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2009/08/21

ことばを捨てる!(「智慧の仏教」と「方便の仏教」)

さぁ、がんばるぞ!っと。

昨日の続きです。

昨日、わたしは、ゴミ箱に

「小乗」ということばを、ぽいっと捨てました。
 
 
今日の話題は、まず、

1.ことばを捨てること

2.なぜ「小乗」と言ったか

3.捨てたら、それから、どうする

の三つです。

 
★1,ことばを捨てること★
 
「小乗」ということばを捨てたのは、

直接的には、「蔑称である」という

コメントをいただいたからです。
 
 
歴史的にいろいろな執着や煩悩によって
手垢のついたことばではありますから、
 
このようなコメントが来るということは、

このことばに新しい意味を盛り込んで用いても
うまく機能しないと思い、

ぽいっと捨てました。
 
 
捨てることには、意義があります。
 
 
これは、ブッダの重要な教えの一つです。
 
 
「言い争ってはいけない」という教えに通じます。
 
たしかに

ことばに執着せず、それを捨てることが

言い争いに至らない道だとわかるでしょう。
 
 
しかし、

ことばをそんなに簡単に捨ててだいじょうぶ?
 
 
だいじょうぶです。
 
生じて滅する仏教の世界では、

ことばもまた生じて滅するからです。 
 
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拙著『龍樹と、語れ』の第三章
「龍樹、『言い争わない論法』を開く」

では、ことばは捨ててもだいじょうぶ、

という

お話が書いてあります。
 
 

 
『大智度論』の中に、「最高の定説(第一義悉壇)」

という項目がありますが、

それが

「ことばを捨ててもだいじょうぶ」という

保証書になっています。
 
 
ブッダと龍樹は、ことばの世界のお掃除屋さん!
 
 
ほんとに全部捨てても問題ない、というのです。
 
捨てると 
 
さわやかです。どれだけさわやかかというと
 
一切の言語表現の道を超えて、心の行いは滅して、
どこにもよりどころがなく、さまざまな存在に言及することがない。
諸々の存在の実際のすがたは、初めなく、中なく、後もなく、
尽きることもなく壊滅することもないものである。

(『大智度論』「大正蔵」25,p.61中)
 

と、このようにさわやかなのです。

これを戯論寂滅といいます。
 
 
ことばで語られるさまざまなことが、すっかり止んで
静かになってしまっているからです。
 

==================
 
さて、捨ててすっきりしたのはいいのですが

今回は、もう少し問題があります。
 
もう少し、はっきりさせたいこともあるからです。 
 
 
いずれ戯論寂滅に至るにせよ、
 
その前の段階で
 
まだウロウロしているところだからです。 

そこで、ちょっと困ったのです。


★2,なぜ「小乗仏教」と言ったか★
 

困ったのはわたしです。
 
捨てたことば「小乗」には、

わたしは
 
新しい意味を詰め込んで、

新しいことばとして使いたかったのです。

でも、

このことばを捨てたら、

意味が宙ぶらりんになってしまいました。
 
 
 
 
これは、とても大事です。
 
新しい意味は、

仏教をどうとらえるか、という観点を

含むことになるからです。
 
 
とりあえず

わたしが言い表したい仏教は、
 
▼▲ブッダの言行録である『阿含経典』を基本におく仏教▼▲

のことです。


そのような仏教を表す呼び名としては

現在のところ
 
1.部派仏教

2.初期仏教

3.原始仏教

などの呼び名があります。

しかし、これらは、いずれも

仏教の歴史的な変遷に注目して

出てきた呼び名です。
 

歴史的な解釈が入っています。
 
部派仏教は、ブッダの滅後さまざまに分裂した仏教を指します。

初期仏教も、同じような意味です。

原始仏教は、ブッダの直接の説法により近いところにある仏教
という印象を与える呼び名ですが、上の二つとそう変わりません。

 
いずれも、その思想内容を伝える呼び名ではありません。
 
 
で、わたしが指し示したいのは、

歴史的にどう変遷してきたか

という観点での仏教ではなく


思想的にどう変遷してきたか

という観点での仏教です。
 
 
およそ2500年前、ゴータマ・ブッダが、世に現れ

法を人々に説きました。

その教えは、仏弟子たちによって編集され

経(教え)と律(戒律)

として保存されています。
 
 
歴史的に変化はしますが、

これらは、”思想的に”一つのまとまりをもっています。

大きな枠の中に入れることができるでしょう。
 
 
紀元前後に活発になる大乗仏教と名づけられる仏教運動に対比して見ると、

大きな特徴をもっているのです。

 
この大乗と呼ばれる仏教が、いかなるものか、によって

それ以前の既存の仏教は、名前がつけられてきたのでした。


それが「小乗」という呼び名だったわけです。
 
したがって、今、「小乗」という呼び名を捨てると

この「大乗」という呼び名も、なんとなく居心地悪く

浮いてしまいます。
 
 
思想的な変遷、という観点から見た、仏教の呼び名を

見つけなければならないでしょう。

いわゆる、

小乗仏教といわれた仏教の位置にくる仏教

大乗仏教といわれた仏教の位置にくる仏教

を何と名づけたらよいでしょうか。

 
小と大が、対比的であることによって
それぞれの思想的な特徴を示していたのですが

それも今「小乗」を捨てたことで、
特徴も目立たなくなってしまいました。

 
まあ、仕方ありません。
 
当面の課題としては
============== 
もう一度、思想的に

これら二つの仏教を、

解釈し直す

という使命が与えられたものと

考えます。
 
==============

これは、しばし時間をかけて検討していきます!
 


