

申し訳ありません。
ネットで検索した結果では、無分別智の出典を発見できておりません。

多くの人が、ネット上で、般若心経の般若(プラジュニャー)とは無分別智のことだと、述べているので、質問させていただきました。

論蔵であれば、世親の摂大乗論釈巻六に
「其の時、菩薩は平等平等なる所縁能縁の無分別智、巳に生起するを得」とあります。

また、法華経方便品第二に『説無分別法』という文字があります。
(岩波文庫 法華経(上) p.128)

でも、サンスクリット語の表記は確認できていません。

投稿: 析空 | 2010/09/04 01:52

析空さま とは、その理解が違いますが

大正蔵 31巻
No. 1590
唯識二十論
[0076c09] 論曰。如未覺位。不知夢境非外實有。覺時乃知。如是世間虛妄分別串習[5]惛熟如在夢中。諸有所見皆非實有。未得真覺不能自知。若時得彼出世對治
無分別智。
乃名   真覺。
此後所得世間淨智現在前位。如實了知彼境非實。其義平等。若諸有情。由自相續轉變差別。似境識起。不由外境為所緣生。彼諸有情。近善惡友聞正邪法。二識決定。既無友教此云何成。非不得成

経ではないけれども、
ここでの理解は、プラジュニャーとなっているはずです

ここから逆にたどれば、世親を通って、経に行き着きます

投稿: 春間 則廣 | 2010/09/03 08:21

ナマスカール 析空さま

プラジュニャーの漢訳に、無分別智というのが、ありましたっけ?

あったですか、うーん、わからないです。。。無分別智は、ふつう「ニルヴィカルパカ・ジュニャーナ」という語が相当すると思いますが。。

無分別智は、無分別とはいえ、ジュニャーナ(知識)で、プラジュニャー(智慧)とはちがうと了解しています。

ですから、おっしゃるように、般若(プラジュニャー)を、無分別智とするのは、ちがっていると、わたしも思います。

ジュニャーナは、概念をともなうもの、ともなわないもの、とありますが、具体的な知識について、いうと思います。

プラジュニャーは、想(表象作用、サンニャー、サンジュニャー)から出てくるもので、煩悩をよくはらうものだと思っています。

漢訳に無分別智とありましたら、その個所をお教えください。よろしくお願いします。

投稿: 管理人エム | 2010/09/02 23:35

白いカラスさま

プラマーナ(認識根拠)ですね。。。

脳がまわってませんね、わたし。。。

『スッタニパータ』1076で、ブッダは「ウパシーヴァよ、滅びてしまった者には、それを測る基準(パマーナ、プラマーナ)が存在しない」と述べています。

ここに、もう、パマーナ(プラマーナ)の語が出てきますね。

原始仏典の中に、パマーナを捜し求めて検討しています。
後代のさまざまな学派の説くプラマーナ論が、わかりやすくなるような気がします。

なんだか、ちょっとずれたお答えになってしまって、すみません。

それにしても、白いカラスさま、ブログを白くしましたねっ!


投稿: 管理人エム | 2010/09/02 23:08

ナマステ

般若についてですが。。
サンスクリット語のプラジュナーの漢訳として、智慧と、無分別智というのがあります。
しかし、パーリ語のパンニャーの日本語訳として、無分別智というのは無いようです。
サンスクリット語のpraには、分別の前という意味があるようですが、
パーリ語には、そのような解釈が無いようです。
テーラワーダには、無分別智という概念が無いようです。

そうすると、般若を無分別智と解釈するのは、間違いといえるのでは?

