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2009/08/16

業(カルマ)を語れ!輪廻を語れ!『ブッダの実践心理学』第五巻

002

 




今、大きなお鍋でジャガイモをゆでて
いもサラダを作ったとこです。。。
 
それだけで、疲れました。。。。
 

息子が帰ってくると、一気に食べ物がなくなる。。

胃袋が、底なし沼のようだわ 
 
==================== 
 
などと、言ってないで、

今日は、やっと、やっとですが

この書をご紹介したいと思います。 
 

 
   ジャン!
 

****************************
 
スマナサーラ長老・藤本晃氏 『ブッダの実践心理学』 第五巻(サンガ)

                  ― 業(カルマ)と輪廻の分析 ―

****************************
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もっとはやくご紹介したかったですが、
読むのに時間がかかってしまいました。

もう、何回か、読まなければ、
ほんとはいけないと思うけど、

とりあえず

 
渾身の力を込めて、この本を、ご推薦しておきます!!!!!
 
 
 
一言で言って これが     仏教     です!
 
 
 
仏教は、何を説くか? 
 
 
人々を救済するために、何を説いたかと言いますと
 
 
    輪廻  (わたしたちの生きてる世界について) 
 
    解脱  (そこからの脱出について)
 
 
この二つに、尽きるのです。
 
 
たくさんのことが説かれているように見えますが
 
わたしたちの苦しみをはらうために、説かれたことは
 
 
 輪廻 と 解脱    の この二つなのです。
 
 
 
現代人のもっとも苦手とするところです。
もっとも、理解しにくいところです。 
 
 
空の思想は、あんがいわかるような気がするのに

なぜか、この縁起を根幹にもつ 輪廻と解脱 が

わからないのが、現代人の欠陥なのです。
  
 
業(カルマ)とは何か?

輪廻の仕組みと心のあり方の関係はどうなっているのか? 
 
 
 
このような問題に、ずばっと切り込んだのが

本書です。
 
 
精緻な心の分析に、圧倒されるかもしれません。

心の生滅の連続を解明するメカニズムに、
頭がくらくらするかもしれません。

輪廻の行き先(趣)、地獄から天界までの本当の意味を
知ろうと眼を凝らしてしまうかもしれません。
 
わたしたちのいる世界(欲界)のほかにある
禅定の進んだ人たちの行く色界と無色界の不思議な世界に
幻惑させられるかもしれません。 
 
 
こんな輪廻なんて、あるもんかぁ~~!
とっても、しんじらんな~~~い!
 
 
と思っているあなた、そう、あなたですよ! 
  
 
そう、とりあえずは、それでいいのです。
はじめて、読むことがらなんですからね。
 
とっても、ついてけませんよね。。 
そうそう、わかる、わかる。。
 
 

 
あれ?
 
意外と管理人、話わかるんじゃ。。。
 
輪廻だ、輪廻だ、ってわめかないのか。。。
 
へぇ~、管理人も、オトナになったなぁ~。。。
 

 
 
でしょ!

でもでも、ま、それも甘いのよ。
 
ここまで、管理人が余裕もっちゃうのはね、

本書の内容が、輪廻・業にかんしては

最高だからなのだ!
 
どんな人も、この理論を否定できないと思う。

それだけ、論理的に詰めてあります。。。そこが、ミソ! 
 
 
だから、
 
だから?

そう!だから、
 
熟読したら、あなたは、いちころ。。輪廻のとりこなのです。 
 

 
ほんと、まじめに言うとね
 
 
 
ここに書いてあることがらは、  
 
よくよくものを考える人にとっては
 
心の中に残って、けっして!忘れられないでしょう。。。 
 
 
なぜって 
 
 
読んでいるうちに、自分が、実際、
 
本に書いてあるとおりではないか
 
本のとおりになってきてるんじゃと
  
ということに気づきはじめるからです。 
 
 
ここが、仏教の醍醐味であります。 
 
 
こんなことを、こんな風に、これだけ緻密に
解説したものは、ほかにはありません。
 
 
これは、一般の人にもわかるように書かれていますが
 
これは、アビダルマというむずかしい論書なのです。

部派の専門のお坊さんがブッダの法を研究したものなのです。
 
 
スマ長老さまと藤本先生だから、

これだけ論理を駆使して、
これだけわかりやすく
これだけ臨場感を伴って

語れるのです。  
 
 
死ぬことがこわくなくりますよ。
生きることの真実を知るでしょう。
 
 
そして、なにより大事なこと
 
それは何でしょうか。
 
 
本書の目的です。
 
はい!きみ、答えてみてよ。

 
 
ええ。。。そりゃ、

みんなの知らない

業や輪廻を説明して
 
仏教理解を深める、

ということなんじゃないですか。。 
 
 

 
あっさり言うと、ちがいます。 
 


ありゃ! 
 

