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2009年9月

2009/09/30

空(くう)

002
 
 
 
 
 
「空(くう)」は、仏教の法である。
 
 
「空」は、思想と言われたりするが、本当は、思想ではない。
なぜなら、「空」は、行為に結びつくからである。

「空」は、概念と言われることもあるが、本当は、概念ではない。
なぜなら、ことばで表されないものだから。
 
「空」は、空間と思われたりするが、本当は、空間ではない。
なぜなら、場所をもたないからである。
 
じゃ、

「空」は、何だろう。。。。。

 
「空」は、ブッダ論理の一つの「あらわれ」である。 
 

心と

身体と

口(ことば)の
 
行いの中に、顕れるものであって、
 

「空」がよく働いているとき
 
わたしたちは、そこに、
 
「優しさ」を感ずるのである。

 
だから、よく知っておいてほしい。 
 
=============== 
優しいところには、空がある。 
空であるとき、優しいのである。
===============
 
優しくなければ、空と言われない

と、 

知っていてもいいね。。 
 
 
 
だから、「空」は、空間ではないけど
 
虚空にもたとえられる。 
 
自由に鳥や虫が飛び交う虚空は、

彼らにどこまでも優しい。
 
それ自身場所を占めない空は、かれらを妨げないから。 
 

 

だから、「空」は、概念ではないけど
 
ことばの中にも潜んでいる。
 
優しく語られることばは、
 
ことば自体は、意味が空っぽである。
 
その中にその人自身の意味を入れられるように。
 
  

 
だから、「空」は、思想ではないけど
 
他の思想を否定する。
 
思想・信条の押しつけが
 
人々を苦しめるのを許さない。

人々を悲しむときに、はたらくのが、「空」だから。
 
 
 
だから、みなさまは、よくよく
 
「空」を知ってください。
 
 
優しく響かないとき
 
そこには、空(くう)はない、と。
 
悲しみが感じられないとき 
 
そこには、空(くう)はない、と。
 
 
001
 
 
 
 
 
 
ええ、感じやわ!
「空」が、身にしみてきた。。。
 
わたしは、からっぽ。。。秋風のよう

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2009/09/29

普遍世界と仏教世界

014
 
 
 
 
 
 
この世の中には、二つの世界が拮抗している。

「自己」をもつ人たちのいる世界 

        と

「自己」をもたない人たちのいる世界
 
 
 
「自己」をもつ人たちは、自己をたよりに
 
ユニヴァースを形成する。
 
 
ユニヴァースは、一つの価値観からなる世界であって

「普遍」世界である。

それは、「宇宙」とも呼ばれる。
 
 
西洋的な思惟の中にも、みられるが
 
東洋的な思惟の中にもみられる。

たとえば、宇宙の根元にブラフマン(ことばの力、マナ)を

おく思想が、そうである。
 
ブラフマン(梵)は、自己(アートマン、我)に等しい

という思想が

梵我一如 

である。
 
 
この世界に住む人は、

一切のものが、自己(アートマン)からなる


知って
 
大気に向かって、ことばを投げるのである。

大気にあるのはブラフマン(ことばの力)だからである。

宇宙全体を包むブラフマンは、

空中に放たれたことばの力によって

他者のアートマン(自我)と一緒になる。。。


このとき

あらゆる人に共通の「普遍」が成り立つのである。

==================
★このようにことばを使う人★は、

ブラフマンのいる普遍世界の中「だけ」で

ことばを空中に放たなくてはいけない。
===================


        一方
 
 
「自己」をもたない人たちは、どうだろうか。
 
自己をもたないために、どこにもよりどころがない。
 
 
せいぜい、他者が何か働きかけたときだけ 
 
それに対応して、一見、「自己」に見えるものが
 
生じてくる。
 
 
これにすがって会話するのが、仏教世界である。
 
 
誰かが何かを行ってくれるとき、
誰かが何かを心に思ってくれるとき
誰かが何かの行為をするとき
 
そのときだけ 
 
自己は生じて、相手に話しかける。
 
対話は、かならず、「問答」である。
 
相手が話すなら、こちらも話す。
相手がやめるなら、こちらもやめる。
 
こうして、縁起する世界は、転変していくのである。
 

=================
★このようにことばを使う人たち★は、
 
(他に)縁って起こるとき「だけ」
 
ことばを交わすのである。
=================
 
017
  
 
 

 
予習だ!予習だ!予習だ!
ああ、間に合わんかも。。。

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2009/09/15

救われる

002

 
 
  

 
 
「救う」を書いたなら

やっぱ、バランス的に

「救われる」って、こなくちゃ、ねっ!
 