★3 捨てたら、それから、どうなる★
 
では、わたしの仏教に対する見方をはっきりさせます。

 
わたしの研究の方法は、

仏教を
 
歴史的な観点から

思想的な観点から

これらの二つを組み合わせて
 
思想を探るというものです。 
 
  
◆1 歴史的な観点は、従来どおり

時間的な経緯にそって、思想・活動などの変遷を

客観的にトレースしていく作業です。
 
 
◆2 思想的な観点は、ブッダの論理から
 
仏教思想の多様なヴァリエーションの中に

論理的一貫性を明らかにしていくものです。
 
 
◆1により、仏教の変遷が知られ

◆2によって、仏教の本質が知られます。
 
仏教思想がいかに変容しようとも

それを、「仏教」という名の下におけるかどうか

この◆2によって判定できると思います。

 

実際には、

ブッダの論理を抜き出すという目的で

まず、パーリ語経典を用いました。

 
ここで問題になるのが

なぜ、パーリ語聖典を用いたかです。

まず、大事なことは
 
■1 経典が、完全な論理体系をもつもこと■

 
条件を満たせば、上座部にかぎらず、どのようなものでも、

ブッダ論理を抜き出すことは可能です。
 
  
しかし、

もう一つ条件があります。
 


■2 ブッダのことばにかかわること■
 


この二つの条件を満たすのが、
 
上座部の守るパーリ語聖典なのです。

だから、わたしは、これを用いました。
 

この場合思想の一貫性・完全性を問題にしますから
歴史的な新古は、とりあえず問題になりません。 

そして、

完全な体系から抜き出されたブッダ論理によって
 
とくに、漢訳阿含などの資料を用いなくても
 
論理的には、龍樹の論法まで簡単にわかります。
 

 
 
北伝の漢訳阿含やその他の資料は、

歴史的変遷を
探る上では重要ですが

たとえなくても、

龍樹の論理を知る上では問題ありません。
 
 

 
 
ここに、パーリ語聖典と龍樹論書のあいだの

論理的整合性が、得られます。
 
 
これは
 
拙著『ブッダと龍樹の論理学』(サンガ)で

明らかにするとおりです。
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これによって、

龍樹以後

龍樹に影響を受けたすべての仏教が、

仏教として、

論理的に保証される最低限の基準を満たすことになります。
 

 
龍樹とつながることが、のちの仏教にとって

いかに大事であるか

これでおわかりでしょう。
 
 
 
論理を明らかにし、論法をもつのは
 
龍樹です。
 
 
このような思想的な基軸が

パーリ語聖典→龍樹論法→各宗派
 
とつながっていくのであれば、

仏教は
 
一つの壮大な思想文化へと

広がっていくことが可能です。

 
こういうスタンスで、わたしは研究しています。 
 
 
 
スケールはでっかいのが、よろしいです。 
 
 
それで、問題なのですが
 
これまでの
「小乗」の位置にくる仏教を何と呼び

「大乗」の位置にくる仏教を何と呼ぶか。。。
 
 
 
仮の名前ですが
 
わたしは、
 
前者を智慧の仏教
 
後者を方便の仏教
 
 
と名づけておきたいと思います。。。
 
 
どうでしょうか?仮ですからね。

いい呼び名はないでしょうか。。。 

 


 


 


 
 

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コメント

謎の超音波男さま

ちょっとサイトを覗かせていただきました。

「あそびにきてほしい」とありましたが、どちらかといいますと「もてあそばれそうな」気がして、早々に失礼してしまいました。

興味のわかせようがなくて、わたしには無理でした。パスです。どうもすみません。

投稿: 管理人エム | 2010/11/13 10:46

ホームページを更新いたしました。あそびにきてください。

投稿: 謎の超音波男 | 2010/11/12 05:43

詳細はホームページをごらんください

投稿: 謎の超音波男 | 2010/10/07 03:51

謎の超音波男 さま

こんばんは。

論理学教室にも書き込んでいただいて、どうもありがとうございます。

拝読しながら、未知の世界なので、ほーっと思っていました。

何と言っていいかわからないので、コメントできませんけど、おもしろく拝読しています。

どうもありがとうございます。

投稿: 管理人エム | 2009/12/06 02:24

お経とホーミーの謎と、インド仏教の謎、日本の神話の謎、モンゴルのフーミンの謎 神と紙と髪と上と守の謎

5年の歳月をかけて調べた内容が上記の事でした。
2009/4/ 現在 37歳
私が高校の時にお経とホーミーは同じ位置にあると直感はしていました。
32歳の時にホーミーができることに気がつきました。
脳がしびれタバコが止めれたのには驚きです。

投稿: 謎の超音波男 | 2009/12/04 22:51

おちゃらけさま

うけまちたか!
ありゃ、シャン坊語がぬけんぞお。。

>宗教も政治も「何か」に向かって、方向があるがごとく
>「どこかへ」進むようなシステムなのは確かですね。

しかり。進みながら、生・住・滅の大きな動きに翻弄されることも、これまた、たしかかも、ですね。

>ようやく「やったぜ、We did it!」と宣言できるのは
>何億年後のミロクさまの世まで待たないと
>いけないんでしょうか。。。

何億っちぃますか、何十億ちいますか。。。先は長そうですねぇ。。しかし、まあ、、Yes,We can! って、はっぱかけつつ進みましょうか。

投稿: 管理人エム | 2009/08/25 21:45

シャン坊さま

トリ・レス・怒濤の書き込み、かしこみかしこみ、ありがとうさんでございまおすぅ~。

最後の難関、エベレストの高さに積み上がった答案が、わたしを呼んでいる。。。ヤッホー、はよ、せい~

ああ、そうなんしそうなんです。。。答案山で!

