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2009/08/20

お詫びと訂正

2009年8月18日づけで

「わたしが上座部を仏教の核にするわけ」と題して

記事を書き

その中で、上座部がもつ特徴をあげました。


その中で説いた 「小さい乗り物(小乗)」ということばについて

naagitaさまより、クレームをいただきました。

 
 
「小乗」は蔑称であり、差別語である

 
というご意見です。
 
 
そのように感じられる方が、たくさんいるうちは
 
このことばは、使うことができません。
 
 
それでは、ここで訂正したいと思います。

あわせて、naagitaさまの不快のお気持ちに
お詫びしたいと思います。
申し訳ありませんでした。
 
=========================
 
では、もう一度、部派の特徴を、あらためて
 
あげてみようと思います。

 
ことばは捨てますが、
 
その大事な特徴まで

捨ててはなりません。

 
では、昨日の記事より、少し抜粋して、
 
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

なぜなら、部派は、文字通り、小さな乗り物 だからです。
  
 
なぜなら、部派は、個(個人)の救済を謳うからです。 
 


そこに、ブッダの教えの特徴があり、重要性があります。
 
 
五蘊(身体と心)からなるものではありますが

わたしたちが一人一人が

悟りをめざすには

どうしたらよいかを
 
個人のレベルで

説いたものだからです。
 

基本は、「個」なのです。

だから、「個」の乗り物なのです。
 
 
 
だから、「個」を導くものなのです。 
 
 
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@


このように訂正したいと思います。

あと、まだ、記事の中に残っているところがありましたら、

適宜「個を導くもの」と言い直してください。
 
 
 
なぜ、わたしが、ここを強調したいかというと
 
 
ブッダが、膨大な人々をすくい上げてきたのは、 
 
 
一度にたくさんの人を救おうとしたのではない
 
 
ということを言いたいからです。 
 
 
 
ブッダは、求めてくる人、その人ひとりのために

教えを説いたのです。 
 
 
その人と向きあって、
 
その人のためだけの教えを 
 
その人のために
 
 
その人の心に語りかけたのです。
 
 
 
たった一人のための宗教なのです。
 
人と向きあうということは 
 
ただそれだけで
 
世界を変えていくと 
 
ということを 
 
ブッダは教えてくれるのです。 
 
 
009
部派の教えは、
 
そのブッダの基本姿勢を
 
守り抜いていくものだと、

わたしは

思っています。 
 

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コメント

めるろ~さま

こんにちは。

>小乗というのは、大乗に対して小乗ということですが、大小に差別観念があるのは現代人だからです。

そうですね。おっしゃるとおりだと思います。「差別」と受けとる人がいるので、こういうことになっています。

>小乗で表現される受話者は、
声聞乗と縁覚乗ですが、これは、<一人で菩薩道にいく。>という意味ですね。

「菩薩道(にいく)」という表現が、適切かどうか、ちょっと疑問ですが、「一人で」行くのは、やっぱり、その通りです。

>しかし、何も知らない人が見たら差別語になるというだけです。

文句を頂戴したのが、テーラワーダの方ですから、こういうと怒られちゃうかもしれませんが、とにかく、差別の問題を離れて、学問的に、大乗と小乗のちがいは、検討するべき課題ではあると思っています。


投稿: 管理人エム | 2009/09/26 17:09

エムさんへ

小乗というのは、大乗に対して小乗ということですが、大小に差別観念があるのは現代人だからです。

小乗で表現される受話者は、
声聞乗と縁覚乗ですが、これは、<一人で菩薩道にいく。>という意味ですね。
大乗というのは、菩薩道の中でも<皆と一緒に菩薩道を行く>という抽象表現になっています。これは、声聞縁覚乗は、自利の菩薩道であり、大乗は、自利利他の菩薩道であるという説を取ります。

ゆえに、小乗という表現は、差別的な表現ではなく、そもそもの菩薩道の違いであり、それを含めて諦観するのが仏道というものです。
「小さい」という意味の小乗ではなく、
<自利の菩薩道>という意味の小乗ですので、決して差別語ではありません。
しかし、何も知らない人が見たら差別語になるというだけです。
「小乗仏教」で別に構わないのですが、
中々<本当の仏教>が日本に広がっていないので、どうしてもそういう色眼鏡で見てしまうのですね。

投稿: めるろ~ | 2009/09/26 06:23

エム先生ぃ。。。

あら、ヤダ。す、す、すみません。。。
私がスレっからしだっての、バレてしまいましたよー。。。
(元からバレバレ?)