投稿: 析空 | 2010/09/02 17:53

プラマーナの分野に優秀な研究者があつまりすぎて、他の分野の研究がおろそかになり嘆かわしいという意見もあるみたいですが、プラマーナ研究で脳が鍛えられた(笑)結果、かつてない優れた研究を他分野で発表する人も管理人さんや原田氏をはじめ多く登場しています
仏教を本気で知ろうと思う人は、面倒くさがらずに知識論から入るのが遠回りのようで近道かもしれませんね

投稿: 白いカラス | 2010/09/02 14:38

エム先生、ときどき発熱されるとのこと、お疲れがたまっているのかもしれませんね。
隠れてたまっているより、小出しに体に出る方が安心、ともいえるかもしれませんが、ともあれ、お大事に。

それで、以下の問いかけは、とっても「グッド・クエスチョン」ですね。それに触発されて、ごく簡潔に、私なりに考えた結論だけ、コメントさせて下さい(レスはなくても結構です)。

>わたしの興味は、『般若心経』がどのようなところに位置づけされるのか、ということももちろん含めて、この経典(文献?)には、最終的に、いったい何が書かれてあるのか、ということですね。

これって、結局、散文の「前書き」には、<仏教のすべて>が凝縮され、そして、それが最後のマントラに一気に収斂されて、それを唱えるという<行>が提示される、ということではないでしょうか?
<仏教のすべて>とは、部派の教えと、それを乗り越えつつ、しかも内包して活かしている大乗の空の立場、ということです。
そして<行>は、厖大な仏教の全体系を、一つのマントラに具体化する、という点で、既に密教的な性格を示しています。

いずれかといえばパーリ仏典にご関心があるように見える先生が、『般若心経』を「新・龍樹本」で取り上げられ、しかも、その後もこうして興味を持たれている、というのは、そこに「何か」を感じとっておられるからでしょう。そして、それは、もしかしたら<仏教のすべて>を貫く「論理」なのではないでしょうか?
いいかえれば、『般若心経』の「前書き」が、「ブッダ論理学」でいう<真理表>なら、マントラはその核心(フリダヤ)となる<縁起の公式>にも、喩えられるかもしれませんね。

空海の『般若心経秘鍵』も、形は違いますが、これに似た発想を持っています。また、『般若心経』を「般若経」として扱うインドの註釈書でも、仏道の修行階梯の全てをそこに見ようとします。
<仏教の全体>が、易行としてのマントラに凝縮される、というところに、『般若心経』の魅力があるのかもしれませんね。
……などと、以上を考えつつ、先生の「真理表」、やはり鋭いな、とも思いました。

私も、また休暇に戻ります。お元気で。

投稿: シャン坊 | 2010/08/25 00:54

朱雀瑜伽母さま、シャン坊さま

どうもすみません。スルーしたわけじゃなくて、熱出して、寝込んでました。

梨本さんがお亡くなりになったんですか。
テレビ業界もさびしくなりますね。

そちらは暑くてほんとにたいへんですね。体温を超えたりしてますものね。お身体にお気をつけください。

たくさん書き込んでいただいてどうもありがとうございます。

おっしゃるように、佐保田先生や渡辺章悟先生の著作を序文であげておられましたね。

わたしの興味は、『般若心経』がどのようなところに位置づけされるのか、ということももちろん含めて、この経典(文献?)には、最終的に、いったい何が書かれてあるのか、ということですね。

それがわからないので、いろいろ言われるわけですよね。

壮大な思想が、圧縮されて解凍されずにあるのが、この『般若心経』ではないでしょうか。

それを解凍しようとしている研究が原田先生のご研究だと思っています。
あれから読もうとしながら、熱のため中断しています。

まあ、これから徐々にですね。

ところで、佐保田先生は、やっぱりすごいですね。その偉大さを実感する今日この頃です。

投稿: 管理人エム | 2010/08/24 14:04

般若心経についての御託はオタクにまかせます

功徳は読めば分かります  
「 読めば命の泉涌く 」
と、マリリンモンロー を治療した人が言っていました 
(とか、いわなかったとか)