>諍論は、ちないんでちゅからね〜〜! たとえ、無諍がテーマでも、でちゅ。

そうでちゅ!
「諍論しないでちゅ!わかったっ!」と、ブッダは、シャン坊国で、現地のことばで語ったでちゅ。。。ほんまか!

投稿: 管理人エム | 2009/08/25 21:14

ザレうたの自註:

>サンサーラは全て、喜劇なり。

「サンサーラが楽しい」というのではありません。
まずは、「真に受けるべきでないもの(顛倒)」を、それとして、ありのままに知れば、苦を離れる、という意味です。ただし、これは通仏教的解釈で、大乗・密教なら、もうし少し、文字通りに近い解釈も可能かもしれません。

「意志の勝利」については註釈の必要なし。「シネマ」云々は男のいつわらざる本音、かも?〈笑〉

……ということです。
これで、わたくしも、おちゃらけさまと同じトリ(三)・レスですね。〈笑〉

投稿: シャン坊 | 2009/08/25 17:16

おちゃらけさま、
すぉ〜お〜で〜す。エムさまどぇ〜〜す。

でも、ヘカテーさまにも、ザレうた、つくりました。おこらないで、にゃ。

投稿: シャン坊 | 2009/08/24 23:16

かの人をわれに語れ! ムーサよ!
(かいせつ1:ホメロスの帰敬偈です)

かのスレッからしは、見たり。その夜空に輝く、銀の月影のごとく麗しき、智慧のまなこにて。
>んで、喜劇ってのは「ヒト」の話を真(逆)に受けないゆえに笑えるんじゃないかと。(ひっくりカエル私)
喜劇は空なり、仮名なり、サンサーラは全て、喜劇なり。

おお、いましめの重荷を、投げ捨て、笑え! 踊れ! 
運命を担い、永劫回帰と戯れよ!
そは、ディオニュソスとツァラトゥストラの福音なり。
>つー、こともあり、幻の映画、レニ・リーフェンシュタールの「意思の勝利」を近々見に行く予定です。(@渋谷)
されど、忌むべきものは、かの力、満ちみてる巨人らの蛮行なり。
いかに、その絵姿を美しく、飾れども。

かのヘカテーは聞くや? 渋谷のシネマ映せる、薄闇の中で……
>妥協案が出たそうです。
>答えは
> 「今は仕事が大事さ、でもオマエはずっと大事だよ♪」
そは、妥協案にあらず。若さの美に輝ける(?)、汝が恋人が述べし、真理なり!
(かいせつ2:「真理」はギリシャ語で「アーレティア」、これは「隠れなさ」とも解釈できます。「意志の勝利」にいったん手を染めて、指弾されることになったハイデガーのおじさまが、晩年に愛したことばです)

わが日々の生業は、渋谷のはずれにて営めり。
もし時の熟しなば、スレッからしとも、知らずして、すれ違うこともあらん。

……ギガントマキアまで、1週間を切れり。

投稿: シャン坊 | 2009/08/24 23:10

シャン坊さま

ん?

私はポテトサラダも作らず、採点もせず、
研究者でもないので、前レスはもしかして
エム先生宛でしたか?

横レスでしたら、こりゃまたすんずれい
しました~♪

投稿: おちゃらけ | 2009/08/24 22:50

シャン坊さま
おっと、パソコン閉じるとこでした。
まいど~、レス追加ね~!(飲み屋か?)
(すみません、三連続で投稿してしまって・・・)

そうですねぇ、なんかポリティカルかもです。
そーゆー時期だから?PCなつっこみのおかげだから?

で、根源的でポリティカルな難問、
「アタシと仕事とどっちが大事なのぉっーー!!」
っていうフェルマーの最終定理以上な超難問に
妥協案が出たそうです。

答えは
「今は仕事が大事さ、でもオマエはずっと大事だよ♪」

ですって。。。

フッ。。。単なるノロケ合戦じゃん。
と、超シラけたスレっからしでした。
重要度のおっきぃ、ちっさいより
今の優先度が大事なのねぇ~。

投稿: おちゃらけ | 2009/08/24 22:11

エム先生

>なんか、ちょっと、嫌みに聞こえたら、気のせいです。。。
アハハハハ!!!
ウケてしまいました。そこんとに折り込まれてしまいました~。

そうそう、気のせいです。
私が気にする気のせいですね。(プフフッ)

キング牧師の願いのごとく「まだまだ」
I hava a dream! のドリームな時代なんでしょうか。。。
This is our hope. This is the faith that I go back to the South with.

