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2009/08/18

わたしが、上座部を仏法の核にするわけ

004

 
 
 
 
 
ケナフと言うんだそうです、これ。

6月の終わり頃、
小さい双葉の鉢をもらったのですが、

庭に植えたら

こんなに大きくなりました。

==========
 
小さいものは


大きくなります。。

==========

今日は、これをテーマにしようと思います。


 
★1★  部派仏教は、小さい乗り物です。

やっぱり、ここを言わなきゃダメだ!

って、気がしてくるのです。

 
 
わたしが、上座部の仏教を、

いちおうの基礎におく

理由のひとつです。
 


 
もう一つの理由は、

★2★ 上座部は一切経を保存しているからです。 

上座部が、ただ古いからではありません。
 
 
★2★ は何でしょうか?

一切経をもつということは、

ブッダの一切智に

言及する資格を得ているように思われます。

一切智者としてのブッダを、示しうるでしょう。

 
もう一つの理由は

★3★ 上座部は、経典の語順を大事にしているからです。

それは、ブッダの論理を保存していることを意味します。

上座部が、たんに整っているからではありません。

 
★3★ は何でしょうか?

語順を保持することは

ブッダの論理を保持すると同時に

ブッダの語りを保持してもいますから

倫理も示しうると思います。 
 
 
 
ではでは、最初にもどって
 
★1★ は何でしょうか?


今や、蔑称として顧みられない 「小乗」ということば。

しかし、仏教をよく知る人は

これはおかしいと気づくでしょう。

 
無我を説く仏教に、「蔑称」のことばはないはず。。。
 
 
       ならば
 
 
このことばは、復活させてもいいのでは?
 

 
 
なぜなら、部派は、文字通り、小さな乗り物 だからです。

そこに、ブッダの教えの特徴があり、重要性があります。
 
 
五蘊(身体と心)からなるものではありますが

わたしたちが一人一人が

悟りをめざすには

どうしたらよいかを
 
個人のレベルで

説いたものだからです。
 

基本は、「個」なのです。

だから、「個」の乗り物なのです。
 

サンガ(僧団)がある、というかもしれません。

でも、これも、個の集まりにすぎず
基本は、個人の悟り、を補佐するためのものです。
 


『スッタニパータ』「犀の角」の章64には

葉の落ちたパーリチャッタ樹のように、
在家者の諸々のしるしを除き去って、
出家して袈裟の衣をまとい、
犀の角のようにただ独り歩め

と、説かれています。


犀の角のごとくに一人歩む修行者は
 
一人で悟るのです。

 
ここに、小乗の、厳格なる教えが成り立ちます。
 


 
これは、核なのです。
仏教の核は、個なのです。
 


龍樹が、マンゴーの実に喩えたものです。

======================
十二因縁、苦集滅道、三十七品、四沙門果のような

このような教説を仏の正義という
======================
(『方便心論』一・三・七・一)

と龍樹は『方便心論』で語ります。


 
とりあえず、ここをキチンと説いているものを

仏教の基本としよう

ということなのです。

小乗(個)が、しっかりとしていれば
 
 
いくらでも


大きくなることができる
 
 
 
大乗仏教は、小乗仏教から生まれてくるのです。
 
 
小乗仏教(タネ)が、しっかりしていると


大乗仏教(樹木)は、迷わず成長できるのです。  


どんどん生い茂ることができるのです。
 

 
龍樹が、マンゴー樹林であるブッダの法の外側に

荊棘の林をめぐらせて

その実を守ったのは、

小乗を守るだけではなく
大乗をも守る目的をもっていたからだろうと思います。


 
小型船をしっかり運転できるものが

大型船の運転手になれるのです。
 
 
 
こういうわけで、

わたしは、

上座部の仏教を
小乗仏教として
仮に
仏法の核において

見ているのです。
 
 
 
こうすれば、大乗仏教も

とてもよくわかります。

密教もよくわかります。


それは、
小乗仏教をよくよく知ることによって
自然と知られてくるのです。

急がば、回るのが

輪廻人生の

基本の技なのです、ワン。。。。

 
 
あらゆることが無常なのですから
 
どこかに、しっかり足場を作らなくちゃね。。。
そうすると
007
 
 
 
 
 
こんな実がなるかもね!