 
たしかに、業と輪廻の分析とあるので

 
それらの説明は、詳しくなされています。 
 
 
 
しかし 
 
 
スマ長老さまが、ほんとに言いたいことは
 
 
これだと、思います。
 
 
心から叫んでいることは、これですね。熱いよ、スマちゃま!
 
 
善悪(道徳)を知って、より善く生きる

 
 
ここが、説かれている 
 
 
と、読まねばならない と思いました。  
 

 
 
たとえば、「仏教に病気治癒を期待する浅ましさ」という節では
 
 
スマ長老さまは、現代人が宗教に対して現世利益のお願いしかもたないことを

「結局みんな、宗教というのはヒーリングだと思っているのです」(p.196)
 
と、嘆いています。

 
そして、こう述べます。
 
======================
「癌が治ってほしい」とか「病気が治ってほしい」とか、
考えること自体情けないのです。
 
そうではなくて
「そんなもので宗教に行くな。
病院があるのはそのためでしょう。 
仏教は心を直すためにあるものです」
と考えてほしい。
======================
(p.197)
 
 
正論です。
 
病気を治すのは、病院なのです。

心を直すのは、仏教なのです。 
 
 
いま、ここで
 
「癌で死にそうなのに、なんてことを言うんだ
何てひどいことを言うんだ」
 
と、思った方、

それなら、さっそく読むべし!
 
病とは何か?死とは何か?
 
詳細に説明してくれます。
 
 
根底からくつがえされます。
死をおそれるな、より善く心を育てなさい! 

病気なんかで宗教に行くな! です。
 
心を直すために宗教に行きなさい! です。
 

 
だから、”本当の”仏教者の心は、清らかなのです。
(”本当の”、って、ところが、ちょっと、何ですが。。。汗)
 
 
心を直すところだからです。
 

さあ、読もう!
 
きみの心のために
 
『ブッダの実践心理学』第五巻!
 

================
このように 
 
仏教の、業と輪廻思想は、
 
人の心を直すために
 
ブッダが探り出し構造を明らかにした
 
倫理思想なのです。 
================ 
 
ここを読まないと
 
何のための輪廻か、何のための業なのか
 
わからなくなります。
 
 
奇妙なおかしな思想としてだけ

輪廻や業をとらえないでくださいね、って
 
言ってるのが、本書なのです。 
 

    ****** 
 
はぁ、力入っちゃったぁ。。。。
こんなに力込めたら、三回分くらい輪廻増えちゃうわ。。 
 
 
何言ってんだい。。
管理人の輪廻なんて、永遠に続くんだから
三回増えても、何も変わらんでしょ。。。

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コメント

シャン坊さま

これまで、どうも寸足らずな説明で失礼いたしました。

はじめから、ちゃんと説明しなくちゃダメですね。

でも、研究の方法論は、研究しながら、いつも反省していかないとダメですね。

これでいいんだ、という方法は、なかなかないわけですから、つねに模索し検討していく必要がありますね。。

投稿: 管理人エム | 2009/08/18 22:25

みともりさま

いや~、ほんとにほんとに一乗なんですねぇ~ 

失礼しました。でも、どうしましょ。。。困ったです。。

わたしは学問的な立場で書いているのですが、
みともりさまの場合、禅定的立場(?)ですから、ほんとに歴史的観点がいらないんですね。

なるほど。。。こんなにちがうんですね。

>一点を持てば、他点が縁起します
>中道が、
>不動の一点となります 

ああ、ここでも、こうなりますか。
でも、一点が、論理的立場だとすれば、他点は歴史的な立場で、そのどちらにもよらない、ということになりますと、

あんがい、わたしの立場と同じようになるかもしれません。。。   

投稿: 管理人エム | 2009/08/18 22:19

間違えて、下の日記にコメントしました
もし出来れば、重複するので、
削除願います(これじゃなくて、下を)


