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2008年7月

2008/07/29

覚悟を決めて

タイトルが、歌の文句のようですが

とうとう、来るべきものがやってきたのです。

おそれていたもの

それは?

それは。。。催促。。たはっ!

ごめんなさい、ごめんなさい、もうしません

じゃ、ダメだわ

ごめんなさい、ごめんなさい、もうします~ぅ

じゃ、なくちゃなぁ。。

「本、書いてくださいよっ!」

と、暖かくも、厳しく、お告げがくだされました。。。

011

 
 
 
 
 
 
うちのキュウリです。。なんて、話題をそらしてもだめか。
じゃ、013
 
 
 
 
 
 
 
 
うちのピーマンです。。これも、通用しません。
書くしかないです。

こうして
衣替えのように
心を全部入れかえ、きれいさっぱりになった管理人

書き始めたのでした。

龍樹ですっ!
ワンパターンですっ!

でも、今までのとは、
ひと味、
ふた味、
お味が、ちがう予定です。

楽しく読めるものにしたいですね。。。

って、いうか、

書いてるときも
楽しく書けるものにしたいですねっ、管理人!

夏休みも、働きなさい

さっさと、やれぇ~~


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2008/07/24

折伏って、なにかな?

んじゃ、いってみよう!

001
 
 
 
 
 
 


「折伏」ということばについて、ねっ!

マジカル広場の[2117]で、
muさまのあげてくださったYOUTUBEに関連して

わたしは [2118]で、次のように
述べました。

===================

折伏(しゃくぶく)も、 摧破(さいは)も、
龍樹を語るときによく出てくることばですが、
龍樹において用いられるときは、
「苦しみを抜く」という響きをもっています。

折伏は、相手がこちらの論を論であると承認すること
(言い負けて相手がこちらにしたがうことではない)

摧破は、相手が自分の論をこちらにおしつけないこと
(自分が相手の論を打ち破ることではない)

===================

折伏について、ちょびっと、述べます。

「折伏」は、辞典によりますと、
原語の一つとして、
パーリ語の、niggaha(ニッガハ)だ、とありました。

ニッガハは、サンスクリット語ではnigraha(ニグラハ)です。
ニグラハは、論議の場面でよく出てくることばで
「敗北」ということです。

「ニグラハ・スターナ」といえば、
「敗北の立場」「敗北の場面」

ということです。

二つの立場の人が、互いに議論・討論をしていて

一方が、もう答えられなくなったり、
相手の論のおかしいところをつけなくなったりしたら、

その人は「敗北の立場」に陥った

といいます。

答えられないとき、自分は「敗北」するのです。
うち負かせないとき、自分は「敗北」するのです。


そして、そうなると、議論・討論は終わるのです。
そして、そうなると、議論・討論は終わるのです。
そして、そうなると、議論・討論は終わるのです。

なんで、三回も書くんだ?

だって、「議論や討論は終わる」って、
わかってないみたいなんですもん。

終わるのです。。。
それ以上、
ごちゃごちゃ言わないのですっ!

負けた方は、引き下がり
勝った方は、そのまま なのです。

結果的には、
「論のすぐれたもの」という評価を受けた方が
すぐれているが故に
ちまたに出回ることになるでしょうが、

それは、たんなる結果なのです。


 

★若いとき★、龍樹は、
たくさんの外道・異学の者たちを

折伏しました。(=敗北させました。)

そのあと、龍樹は、●彼らに請われて●
彼らの師範となった、とあります。

つまり
頼まれて、龍樹は、先生役を引きうけたのです。


★ある程度、年取ってから★、龍樹は、
南の国に行き、王様を議論で感服させます。

王様は、感服して、●龍樹を敬って●
教化を受け入れるのです。

宮殿のバラモンたちも●感嘆して●
出家します。

他に集まった外道の者たちも、
皆、打ち負かされて、出家してしまいます。
これも納得ずくのことと考えられます。

つまり、
彼らは、教えを受け入れることを納得して
みずからの意思で受け入れているのです。

議論で負けても、次にどうするかは
「自分で」決めるのです。

だから
人によっては、受け入れないで
自分の説を再検討して
組み立てなおす人もいるのです。


ただ、議論は、済んだことだから、
その結果を
いつまでもごちゃごちゃいってはいけないのです。

勝った方も、負けた方もネ。


でも、でもね というか
そうしてね、 というか

大きな木の陰に
皆が寄り集うように

すぐれた教えのもとには

しぜ~~んと

人々は寄り集うのです。
002

 
 
 
 
 

しぜ~~んと

人々はやってくるのです。
人々はやってくる。。。の。。です。


 
あら?誰も来ないわね。。。

人々はやってくる。。。の。。。おおい、来てくれよぉ。。(汗)


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2008/07/23

有為解脱と無為解脱

本の虫

ということばがあるけど、

ほんとに、本の虫になりたい。。。

『大智度論』の中に、
はまって抜けられません。

なんと言ったらいいのか

人の心を盗み見てはいけないよ。
人の心をドロボウしちゃいけないよ。

そうなんですが。。。

なのに

ついつい
『大智度論』にはまって

龍樹の心を

盗み見ようと、躍起になってしまうのでした。
007
 
 
 