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コメント

ガム さま 

あら、こんなところにコメントが。

ありがとうございます。
何だっけ、という感じです。

>「小乗を軽蔑」は卑下しているという意識を貴方が選択したからです。

naagitaさまの「小乗を軽蔑」ということばを、わたしも、かれに同調してしまい、「卑下の意識」をもって受け取って、それで、かれに謝った、と、ご理解された、ということですか。

そうなら、ちがいます。
悲しみを見たからです。

只一人は、いろんな意味がありますね。
おっしゃるように、只一人で悟るものはいない、ということもほんとうです。
「みずから知ったのであるから、誰を師とあげようか。わたしに師はいない」というのもほんとうです。
「二人していくな、一人で行け」というのもほんとうだし。

何でしょうね。うまく言えませんが、

煩悩のあるとき、人は誰でも、只一人

って、どうでしょうか。どうかしらねぇ??

投稿: 管理人エム | 2011/08/19 10:34

こんにちは。

「小乗を軽蔑」は卑下しているという意識を貴方が選択したからです。

只一人は、意味が違います。悟りへ向かう時系列で考えましょう。

そして、只一人で悟れる人は存在しません。

投稿: ガム | 2011/08/19 00:46

めるろ~さま

>小乗というのを自利の菩薩道という意味で使うのであるならば、

やっぱり、ちょっと、ここに引っかかりますね。

菩薩道、という言い方はしないのじゃないでしょうか。
声聞乗と言いますし。声聞(サーヴァカ)であって、菩薩(ボーディサットヴァ)とは呼ばないので、何か違和感があります。

とにかく、冷静に検討できる環境作りからはじめなければならないかもしれませんね。

投稿: 管理人エム | 2009/09/26 17:20

エム様へ

もう一つ、小乗というのを自利の菩薩道という意味で使うのであるならば、
目指すものが同じなのに、
「小乗のお坊様」などという表現は、
通常使いませんね。

縁覚乗が独覚乗と呼ばれるのは、
そういう自利の菩薩道という意味です。

相手を呼ぶ時には、〇〇菩薩と呼ぶことはありますが、ワザワザ<一人の菩薩>と
呼ぶことはないのですね。
修行は一人でするものです。
そういう意味では、すべての修行者が小乗なのです。
しかし、利他の菩薩道を修行する者が、
大乗の菩薩道に行く者ということですね。(これも大乗の菩薩とはいいませんね)

小乗という言葉が、大乗側から述べられた云々の説がありますが、もしそうならば、
その時代に、大抗議があって然るべきです。そういう講義の文献があれば別ですが、僕は特に、小乗という言葉に差別的意味を持たせていません。
しかし、これらをいうのが面倒なので、
小乗という言葉を使っていません。

それを知識人が云々というのは、ちょっと違うと思います。

投稿: めるろ~ | 2009/09/26 06:40

Oさま、

わたくしも自宗には愛着を滝のように注ぎ、
他宗には……おそれと横恋慕を泉のように湧き出しております。〈笑〉
(そして、近代仏教学には浮気を?)
まあ、「仕事柄」こうナンデモアリでいかないと、務まらないところもありますので……お許しを。

身辺が落ち着いたら、またご連絡さし上げます(また、仕事でももめてるんですよ……。〈トホホ〉)

さて、これは一般論ですが……

「部派or小乗」「大乗」関係論は、結局、どう見るかで決着はつかない問題ではないでしょうか?
「現存する」伝統仏教でも漢訳仏教・南方上座部・チベット仏教、近代仏教学でも日本では戦前、戦後では平川彰先生までとそれ以降、そして欧米etc.etc,……どの視点から見るかで決着はつきませんよ! これは、エムさま風にいえば、一種の「六句論議」のようなもので、違った体系間での議論のデッド・ロックになるだけです。

こうした議論は捨てて、自分の信ずる道を行くのが、少なくとも「仏者らしい」生き方であるように、「個人的には」思います(この立場を、押しつけはしませんが……)。
信仰にせよ、研究にせよ、自身の立脚地点(依り所)は必要でしょう。それを、エムさまは、「作業仮説として」南方上座部に置かれている、ということのように思います。
もちろん、批判的に見れば、そこにある「体系」「語り」「論理」は、まずは「ブッダのもの」というよりも、「パーリ仏典に見られるもの」というのが慎重なはず……とは思いますが、「作業仮説として、これをブッダの立場(厳密にいえば、その論理的な「一側面」)を伝えるものと見なす」ということならば、解釈学的方法論として、一応は、許されうるものではないか、と考えます。

投稿: シャン坊 | 2009/08/20 08:54

>いつもながら、素晴らしい。

大乗を観る人は、此処を観ます
上座部の人は、
何を観るのでしょうか  ?