>言い争わずに、冷静に検討できるということを示さないと、仏教徒>になれないヨ、って、こういう課題がみなさまに与えられました。

あら、ヤバっ。新たな課題が与えられてしまいました。。。
特に「冷静に検討」ってところ。


>だって、特定の仏教に属さないけど、仏教に興味のある人って、
>いっぱいいるじゃないですか。
>みなさま、仏教を知りたいんですよね。

ほーんとです。「今は」特定の「部」分よりひとつの本質が
知りたい「みなさま」のひとりに入るであろう私でした。
部分や個が知りたくなるときは「それである」っていうところを
特定したいときに関係してくるでしょうから。


ちなみに、、、
私にも予定調和が起きました!前記事を投稿したときは
ページを更新する前だったんで、次記事の「ことばを捨てる!」
読んでなかったのです。


>何が起きても、仏教のすばらしさを宣伝できるって。おい!

ほ、ほんとです。。。@o@


で、「智慧の仏教」と「方便の仏教」の仮名(読みは[けみょう]?)
なのですが両者はしょっちゅう入れ替わるというか、同じで
あるというか、そういう時が多々あると思うんですが。。。

どんなに乗り物がスバらしくても、中味がわかんなかったり
流れに乗りたいと思わないと気分がノリノリにならない個人的
自乗の方が大きいと思う私は個人主義かもですねぇ。。。

投稿: おちゃらけ | 2009/08/21 20:52

おちゃらけさま~

>ってか、もー、エム先生ったらぁー、アレでじゃないですかぁ?
>この訂正も「折り込み済み」だったんじゃないですかぁ~?
>(語尾アゲ)

チャウチャウ、チャウンチャウ!

あんまりすばやく反応しちゃったもんだから、予定調和みたくなっちゃったんです。
 
縁起です、縁起!

いや~、仏教は、すごいですね。。。深いですね。

何が起きても、仏教のすばらしさを宣伝できるって。おい!

言い争わずに、冷静に検討できるということを示さないと、仏教徒になれないヨ、って、こういう課題がみなさまに与えられました。
 
って、いってるわたしですが、なんか、こういう展開、自分でも、予想もつきません。。。

>しっかし、サンガ以前の個の「個人」として個の領域に対している
>とき、「いや~ん、もぉバカ(ぼん)ったらぁ♪」って「好きな人」に
>しか言わないです。(モチ、個人的なこだわりだと思いつつ)

「個」の領域は、とっても大事だと思います。
だって、特定の仏教に属さないけど、仏教に興味のある人って、いっぱいいるじゃないですか。
みなさま、仏教を知りたいんですよね。

それなのに、こんなところでけんかしてたら、誰もいやになってしまうと思います。

いろいろの宗派が、仲良くみんなで宣伝したら、ええんとチャウか。。

っていうところで、ブッダ論理学をよろしく。。。(これが言いたかった?チャウチャウ)

 


投稿: 管理人エム | 2009/08/21 18:27

あららぁー?
私は思いっきり「ひっかけ問題」だと思ってたんですけど。。。

PC(パソコンじゃなくってポリティカルコレクト)なコレクト要求は
ポリティカルな視点から出てきますから、ある意味このクレームは
至極まっとうな「模範解答」ですよね。当然の反応かと思います。


=============
ここで強調したいのですが、以下の意見はクレームを入れた
naagitaさまを批判するつもりは一切なく、ごくごく「個人的感想」です。

しかしながら、しかしながら。。。
マナカニ読者ならば縦横斜めウラまで読むまないと
「うっかりトラップ」を踏んでしまうのをイロイロ見て来ました
ので。。。(汗)

ってか、もー、エム先生ったらぁー、アレでじゃないですかぁ?
この訂正も「折り込み済み」だったんじゃないですかぁ~?
(語尾アゲ)

だって先生はことあるごとに「仏教徒」ではないとおっしゃって
いましたし、学者さんの足場から動かないようにしていらっしゃい
ますでしょ?