 
 
しかし、このことば。。。究極のことばですね。。。

救う と 救われる

この関係は、わたしたちが生きている世界の中では
 
めったにお目にかかることはないだろう。。。
 
そう。。思われるのに
 
 
でも、
 
 
やっぱり、この短い生涯に何度かは確実に

経験できることがらだと思う。
 
 
救う・救われる、という関係は
 
 
これは、個人的な関係というわけではない

しかし、また

これは、普遍的な関係というわけでもない
 
 
 
別な言い方をすれば

 
これほど、個人的な関係はない、とも言える。

 
また一方で

 
これほど、普遍的な関係もない、とも言えるのである。
 
 
これじゃ、
なんだかわかりませんね。
 
 
 
 
この関係は、不思議な関係である。 
 
 

 
 
大きな災害で被災者になった人たちは
  
 
ボランティアの人の作ってくれた 
 
炊き出しのおにぎりや一杯の味噌汁に
 
何を見るだろう。
 

 
おにぎりの温かいぬくもりを手に感jじ
熱い味噌汁がのどを流れていくとき
 
 
人は、受けとるのである。  
 

 
たくさんの人の温かい心を。
 

 
 
救う心と、救いの手と がある。
救われる心と 感謝のことばと がある。
 
 
これが、救う・救われる、という関係である。
 
 
 
この関係で用いられるのは
 
何だろうか。。。
 
 
それはね
 
 
   
 
 
ただ、それだけなんだよ。

 
 
他には、何も使われないのさ。
 
一つの心が差し出され 
一つの心がそれを受けとる。
 
 
これで完了するから、
 
この関係では、「人」ということばはいらない。
心があるなら、それでいい。。。

だから、個人的な関係ではない。 
 

 
また、
 

 
心と心とのつながりは、人間一般の領域ではない。
心があるなら、それは具体的。。。

だから、普遍的な関係ではない。
 

  
 
純粋に、一つの心は、もう一つの心とふれ合うのである。
確実な関係なのである。
 
そして、それ以上、求めるものは何もない。

エゴもない。価値もない。判断もない。
 

ただ、あるのは、
無私で公平な優しさである。  


だから、第三者の判断?
そんなものはいらない。
心に第三者はないからね。

あるのは、救う心と救われる心だけ。。

======================

 
とはいえ、

世俗では
 
心は人の中にあるとも考えられている。
 
 
「救う」心をもった人は、菩薩(ボーディサットヴァ)といわれる。

 
 
じゃ、
 
 
救われる心をもった人は、なんて言われるんだろう。。

やっぱり、菩薩でいいのかな。。。
 
 
悟りを求めて、救われたい心をもった菩薩は
 
阿弥陀仏のところにお願いに行くのが

いいかもしれないね。。※
  
 

だから、阿弥陀仏と菩薩の、究極の個人的関係 かもしれない。

これはまた、仏と菩薩の、究極の普遍的関係 とも言えるかもしれない。

 
どうなんだろうね。。。  
001
  
 
 
 
 
 
 
さあ、ようやく『教行信証』に行けそうだ。。。


 
 

※ 09.16.午前10:06 追記

ちょっと、唐突だったですか。阿弥陀仏が、出てくるのは。。。。

四十八願の大願を起こして、仏になった阿弥陀仏は、
「救う心」が、究極の形をとったもの

と言えるかもしれませんね。

お釈迦さまもいいけど、
「大悲」に満ちてるのは、やっぱ、阿弥陀さま かなっ。。って

阿弥陀仏にどこどこまでもすがる人々は、
「救われる心」のエキスパートになれるかも。。。親鸞上人みたいにね。
 
 
こういう関係だと
 
阿弥陀仏と衆生との、ちょー個人的関係 だし
 
救う心 と 救われる心の ちょー普遍的関係

とも言えそうだ。

このあたり、わかりにくいかな?
 