>直線が二つないと一点(仏法)を得ることはできない、という考えなのです。

一点を持てば、他点が縁起します
中道が、
不動の一点となります    
(今を正見する一夜賢者のことです)

その意味では、
スマちゃんの「取見」は、置いておいても、
南方に拠って、ダメというわけではありません

拠り方、
よりどころへの、「正覚」の問題です

投稿: みともり | 2009/08/18 13:22

おことば、すべてごもっともです。極めて筋の通ったコメントですね。m(_ _)m

>わたしは、仏法を正しく指し示す一つの方向が、上座部だと仮に認めて、ここを足場にしています。

>もっと他のものを見たい人には、他の経典が探されねばなりませんね。上座部が捨てた経典も、見なければならないです。

>歴史的な検討だけでは、どうも、仏法を指し示すベクトルが定まりきらないと思って、論理軸を歴史軸に加えたいと思っているのです。

このように、前提(前理解)がきちっと示されるなら、その仏法の解釈も、「解釈学的に」理にかなったものとして、うなずけます。
(ただ、龍樹が、「上座部の捨てた経典」に依拠することも、忘れてはなりませんが……しかし、今は、これは取り敢えずは、問題ではないでしょう。)

さすがは、ユクティダーキニーさま、懐が深い……
まあ、これだけ議論がエキサイトするのは、皆さん、まだ仏法への「志」は行き詰まっていない証として、見守ってあげて下さいね。

投稿: シャン坊 | 2009/08/18 13:01

>それぞれの語りを讃えて、

自ら(自我)に依り、    
自らの(見)識をたたえて    

>人々は争わず、

争うがごとく、争論し    

>気に入ったものを選ぶのです。

     

(Sn.762 気にいったところに、迷いがあります)

愛・取・有 となります
(華厳経・十地品)十住毘婆沙論、三界唯心に、
これが説かれています

唯識は、此処を明かします

一つで全部まかなうのが、大乗仏教です

“一乗”なのです   

投稿: みともり   | 2009/08/18 13:01

シャン坊さま

>ただ、それをパーリ三蔵「のみ」を以て代表させる点について、異論が出るのではないかと思います。

それは、とうぜん出ると思います。
でなければ、おかしいと思います。

パーリ三蔵は、ブッダの教えの論理を大切に守ったような気がします。ですから、論理をみたいなら、これだと思うのです。

もっと他のものを見たい人には、他の経典が探されねばなりませんね。上座部が捨てた経典も、見なければならないです。

わたしは、このような捨てられ失われた経典にも興味があります。

仏教を一つの方向から見るとき、もう一つの方向も出てきます。また、さらに別の方向も出てきます。
たくさんの見るべき方向は、どれか一つの方向が決まらないと、出てくることができません。

わたしは、仏法を正しく指し示す一つの方向が、上座部だと仮に認めて、ここを足場にしています。

他にも足場はたくさんありますね。
また、上座部の指す方向が少しずれたりすることもありそうです。

歴史的な検討だけでは、どうも、仏法を指し示すベクトルが定まりきらないと思って、論理軸を歴史軸に加えたいと思っているのです。

直線が二つないと一点(仏法)を得ることはできない、という考えなのです。

>パーリ三蔵も、やはり縁起する、無常な「歴史」の中での所産です。

そうですね。こういう見方によって、論理軸と歴史軸は交わりますね。
きっとここを探ると仏法が出てくると思います!

投稿: 管理人エム | 2009/08/18 12:42

>みともりさま

ご意見ごもっともと同感致しますが、アビダンマの分析は、スマ師の属する部派仏教徒が自らの「識」を終焉させるため、というような行為の産物と理解すれば、彼らの表現がどのような必然性・前提を伴って表出されるのかということがよく分かってよいのではと思います。エム先生はそういうことを仰っていると私は理解しましたが、一冊だけ所持するとしても、この本は大変よいのではないかと思いました。

投稿: 見者マンボー | 2009/08/18 12:33

みともりさま

>これが、私が、
>スマちゃん・フジちゃん を、見つめる目です
>(紹介があっても、すぐには買えない理由です)

いんですよん。

一つで全部はまかなえないのが、宗教ですから。

色即是色であっても、それぞれの語りを讃えて、人々は争わず、気に入ったものを選ぶのです。

このように思います 

これが、色 即 是  でしょうか?