私も、反省し、
今後、
あなたの保つ(アルタである)“自我”
には、
「小乗」という、単語を、
語り掛けないようにします

ただし、
私のアルタである“自我”には語り掛けます

投稿:   みともり   | 2009/08/20 08:43

naagitaさま

おはようございます。

>「小乗」というのは蔑称であり、差別語です。常識のある知識人は使うべきではありません。

わかりました。どうも失礼しました。
「小乗」は歴史的な手垢がついたことばではありますから、さまざまな感慨を催されるのももっともなところと思います。

naagitaさまが、そのように感じられるなら、それでは上座部の人々を代表した意見と考えて、「小乗」ということばは使うのをやめます。
「個人の救済を基本とする」と言い方で、お話しすることにしましょう。

それならどうでしょうか。

それでは、ここでお詫びして訂正することにします。

投稿: 管理人エム | 2009/08/20 08:18

>一読して甚だ失望しました。

望みは、誰が持ち、
誰が運ぶものですか ?  

“生滅”は、縁起しています  

>悦に入るおつもりでしょうか? 
>バカバカしくて話になりません。

これを言って、憤っている ことに、
(あなたが) 悦に入っているのです

(この事に気づけぬ自我に、自我が憤ります)
                

( 言っている意味が、分からないでしょ ?? )

>>大乗仏教は、小乗仏教から生まれてくる

その通りです
縁起を知るものは、真理を知ります

種が小さく見えるとき、樹木は大きく見えます
        

>>小乗(個)
を知るものは
大(大衆)を知ります

( ここにしか大小はありません )

大小にかかわらず、菩提心があります
非難する“ところ”にそれがあるのか,
大小の縁起を求める“ところ”にそれがあるのか、
蔑むあなたがあって、
求める “K” があります(ここに縁起が起きています)


ヒーナとされるのは、受け止める輩の心にあり、
マハーは、大衆と、ともに(生きる中に)無ければ、
法幢を立てるところがありません

>>どこかに、しっかり足場を作らなくちゃね。。。
>>こんな実がなるかもね!

ここが、受け止められない心(輩)に、
ヒーナという、“さげすみ”が起きるだけです
“心”は自らという“自我”に起きるのです
>「小乗」というのは蔑称であり、差別語
という「心」は、蔑むところにしか起きません
「バカ」と言うものが「バカ」です
自らが「バカ」だと知る「心」に、
「バカ」が無いことが分からないうちは、
「バカ」に拘ります(それを執着と呼びます)

>「小乗のお坊様」
このことばに、蔑みと、へつらいがあることが見えないうちは、
縁起を知るところにありません
「長老」という言葉を使うとき、
「短若」が縁起しています
「お・さま」は、何に対して付けられるかを知るとき
使う心が生まれます(自我 に!芽生えます)

知らずに使えば「侮称」になる(と知る)人もいます

投稿: みともり   | 2009/08/20 06:20

シャン坊さま、

どうもありがとうございます。

自宗には愛着を滝のように注ぎ
他宗には瞋恚を炎のように燃やす

ようにはならないように自戒したいと思います。

投稿: o | 2009/08/20 05:06

……一読して甚だ失望しました。「小乗」というのは蔑称であり、差別語です。常識のある知識人は使うべきではありません。「小乗」とは実際に差別・侮辱の文脈で使われてきた言葉であって、上座仏教徒が自称したことはありません。差別語でないとお思いならば、今後は上座仏教の長老方に対して、面と向かって「小乗のお坊様」と言うようにしてみてください。それで相手が抗議したら、「やっぱりあなた方はブッダ論理学が解ってないのね」と悦に入るおつもりでしょうか? バカバカしくて話になりません。

