« ガンダルヴァの城 | トップページ | 若者よ、哲学せよ! »

2008/07/02

二つの仏教 部派と大乗

005


 


道場に寄せた河本さまへの返信no.4545です。

仏法を知る上で、ヒントになると思われることがらです。


とくに、部派仏教と大乗仏教は遠い親戚ではありません。

双子の兄弟のように、同じだけど、性格が違うんです。

おとなしいルイーゼと、元気なロッテ、みたいな感じです。
(ケストナー『二人のロッテ』より)

http://hpcgi1.nifty.com/manikana/bbsnew/wforum.cgi?no=4545&reno=4544&oya=4466&mode=msgview&page=0

==============================
河本さま

以前に『即身成仏義』をあげていただいたとき、
河本さまの思想的中心は、大乗仏教にあって、
そこから、部派などをご覧になっているのだなぁと感じましたが、
また、今回もそのような印象を受けました。


部派→大乗と話が進みますと、
ちょうど、世俗諦中心の思想から第一義諦中心の思想へと進む感じですので、
違和感はないのですが、
逆ですと、話にずれが生ずるのかもしれないと思いました。


    (略)


> 1.直線的な因果関係は、
> 「縁起」を意味するわけですから、絶対に必要なもの
> 2.「我」と「無我」の語、
> この二つの語が出そろった相対的な「我」と「無我」について論ずる
>
> エムさまの推察通り、「我」と「無我」の語が、
> 二つ出そろった後の菩薩のあり方の問題にになるでしょう。

このあたりは『ブッダと龍樹の論理学』が
ご参考になると思います。
今まで、多くの概説書・研究書を見てきて思うことは、
部派の思想と大乗の空の思想に、まったく、
なんの連絡もつけられていないということです。


要するに、「縁起」から「空」は、
思想的にスムーズな流れが導けていないのです。
それを明らかにしたのが、ブッダ論理学であり、
『ブッダと龍樹の論理学』です。


般若思想は、「空」を説くといわれます。
じつは、そこには「中道」という思想が、
論理的に介在して、「空」へと導くのですが、
それらも解明されていないように思います。

経典の作者たちは、みな、十分了解していますが、
わたしたちには知らされません。
これを、明快にしているのが、龍樹です。


河本さまのあげていただいた論文は、
たいへん丁寧にトレースしてあって、
15年も前にこれだけの内容をまとめたと思いますと、
ちょっと感慨を覚えます。

> http://www3.ocn.ne.jp/~tomson/


この中で、インド論理学について書いてあるところは、
わたしの研究と重なっており、わたしの関心事でもあります。
ここの問題をわたしは研究していたのです。


わたしは、このような問題について、
解決するために、『ブッダ論理学五つの難問』で、
ブッダ論理学を提唱したのです。
西洋論理学とインドの論理学が、
まったく異なる論理によっているということを示しました。


けっきょく、これらが、明らかになったのは、
誰を研究したからかといいますと、
それは、龍樹です。


「直接、龍樹の論法に取り組んだ」ので、わかったのです。


で、不思議なのですが、
大乗仏教史、あるいは、大乗仏教研究史を見てみますと、
「直接、龍樹論法に取り組んだ」人は、
見あたりません。わたしの知るかぎりでは、
八〇〇年近い歴史の中で、
わずかに梶山先生くらいしか知りません。


何が言いたいかといいますと、
シャーンタラクシタも龍樹論法を、完全には、知らないと思います。
これは、シャーンタラクシタのせいではありません。

チベットには『方便心論』は伝わりませんでした。
インドでも、ほとんど忘れられているような状態でした。
中国でも、読んで理解する人はいませんでした。
誰も、『方便心論』の内容を知らなかったのです。

『方便心論』が、阿含経典の中から生まれていることを。

「論法」というのは、論理学ですから、
「縁起」「中道」の論理、さらには「空」ということを、
一切知らしめるものです。


もし、シャーンタラクシタなど、大乗の中観論者・唯識論者たちが
「龍樹論法」を、完全に、知っていれば、
異なった展開になったと思います。
梶山博士が『仏教における存在と知識』の中で、
次のように述べています。
シャーンタラクシタの『中観荘厳論』を解説した中です。


上述した普遍的な空性と、
論理や言語による空性の論証との間の矛盾に関わる疑問は、
ナーガールジュナ以来すべての中観者が直面してきた
古い問題である。(p.75)


この問題は、「空性の哲学は虚無論者の考えに等しい」という批判を
かわせなかったことです。
これに、答えようとしているのがシャーンタラクシタだと思いますが、
この問題は、なんと、じつは、すでに龍樹が解決しています。


龍樹をしっかり読み取れなかった
後代の人々の力不足のせいであるように思われてなりません。
しかし、シャーンタラクシタ、ミパムの解決がどうであるかは、
大事な問題であると思いますので、
それはそれで注目しています。

oさまが、この点を注目してくださって、
わたしの研究にも関心を示してくださったのです。

『方便心論』は、世俗諦中心の論法です。
一方、『中論』は第一義諦を中心とします。

それらは、つながった一つの論理であることがわからなければ、
仏法は理解できません。
中観論者を虚無論者のように呼び、
部派の論者は、有論を説く者と絶対視されます。

このような、二つの立場があるように誤解されてしまいます。

虚無でもなく、有にも流れない仏法は、
論理を究めたところにあり、
それを知るのは、
龍樹の論法をおいてはないと思われます。

「我」と「無我」の相対が出てきたところで、
第一義諦がはじまります。

ここで、今までの概説では、
「相依相関関係」と解説してしまったために、
その後の解説は、すべて、仏法の解説から脱落しました。

なぜなら、ここで、「縁起」が見捨てられるからです。
西洋論理学の牙城に入ってしまうため、
仏教の思想はまったくねじ曲げられてしまうのです。

ここをなんとか避けるため、
「空」で乗り切るのはいいのですが、
そうすると、「空」は「有」の対立概念のように、
これまた、誤解され、空VS有、という構図になって、
虚無論者の道へと堕ちていくのです。

いくつもの落とし穴をかいくぐって、
仏法が、部派をも大乗をも含む、
すべてを包み込むものだと知るためには、
ただ、ただ、煩悩を捨てて、虚心に、
経典・論書を読む以外にないと思われます。

独演会になってしまってすみません。


> ------------------------------
> 現象世界を正しい論理に従って研究し、
> 社会の役に立とうとすること、そしてその結果として、
> 自らの社会実現を為すこと、それこそを人間は為さねばならない、
> とシャーンタラクシタは述べているように思う。
> これは大乗仏教が理想とする「菩薩」の理念と相応するものであるように思われる。
> ------------------------------
>
> これがシャーンタラクシタの真意であるなら
> とても素晴らしいことだと思うからです。


わたしも、河本さまと同じように思います。
シャーンタラクシタとミパムは、よくよく読むべきだと
自分でも思ってます。
彼らの独自性と求道心に深い敬意をもっています。

でも、わたしの場合、その前に、龍樹です。
かれの、『方便心論』を全部解明しなければなりません。
前半はできたけど、後半が残っています。
もう少しがんばりたいと思います。

これは、ブログにも載せておこうと思います。
自分の気持ちだから。

(道場の書き込みと変わっているところが
一部あります。)

|

« ガンダルヴァの城 | トップページ | 若者よ、哲学せよ! »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 二つの仏教 部派と大乗:

« ガンダルヴァの城 | トップページ | 若者よ、哲学せよ! »