その結果、「言葉にこだわらない」という至極まっとうな仏教論理
の基本のキがクレームを縁起して提示できたワケですから。。。
(ムフフ)

> つまらない面子ばかりにこだわって、一体なんですか。
> 二人とも恥ずかしいと思いなさい。ブッダの子でしょ。。
>小ちゃんも大ちゃんも。

っていうエム先生のコメントが出てきたので(折り込み済み
だっていう)私の勘、やぱーり当たってるかも?

私もどこかに所属しているワケではないので、信徒としての
仏教徒ではないんですが、とりあえず五戒を守りたいと
思うと自動的に仏教徒とカウントされてしまうらしく。

もちろん、サンガを尊敬しているのはいうまでもないですし、
その伝統から大変な恩恵を受けております。

しっかし、サンガ以前の個の「個人」として個の領域に対している
とき、「いや~ん、もぉバカ(ぼん)ったらぁ♪」って「好きな人」に
しか言わないです。(モチ、個人的なこだわりだと思いつつ)


> そのように感じられる方が、たくさんいるうちは
> このことばは、使うことができません。

多分、これ以後も使うことはできないと思います。
そこに「違い」を見る方がたくさんいるうちは。。。


> ことばは捨てますが、
> その大事な特徴まで
> 捨ててはなりません。

「だから」結果として↑が残るのですね。
おぉ、スヴァー(場)らしいっ!
サードゥ、サードゥ、サードゥ!

投稿: おちゃらけ | 2009/08/21 17:01

>それが完全であるというつもりはありませんが

ここに、錯誤する完全があることを、
なぜ見ることができないかと疑問に思います

不完全は、完全がなければ縁起しませんが、
完全を観るには、
不完全ではならないわけです
ここに錯誤する“完全”があります

厳密な言い方は、
厳密な生き方にあり、
言い方にあるのではありません

*****

誰にでも理解はあります

すべての人に平等に備わる
自分なりの理解を言うのは
言わないことと同じです

そこに、言う、意味を求めれば、
理解を求めることはできません

理解は、理解にはありません

投稿:   みともり   | 2009/08/21 11:04

みともりさま

>この意味を、理解できていないようです

わたしは、わたしなりの形での理解はあるつもりです。信仰的も、文献的にも。もちろん、それが完全であるというつもりはありませんが。
この空海のことばの出典は、『華厳経』「十地品」の普賢の行願のところです。これは、密教にも、『無量寿経』にも、大きな影響を与えています。ですから、本当は、こうした背景を踏まえて、解釈しなければなりません。
ただ、そういった視点を踏まえても、今、みともりさまのおっしゃった解釈は、妥当なものと思います。

先のコメントは、「厳密ないい方ができなかったのは、私の手落ちで、申し訳ありませんでした」という、「照れ」を込めた、おわびのつもりでした。
失礼がございましたら、お許し下さい。

投稿: シャン坊 | 2009/08/21 10:50

許す、許さぬというところではなく
( (笑)ですか ? )

「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば我が願いも尽きなん」

この意味を、理解できていないようです

空海は、「願」として、生きているということです
“本来” 「生」とは、「願」として、
「世間」としてあるのです
今も生き続けるということは、
「願」を受け取る「生」があるということです
その「生」が、
我がものとされる「自我」の「正体」です
「願」は、空海によって起き、
「自我」に起き、
大日如来の“姿”によって、生きています

“わたし”が見るのは、“その姿”ですから、
「本来清浄」「菩薩居」となるのです

「生」という意味を生きているのではなく、
顕わされるところが、顕わすところで、
其処を知れば、此処が分かります
「同行二人」の一人は、自らであり、
二人は、「世間」なのです

(人は、二人の中で生きているのです)

投稿:   みともり   | 2009/08/21 07:55

みともりさま、ごもっともです。〈笑〉

大乗でも「個」、特に、つきつめていけば「わが身」が問題になることを言いたかっただけです。(あたりまえのことですけどね……)