 

 
 
 
ブッダの心を盗み見た人物 龍樹

龍樹の心を盗み見ようとしている わたし


どれだけ、龍樹が、ブッダに夢中だったか
よくよくわかります。

だから

わたしが

龍樹の心が、何を考え、
どのように変化したか
知りたいと夢中になっても、
きっと文句は言わないと思うのよ。

はまって読んでいると

ところどころ

わたしの得たものと同じものを
龍樹も得ていることも
わかってきます。


その中の一つ。

有為解脱と無為解脱をご紹介しましょう。

『大智度論』(『大正蔵』25,250c)
========================

解脱有二種。有爲解脱無爲解脱。
有爲解脱名無漏智慧相應解脱。
無爲解脱名一切煩惱習都盡無餘。佛於二解脱無減。


解脱には二種類がある。有為解脱と無為解脱である。

★1 有為解脱というのは、
    煩悩の汚れのない知慧に相当する解脱である。

★2 無為解脱というのは、
   一切の煩悩の余力までもことごとく完全に滅盡した解脱である。

=============================

わたしも、『ブッダと龍樹の論理学』で、
ブッダは、二種類の解脱を説いたと述べました。
(pp.172-173)

☆1 最初は、行為と煩悩からの解脱。

これは、★1の有為解脱

☆2 戯論が空性に滅する解脱。

これだけでは、★2と同じであることはわからないが、別の個所で
『大智度論』は、こうも述べています。

========================
二斷無色界三思惟結故得無爲解脱。(p.221a)

★3 無色界の三つの思惟の束縛を断ずるが故に無為解脱を得る。

=========================

想と意思と識の三つの束縛を離れることを
言ってるのじゃないかと思うけど

つまり、戯論が滅してしまうことと理解できるから、
☆2は★3と同じです。

二種類の解脱に、名前がついててよかったわ。

これから

<17>で説かれている解脱は、有為解脱
<18>で説かれている解脱は、無為解脱

と呼んでください!


龍樹!大好き!
ブッダ!大好き!

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2008/07/21

聖地といわれたところへ行ってまいりました。

少し気が抜けてきた管理人、

今度は、サッカーの試合を見に行きました。

コンサドーレ札幌 vs ヴィッセル神戸

006
 
 
 

 
 
 
 
選手が米粒のようですが、
じっさいは、もう少し大きいです。

うーん、小豆粒か、虎豆か、金時豆か。。
いずれにしても、豆には変わりません。

んっでもって、

まめまめしく走りますっ!いけーっ!

さて、

この競技場は、厚別(あつべつ)競技場というのです。

その名も ★ 聖地厚別 ★

と、
コンサドーレのサポーターの間では
言われている

神秘の競技場なのです。。。

どこが神秘?かというと

この競技場は
いくたの奇蹟を生んできたのです。

相手のチームは、どんなに勝っていても
「勝てる気がしなかった」と言ったという
それほど、おそれられた伝説の競技場であったのです。

奇蹟の逆転劇も生み出しました。。聖地だったのです。

「だった」ということは、
ざんねんながら、これは昔の話。

いつまでも奇蹟は続かないのが
奇蹟の奇蹟たる所以です。

今では、なかなか勝てないのよ。。。さびしい。

しかし

今回の試合は、若干

ミニの奇蹟

といってもいいような試合だったのだった!

008
 
 
 
 

 
 
 
これは、PKでダヴィ選手がゴールしたあと。
みんな立ち上がって拍手してます。

1 対 1

で、前半を折り返し、順調です。

ところが!!

不幸は後半にやってきた!

な~んと、コンサドーレのゴールキーパーが、
一発レッドカードで退場。。。おお!

さらに、追い打ちをかけるように
もうひとり選手がイエローカードで退場。。。ああ!

コンサドーレは、たった9人で戦う羽目に。

かみさま、ほとけさま、コンサをお救いください!
こまったときだけ、神頼み、ホトケ頼み。。

この真剣な祈りが通じたのでしょうか。
なんと、なんと、二人の救い主が現れたのです。

不動の二人は、燦然と登場!

その名も、左ポスト に 右ポスト

こ、これで、11人、そろった。

相手チームの放ったシュートは

左ポストにはじかれ、ゴールに入らず

ファインセ~~ブ

さらに、

また、はなったシュートは

今度は右ポストにはじかれ、、ゴールならず

ウルトラファインセ~ブ

奇蹟の試合となって

引き分けに終わりました。


聖地厚別は、健在です。

あそこにいると、

救世主を待つ民のオーラが蔓延して

妙に、安心感というか、まったり感というか

そういう雰囲気が漂うんですよね。

サッカーの試合なのに
何か静かな祈りの場所にいるような。。。

「なんか、ちがうなぁ、サッカー場じゃないなぁ」

聖地巡礼の行者になった気分。。。002
 
 
 


ほら、そう思ってみれば、

オブジェも、崇高です。。でしょ?