何十年後に「もぅガマンなんねぇ!Changeだぜ!」と言い、
ようやく「やったぜ、We did it!」と宣言できるのは
何億年後のミロクさまの世まで待たないと
いけないんでしょうか。。。

=============
それはさておき、
宗教も政治も「何か」に向かって、方向があるがごとく
「どこかへ」進むようなシステムなのは確かですね。
「ここではなくどこか」へ動きたい民衆が欲する限り。

つー、こともあり、幻の映画、レニ・リーフェンシュタールの
「意思の勝利」を近々見に行く予定です。(@渋谷)
「私」と「信仰」と「真」と「信」についてちょと考えられるかなぁ?

投稿: おちゃらけ | 2009/08/24 22:07

みともりさま
いえ、最初っから静かなのはいいんです。

あの時聞こえた「ゴロゴロガッシャーン!」って雷鳴、
空耳だったのかしらん。。。?大きな音の後は沈黙も
大きく感じますので。

んで、喜劇ってのは「ヒト」の話を真(逆)に受けないゆえに
笑えるんじゃないかと。(ひっくりカエル私)

スフィンクスのナゾを解いたのは元祖マザコンと言われる
悲劇のヒーロー、オィディプス王でしたっけ?

「他人」の言ってること魔に受けてしまった悲劇ですねぇ。
アジャセ王の悲劇も連想します。あ、アングリマーラも
ヒトの話を鵜呑みにしまったんですよねぇ。(うーん・・・)

おっと、
北の島のマーヤさんから伝言ゲットでーす。
 カラマ族目線の経過観察でオケー?Kalama Sutta AN 3.65
 カラマーゾフの「三兄弟」みたいなのは辛いわよぉ。。。

投稿: おちゃらけ | 2009/08/24 22:06

なんだ、ムーサさまは、まだパルナッソスでネタを「検討中」か? なんだか、霞ケ関みたいなパルナッソスやな。
それともいもサラダか? 採点か? ネタ切れか? いや、けんきゅうやろな! きっと、「だって、研究者ですもの♡」 

「捨つることを、捨つ」……この「捨」の無限の反復こそ、いと、あわれなれ……。
いや、「戯論寂滅」の話ではありません。(諍論は、ちないんでちゅからね〜〜! たとえ、無諍がテーマでも、でちゅ。)

それは、夫婦円満の秘訣です! アモーレ♡♡♡!!!

投稿: シャン坊 | 2009/08/24 20:20

みともりさま

こんばんは。


>“さらけ出す” 効果は ?

それは、空の効用として。。。


仏教では、身口意の業を説きますから、一つ気をつけても、すぐ他の業が顔を出してしまったりします。。モグラたたきのようですね。 

投稿: 管理人エム | 2009/08/24 18:33

おちゃらけ 様 ( 様管理人 エム 様 )   

“ シーン ” って、お嫌いですか ?   

>小さい大きいで あああ、この沈黙。なんとなく圧力

          

声が大きい !
 >あのぉ。。。(ヒソヒソ)
静かに !   

沈黙の“時”は、絶対にしゃべっちゃ ダメ !
コッ ! エッ ! ガァーッ !

         

>真実を心の中にしまい込むという効果もあるのかな

“さらけ出す” 効果は ?
  
          

投稿:   みともり   | 2009/08/24 09:36

苺矢毒蛙さま シャン坊さま おちゃらけさま

ども!遅くなりました。。。

>シーンと。。。

戯論寂滅~~~っの図でございますね。。。。

なんか、この沈黙の中に、真実が浮かびあがってきますね。
人々の心の中に、去来するものは、どんなに抗議したくても、抗議の対象にできません。

ことばを捨てる、という「仏道の実践」は、ある意味、真実を心の中にしまい込むという効果もあるのかな。。。って、思います。

なんか、ちょっと、嫌みに聞こえたら、気のせいです。。。

けっこう、寂滅って、すごいですね。。。

次回のブログは何だろな?

投稿: 管理人エム | 2009/08/24 08:42

おお、流れてしまいましたね。

シャン坊様、みともり様、マニカナ先生
レスありがとうございます。

ペンギン先生の掲示板にも、へんな異端審問みたいな書き込みがあったし、なんか宗教っぽくなってきましたね。

論争に関わりあわないのが一番。
信者と学者じゃなくて良かった。

投稿: 莓矢毒蛙 | 2009/08/23 22:52

続・お詫びと訂正:

先のコメント末尾「ギガマントキア→ギガントマキア」(ギリシャ語)
お詫びして、訂正いたします。(「われ、人生の旅半ばにして、道を失い」頭が退化してきたらい……です。)
行方を決めるのは、一人一人の……。

ということで、エムさま、よろしく!

投稿: シャン坊 | 2009/08/23 18:43

エムさま。

>しーんと。。。

ですって。これでめでたく「止論」と相成りましたでしょうか?(ハッピーエンドは「喜劇」……という欧州古典詩學のひそみにならえば、これも「喜劇」的な幕引き?)

「宗論は勝っても負けても釈迦の恥」とも申します。
よって、次回の「カレー日記」は、「教義論争」にかかわらぬ、善き楽しみのことどもを語りたまえ! いざ、気の早い秋風の精のごとく、足早に。
緑なす、北の島におわします、ムーサよ!