ここは、管理人、勉強が足りないから、
 
こんなとこで勘弁ね。。
 
 

 
ああ、予習しなくちゃいけないんだよぉ。。

こんなとこで、いつまでもひっかかるなよ、間に合わないぞぉ。。

うぎゃーーー!
 

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2009/09/14

救う

002
 
  

 
 
 
 
プルーンです。
食べられる運命です。
ジャムになりました。003
 
 
 
 
 
 
 
人の命を支えるプルーン。。
食べ物を食べて人は生きる。
 
だから
プルーンは、人を救っている。
 
でも、
プルーンは、それを知らない。
 
 
 
これですね。。。フムフム。。 
 
 
「救う」について、考えてみましょう。 
 
 
 
菩薩は、生き物を救う、
 

 
っていいますか
 
 
 
生き物を救おうと、願いを起こし
 
悟りに至ることなく 
 
はたらく人を、菩薩という。
 
 
 
「救う」という行為は
 
心に思うだけでも、行為である。
実際に行動しても、行為である。 
 
 
で、行為には、三つありましたっけね。
心の行為、ことばの行為、身体の行為。
 
 
 
「願」はとても強い心の行為です。
 
その願いをもって
 
他の人のため(利他)に何かを行うとき 
 
非常に強い影響を与えるだろう。
 
 
 
そこで、 
利他行は、尊い行為でしょうか? 

 
尊いかもしれない。。。でも。。。 
ときに、余計なお世話にならないでしょうか?
 
 
こういう心配が出てくるだろう。 
 
 
「救う」が、大手を振って、
人々のあいだを
闊歩しはじめると
 
人々は、「救う」ということを
敬遠しはじめる。 
 
 
救うものには、自己満足の行為で
救われるもの(?)には、大迷惑

な~んてことに、なってしまいそう。。。


まずいすよね。。。
菩薩の行為は、まったく救いがたい行為になっちゃうよ
 
 
 
だから、
 
「救う」ということばは、
気をつけて使わなくてはいけない。
 
 
心の中で思う行為は、それはそれ。。。勝手にやりなはれ
                       (菩薩の自己責任だね)
 
実際に行う行為も、それはそれ。。。ま、勝手にやりなはれ
                     (これも菩薩の自己責任) 

 
 
しかし、ことばによる行為
 
「わたしが、おまえを救ったのだ」
 
とは、
 
救ったと思われる相手に向かって 
 
口が裂けても、言ってはいけない。  

 
 
あ、っと言う間に

せっかくの菩薩の利他行は
 
「救いがたい」行為に、転落しちゃう。。 
 
 
「わたしが。。」と言った時点で
すでに終わっている、と知らねばならない。。。 
 
自我の行為は、煩悩の行為だからねぇ。。
 
 
だから、
 
仏教では、
 
救うものも、空である
救われるものも、空である 
 
などと言って、「救う」を行う人は
「救う」ことにこだわらないで、
「救う」行為に、邁進する。
 
 
凡夫風に言うなら、
 
「救う」というのは
 
そうする人にとっては
 
自己完結している行為なのである。
 
 
救おうと、心に強く願い(原因)
 
それを実行する(結果)
 
という 心の行為と他の行為とのあいだでの
 
因果関係で完了する。 
 
 
それで、すべてはきれいに完結する。
 
 
プラットホームから落ちた人を
 
救おうとした青年は
 
 
落ちた人を見た瞬間に
 
 
強く願った。。。。「助けよう」。。。。 (原因)
 

次の瞬間に 

 
かれは、
線路に飛び降りた。。。「助けるぞ」。。。。(結果)
 
 
かれは、ここで結果を受けとった。 
  
 
これから、どうなったか、って?
 