至らぬ点は、お許し下さい。

投稿: シャン坊 | 2009/08/20 23:05

>「親鸞一人がためなり」(浄土教『歎異抄』)

「親鸞一人がため」は、禅の「己事究明」とは相いれません
そのように捉えるところを、否定するのが。
「絶対他力」です

我が身を捨てて(自我を放下して)、
己事究明により、仏といたる、ところが、禅で
それを否定するところが浄土宗(親鸞)です
究明するところは、煩悩具足の業を持ちける身で、
それを見据える、自らを否定するのです

本来、仏であるところを究明するところが、
己事究明の禅です

親鸞においては、禅の己事究明から、仏にいたることさえ、
賜りたることなのです
如来の身ではない、我が身をもって、知るところは、
仏智ではないのです

徹底した、自己放棄という、ことにより、
自己を知るのではなく
自己“蜂起”を見据えなければ、
他力は見えないということです

「念仏」は、禅も、密教も超えて、
はからいを、根底から否定します
御身(如来)であることさえ、
賜るものなのです
(煩悩具足の我が身から賜りたるものなのです)
(その我が身が、御身に引きかけられることに拠るのです)
( 「歎異抄」 後序 より )

投稿:   みともり   | 2009/08/20 21:06

シャン坊さま

「訂正とお詫び」が、なんともステキです。

チベット仏教は、ほんとに、おっしゃるように部派の教えを大事にしているんですね。

>ただ、チベット仏教(ゲルク派)では、「小乗の輪廻と解脱がわからなければ、大乗も口先だけのものになる」と口をすっぱくしていいますけど。こういった話を、密教の灌頂の時も、延々と聞かされる訳です。

わたしも、ダライ・ラマ14世のお話をお聞きして、すごく感心しました。。。知りませんでした。。こんなに大事にされてるなんて、という感じです。

>しつこく、しつこく、燃え続けるのですよ。

やっぱり熱いです! 

投稿: 管理人エム | 2009/08/20 17:25

訂正とお詫び:

「いかんが菩提とならば、いわく如実に自心を知るなり」(密教『大日経』)

でした(「いわく」を入れ、「自身→自心」)。どうも粗忽者で、お恥ずかしい次第です。

投稿: シャン坊 | 2009/08/20 17:03

どうも、さっそくにご丁寧なコメント、恐れ入ります。そうですね、その通りですね。

「問えば」キチンと、しかもあったかく答えが出てくるのが、エムさまの良いところですが(このあたり、やはり「母心」ですね〈笑〉。
ただ、「学問的な語り」としては、「最初から」そうした前提が表明されていると、あらかじめ誤解も防げて、なお良いのですが……。(おい、大ちゃん、生意気ダゾッ!)

大ちゃん、さらに頭にのって……

>今までの、小乗と大乗の議論では、その点が、まったく出てこなかったではありませんか。まったく!

現代日本の一般的な言説としては、そうかもしれません。
ただ、チベット仏教(ゲルク派)では、「小乗の輪廻と解脱がわからなければ、大乗も口先だけのものになる」と口をすっぱくしていいますけど。こういった話を、密教の灌頂の時も、延々と聞かされる訳です。

「大乗・小乗比較論」の場面ではありませんが、大乗自身の文脈で「まずは救いは、個!」(さらに、いえば「自身」)というのは、むしろ、あたりまえのようです。
「いかんが菩提とならば、如実に自身を知るなり」(密教『大日経』)
「親鸞一人がためなり」(浄土教『歎異抄』)
「己事究明」(禅)etc. etc.……

>みなさま、熱く語ってください!
>炎上するまで。。。そして、灰になるまで。。。

大ちゃんが目指すのは「無住処涅槃」ですから、「衆生尽き、虚空尽き、涅槃尽きるまで」(空海)(つまり、永遠に)燃え尽きることも、灰になることもありません。しつこく、しつこく、燃え続けるのですよ。

「歓喜信受、作礼而去」……

投稿: シャン坊 | 2009/08/20 16:03

シャン坊さま

わぁ、熱いです!
なんか、またまた、うれしいです。。ちょっと、意味不明です(汗)