ギガマントキア(神々と巨人神族との戦い)まで、あと1週間……。

投稿: シャン坊 | 2009/08/23 18:01

あらぁ。。。しーんとしてますね。
しーんと。。。

 フフフ、、、北島マーヤ。目の前の三叉路は今・自分が
 立ってる足場を入れて四辻じゃないかしら?
 それが△と□の十字路のマンダラのナゾで4-2-3の
 スフィンクスのナゾなのよ。

 さて、あなたのガラスの仮面の素顔はどれなの?
 オーホッホッホー!

ううう、さらにしーんと。。。

だってぇー、元祖は元祖と思われてるから検証の対象に
なっちゃうわけだしぃ~。ehipassiko!なハズなのにぃ~。

小さい大きいで
あああ、この沈黙。なんとなく圧力。

論議に不向きな無記なのですね。はい。
主がいてこそコメディは成り立つので退散~。


つーわけで、あのぉ。。。(ヒソヒソ)
シャン坊さま、バロック・ロマンとゴシック・ホラーのお話は
またいつか~♪(ガォーーーッ!)

投稿: おちゃらけ | 2009/08/23 14:32

ゴロゴロガッシャーン!っ と、光と轟音の、バロック・オペラのスペクタクルシーンさながらに現れた、大怖畏の女神、おちゃらけ・ヘカテーさまへ♡♡♡

ヘカテーさま、そうですね! 知ってますよ。(場合によっては)阿修羅のように三面を持ち、手に松明を持って、スピリチュアルに「危険」な三叉路を好み……野獣や青少年たちに支配力を持つ、古代ギリシャの、恐るべき女神ですね! スキヤワ〜〜、こんなお方〜〜。(でも、こんなコウイおなごはんで、よろしゅおますのや? まあ、わて、コワシ・ウルワシのあねごはん、めっちゃ好きやねんけど。〈疑似・関西弁ですので、語学的な誤謬はお許しを。〉)

古代の「魔術の女神」のようにいわれますが、本当は、キュベレー、アルテミス、デメテルのような「大地母神」の畏怖すべき面を表した女神、と見るべきなのでしょう。
「大地母神」は、しばしば慈愛と畏怖の両面を見せ、このあたりインドの「母神(マトリカー)」たちにも通じますね。特に、畏怖の面では、カーリー、ドゥルガーなどのシヴァ神の恐ろしい妃たち、ダーキニーやヨーギニーなどの一種「魔女」的な女神たちのイメージは強烈です。

去る5〜6月頃、東京・三鷹のオリエント専門の博物館「中近東文化センター」で開催された「ペルガモンとガンダーラ」展で、ペルガモンの遺跡から出土した、ヘカテーの魔術用の祭壇が展示されていました。
ブロンズ製で三角形の板で、中央に呪物を置く台があり、3つの角にヘカテーが3人、それぞれ浮き彫りにされています。この形は、以上のインドの「母神」信仰が、仏教の後期密教(タントリズム)に取り入れられた、畏怖すべき智慧の女神・ダーキーのマンダラにもそっくりでした。
このダーキニーについては、前、前、前、前回の「カレー日記」にチベットの仏像の写真と、わたくしのコメントがあります。また、ご存知かとは思いますが、最近復刊された津田真一先生の『反密教学』に詳しく出ています。
まあ、わたくしも「カーリーダーサ」ならぬ、一種の「ダーキニーダーサ」(「ダーサ」はしもべ、の意味)ですので〈笑〉。

なお、ボッティチェルリの「春」に出てくるのは三美神で、9人のムーサはバチカン宮殿の「ラファエロの間」のパルナッソスの神々の壁画に出てきます。
ラファエロの壁画では、中央にイケメン・アポローンがリラを奏で(でも、絵ではヴァイオリンみたいです〈笑〉)、周囲を古代ギリシャの「女子九楽坊」(ちょっと、古いか)が囲んでいます。もちろん、いずれもすばらしい麗人ばかり。きっと、タレイアさまも、この中にいるんでしょうね。

こちら、東京は一日、晴天ですが、せっかくの休日も仕事疲れで昼寝で終わりました〈トホホ〉。夕方の風は、もうさわやかです。
「松高くして、風一声の秋あり」(『和漢朗詠集』「夏」)

では、ムーサとヘカテーへ、スヴァーハー!

投稿: シャン坊 | 2009/08/22 18:25

シャン坊さま

>『大智度論』の「第一義悉檀」が言及されていました。こりゃ、片山先生も、なかなか……(う〜む〈汗〉)

そうそう、、そうなんです。
わたしも、拝読して、「ほーっ」っと思いました。
たしか、oさまも推奨されていたご本です。。。いい本を出版していただいて、出版社のアンチャンさま(変ですね(笑))にもよろしくお伝えください。

>慈悲の故に涅槃に住しない

ここで、けっこう、ぐっときますよね。。
まあ、捨てた「小乗」ですが、これは、ここだけの話、蔑称ではないと思っています。

この「涅槃に住しない」というここを守ることが、ものすご~~く苦しいので、菩薩が退転しないように、おまえの行く道は、大乗だぞ、悟ったらおしまいだぞ、という意味で声聞乗を「小乗」と言ったと思っています。悟りが誘惑になりますね。
声聞乗に行くのは、菩薩の死、というような言い方をするのも同じような気がしますね。

声聞が誘惑になるほど、そのくらいキツイ道だということだろうと思います。
退転とか敗壊とか、ということばがしょっちゅう出てくるのもそれを示しているようです。

いもサラダになるか、いもコロッケになるか、最後までわからない、っていう、気まぐれかーさんで、いいのかっ(笑)!