 
後のことは。。。後のことさ。。
 
 
 
だから、

もし、
落ちた人が助かって
助けた人が助からなくても
心配することはない。。 

 
助けたかれは結果を受けとっているから。 
 

 
落ちた人は、助けてくれた人を思って
罪の意識におびえたりする必要はない。  

 
助けたかれは自分の結果をちゃんと受けとっているのだから。
 
 
 
自らの「救う」という行為を、
きちんと自らのうちにおさめて

かれは、
「救う」行為を吹聴せず、また
言い訳をしたりすることもない。

 
 
失敗しても、成功しても、
それは、かれにとって、問題ではない。
 
 
だから、
 
かれの思いを受けとめた人々だけが  

落ちた人と助けた人がどうなったか、
という結果にかかわらず
 

かれの行為を

 
「救う」と


呼ぶのである。
 
 
 
 
 
これが、プルーン菩薩の

空のお仕事ね!
 
 

※ ちょっと、改訂してみました。。。
あんまり変わらないかな。。。
(9.14 午後6時10分くらい) 

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2009/09/12

論理、それは語順である

台所のガステーブルが新しくなりました。
001

 
 
 
 
 
 
 
 
朝日に光るステンレス! まばゆいわ! 
それにしても、ほんと、ありがたい!
スイッチ一つで火がつくわ!
 
14年の長い間、使ってたガステーブルは

最近、スイッチを押しても押しても押しても押しても押しても押しても

火がつかなくて
 
やっとついたと思ったら
 
知らないうちに立ち消えてる
 
という、
 
気まぐれな仕事ぶり。。。
 
調理というのは、大半、スイッチを押し続けてるようなもんでした。
 
====================
さて、朝飯前にひと日記、

っと。
 
昨日の

 
「論理は、呼吸である」

というメッセージ。。。

どうかなぁ、って思ってね。
 
 
わたしには、まるきりの

真実なんですが 
 
みなさまは、どうすか?
 
 
語っているときには
呼吸はしていない。
 
語りと語りの合間に
息を継いでいる。 
 
だから、語りは
呼吸と二人三脚なのだ。
 
ふつう、考えているときも
ことばを用いているので
この場合も、同じく
呼吸と二人三脚なのだ。
 
ことばは、前のことばを原因として
生まれてくる。 

こうして
 
思考には流れができる。

思考の流れは、語順に反映される。
 
 
語順は、思考の道筋を示しながら
結論へと向かう道しるべである。
 
そこには、自分の納得した
思考の因果関係が表れている。
 
こうして、語順は、その人の論理を示すのである。
 
 
故に 
 
じゃん!
 
 
論理、それは、また、語順である。 
 
 
新しいメッセージが、作れたわ。。
今日の仕事は、終わった、

じゃなくて
 
これからだけど
 
このメッセージ、まずまずじゃないかしらね。 
 
 
===============
 
というのはね、
 
最近、ヴァスバンドゥのものを読んでいるだけど
 
なかなかすばらしいわ。 
 
 
やっぱり、すごい人物なんだ、って
 
文章読んでると、よくわかってくる。
 

 
 
ことばに力がある。
 
表現に配慮がある。
 
そして
 
語順にかれの独特の息づかいがある。
 
 
 
かなり長い文を書く人なんですが、
 
長考の人らしい
 
論理の流れが、文の中に息づいて
 
呼吸が伝わってくる。
 
その呼吸は、微細に長く平坦に流れて
 
流れるような論理の展開を支えている。
 
かれは、瞑想していることがわかる。
 
 
 
文章を読むということは
 
著者の息づかいを聞くということである。 
 
     
朝飯前に、二つ目のメッセージができたっ!

今日はついてるなぁ。。。
 


よし!はりきって、ヴァスバンドゥでも読もうかな。。

 
あ、その前に

新式ガステーブルで、お湯を沸かしてみますか。
何たって、
ワンタッチだからね。。。ムフフ

朝飯前の一仕事は、スイッチ・オン
 
なんちゃって。
001_2
 

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2009/09/11

論理、それは呼吸である

人間は、三つのことしかできない。

身体による行為
ことばによる行為
心による行為

 
何をしても
何をしなくても
この三つのうちの
どれかを、しているだけである。。。
 
010
 

 
 
 
 
久しぶりに、むずかしい考察だね、管理人!
 