読んでわからなければ、積んで見ればいいことです    
    
功徳を求めなければ、
口に出すだけでよい    

どうせ 口先のこと です  

積んでわからなければ、
おしたりひいたり すればよい

投稿: 春間 則廣 | 2010/08/24 07:31

こんばんは、道子先生。
あいかわらず、こちらはコンクリートの照り返しですさまじい暑さ。緑なす北の島の街とはいえ、今年ばかりは先生の方でも、やはり大変でしょう。。

さてさて、息子がすっかりいきり立って、梨本さん(つい昨日、お亡くなりになったそうです。また、昭和が一つ、遠くなりましたねぇ。。)ぶりを発揮しているようで、本当にごめんなさい。先生にスルーして頂いて、あの子にもいい薬になりますわ。
さて、息子はまた休暇を楽しんでいますけれど、今日の夜、家に帰ってきて、ちょっと面白いことを言っていましたので、お伝えさせて頂きますね。

あの子が言うには、「ただいま、母さん! えっと、あの原田和宗先生の『般若心経』研究の、いわば出発点となった論文、やっぱコピーしてました。これですね、これ!「梵文『般若心経』和訳」(『密教文化』209号、2002年)。で、今日、帰宅の時に途中下車して、おっきな本屋で例の本も見てきましたよ!」ですって。oさまご紹介のサイトでいうと、これなんだそうです。。

http://www.journalarchive.jst.go.jp/japanese/jnlabstract_ja.php?cdjournal=jeb1947&cdvol=2002&noissue=209&startpage=L17

息子いわく、「はじめて見た時、ちょっとびっくりしました。エエッ、学術論文で佐保ジーさんの本、こんなに熱ッつく持ち上げて、大丈夫なのかなぁ。。なんだか、熱い人や。バガバティーさまへの熱い想いは、空海さまも『般若心経秘鍵』で、ズバリ ”『大般若波羅蜜多心経』といっぱ、すなわちこれ大般若菩薩の大心真言三摩地法門なり” っておっしゃってるけど、それをヒンドゥーの体験から、再発見するなんて。。なんだか、若々しい心ですね!この感覚、アノ<阿修羅間>でも、なんかの参考になるんじゃなかなぁ?」ですって。ちょっと、バカみたいに興奮してましたわ(微笑)。。

それで、その「1. はじめに」には、こうあるんだそうです。

「一般向け解説書では佐保田鶴治氏がインド寺院におけるマントラ読謂に参加した実体験から『心経』は「般若波羅蜜多」という女性の菩薩の心臓(hrdaya)であるマントラを解き明かした経典であるという持論を早くから表明しておられたが、佐保田氏の持論は福井文雅氏の研究成果をも踏まえて独自の論拠を加味した宮坂宥洪氏の近年の解説書でいっそう補強された観がある。」

そして、その註76には、既に原田先生の研究の将来像がコンパクトに描かれているみたいなんだそうです。今、それを3つに分けて、出してみましょうか。。

1.「「般若心経」の「心」とは『大般若経』六百巻の心要・核心を意味するという通俗的理解は法相宗の基『心経幽賛』に端を発し、華厳宗の澄観の手で定着化されたようだ。……このような解釈傾向を排撃するために、空海は、『陀羅尼集経』の用例(般若大心陀羅尼…呪)などを根拠にして、「大般若菩薩ノ大心真言三摩地法門ナリ」「是ノ経ノ真言ハ即チ大心叩ナリ。此ノ心真言二依リテ『般若心ノ名ヲ得。』と 『般若心経秘鍵』に述べる。つまり、経題の「心」は末尾の「掲帝 掲帝」で始まる呪のことを指し、決して『大般若経』の要約を意味するのではないと空海は主張した。空海の大胆な反論にも拘わらず、上記の通俗的理解が長い間仏教界で大勢を占め、 こんにちの『心経』の一般向け解説書にまで浸透していることは誰の目にも明らかであろう。その中で唯一に近い例外が佐保田鶴治[1982](朱雀註:これって『般若心経の真実』人文書院、ですね)であった。佐保田氏はインドにおけるマントラ読諦の実体験から経の題名は「ハンニャ・ハラミッタという女性のボサツの心臓を解き明かしたお経」という意味であり(p.99; cf. p.13)、「般若ボサツの心臓とは、いうまでもなく、最後に掲げられたマントラ(咒文)」であると結論し(p.99;cf.p.13;pp.19-20)、 その点に限り空海の立場に賛意を表明された(p.16)。 わたしは高野山大学大学院(博士課程)に在籍中(1987-1990年)に佐保田氏の解 説書を読み、衝撃を受けた。」

