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2008/11/30

二つの奇跡

寒さがちょっと遠のいて
せっかく降った雪が溶けてきましたが
それが、また凍るから、道はつるつる!
危ないです。
008
 
 
 

 
 
 
恵み野の駅のプラットホームの通路には

こんなステキなカボチャが!

おシャレに飾ってあります。。
 

さて、ヨガの講義で、ウパニシャッドのお話をしました。

昨日は、『ヨーガ・スートラ』も読んでいました。。。


まぁ、仏教ではない分野、バラモン教の系統の分野です。

こういうものを読んでいて、思うことは

ただ一つ。。

はぁ。。やっぱり!ブッダの法は、すごいですねぇ。。。


ウパニシャッドだって、すばらしい思想だと思う。

近代ヨーロッパの哲学者たちをうならせた。。。

神秘思想の極致といってもいい。。。

『ヨーガ・スートラ』だって、論理性もある!

サーンキヤの哲学にもとづいて心を見事に分析してる。。

仏教の影響も受けているから、整ってもいる。。。


でも、

でも、

ブッダの法を知ってしまうと、もうダメだ。。

ブッダの法の前には、赤ん坊の思想のようだ。。

かならず、無理や矛盾や無駄が、ある!

モヤモヤしたわけのわからない部分が、出てきてしまう。。


ブッダの法さえなければ、世界の最高峰だったのにネ!

惜しかったネ!

======================

さて、そんなことを考えると、ブッダの法が

この世に出現したのは、世界の奇跡であることが

わかります!


よく、

ブッダの金口(こんく)の説法は、わからない
経典は、ブッダの直説ではない

とか、言われますが、どうも納得できないのです。


ブッダの口から出たことばどおりには、わからない

ということは、ブッダの法にかんして、

何の問題にもならないと思うのです。

なぜなら、そもそも、ブッダの法は

ブッダの語ったとおりに、口移しに、

頭から暗記してきたものではないからです。

いくらかそういう部分もあるかもしれませんが

基本的に

これは、ブッダの法を受け取った比丘たちが

伝えてきたものだからです。
 
 

ここにおいて、わかることがあるのです!

それは、ブッダの法が残るためには

奇跡が二つ必要だということです!!


二つの奇跡?

そう、

★一つは、ブッダの法が、まず、奇跡の法だということ★

人間が作り出した思想の中で、もっとも完成された思想です。

どんなわずかのミスもなく、円満具足の法なのです。


では、二つ目は?

★それは、法を了解して、受け取り

完璧に維持できる比丘たちがいたということ!!!★


これを忘れちゃいけない。。

比丘たちがいなければ、ブッダの法は、今日の姿では

残っていないでしょう。
 


ブッダの法を理解して、それを編集し、整理し整え

完全な法の形を作り得たのは、

比丘たちなのです。
 


語順も完璧、ことばも完璧、一つの無駄も入れず

過不足なく、整理整頓したのは、

ブッダではなく

比丘たちなのです。


要するに

どんなすばらしい法も

聞く人がわからないと、

ゆがめられたり捨てられたりしてしまうのです。


だって、何を言ってるかわからなければ、

受け取れないし、自分で法を説明したりもできないでしょう。


ブッダの滅後、即座に、経と律を結集した比丘たちは、

ブッダに等しい人々 であったということです。

かれらを 阿羅漢 と呼んで、

ブッダの悟りと同格に位置づけるのも

まったく理にかなったことだと思います。

ほんとうに500人の阿羅漢が、当時はいたんだ!!


これも奇跡だと


ブッダの法を見るとき

つくづく知るのです。 
 
ブッダの法は、

師ブッダと弟子の比丘たちの

心の 

お! 

奇跡 

あれ! 