どう思われますか?  (わたしもこれでいってみよっと)

投稿: 管理人エム | 2009/08/18 12:22

>「癌が治ってほしい」とか「病気が治ってほしい」とか、
考えること自体情けないのです。

情けは無用だからないのではなく、
あるところに、囚われるから、無いのです
 
>そうではなくて

そうなのです

>「そんなもので宗教に行くな。

“そんなもの”のある世間を、
そんな“ところ”ところとせず、
生きているのが、
“あなたを含めた(!)”衆生なのです

>病院があるのはそのためでしょう。 

病院は、心を直すところで、
「色」を“直す”必要はありません
「色即是色」が南方仏教で、
「色即是空」が、仏陀の教えです

>仏教は心を直すためにあるものです」
と考えてほしい。

すべての「行は、
「行」をFIX(修復)するために無常であります
無常とは、そういう意味を含意しているのです


これが、私が、
スマちゃん・フジちゃん を、見つめる目です
(紹介があっても、すぐには買えない理由です)

投稿: みともり   | 2009/08/18 07:09

シャン坊さま、

お久しぶりです。

業因果、それは仏教の基本中の基本です。
それでしたら異論はありません。
ですが、アビダルマを語っている脈絡ですから、
私のように勘違いする人も多いかと思います。
誤解が解けてよかったです。

めでたし、めでたし

投稿: o | 2009/08/18 05:48

今、これを書いている時は夜も更けて、だいぶ清しくなってきました……清涼なるかな。〈笑〉

で、今回のコメントを最初に書かせて頂いた立場から、改めて思いますと、仏教の根本を「深信因果」と、それによる「心清浄」とすることには、それほど異論はないのではないか、と思います。
なにしろ、これは南伝・北伝すべての仏教に通じる「七仏通誡偈」の趣旨なのですから。

ただ、それをパーリ三蔵「のみ」を以て代表させる点について、異論が出るのではないかと思います。
パーリ三蔵も、やはり縁起する、無常な「歴史」の中での所産です。三蔵の「今日あるすがた」も、その歴史で、それなりの理由があって整えられてきた、とするのが、伝統的な信仰的立場を別にすれば、まずは妥当な見方でしょう。
もし、そこに、他の部派の聖典よりも、より高い整合性・体系性・論理性と見られうるものがあるとするのならば、それも、あるいは、そうした方針のものに聖典が「整えられていった」可能性も考慮すべきかもしれません。
ちょっと、文献学めいて恐縮ですが、おおむね、古いすがたを残す文献の方が、「雑然としている」ことも多いものです。

思えば、古い時代のスリランカでは、今のイメージとは異なって、大寺を中心とする上座部と、無畏山寺を中心とする、大乗・密教をも取り入れた仏教が、対峙しあっていました。昨年、東京で開かれた「スリランカ美術展」では、そうした古代の黄金の『二万五千頌般若経』や、大乗・密教系の仏像・法具も多数、展示されたものです。
それが、12世紀頃の国王によって、事実上、政治的な理由から、大寺派に統一されて、今日に至っている訳です。その中で、仏教が衰退して、東南アジアから逆輸入することもありました。
こうした中で伝承されていったパーリ三蔵ですから、その「今日あるすがた」の歴史的背景、というものにも思いをしてみる必要があるように思います。先の『般若経』のように、すぐ近くで、篤い信仰を以て荘厳されて存在しながら、遂にそこには「入れられなかった」文献もあるのです。

キリスト教の「旧訳聖書」「新訳聖書」も、はじめから「今あるすがた」があった訳ではありません。
そこには、「それを正典とする」、いわゆる「正統派」教会の「立場」が反映しています。それに適わずに、両「聖書」から漏れた外典も、数多くあるのです。

パーリ三蔵にも、これと同じことがいえるでしょう。
もちろん、いかなる「立場」を取ろうとも、それは自由です。ただ、いかなる「立場」も、仏教に心を寄せる者であるならば、縁起する、無常な「歴史」の中で形成されてきたものであることにも、思いを致す必要があるようにも感じます……。

投稿: シャン坊 | 2009/08/18 00:52

Oさま、おひさしぶりです。(でも、ありませんか。)

別に、アビダルマ教学という訳ではなく、今回のブログのテーマに因んだ、単に「業と因果」という仏教の基本……位の意味です。
これは、ミラレパ尊者も重々、説かれていますね。もちろん、ニンマ派でも、どこでも。
そんなに難しいこと、言うつもりはないんです。気分一新で、また、よろしくお願い致します。

……それにしても、大混戦、かな。
  熱いニャ〜〜〜。ニャン!!!