2.「そして、法隆寺所蔵の『小本・心経』の悉曇写本の題名には「経」を指す"sutra"という文字がまったくなく、 ”Prajna-paramita- hrdayam samaptam(般若波羅蜜多心が終わる)” とだけ表記されるという事実――以前には漠然と不思議に感じただけで素通りしてしまった事実――を想起し、新たにつぎのような着想を抱いた:『心経』という文献はこれまで「経典」(sutra)の一種だとばかり思いこまれてきたが、それは漢訳タイトルに付加された「経」という語にわれわれが幻惑されているせいではないか。 じつは梵語タイトル『<智慧の完全性>というフリダヤ』(般若波羅蜜多心)が端的に表しているように、この文献の正体は<心呪/心真言>(hrdaya[-mantra])そのものなのではないのか、と。そう考えれば、通常の経典にならつくはずの「如是我聞」で始まる序分や最後に経典の流布を勧告する流通分が『小本・心経』のテキストに欠けているという一見奇妙な事実も合理的に説明できる。経典ではない「心呪」に序分や流通分がつかないのは至極当然のことではないだろうか。[そのような実例をわれわれはArya-pratitya-samutpada-hrdaya(聖なる縁起心呪)に見いだすことができる。このテキストでは真言化された法身偈が<縁起心呪(hrdaya)>という題名のもとで直ちに導入され、そのあとに続く心呪の効能書きで締めくくられる。序分や流通分は一切つかない。酒井紫朗[1975],pp.4-5.]われわれが 「心経」の本文(正宗分)だと信じてきた散文部は<心真言>のための単なる前書き、効能書きでしかないのであ る。しかし、やがて後世になって「小 本・心経」という核(前書きと心呪)に序分と流通分が付加されて、「大本・心 経 が正式な経典の体裁を備えたものとして仕立てられたのであろう。[大学院生当時、わたしが着想しえたのはここまでであって、『心経』散文部や真言句に関して文法的に納得のいく解読法を思いつくには至らなかった。]

3.「なお、インドで著された『心経』の注釈書 はすべて「大本 ・心経」(経典としての形式を整えたテキスト)に対するものであるため、インドでも『般 若心経』の「心」は「十万頌般若」の心髄を指すという趣旨で注解されているようだが。越智淳仁[1991b],pp. 94-95 ; 渡辺[1992],p. 240 ; 望月[1992], p. 50.」

息子、「これって実は、私も前からそう思ってました。1は佐保ジーさんのこと以外は、真言宗の常識。3も一応、事実のようですね(密教的に解釈した成就法もあって、これがプトンが『般若心経』を「秘密部」に入れる根拠になっている、ということはあるミタイですけど)。そして2は、さっき下で私が書いてたのと全く同じですね!」ですって。おやおや(微笑)。

ともあれ、息子が申しますは、「原田先生の『般若心経成立史論』、エム先生のご紹介からは、最初はちょっとトンデモな雰囲気も感じてしまったけど(エム先生、ゴメンナサイ。。)、いや、この論文や本のジツブツ見てみると、なかなか、穏当なものですね(ある意味では当然の内容、です)。エム先生のご紹介とはちょっとズレますが、この本の「はじめに」では、『25000頌般若』が『般若心経』に与えた影響も、きちんと押さえられています。また、同じ箇所で、渡辺章悟先生の『般若心経——テクスト・思想・文化』も、「初めて大本を本格的に扱ったもの」と評価して下さっているのも嬉しいですね。ただ、「真言の前書き」としての散文の教理的な部分について比較対象とされた、『般若経』以外の様々な経文については、意欲的な試みですが、さらに今後の検討を待つ部分もあるかもしれませんね」……ということなんだそうです。