投稿: 管理人エム | 2009/08/22 17:54

みともりさま

>たとえ、それが、正法(正見・正覚)であっても、
>捨てる意味があります

>捨てることが、正法の目的でもあるからです

そうですよね。
正法を捨てる。。。。こんなことを説く仏教って、すばらしい、と、つかみ取りたくなります。。。

つかんで、それから、捨てる

この順序ですね、うん!

投稿: 管理人エム | 2009/08/22 17:31

シャン坊さま
まんまみぁ~!

三美神・カリテスさま達の一柱、喜劇の守護神タレイアさまですって~?
あの、ボッティチェルリの「春」の中にいらっさるぅ~?
身に余りすぎますぅ~~!

喜劇と言えばコメディアデラルテと「仮面」は切ってもきれない関係で、
ダンテの神曲の原題がDivina Commedia(神聖・喜劇)で、
あと、、、うちの近くのJA全農スーパーの名前が「米ディハウス」・・・
多分、お米を毎(米)日っていう意味かと。。。(脱力)

ちゅーか、「個人的」には「みっつの神」さまならヘカテーいち押し。
またの名をトリビア(意味→三道)さま。

http://en.wikipedia.org/wiki/Trivia_(mythology)
 ↑もしmythologyの前後が文字化けしてたらその部分は
  半角の両括弧です。

見かけ怖いけど、元はいい神さまだったらしいのはアフラマツダな
阿修羅さまと同じだったらしく。

あっ?仏教のお話はいずこへ?

いえいえ、とお~くのほうでゴロゴロガッシャーン!っていう
雷鳴が聞こえたものですから。。。怒っちゃダメイヤ~。。。

意味がダメなら、カトちゃんオノマトペッ♪(ちとズレますが)
 ・どんな症状もぴったり清浄しまっす!
 ・だいじょうぶ~、っていうおまじないがありますよーん。
 ・(じっと眼をみつめて)退院したら今後(こんごう)のこと
  考えようね。

あ、雲行きが、、、しっつれーしまスタコラ~~

投稿: おちゃらけ | 2009/08/22 15:02

エムさま、これは追伸です〈笑〉。

インド仏教史の「前半」がお得意のエムさまのご参考になればと思って、「後半」好きな私が、あれこれ申してきましたが、その締め括りとして、最後に2つ、私の好きなことばを引用させて頂きましょう。
今回のテーマである「智慧」「方便」についての大乗の見方は、この2つだけでも、余すことなく示されていると思いますから。
いずれも、大乗菩薩の目指す「無住処涅槃」を飛べたものです。

「智慧の故に生死に住せず、慈悲の故に涅槃に住しない」
——『摂大乗論』末尾の「無住処涅槃」の定義の一部です。「慈悲」が「方便」にあたります。

「菩薩の智慧ある者は、生死に迷う衆生のいる限り、常にかれらを利益して、しかも涅槃におもむかない。
 般若と方便の、般若波羅蜜によって、あまねく衆生を力づけ、あらゆるもの、あらゆる生存を清らかにする。」
——『理趣経』(密教化された「般若経」)末尾の「百字の偈」の前半。「般若と方便」の「般若」は、もちろん「智慧」とも訳せます)

投稿: シャン坊 | 2009/08/22 09:54

< 問題のあるところ >

    

捨てるものを、所有しているかどうかは、
別の観点から問われます

仏教を捨てているつもりで、
煩悩を握りこむ ということが起き得るわけです

「仏教」も「捨てる」も、
自らの執着に拠り、理解された“名(識)”です

たとえ、それが、正法(正見・正覚)であっても、
捨てる意味があります

捨てることが、正法の目的でもあるからです

投稿:   みともり   | 2009/08/22 09:53

エムさま、

>こういう思想を分類して並べていく源流は、『梵網経』からはじまると思います。

本当にそのとおりですね。「様々な見解はあれど、そのよって来たるところを知らねばならない。それを知れば、見解への執着をはなれ、やすらぎに至る」という趣旨でしょうか。(おっと、思いがけず、どっかで毒矢毒蛙さま風な感じもしますね。)
今、それを確認すべく、エムさまがご購入されたという『パーリ仏典入門』(マイドアリー、って出版社のアンチャンがいってましたよ〈笑〉)p. 71を見たら、それに関連して、『大智度論』の「第一義悉檀」が言及されていました。こりゃ、片山先生も、なかなか……(う〜む〈汗〉)

思わぬところから、エムさまへの「援護射撃」が来たようです。
いもサラダ、食べ物としても大好きですが、息子さんについて申したのは、それを作ってくれる、こうした賢く、面白いお母さまがいらっしゃるからです。私の母は早死しましたので。

投稿: シャン坊 | 2009/08/22 08:57

毒家毒蛙 様

「仏教も捨てちゃえ」

握りこんでいるうちは、
使い用がありません
開けば落ちるか、見るだけです

どこかに落として、
使うところを開き、
使います

(ただし、誰かのために運ぶ時は、握ります)
(それも、行為ですが、、、)
( 通常は ! )
(今する事、したい事は、苦への対処です)