投稿: シャン坊 | 2009/08/17 21:08

道草いっぱいおなかいっぱいの、おちゃらけさま ちゃお~!

>輪廻する心って?アレですよね、好き嫌いに執着が
>くっついちゃったヤツですよね?

それそれ、おちゃらけさま、
頑固な汚れにザブが効く。。。ん?、
頑固な汚れに座部がきく。。。ん?、
頑固な汚れに上座部が聞く。。。ん~~ん

宗派にこだわらず、その派のいいとこ、いいとこ、ゲットしたいです。。

何でも知りたい、道草したい、何でも食べたい、カンマ(釜)の中まで
なんちって。。。

投稿: 管理人エム | 2009/08/17 20:34

シャン坊さま

>チベット仏教でも、密教に入るためには、まずこうした仏教すべての基礎を心に銘じた上で、大乗の菩提心を発こす必要があります。

アビダルマ的教学を必然条件と説くのはゲルクだけではないでしょうか?

もちろん、菩提心は必然ですが。

アビダルマ的教学を全く学ばなくても解脱できる門や道の多様さは大乗の優れた点だと確信しております。

投稿: o | 2009/08/17 20:21

ろんろんさま りんりん、りんねっ!

>カルマって(絡まって)しまった輪廻の糸を解きほぐすのですね。

カルマった輪廻は、サラサラ、サンサーラっとな、ときほぐすんでぇ~すぅ~。。

 キャー!つっこみぃ~~!

投稿: 管理人エム | 2009/08/17 20:20

ろんろんさま、ルンルン♪

それぞれのカマッタナー(業処)に構えば
いいんじゃないでしょか?

えーっ?構わないと困っちゃう~。
「離せばわかる」らしいですよぉ。

投稿: おちゃらけ | 2009/08/17 18:58

管理人 エム 様

あまり笑うことのないわたしですが、、、

   

>そうですか(笑)。。。

ソウデス 

   

投稿:  みともり   | 2009/08/17 18:34

カルマって(絡まって)しまった輪廻の糸を解きほぐすのですね。


・・・・・・。


ただ駄洒落が言いたかっただけです。


ぷり~ず ギヴ ミー ツッコミ

投稿: ろんろん | 2009/08/17 18:23

うぃーっしゅ、エムせんせ♪
道草食べすぎてお腹いっぱい中です。

はぁ~い、もぉー、腰を据えて読みたいです!
(でも今はちょっと半腰中なので秋ぐらいになったらかしらん、
 私も仏教イロイロ派なので、好きな処から物色中)

エム先生のおっしゃるとおり、善悪って判断の根本になりますね。
根本がわかると「私」な問題もわかる「気」がしまーす。

なぜなら、輪廻する心が輪廻しない心を理解するなんての、
ありえなーい、と思うからどぇーす。

輪廻する心って?アレですよね、好き嫌いに執着が
くっついちゃったヤツですよね?

好き嫌いな判断が顛倒しなければ善いんじゃないかしら~んと、
ごく「単純」&「お気楽」に自己診断&判断中~♪
(なんですけど・・・)

そこに宗派とかの介入(介護?)が必要なのでしょうかしら。。。
え?ダレが根本の基準を決めるんですかって?
それって私じゃないんですもん。私のせいじゃないですぅー。