って、いうか
 
まだ、
 
一つのことしか言ってないけど。。。
 
 
★で、
 
この三つの行為について
 
もう少し考えると 
 
最初は、フツーに考えるなら
 
心の行為がやってくる。。。 
 
 
その後に、身体かことばの行為が来る。。 
 
 
だから、まず心が大事だ。 
 
 
★で、
 
心には、三つの心がある。
 
貪る心、つまり、欲の心
怒りの心
無知の心

これは、毒の心、って言うのよ。
 
他にもあるけど
他はあまり問題がない。
 
この三つの心は、
困った心である。

問題を起こす心なのである。
 
 
★で、
 
三つの心でいろいろ行為を行うと。。。。 
 
ああ、とぉっても、たいへんよぉ~~。。
 
話しは、はちゃめちゃ。
行為は、めちゃくちゃ。
心も、ぐちゃぐちゃ。
 
 
★で、
 
この中で、いっちばん、大きな問題になるのが

たぶん、ことば。。。
 
だから、ことばに注意するのがいいわね。

 
三つの毒の心は
四つのことばを生むのね。
 
・ウソ (妄語)
・二枚舌 (両舌)
・悪口 
・おべっか (綺語)

 
こういうことばが出てきたら
みんな!
注意するのよ。

自分でも言わないようにしなくちゃね。。

 
★で、
 
こういうことばが、たくさん言われると
どれがどれだかわかんないですね。
 
どれが悪口で、どれがおべっかで、
どれがウソで、どれが二枚舌か。。
 

 
かしこい人は、見分けるために  
語る人の心を見るのよ。。

三つの毒の心で語られるとき 
四つの悪いことばが生まれるのね。。

わかった?
 
 
ちょ、ちょっと待って!
三つの心と四つのことば。。。

組み合わせると
十二とおり
 
そんなにたくさん覚えられない。。
どれがどれだかわからん。。。
 
考えてるうちに話しは進むし
善い心ともまざると
ぜんぜん、ダメ!
ついてけまへん。。。

 
ああ、なさけないわね。。
でも、そうくると思ったわ。
 
管理人も、はっきり言って区別つきまへん。。
 
だから、
 
管理人の必殺技を
 
伝授するのよ。。ここで。

かしこくないみなさんに向けて
簡単鑑別法を
教えるわ。。。

 
いい、よく聞いて。
 
三つの心で語る四つのことばは
 
一つの事態しか招かないの。。
 
 
それは、矛盾!
 
ぜ~んぶ、一つのことに帰着する。。。 
 
矛盾というのはね 
 

と言いいながら、同時に、

Aでない

ということなのよ。。。
 

★で、

たくさん覚えられない頭の悪い人は
 
話しの中に、矛盾があるかどうかだけ
 
注意してればいいの。。簡単でしょ。
 
 
ウソも、両舌も、悪口も、綺語も

Aといって、Aでない、とも言ってるわね。。

 
ちょっと、たとえを言いますと

「かれは、いいヤツだよ、まったく。。。
だけど、ここだけの話しだけどさ、じつは。。。」

みたいな感じね。
これ、悪口だけど、
かならずほめる部分も入っているのが、ミソ。
いいヤツと言って、いいヤツでないと言ってます。
 
 
★で、

なに?
 
管理人が、ワンパターンなのはわかったけど、 
論理って、そういうの体質に合わない!

論理って、ことばに拒絶反応が出るタイプなのよ!
そういう場合、どうすんのよ?

 
非論理体質なのかぁ。。。。困ったわね。。。
うーん、どうしよ。。。
 
 
わかった!いいこと思いついたわ。。 

 
何も考えないで、ただ聞いてるのね。。。
それで、語る人の呼吸を見てればいいわ。

スムーズに息継ぎができて、
そのまま安定した呼吸の時は

論理的!
 