それは、仏教ではなく
(自分の?)行為です

教えに基づくものは、
教えとは違います

投稿:   みともり   | 2009/08/22 08:10

シャン坊さま

>実は、こういうことは、「インド仏教史の最後」に登場した、密教(と、それを含むインド後期大乗)の得意ワザなのです。

ほんと!そうですよね。

きれいに各宗派や学派の思想を整理して並べられるのは、後に登場するものの特権です。

インドでは、シャーンタラクシタの『タットヴァ・サングラハ』が有名ですね。

こういう思想を分類して並べていく源流は、『梵網経』からはじまると思います。

そして、歴史的に思想の(優劣の)順序づけを最初に行っているのが、たぶん『方便心論』でしょう。このあたりは見えにくいですが、ちょっとそう思うところがあります。

>こうした後期の論師の著作に、エムさまがもっと親しんで下さると、パーリ仏典と合わせて、もう「天下無敵」だと思うんですよ!

おっしゃるとおり、そっち方面もやらなくちゃイカンのです。将来の計画に入ってるんですけど、なかなか。。。汗)

いもサラダばっかり食べてるみたいですね。
最初のブログもいもサラダだったのかぁ。。。知らなかった。。。見たわね
(笑)
シャン坊さまも好物とはうれしいです。
何せ、北海道はジャガイモですから。

投稿: 管理人エム | 2009/08/22 08:02

苺矢毒蛙さま

きもちわかる!

そうだ、捨てちゃえ、そして、ほんとのブッダをつかむんだ~ですよね!

お釈迦様は、みんなのものだぞ!
苦しんでる人のものなのにねっ!

投稿: 管理人エム | 2009/08/22 02:50

毒家毒蛙さま、

わたくしの「議論には立ち入らない」という言明も捨てさせて頂いた上で〈笑! 訶、訶、訶……!〉

捨てて、どうするんですか。

まあ、金曜の夜だから、こんなヒマなこと、申し上げます。

投稿: シャン坊 | 2009/08/22 00:41

「部派」仏教も「大乗」仏教も「秘密」仏教も捨てちゃえ。

仏舎利信仰も捨てちゃえ。

仏像信仰も捨てちゃえ。

経典信仰も捨てちゃえ。

投稿: 莓矢毒蛙 | 2009/08/22 00:07

おちゃらけさま、

おひさしぶりでございます。訳あって、筆名「請問者→シャーンタカラ→シャン坊」と、「100年に一度の経済危機」の株式市場のごとく流動を続ける、常ならぬ、こわっぱ(ホントはオヤジです)にござります。

>おぉ、スヴァー(場)らしいっ!
>サードゥ、サードゥ、サードゥ!

オーン、スヴァーらしいっ! スヴァーハー!

どうも、タントラ好きなもんで、お許しを〈笑〉。流れるようなギャグの「言説(ヴァヴァハーラ)」、自在に笑って仏戒の心髄たる「自讃毀他」を犯さない見事さ、まことに心地よく響きました。

ムーサ(ミューズ)ってご存知ですよね。ギリシャ神話最高のイケメンたるアポローン配下の学芸を司る9人の麗しい女神さまです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%83%BC%E3%82%B5
よって、おちゃらけさまに、ダルマ・タレイアの御名を進呈いたしましょう! タレイアは喜劇の女神です。
ちなみに、エムさまにはユクティ・ダーキニー(論理の、天翔ける女神)の尊称を奉っております。

>学者さんの足場から動かないようにしていらっしゃいますでしょ?
一見、そうも見えますし、たぶん、そう見せたいんでしょうけど、わたくしは、エムさまは龍樹の「天啓(シュルティ)」を受けた「女聖仙」だと思っております。
だから、ユクティ・ダーキニーです。その行方は、凡夫の窺い知るところではありません。

>あら、ヤバっ。新たな課題が与えられてしまいました。。。
>特に「冷静に検討」ってところ。
今、しばらく、大好きなテーマの「智慧・方便」で、冷静に、ペダンティックに検討する「学僧」風を演じてみましたが、ひさしぶりに、おちゃらけさまの美声を聞いて、つい「地」が出てしまいました〈笑〉。
失礼があれば、お許しのほど。懺悔(さんげ)、懺悔……。

投稿: シャン坊 | 2009/08/21 23:07

エムさま、

もし何かのお役に立てたのなら、それは私にとっても幸いでした!

>こうやって、もう少し、仏教全体からみて、いろいろな分類を検討してみると、それぞれの仏教の特徴がはっきりしてくるかもしれません。
>仏教全体を視野に入れるということが大事ですね。

実は、こういうことは、「インド仏教史の最後」に登場した、密教(と、それを含むインド後期大乗)の得意ワザなのです。
日本では空海の「十住心」思想がありますし、インド後期大乗と、その直系の継承者を任じるチベット仏教では、この種の整理・分類は、それこそ無数にありますから。
南方上座部が、「ブッダに限りなく近い、最初期のインド仏教を、可能な限り忠実に守り抜こう」としたのなら、チベット仏教は「インド仏教の全ての〈かたち〉が出揃った段階の、最後期のインド仏教を、可能な限り忠実に守り抜う」としたといえると思います。
「伝承の純粋さ」では、いろいろと批判はできるにせよ、結局、パーリ三蔵の偉大さは否定できません。
それと同様に、「インド仏教のすべてを見通す展望の広さ」では、チベット仏教は否定できない価値を持つ、といえるように思います。
ですから、わたくしの個人的なお願いとしては、チャンドラキールティでもツォンカパでも、あるいはシャーンタラクシタでもミパムでも結構ですから、こうした後期の論師の著作に、エムさまがもっと親しんで下さると、パーリ仏典と合わせて、もう「天下無敵」だと思うんですよ!