投稿: naagita | 2009/08/20 02:34

語順と文法と話法の全文解析に、
期待したいです。

初期仏典も、玉石混交かもしれないし、
語順から、生シッダッタのセリフかどうか
大胆に仮説を打ち出して欲しいところです。

投稿: 莓矢毒蛙 | 2009/08/20 00:18

これは失礼いたしました。

でも、あのご考察は立場は別にして、見事でしたよ! 感嘆とショックが入り交じった気分、でした。
ちょっと、おじけづきまして……

今、公私ともに少し多忙なのと、少々、体調がすぐれないのですが、しばらくしたら、また、ご連絡もさせて頂くこともあるかと存じます。
今後とも、よろしくお願い申し上げます。

投稿: シャン坊 | 2009/08/19 10:16

シャン坊さま、

私は仏教好きのエロ・オヤヂなので、
そういった僭越極まりない呼称はどうかやめてください。
その言葉も対象も価値が下がってしまいますので、
このエロ・オヤヂが例ですと

投稿: o | 2009/08/19 07:46

ニンマ派のマハー・パンディタさまの後に、ゲルク派の落ちこぼれが言上するのも、面はゆいのですが……

>小型船をしっかり運転できるものが
>大型船の運転手になれるのです。

>こういうわけで、わたしは、
>上座部の仏教を
>小乗仏教として
>仮に
>仏法の核において
>見ているのです。

>こうすれば、大乗仏教も
>とてもよくわかります。
>密教もよくわかります。

これは、不肖、わたくしの「お祖師さま」たるツォンカパ・ロサンタクパ大師も、「善哉、善哉」とおっしゃることでしょう……自宗では「外には小乗、内には大乗、秘密には密教を修する」といいますが、これは、言い換えれば、「小乗の大地に、大乗の種を蒔き、密教の花を開く(そして、付け加えれば、衆生済度の実を結ぶ)」ということでしょうから。

>これは、核なのです。
>仏教の核は、個なのです。

これも、全仏教の基礎である「小乗」の立場として、頷けます。
厳格な小乗戒(波羅提木叉)は、「別解脱律儀」(=「個」の解脱のための戒め)とも解釈されますから。その意味では、エムさまのおっしゃるように、肯定的意味をこめて「小乗」ということばを、復権させてもいいのかもしれません。

パンディタさまがおっしゃる、

>ですが私は当然、伝統を中心に行きます。

これも、わたくしの「個」としての信仰では、この道でいきます。ただし、「対他的」な場面では、「未了義」として、批判的な立場も取りますが……(このあたり、あまり突っ込まないで下さいね。)

>道は違いますが、通じる所が嬉しい所です。

「下根(げこん)」のわたくしには、なかなか通じるところが見出せないこともあるのですが、先のブログの最後の方のコメントで、それも明らかになりつつあるようです。

まさに、「雨降って、地固まる」かもしれませんね。

投稿: シャン坊 | 2009/08/19 00:30

oさま

こんばんは。

>ですが私は当然、伝統を中心に行きます。

それがいいです!

>道は違いますが、通じる所が嬉しい所です。

なぜなら、道は違ってないんです、今のところ。
どういうわけか、自分であれこれ試行錯誤していくと、伝統の道と同じになっています。

けっきょく、無駄に考えてるだけだったりして。。。

>とお二人のようにダジャレでやってみました。

格調高いダジャレ(笑)ですね。かこよいかも 

投稿: 管理人エム | 2009/08/19 00:12

エム先生、

いつもながら、
革新的な方法と
核心的な内容と
確信的な根拠に言葉を失います。

ですが私は当然、伝統を中心に行きます。
道は違いますが、通じる所が嬉しい所です。

単なる感情ですが。

とお二人のようにダジャレでやってみました。

ちと、かこわりかも

投稿: o | 2009/08/18 23:16

oさま

サンキューです。

ああ、文句じゃなくて、よかったです(笑)。

熱い議論の話題は、たくさん意見があって、それもなかなかいいですね。

なんだか、いろんなものが見えてきそうです。。

投稿: 管理人エム | 2009/08/18 22:32

いつもながら、素晴らしい。

投稿: o | 2009/08/18 20:33

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