呼吸が乱れたら、要注意、ってのは、どう?
 
 
何、それ?インチキくさいんと、チャウ
 
 
そ~んなこと、ない、ない(ブルルッ)
 
 
これは、あたってると思う。
 
 
なぜなら、これは瞑想と同じように考えられるから。。
 
 
瞑想の最初も呼吸をととのえるけど
 
これは、心をととのえるためなのよ。
 

 
心は、あっちゃこっちゃに散乱して、
押さえ込むのはたいへんだけど
 
呼吸なら、出る息と吸う息しかないから
制御は簡単なのね。 
 
呼吸と心はつながっているから
呼吸が整うと、心が整うわけ。。
  
心が整うと、三毒がでない。。
つまり、矛盾には行かない。。
 
矛盾に行かないと、
四つの悪いことばは出ない。。
 
四つのことばが出ないと、
わたしたちは、幸せでいられる、
 
 
と、こういうわけなのだ。。
 
 
意外と、うまいこといったんとチャウ。。
 
ここに、ウソはないだろね、管理人?

え?ないない、ないってば、ほんとだってば。。 
 
ああ、言えば言うほど、ウソっぽいなぁ。。
 
ああ、うそじゃないす、ほんとっすよぉ~~ 
007
 
 
 
 
 
まったく、管理人は一人で
なに、問答してるんだろね。。
 
 
賢明なるみなさまは
幸せの黄色いバラでも、見てね!

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2009/09/06

きみよ、勇気をもって膿河を渡れ!

前回のブログでは、空を見上げていた管理人でした。
 
天を見上げるならば、

とうぜん

次には、地を見下ろすべきですよね。。。。。

順番だよねっ。

そだ、そだ!
よっしゃ、大地に根をはって、っと。。
004
 
 
 
 
 
 
 
家の近くの道路に、こんな大きなすり鉢状の土が!

ありんこの巣ですね。
しかし、ずいぶん、土を運び出したものですよね。
相当大きな巣ですねぇ。。。
 
003
 
 
なんか、地獄に行きそうな穴ですねぇ。。。
 
 
行ってみますか。。
ちょっと地獄の三丁目。。
 
この入り口から。。。れっつ、ごー!
 

 
地下一階は、動物のいる畜生道 
 

地下の二階で、途中下車。。してみましょ。。 
 
ええ、やだわ、こわいわね。。
 
なんと、ここは餓鬼道よ。。。
 
 

こ、こわいわね。。。
こんなことなら、おちゃらけさまも誘えばよかった
(なんで、そうなるの!)
 
 
わ!。。で、でも、

管理人、なんか、この階、妙に親近感がわくわ。。
 

 
 
こわいもの見たさ、っちゅうか、
 
どっちかってぇと、 故郷に帰ったような。。。 おい!
 
 
 
わあ、何、あれ?!
 
 
 
うぎゃー!!
河よ、河。。。だけど、膿に満ちてる膿河(のうが)だっちゃ。。  

 
 
なになに。。こんなとこに、経典かしら、論書かしら、

膿だらけで落ちてるわ。。。
 
うっぷ。。拾うわよ。。。 

 
 
いちいち、ことわらなくてもイイから、さっさと拾えば、管理人。。
 
 
 
拾うのだって、勇気がいるのよ。。こんだけ膿だらけだと。。
 
 
 
薄いのがいいわね。。なになに?
 
 
『唯識二十論』。。むずかしそ。。。

わからんけど、とにかく読むわよ。。。
 
 
 