すっかり長くなってしまいましたけれど、マニカナさんでもペンギンさんでも人気があるみたいな佐保ジーさままでご登場なら、ちょっとご紹介しておくのも、面白いかと思いまして。。
まあ、こういう世俗のお話は、本当は、梨本さん気取りのあの子に任せておけばよいこと(微笑)。わたくしはやはり、あのバガバティーさまにお仕えする巫女。心をひそめて、そのお声を法界のすべての音に聞いて参りたいものです。。

投稿: 朱雀瑜伽女 | 2010/08/23 23:29

誤字訂正."付け加えますと、完訳では「〜心経」"

もちろん「完訳」ではなく「漢訳」です。失礼致しました。

投稿: シャン坊 | 2010/08/22 13:37

追伸.遅ればせながら、先生のお母さまのご回復を念じております。

……私も、今年で(肉親の)母の歳と同じになりましたので、感慨の深いものです。

投稿: シャン坊 | 2010/08/22 11:06

エム先生、おひさしぶりです。
ちょっと、関心のある分野なので、少しだけ、コメントをお許し下さい。原田先生のご本を読まれる、参考にもなるかもしれませんから。

>それで、『般若心経』についての議論、その一つの論点は、このお経を「般若経」と見るか、(密教の)「陀羅尼経典」と見るか、ということですね。

ああ、これ、"母" は 、原田先生の説そのものについてではなく、現在の研究状況一般についていったのだと思います。『般若心経』については、ずっと、こうしたことが問題になっていますから。

一般向けの本の中で、しかも関説されたものでしかありませんが、例えば、頼富本宏先生は以下のように書かれています。これを発展させると、原田先生の説に近いものにもなるでしょう(たぶん、そこに触れられた文献に原田先生のものがなく、また、かなり以前の執筆であることから見ると、これは頼富先生ご自身のお考えかと思います。たぶん、密教の側から、自然に浮かんでくる、一つの発想なのでしょう。ちなみに、原田先生は高野山大学の大学院出身で、私も、そこの教授の方から、お名前をうかがった記憶があります。論文のコピーもしていたかもしれません)。

「……七世紀を生き、とくにその中葉にインドを旅行した玄奘は、最初は唯識に集中したため、意外と密教に冷淡である。しかし、それにもかかわらず、その翻訳の中に、以下の重要な陀羅尼経典がある。
(1)『十一面神呪心経』
(2)『不空羂索神呪心経』
(3)『持世陀羅尼経』
(4)『六門陀羅尼経』
(5)『般若波羅蜜多心経』
……ところで、(5)の世にいう『般若心経』を、広義とはいえ密教経典の範疇に入れたことに対して、異論の出る向きもあるはずである。……けれども、……『般若心経』は結果的には疑いもなく密教経典である。すなわち、十一面と不空羂索の両経の「神呪心経」は、『般若心経』の「心経」と異ならない。そして、『般若心経』末尾の「四呪」……の「是大神呪」は、『十一面神呪心経』の「神呪」と同じ意味である。玄奘は、そのタテマエにもかかわらず、密教的理解ができる人であった。」(『金剛頂経入門』大法輪閣、pp.31-33)

付け加えますと、完訳では「〜心経」「〜神呪心経」もしくは「〜陀羅尼経」などと "経" が付くので、"経典" と ”マントラ文献" の区別が気になるところですが、サンスクリット原典では、"〜フリダヤ(心 or 心呪)" "〜ダーラニー(陀羅尼)"だけで終わることも多く、少なくともタイトルだけからは、両者の区別はそれほど明瞭ではありません。
もちろん、内容的には、正宗分に序文と流通分が付いた完全な経典の形式のものと、そうでないものの区別はあります。そして、後者のタイプ(つまり、小本『般若心経』もその一種) も流布していたことは写本や漢訳から、わかります。たぶん、はじめは後者のタイプであったのが、整えられて前者のタイプになる、というのが、一般的なパターンなのでしょう。