なお、もう1つだけ、付け加えさせて頂きますと、
>前者を智慧の仏教
>後者を方便の仏教
ですが、少なくとも大乗(菩薩乗)の立場からいえば、
声聞乗は智慧の仏教
菩薩乗は智慧+方便の仏教
となるかと思います。あくまでも「大乗からの見方」ですが、声聞乗(と縁覚乗)が、自利を主とする(利他が皆無、という訳ではありません)阿羅漢の悟りにとどまるのに対して、菩薩乗が自利利他を完全に成就するブッダのさとりに至るのは、前者が煩悩を解脱する「智慧」の修行であるのに対して、後者では、それに加えて、限りない功徳を積んで、あらゆる状況で、あらゆる衆生を救うための「方便」の修行を伴うからです。
もとより、それは「三千世界を持ち上げるより重い」(『十住毘婆沙論』「易行品」)大変な難行です。ですから、菩薩には、それを成し遂げる「弘誓の甲冑」(広大な誓いという鎧)を身につける勇者、のイメージがあります。まさに「ナーガールジュナ」(龍樹、龍猛)は、それにふさわしい名前、ですね。

こうした大乗菩薩の「智慧・方便」双運が、初期大乗経典の『維摩経』に、「智慧を母とし、方便を父とする」と説かれているのは有名です。
この思想は『菩提資糧論』(これは、チャンドラキールティの『四百論註』に龍樹の作として引用されていますから、たぶん、その通りなのでしょう)に、色濃く反映されています。そして、密教の時代に至るまで、インド大乗の根本原理として、この上なく尊重されたものです。
また、『ラトナーヴァリー』には、菩薩乗と声聞乗では、「智慧」にあたる前者の空は、後者の滅にあたるものとして共通し、ただ、ブッダになるための菩薩の「方便」にあたる修行が、前者にしか説かれていない、とあります。これは、有名ですね。

以上、ご参考までに、議論に立ち入らず、基本的には、事実のみを述べさせて頂きました。

なお、突然、話は変わりますが、エムさまは「いもサラダ」がお得意なのですか! 最初の「カレー日記」以来、よく出てきますね。私も好物ですが、タマネギが苦手なので、それを抜いてもらいます。
これを満喫できる息子さんは、幸せですね!

投稿: シャン坊 | 2009/08/21 21:56

シャン坊さま

ありがとうございます。

A声聞乗
B菩薩j乗
C真言乗

すばらしい。きれいに特徴が出てますね。

こうやって、もう少し、仏教全体からみて、いろいろな分類を検討してみると、それぞれの仏教の特徴がはっきりしてくるかもしれません。

仏教全体を視野に入れるということが大事ですね。

シャン坊さま、いつもながら、ありがとうございます。

投稿: 管理人エム | 2009/08/21 18:35

>これまでの
>「小乗」の位置にくる仏教を何と呼び
>「大乗」の位置にくる仏教を何と呼ぶか。。。

「差別性」のない、伝統用語としては、
A「声聞乗」(ブッダの「声」を聞いた「弟子たち」の道)
B「菩薩乗」(「ブッダ自身のさとり=無上菩提」を求める人々の道)
がありますけど。この場合、密教は、
C「真言乗」(マントラを用いる「菩薩乗のヴァージョン・アップ版」)
となって、これで一応、インド仏教の範囲は、全てカバーできます。

そして、この分類法で便利なのは、それが聖典の分類ともうまくリンクできることで、
A「声聞乗」:1「経蔵」、2「律蔵」、3「論蔵」の「三蔵」(つまり、部派の三蔵)
B「菩薩乗」:4「般若波羅蜜多蔵」(つまり、般若経典。広くは、大乗経典一般も含められるでしょう)
C「真言乗」:5「陀羅尼蔵」(つまり、密教経典)
となります。

以上の内、5つの聖典の分類については、空海の『弁顕密二教論』巻下の冒頭に、『六波羅蜜経』の「五法蔵」説として詳しく出ています。
この経典は、漢訳時にかなり手が加わっていると考えられていますが、以上の分類自体は、一応、インド起源のものを整理したと見てよいように思います(個々の分類の名称は、それに類するものを含めれば、インドの様子を伝える他の文献にも現れますから)。

大乗経典や密教経典が、こうした伝統的な見方でも、部派の「三蔵」とは異質なものと考えられていた……というのも、示唆的ですね。

それでは、わたくしは、今回は歴史的事実だけをご紹介して、議論には立ち入らず「撤退」致します。

シャーンティ(平和・寂静)あれ!!!

投稿: シャン坊 | 2009/08/21 17:50

みともりさま

ああ。。。「ない」かぁ。。。

投稿: 管理人エム | 2009/08/21 16:49

      

 「 ない 」

     

投稿:   みともり   | 2009/08/21 16:23

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