「三界は、ただ心のみである(三界唯心)」
 
 
へぇ~。。そう。。

なんか、字がまちがってんのかしらね。。
 

 
わたしの読みだと

「地下三階は、ただ心の膿である」 

って、感じだけど。。。。


 
あ、賢明なる読者諸君は、
おばかな管理人の言うこと、
信じないように。
 
 
三界は、欲界・色界・無色界という仏教の説く三つの世界のことですね。
わたしたち生き物が、生死をくり返す世界だって。。

迷いの世界だってよ。
 
 
まあ、いいわ。。。なんでもね。。  
この膿の河についても、なんか、書いてあるわ。。
 
 
どれどれ。。 
 


 
餓鬼たちは、みんな同じようなことをしでかしてきたので、
すべて似たような結果を受けて、この場所、餓鬼道にいるのである。

 
だから、すべての餓鬼には、

この河が、膿に満ちた河に見えるのであって、

一人だけが見るのではない。
 
 
地下二階は、ただ心だけからなっているとしても、
みな、同じように、膿の河を見るのである。。。

 
フーン、って、ことは、

なにぃ~。。。

 
 
か、管理人も、餓鬼の目になっちゃった、ってことか?!
 
あ、そういえば、すがたも、なんか、餓鬼っぽい。。
 
やせて骨だけなのに、おなかだけ膨らんでる。。。
 

 
 
ああ、おなかすいた。。。膿でもイイから食べるかな。。オイオイ 
 
そこまで、成りきらなくていいからさ。。。
 

 
 
 
それにしても、心の中のことだっていうのに
 
同じようなコトしてくると、
 
その結果として
 
同じようにものごとが見えてくるんだわね。。
 
 
 
これは、餓鬼じゃなくても、そうかもね 
マスメディアに操作された情報は
人々に同じような印象を与えるもんね。。。 
  
 
ちょっと関係なかったかしらね。。。
 
 
しかしですよ。。
 
心の中のできごとなんだ、って言われてもね
  
見えてるもんは見えてるもんだよね。。 
 
どう見ても、膿に満ちてる河ですよ。。。
 
 
 
まあ、これが、生き物の迷いの世界なんでしょね。。 
 
 
だったら、膿の河でも、覚悟決めて渡りましょ。。。
 

 
でも、ちょっと考えたら、
 
これ、ぜんぶ、心のみからなってるんでしょ。。。
 
 
 
心の中のことなんだったら、

 さらに、

も一つ、餓鬼のわたしの心の中に
 
こんなイメージを作って行けば。。。
006
 
  
 

 問題ないんじゃない?
 
 
 
ほんと!

管理人って、
  
餓鬼になっても、しぶといわ。。。。。
 
 
 
なんか、こんな日記でいいんですか? 
 
日記が膿んでるじゃ。。。。。たらっ!   

 
 

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2009/09/03

お釈迦さまには無駄がない!

010政権交代が、本格的に現実のものとなって
日本の政治も、変わりはじめているようですね。
 
 
期待しすぎることなく、失望しすぎることなく
中道の精神で、静かに見守りたいと思います。。。
 
わたしたちの行く末はいかに? 
 
 
 
とはいえ、現実は、そうそう変わるわけでもなく
管理人は、相変わらずな日常です。
 
 
後期になると、また、猛烈に忙しくなりそうで
本気でおびえる日々です。 
 
 
 
日々、スヴァダルマ(わたしの本務)を
テキパキこなしたい。。。
願望は、カッコイイか、現実はいかに?
 
 
課題、山積みですわ。。わはは、(笑ってる場合じゃないです)
 
013
 
 
 
 
 
===============
 
無駄なく生きたい管理人ですが、
 
つらつら。。。。
無駄に考えますと
 

 
ほんとに無駄のない人生。。。っていうか、
 
ぜんぶ無駄だけでできた人生。。。っていうか、
 


そういう人生をおくったお釈迦さま 
 
 
お釈迦さまは、合理のかたまりだった。
 

 
 
つらつら。。。
 

 
 
無宗ださまも読んでくれてる『如来所説』経
 
 
http://homepage1.nifty.com/manikana/canon/tathagata.HTML
 
 
この中に出てくる四聖諦、ほんと無駄なしですよね。
 

 
そして、四聖諦の元ネタである
十二支縁起の十二項目、これも一つも無駄がない。。
 

 
 
つらつら。。。。
 

 
 