ではでは~♪

投稿: おちゃらけ | 2009/08/17 16:52

みともりさま

>(南北)合わせて、理解すれば(!)
基準になると思います

おお、出ましたね。。。うーん、そうですねぇ。。

たしかに、両方あわせなければ、わからないところもありますが。。。わたし的には、パーリ仏典の比重が大きいです。

といいますのは、もっともブッダの法の適用範囲が、コンパクトにまとまっているからです。厳格だと言ってもいいでしょうか。

ほかの部派ですと、少し緩やかになってきているので、基準はパーリ聖典かなという気がします。

>(私は)行き詰っていませんので、
>誰かが、行き詰っていると見るのは、難しいのです

そうですか(笑)。。。そうおっしゃるなら、もう何も言えないです。

>そこ以外にあっても(無くても)、
>“わたし”の垣根の外です

垣根をはずしてもらえると、仏教は広がります。。。あ、仏教じゃなくても、広がります。。。


投稿: 管理人エム | 2009/08/17 16:16

管理人 エム 様

>元祖ですか ?
>>その他の北伝の部派の伝承なども無視することはできませんが、何かを基準にするなら、今のところ、パーリ三蔵が一番いいと思っています。

(南北)合わせて、理解すれば(!)
基準になると思います
(片一方でも)理解できなければ、善し悪しが起きません

>>このように、しっかりと輪廻と解脱を説いていただきませんと、
縁起の理法を常に基本においているということです。
中有の思想などは、ほかで説かれますが、とりあえず、論理を貫こうとする姿勢は、高く評価しなければならないと思います。

姿勢と、行為は、別だと感じます
(今までの、「実践心理学」からの印象です)
(今回は、まだ読む気が起きません)
(読み方が悪い・悪かったと言わないでください)

>>小乗のあとに大乗が来るという、仏法の順序です。ブッダの法を説く順序ですね。
善悪を説いて、次に空を説くという順序でもいいですね。
>南方上座部は、単なる仏教の一つの「宗」「派」にすぎません
>>そうですね。
それが、元祖とされるべき位置づけになるのは、お話ししたとおりです。

あなたにある、順序・位置づけですから、
そうだと言われれば、そうですかと、せざるを得ません

>誰が行き詰るのですか ?
>>大乗と密教です。。といいますか、仏教全部です。
それが、今の、仏教の姿のような気がしますが、言いすぎているでしょうか。

(私は)行き詰っていませんので、
誰かが、行き詰っていると見るのは、難しいのです
(仏教も密教も、受け止めるところにあると思います)
尤も、私は仏教徒でもありませんし、
大乗仏教(密教)を、誰かと共に護っているような気もしません
仏教が私にある(?)わけではありませんが、
表現の慣わしとしては、
私に(その姿が)あると言ってもよいと思います
(無いと言われれば、そのように拝聴するしかありません)

私にとっては、(私と関係がない)“他人”にあっても意味はありません
わたしが鏡とし、かかわる“他”にあるから、
私が見ることが可能なだけです
(私には、自分は見えません)

あなたの、
今の仏教徒を名乗る輩、
仏教を非難する輩、
彼らに対する温かい目は理解します

そこに仏教がなくても、行き詰っていても、
あなたに(=私に)あれば、
それを、“ある”と呼びます

そこ以外にあっても(無くても)、
“わたし”の垣根の外です

投稿:   みともり   | 2009/08/17 13:26

みともりさま

>元祖ですか ?

元祖としなければ、仏法を失うことになるから、そういうのです。
歴史的な観点の話ではありません。

三蔵をそろえてもっているという点から、そういうのです。
断片を集めても、仏法にはなりません。

わたしたちが、とにかく、ブッダの法と言われるもの(=最高に優れたもの)を手に入れたりなら、ここからはじめるしかないということですね。

もちろん、その他の北伝の部派の伝承なども無視することはできませんが、何かを基準にするなら、今のところ、パーリ三蔵が一番いいと思っています。


>このように、しっかりと輪廻と解脱を説いていただきませんと、

縁起の理法を常に基本においているということです。

中有の思想などは、ほかで説かれますが、とりあえず、論理を貫こうとする姿勢は、高く評価しなければならないと思います。

>大乗や密教などの後続の仏教が、

>後続とは、
>今のテータワーダに後続ですか ?

歴史的なことではありません。

小乗のあとに大乗が来るという、仏法の順序です。ブッダの法を説く順序ですね。

善悪を説いて、次に空を説くという順序でもいいですね。

>南方上座部は、単なる仏教の一つの「宗」「派」にすぎません

そうですね。
それが、元祖とされるべき位置づけになるのは、お話ししたとおりです。

>誰が行き詰るのですか ?