>大乗が別に、「マス」で救済をする、という訳ではありません。

そうです!!!
大乗のお話をするならば、そこを、また、強調したいのです。

個人の救済の延長として、できるだけ多くの人にマッチしたノウハウを考えようとしているのが、大乗ですね。


>大乗がさらに広い「方便」を用いる、ということになるのでしょう。

そのとおりだと思います。方便の多様さと使いやすさが、売りですね。
その意味で、大衆化を図っているのが、大乗と言えると思います。
しかし、救済それ自体は「個」を対象とするのです。

今までの、小乗と大乗の議論では、その点が、まったく出てこなかったではありませんか。まったく!

つまらない面子ばかりにこだわって、一体なんですか。二人とも恥ずかしいと思いなさい。ブッダの子でしょ。。小ちゃんも大ちゃんも。

ちょっと、怒ってみました。。。

これは、冗談と受けとめてもらってよろしいですが、

しかし、よく見てください。

今までの議論は、何かおかしいですよね。

「大乗がたくさんの人を救えるんだ」、という意味が、どういう意味かさっぱりわからず「大乗」と唱えていたということでしょう?違いますか。

だから、「小乗」と言われた部派の人たちも、何か釈然としないものがあって、怒るはずですよね。
その怒りは、なんとなく納得できます。

>小乗」という言葉への、恐らくは南方上座部の方からの異論に対しては、訂正版のブログまで出されるのは、なぜでしょう?

おお、ありがとうございます。
とてもいい質問です!
ここですよ、うれしいですと言ったのは!

なぜなら、ことばを捨てることがいかに大切か、ということもまた、ブッダの教えだからです。

第一義諦の教えを実践してみました!

これが、戯論寂滅の、華麗な離れ業です。
ブッダのアクロバット飛行です。

ですから、明日には、「訂正のお詫び」を書いて、第一義諦を世に示した最近作、誰かさんの書いた

『龍樹と、語れ!』に言及してみたいと思います。

みなさま、熱く語ってください!
炎上するまで。。。そして、灰になるまで。。。

投稿: 管理人エム | 2009/08/20 13:23

さっそくですが、「文句」です〈笑〉。まあ、許して下さいますね。

大乗が別に、「マス」で救済をする、という訳ではありません。もちろん、エムさまにそのおつもりはないでしょうが、そう、誤解される可能性を感じましたので、一応、説明させて頂きます。

大乗でも、具体的には、あくまで「対機説法」で、向かいあう一人一人を救うはずです。
それを象徴的に示したのが『観音経』に説かれる観音菩薩の「普門示現」(相手に応じて、姿を変えて教化すること)です。密教のマンダラも、この精神と同じです。
大乗の教化も「個」へのものですが、前にもコメントさせて頂きましたように、(少なくとも大乗の側からいえば)大乗がさらに広い「方便」を用いる、ということになるのでしょう。因明(論理学)を含む、菩薩の「五明処」も、その方便であるはずです。

『般若心経』で、その観音菩薩が、智慧第一の声聞・舎利弗に、その「個」すなわち「五蘊・十二処・十八界」を「空じる」智慧門(=般若波羅蜜)を説いているのも、その1つの姿、といえるかもしれません。
観音菩薩でも、相手が別人ならば、また、別の形で法を説くこともあり得るでしょう。

いずれにせよ、議論が沸騰して、さまざまな異論が出されるのがこのブログの1つの特色でしょうが、「小乗」という言葉への、恐らくは南方上座部の方からの異論に対しては、訂正版のブログまで出されるのは、なぜでしょう?
ほかにも、異論はいろいろと出されたかとも思いますが……やはり、これ「だけ」は、どうしても、ということでしょうか?

わたくしも、エムさまのスタンスは、一応、理解するよう努めているつもりですので、その理由も何となく分かるような気もしますが……
いずれにせよ、このあたりの「気分」は「難しい」ですね。わたくしも、今回の議論からは、そろそろ撤退したいと思います。(はたして、できるでしょうか?〈笑〉)

投稿: シャン坊 | 2009/08/20 10:54

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