先日、朝日カルチャーセンターで、『サンユッタ・ニカーヤ』22.47を用いて

「われ、わがもの」についてお話ししました。
 
 
そのとき、十二支縁起を使っていました。
 
十二支縁起とは
 
 
無明→行→識→名色→六入→触→受→

愛(煩悩)→取→有→生→老死  
 

 
この簡単な表のことです。 
 

 
無明(無知)が生ずることを原因として、
行(志向作用)が生ずる
行(志向作用)が生ずることを原因として、
識(意識)が生ずる
識(意識)が生ずることを原因として、
名色(名前といろかたち)が生ずる
名色(名前といろかたち))が生ずることを原因として、
六入(六つの入るところ)が生ずる
            ‥‥
生(生まれること)が生ずることを原因として、
老死(老いと死ぬこと)が生ずる
 
 
 
と読むことができます。これは順観と言います。 
 


また、同じ表で、「生ずる」とあるところを「滅する」と
置きかえて、読むことができます。
 
こちらの読みをもつ十二支縁起を、逆観といいます。
 
 
 
この表の「名色」と「六入」の二つについて、主に話しました。

そうしたら、
 
話しているうちに、不思議なことが起こりました。
 

 
 
表が、勝手に開いたり閉じたりするような感じになって、 
 
そのときのテーマにあわせて、玉すだれのように
 
表が動いて、縦横に枝分かれし、
 
その仕組みを指し示すのです。 
 
 
 
それで、わたしは、まるきり何も考えずに、表が示すとおりに

話し続けました。
 
 
智慧のことばが、勝手に出てくるに任せておいて 
 
ぜんぶ話し終わったら、ピッタリ1時間半で
 
きれいに終了しました。 
 
 
いや、何だったんだろう、という感じです。
 
 
話しながら、「何で、わたしは、こんなこと知ってンだろ」
 
と、思ってるんですが、どんどんことばが出てくるので
 
そんなこと、思ってる暇もないくらいです。
 
 
 
ああ、不思議!
 
 
 
つらつら。。。 
 
 

 
仏教って、こういうことか、って、気もします。。。 
 
つまり、無一物でもやってける!
 
頭の中に、表を一枚もってりゃ、いいんだもん!
 
裸一貫のお釈迦さま、ああ、すばらしい! 
 
 
どんなにビンボーでも、だいじょうぶ!
 
お釈迦様ほどのビンボーはないんだからねっ。
 
 
ああ、ありがたい、ありがたい。。。

ありがたがる方向が、なんか違うような気もするけど
ま、いいかっ!
 
 
 
そこで

 
 
お釈迦さまさま、さまさまが、  
悟ったことがらは、何ですか? 
 
 
っていう、質問には
 
 
答は 
 
十二支縁起ですっ!
 
 
 
って、これで、いいんだ、って思います。
 
 
これ一つあれば、

縦横無尽、

自由自在、

融通無碍
 
 
仏法のすべてが語れることがわかりました。
 
 
 
目立たないけど、「空」も「無我」も
 
入ってますねん。。。。
 

でも
 
 
 
あなたが 
 
「空」や「無我」を表に出して
 
 
 
大乗で、活躍したいなら、
 
もう一枚表があると便利だわ。。。。
 
 
うっふっふ。。。

 
そうそう、わたしの作った16通りの真理表 
 
あれさえあれば、論理の展開はぜんぶいけるから 
 
ブッダと龍樹の合わせ技が完成しますね。。。
 
  

 
いらなくなったら、二つの表をぽいっと捨てればいいんだし。。。 
 
  

 
ほんとに、ゴミを出さないお釈迦さま 
 
えらいわ!
 
 
 
とはいえ、そのわりには 
 
 
仏教にかんする経典・論書は
やまのようですね。。。
 
わはは。。ま、いいか、
 
 
無駄の多いのは、凡夫のサガですからっ! 
 
 
 
 
つらつら。。。

 
はっ!
 
管理人も、無駄にこんなこと考えて
油うってないで、さっさと仕事せんかっ!!
 
 

 
ほら、黄昏れてるでしょ、人生が。。。おお。。。 
003
 
 
 
 
 
 
落ちが、やけに決まってて 
悲しい。。。トホホ。 


 
 


 
 

 
 

 
 

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