大乗と密教です。。といいますか、仏教全部です。

それが、今の、仏教の姿のような気がしますが、言いすぎているでしょうか。

投稿: 管理人エム | 2009/08/17 12:04

シャン坊さま

>善悪から空へ……それは、全くその通りです(最初、『方便心論の研究』を頂いた時、「おやっ、できる!」と思ったのは、今時の日本では珍しく、そこをきっちり押さえられていたからでもありました。

ここは、最初、わかってもらえませんでした。今もかもしれませんね。
「善悪空相」(四文字熟語ですね、(笑))の読みを、「善悪(の特徴)と空の特徴」と訳したら、たちまち「善悪の空祖」と読むのだ、と批判が来ました。
 
そうは読めないことは、すぐわかります。

『ラトナーヴァリー』は、龍樹の思想の全部を見通すにはいい作品ですよね。

>日本仏教でも、昔の各宗学僧は倶舎・唯識を基礎として学び、チベット仏教でも、密教に入るためには、まずこうした仏教すべての基礎を心に銘じた上で、大乗の菩提心を発こす必要があります。

そう思います!ほんとですね。

さらに言えば、明恵上人も弘法大師も、ヴァイシェーシカやサーンキヤの思想まできちんと把握してから、仏教の思想に入っています。

外道の思想を軽んずると、仏教へ行く道を閉ざす方向にすぐいきますね。

投稿: 管理人エム | 2009/08/17 11:52

“忘れ” は、伊達ではありません

数寄者は、数奇だから数寄者ではないのです

が !

数寄に遊べば、好き嫌いです

(一休は、意図して、抜いたと見ています)

そこを見つけて、喜ぶのが”数寄者”で、
修行にするのが、行者です

学者に聞かせたいことなのです

投稿:   みともり   | 2009/08/17 10:31

みともりさま、
暖かなるフォロー、深謝! です。一休禅師の故事があるなら、これまた風流……かも。〈笑〉

歴史的事実関係については、基本的に、みともりさまのご意見に賛成するものです。
>(今のものは、等しく(平等に)今のものです)
> 南方上座部は、単なる仏教の一つの「宗」「派」にすぎません
全く、その通りだと思います。

アビダルマの教学については、説一切有部の伝統が奈良やチベットの学問寺に、それこそ「師資相承」で続いていた訳です。
また「厳密な意味での」比丘サンガについても、チベットには根本説一切有部のサンガが、インドから伝えられて以来、途切れることなく続いています。
「今日でも」南方上座部は、部派の中の"one of them"というのが、事実でしょう。

ただ、管理人さまのお気持ちを察すると、「南方上座部には、後世に付加された要素が、比較的、少ない」というあたりでしょうか?
ただ、これは批判的な歴史学・文献学から見てのことであって、信仰もしくは哲学・論理の立場とは、自ずから分けて考えるべきことも事実ではあるでしょう。
まあ、こういったことは結局、人それぞれの見解で、「いわずもがな」の感じもしますが……(ちょっと、小泉さんの「人生いろいろ」みたいで無責任、でしょうか〈笑〉)

投稿: シャン坊 | 2009/08/17 10:19

管理人 エム 様

>元祖・ザ・仏教のテーラワーダ仏教には、

元祖ですか ?

>このように、しっかりと輪廻と解脱を説いていただきませんと、

どのようにかと、疑問に思います

>大乗や密教などの後続の仏教が、

後続とは、
今のテータワーダに後続ですか ?
スリランカに渡ったとき(BC3Cころ)には、
すでに、(ブッダに)大乗の芽が起きています
今に残る、阿含経典は、漢訳のほうが成立の古いところもあります
(今のものは、等しく(平等に)今のものです)
南方上座部は、単なる仏教の一つの「宗」「派」にすぎません
(仏教が、一つでなければの話です)

>後、行き詰まってしまうんです

誰が行き詰るのですか ?
他人事であれば、関係ないことです
“説くから解脱がある”のではなく、
解脱は衆生に起き、
自らの輪廻にのみ、解脱があります
自らは、衆生としてあるから、
衆生の解脱がない限りは、自ら“が”ありません(!)
(解脱があれば、自我があるということです)

シャン坊 様

かつて、一休も
衆善奉行の善を“忘れ”
横に小さく書き足した書が、残っています
(数寄者に、愛ずられるところです)
(善は縁起するところが厄介です)