そして、こうした陀羅尼文献の場合、その分類に関して、いろいろと議論になることもあります。
たとえば、oさまご紹介のサイトによると、原田先生は、以上にも出てきた『不空羂索神呪心経』も重視されているようですが、これについても「変化(へんげ)観音経典」か「陀羅尼経典」か、という議論がありました。これは、ちょうど『般若心経』が「般若経」か「陀羅尼経典」(or "マントラ文献" )か、と議論されるようなものですね。
『不空羂索神呪心経』については、最近では、結局、「不空羂索陀羅尼」というのがまずあって、それが発展して本尊の図像や修法の儀軌も整えられて、「変化観音経典」に発展していった、と見られているようです。

このように、初期密教の真言・陀羅尼をめぐる文献の成立は複雑ですから、一概に、その文献をあるカテゴリーに分類するのは難しいと思います。
たとえば、小本『般若心経』の登場人物を見ても、「観自在菩薩」は初期密教の、「舎利子」は「般若経」の流れを汲むものが融合している、とも言えるでしょう。
ちなみに、チベットでも、プトンが『般若心経』と『理趣経(150頌般若)』をめぐって、大蔵経の「般若部」「秘密部」いずれにすべきかを、議論しています(渡辺章悟『大般若と理趣分のすべて』北辰堂、付録I、pp.4-5)。

原田先生の今回のご本も、まずは、こういった研究状況を背景として登場したもの、ということなのでしょう。
確かに、oさまのおっしゃるように高価ですね(研究書としては当然ですが)。機会があれば、書店で内容をチェックすべく、心がけておきます。
では、これで、また休暇とさせて頂きます。お元気で。

投稿: シャン坊 | 2010/08/22 10:53

朱雀瑜伽女のおかあさま

はじめまして、かな?

>それで、『般若心経』についての議論、その一つの論点は、このお経を「般若経」と見るか、(密教の)「陀羅尼経典」と見るか、ということですね。

原田先生のご本では、「マントラ文献」となっていました。経典ではない、という位置づけのようですが、今、拝読中なので、詳しいことはまだ了解しておりません。

噛みしめて読みはじめているところです。

まあ、まあ、何はともあれ、
ぜひ、お手にとってお確かめになってください。

最初から、結論を急がず、とにかくじっくり研究の成果を拝読することが、今、必要なことであると思います。

わたしとしては、結論がどうあれ、このような文献学的に緻密なご研究を、きちんとした形で公にされたということが、とても大事なことだと思っています。

息子さまにも、よろしくお伝えくださいね。

投稿: 管理人エム | 2010/08/22 09:15

エム先生、

 むむ、それは読みたくなります。

朱雀瑜伽女さま、

 問題は動機でしょうね。方便として導くために書くのはありだけど、売文やひけらかしなどが動機で書くなら、それは後で大変なことに。

 おっと、自分に言葉が落ちてきた。金剛サッタ、金剛サッタ

投稿: o | 2010/08/22 05:54

エム先生と、oさま、こんにちは。
こうした形でお話するのは、初めてかもしれませんね(微笑)。

ここしばらく、夏休みを頂いている、あの息子の母でございます。
あの子の申しますのは、「母さん、私は少し、多弁でありすぎたようです。"凡夫の" とか "敗壊の" という形容詞つきではあっても、本当は、もはや、"かの心" にもとづいて生きねばならぬ身。"いらぬ論争を招いてしまったか”と、恥じるところ大です。ですから、しばらく、本分に静まることにしたいと思います」とのことでした。
そうしたら、面白いですね。聡明なおちゃらけさまは、しっかりと、その気持ちをわかって下さったみたいです。おちゃらけさま、先日、別のすがたでお話させて頂きましけど、いつも息子をはげまして下さって、本当に、ありがとうございますね。

さてさて、『般若心経』ですか。。本当に、これは「母の中の母心」ですね。エフェソスのアルテミスさまが、無数の乳房であらゆる人や動物を養うように、三乗の修行者のすべてを、一味の法界へ連れていって下さる、本当にやさしくて、きれいで、強く、時には、あのお能の「般若」のお面のように恐ろしくもある、"母のかがみ" ですね。
わたくしも、肉親の母は若くして去り、あの一味の母とは、いまだ「顔を合わせる」ことのできぬ愚かな息子を、なんとか、かしこへと行かせなければ、と、そればかりを案じている日々です。たぶん、息子さんを無事、お育てになられたエム先生なら、この気持ち、おわかり頂けるかもしれませんね(微笑)。。