軌跡 

なのです。。。きまったな
 
001
 
 
  

 
 
ああ、もうクリスマスですねぇ。。。はやいですね。


 
 
 
 

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コメント

カラスのエンドウさま

がってん、承知しましたっ 

ほんと、いちばん苦労して受けとめているのは、ふつうの人々ですもんね。

。。。しみじみ考えてみれば、「人間離れしなさい」という教えを、文句も言わずに受持し、そして、実践しようとするわれら人間は、けっこう、えらいのかも。。。奇跡は三つにふえました。

投稿: 管理人エム | 2008/12/06 09:24

エム さま

そこに、ブッダと比丘を支え続けている、在家の人々も、入れてあげてくださいませ

投稿: カラスノエンドウ | 2008/12/05 22:20

春間さま

こんばんは。

> きれいか汚いかを云々するときには、常に汚いからです

なんとなく春間さまらしい表現ですね。でも、わたしは、そうでもないと思うんです。

きれいなときや、きたないときや、いろいろあるのが人間じゃないかと思うので、

二つのうちどちらかであるなら、やっぱり「きれいなとき」という風に理解すれば、いいんじゃないかと思うのですが。

どちらか一つだけの人はいないでしょうね。
どちらでもない人はいるかもしれません。

> (常に清いことも縁起しています)

そうそう、こちらも縁起しています。

投稿: 管理人エム | 2008/12/03 21:49

ここにも(確かに)言葉によって表されることのない 
“ 法 ”が 、顕されています

清い言葉が選ばれることによってではなく
きれい・きたない という言葉に煩わされることなく 
近きものが大きく(清く)見え
遠きものは小さく(穢れて)見える
(ダルマは比較を超越する)

みんなのものは、誰のものでもない
誰のものでもないものを、自らのものとすることはできない
(誰でも自分のものと思っている)

誰でもつかむことができるダルマを
誰もつかめない
きれいか汚いかを云々するときには、常に汚いからです
(常に清いことも縁起しています)
汚れをみる 清い 立場 が、“ ダルマの在る処 ”です

投稿: 春間 則廣 | 2008/12/03 14:06

Sivaさま

こんばんは。

なるほど!。。そうかも。。。

たしかに、わたしも、色形でも見ていないし、声でも理解していないですね。

龍樹もそうです!
龍樹も、色形、声によって、ブッダを理解しているのではありません。

そうであるけど、龍樹は、ことばを用いて、未曾有(奇跡)の法を、浮き上がらせているわけです。

ことば(声)によっても、そこにはない。
文字(色形)によっても、そこにはない。
しかし、それを見たり読んだりするとき、それは、たしかに、そこに示される。

誰でもつかむことができます。心さえきれいにすれば、そのとき、誰でもつかむことができます。

投稿: 管理人エム | 2008/12/02 23:43

釈尊への思い入れは分かります。
しかし、vajracchedikA prajJApAramitAにこんな一節が。

ye mAṃ rUpeNa cAdrAkSurye mAM ghoSeNa cAnvaguH |

mithyAprahANaprasRtA na mAM drakSyanti te janAH || 1 ||

私を色形で見る者、そして
私を声で理解する者、

彼らは間違った努力をする者であって、私を見ない。

投稿: Siva | 2008/12/02 23:01

ろんろんさま

> え~、それは見事な駄洒落オチでしたとも(笑)

ああ、ひどいっ(笑)!ダジャレになっちゃった。

> 人間の偉大な智慧のなせる業だと

いや、もう、このこと!が、わたしの目にはありえない「奇跡」に見えるわけなんです。

で、経典読むたび、奇跡に出会えるという。。。つまり、数分に一回、奇跡に遭遇。。。これも、ほんとありえない。。すみません、はやく鬼籍に入った方がいいかな。

投稿: 管理人エム | 2008/11/30 17:18

え~、それは見事な駄洒落オチでしたとも(笑)

それはさておき。
奇跡とは神がかった力のこと言うわけでして。
ブッダが法を説いたことも、500人の阿羅漢が法を伝えたことも、奇跡でも何でもなく、人間の偉大な智慧のなせる業だと思いたいわけです。

え~と、つまり人が解脱し阿羅漢にいたるには、神などというわけのわからないものは不要だと考えております。

投稿: ろんろん | 2008/11/30 16:35

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