投稿: みともり | 2009/08/17 08:03

恥ずかしながら、お詫びと訂正です。〈トホッ…〉
冒頭の引用、正しくは
"諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教”
でした。仏教の核心の引用を間違えるとは〈汗〉……懺悔(さんげ)、懺悔。これは、私にとっても「初心忘れるべからず」でした。
なお、この「七仏通誡偈」については、往年の碩学・山口益先生による「心清浄の道」(現在、手に入る版では『空の世界』大法輪閣、所収)という名講話もあります。スマナサーラ長老が講義されたテーマへの、空思想からの視点を与えてくれるもののようにも思われます。

管理人さま、龍樹の『ラトナーヴァリー』、私も直ちに思い浮かびましたが、引用が多くなるので、やめました。善悪から空へ……それは、全くその通りです(最初、『方便心論の研究』を頂いた時、「おやっ、できる!」と思ったのは、今時の日本では珍しく、そこをきっちり押さえられていたからでもありました。ただ、そこを理解できるアカデミズムの住人が、はたして、どれだけいるか……)。
日本仏教でも、昔の各宗学僧は倶舎・唯識を基礎として学び、チベット仏教でも、密教に入るためには、まずこうした仏教すべての基礎を心に銘じた上で、大乗の菩提心を発こす必要があります。
菩薩「十善戒」でもっとも重要な「不邪見」も、こうした因果を忘れない、ことを含むのが、本来の意味でした。
今、その警鐘をテーラヴァーダに鳴らしてもらうのも、大いに意義のあることです。

「深信因果」(そのバックには業と輪廻が、やはり、控えています)を忘れて、本当の仏教は成り立ちません。
わたくしも、こういうお話には、テンションがあがってしまうんですっ!!! ごめんなちゃい!!!

ところで、今回のタイトルの「語れ!」、どっかで聞いたことがあるような……〈笑〉

投稿: シャン坊 | 2009/08/17 02:28

シャン坊さま

いや~~、テンション上がってしまいましたっ!

そうそう、四文字熟語です。

>ただ、それを自他に実現するための応用(=方便)はいろいろとある、訳でしょう。

もちろん、そうなんでございますっ!
上がってる、テンション(笑)。

でも、元祖・ザ・仏教のテーラワーダ仏教には、このように、しっかりと輪廻と解脱を説いていただきませんと、大乗や密教などの後続の仏教が、後、行き詰まってしまうんです。
 
これで、やりやすくなりました。
ほんとによ。。。ありがたいです。

心置きなく、空にもいける一如も説ける、方便も繰り出し放題です。

医明、因明、もち!だいじょうぶです。
現代医学も、因果をわきまえた医明ですから、それはそれでOKだと思います。

やっぱ、核の仏教ですから、脇見せず、どかんとこのくらい華麗な花火を、夏の夜空にあげていただきたいです。

龍樹も言ってます。まず、善悪を説く、次に、空を説くと!

今までは、逆なんです。
まず、空を説いてしまって、仏教は、輪廻が説けなくなっちゃってます。

これじゃ仏教にならないですもんね。

これで、龍樹も書きやすくなります。。。テンション、上がりっぱなしですみません。

投稿: 管理人エム | 2009/08/16 23:32

"諸悪莫作 自浄其意 是諸仏教” ですね。。。
見事、「四文字熟語」です!!!〈笑〉

確かに、これはすべての仏教の基本です。
ただ、それを自他に実現するための応用(=方便)はいろいろとある、訳でしょう。

病気を治すための「医学」(たぶん、科学的なものも、呪術的なものも含む、のでしょうが)は、菩薩の学ぶべき5つの学問(五明)の1つです。
仏教の基本を踏まえつつも、「方便を究竟となす」(『大日経』)立場が、密教、引いては大乗一般の立場と思います(カマラシーラが『修習次第』で、この密教経典の言葉を、大乗一般の根本テーゼとしても引用するように)。
思えば、「因明」(論理学)も、この「五明」の1つ、なのでした。その元祖こそ、名づけて『方便心論』なのですから!!……(どうする、アイフル! とかいってみたりして。その答えが、既に『龍樹と、語れ!』に出ていることは、わかっておりますので、ご心配なく。〈笑〉)

どうも、タントリストの「アポロギア(弁明)」になってしまいました、ね。失礼いたしました。〈笑〉
「清らかな心」こそ、仏教の目的であることは、確か、です。

投稿: シャン坊 | 2009/08/16 20:31

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