それで、『般若心経』についての議論、その一つの論点は、このお経を「般若経」と見るか、(密教の)「陀羅尼経典」と見るか、ということですね。結局、これは、どちらでもある、というではないでしょうか? でも、これは、いわば「後づけの区別」。あまり、言あげしても、実りのある問題ではないかもしれませんね。
歴史の中で、一般の大乗から密教が現われてくる時代には、『金光明経』『理趣経』など、大乗とも密教とも取れるお経が、いくつも出てくるそうですね。つまりは、『般若心経』も、そうしたお経の一つ、ということではないかしら。。

それで、もちろん、そうしたお経の中には、それまでのいろいろなフレーズが紛れ込んでいるのは、当然のこと。ただ、どなたかがおっしゃっていた「クズ経典」という言葉(ひどいですね。。)も、ちょっと念頭においてお話すれば、文献学によって認識される歴史的現象としては、そうした寄せ集めであっても、"かの心"(つまり、菩提心) による信・行の認識(いわゆる「清らかな現われ=タクナン」ですね)によれば、それは、まぎれもなき「仏説」。
いかなるお経を見る時も(阿含経典も含めて)、この二つの認識を念頭においておかないと、ちょっと、こんがらがってしまいますね。早いお話、たとえ生身のゴータマさまに出会っても、そのお言葉を「仏説」と聞けた人と、そうではなかった人の違いは、確かに、あった訳ですから。。
文献学や「加上説」の立場だけからは、もしかしたら "永遠に" 仏説は聞けないのではないかしら。。

そうした意味から言えば、いかに「通俗的に」書かれたものであっても、必要のない『般若心経』の本など、たぶん、ないのではないかしら? みな、あの、やさしい乳房の思い出を、それぞれに語った、ということなのでしょうから。。
解釈の正否、言葉の善悪を超えて、聞く音すべてを "母の声” と聞くところに、本当の意味での『般若心経』が聞こえてくるのかもしれませんね。。

話題が話題なので、もしかしたらエム先生も息子を念頭に置いて下さっているか思いましたので、代わりに、この母が、お伝え致しました。
まだまだ暑いですね。皆さま、ご自愛を。。

投稿: 朱雀瑜伽女 | 2010/08/21 12:12

oさま

ほんとにお高いですが、その価値はあるでしょう。。しかし、高い。。

御高論ご紹介くださってありがとうございます。ほんと、便利な世の中になりました!

本書の前書きに、雑誌論文の再録ではなく、これらの成果を土台にして、新たに成果を盛り込んだ書き下ろしである、とあります。

わたしも、原田先生の御高論数々拝読してきましたが、それらとは、また、ちがいますね。
読みやすいと思います。

ぐっと視野が広がった感じがします。
今までモヤモヤしていた大乗の経典類が、きちんとあるべき位置を占め始めている感もして、非常にわくわくするご本ですね。

渡辺章悟氏の『般若心経 テクスト・思想・文化』(大法輪閣)も、すでに出ていますし、本当によいご本がたくさん出てきましたね。

投稿: 管理人エム | 2010/08/21 07:00

エム先生、

いいですよね。本は読んでませんけど論文はずっと読んできたので。

しかし、高い。せめて三千円ぐらいでお願いしたいです。

いままでの『般若心経』本はいらないでしょう。

多くの論文が読めます。

http://www.journalarchive.jst.go.jp/archivesearch/Search_ja?search=%B8%B6%C5%C4%CF%C2%BD%A1&bar_go.x=30&bar_go.y=20&from=top_ja

http://ci.nii.ac.jp/search?q=%E5%8E%9F%E7%94%B0+%E5%92%8C%E5%AE%97&range=0&count=20&sortorder=1&type=1

投稿: o | 2010/08/21 06:13

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