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2008/07/20

題名どおり!カレーな一日だい!

ようやく、授業は終わりました。

あとは、難物の試験を残すのみ。

これがつらいが、
まぁ、とにかくめでたいです。

ほんと、今年は、最後の方は
酸欠の金魚鉢で
あっぷあっぷする金魚のようでした。

授業にのめり込みすぎたかも。。。
などと、今頃反省しても、おそいけど。

で、

昨日は、ぼーっと、なんだかほとんど寝てました。

で、

晩ご飯を、作る気力もなく、
年に一度の(?)
ディナーとしゃれこむことにしました。

アジアンスパイスというカレーのお店です。012
 
 
 
 
 
 
すばらしい!
おしゃれ!!

玄関もある!
あたりまえか。。013
 
 
 
 
 
  
 

 
 
さぁて、カレーはどんなかな?
スープカレーのお店なので、
全部スープカレーです。

では、っと。016
018
 
 

 
  
 
 
 
 
なんだか、なつかしいスパイシーな味。
スリランカのカレーです。

手間はかかりそうだけど、
作れそうな感じもするなぁ。

それにしても
朝から、お弁当を作っていた二年前とはおおちがい。
あのころは、三度の食事を作るだけで
日が暮れました。

子供がいないと、
食べ物なんかどうでもいいか、って気もします。

ご飯食べなくても
生きられる方法、ってないかなぁ。。。

ブッダは
六年間の苦行で、
どのくらいの食べ物を
節約できたか

大いに気になるわ。。。悲しい主婦根性すね。。

 
 

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2008/07/15

仏教との出会い系(?)

昨日テレビを見ていたら、ニュースで

ブログの何割だったか、忘れたけど、
何割かは、出会い系サイトにつながる

悪徳!サイト

だと言っていました。

あ、悪徳ではなくて

有害!サイト だったかな?

とにかく、かなりの数が有害と認定されたらしい。。。

。。。ということは、

わがブログ「カレーな日記」は、どうなの?

という疑問が、かならずや起こるじゃあ、あ~りませんか。

001

 
 
 
 
 


出会い系。。には見えないだろうね。。心配だわ。

といっても、出会い系って?

ことばどおりに、理解すると
ブログは、かならず、読めば、なにかとは”出会う”よね。

この日記は、何と”出会う”か。。

仏教との出会い系
龍樹との出会い系
哲学との出会い系
論理との出会い系

こういうものと出会ってくれれば、うれしいけど

管理人の駄文との出会い系、

だったりすると
ゴメン、ゴメン!

なんて、考えていたら

ブッダの「縁起」は、他に縁って起こるから

出会い系 だなぁ。。って、気がしてきた。

輪廻(世俗諦)を説いているときは、
いわば、出会い系 なのか。。ふーん

で、
それを否定するから

解脱(第一義諦)を説いているときは、
言ってみれば
”出会わない”系 

つまり

別れ系 なんだよね。。ふーん

ブッダはサーリプッタに、出会いと別れを教えている。

====================
(ブッダ)
5.生じたるものはこれであると、
サーリプッタよ、見なさい。

生じたものはこれであると、
サーリプッタよ、見なさい。と。

(サーリプッタ)
6.生じたものはこれであると、
尊師よ、如実に、正覚によって見る。

生じたものは、これであると如実に、
正覚によって見たあと、
生じたものについて、厭い、離れ、滅する道に向かう。

これは食べ物の発生であると、
正覚によって見る。
これは食べ物の発生であると、如実に、正覚によって見た後、
食べ物の発生について、厭い、離れ、滅する道に向かう。

『サンユッタ・ニカーヤ』12.30

======================
ほらね。

ブッダが一生懸命ヒントを与えて
サーリプッタが一生懸命答えている。

えらいぞ!サーリプッタ!

一生懸命さが、なんのとも言えずかわいいなぁ。。

こうして、食べものとの

出会い系 と 別れ系

を、学ぶのでした。。。

いつもながら、

経典との出会い系は、いいすねぇ。。。仕事行きます。


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2008/07/14

書き書き論文マン?

土曜と日曜が、休みなんて

一ヶ月ぶりかも。。。うれぴ~~(古いかな)

管理人は、生きる人間機械。

管理人は、走る蒸気機関車。

管理人は、自動書き書きロボット、

その名も、論文マン!

あ、差別用語か。。じゃ、言い直して

その名も、論文パーソン!

し、しまらない名前だぁ~~。

まあ、何でもいいです、とにかく、
土日は、ひたすら、論文を書いて、
過ごしました。

サイトの書き込みも少なかったでしょ。

もう、フル操業で、書き書き・・・書き書き・・・書き書き。

変でもいい、
腕白(?)でもいい、
このタンポポのように、ぼけててもいい。
うしろにピントさえあっていれば。

じゃなかった、できれば、ええわ。
 
002
 
 
 
 
 
 
 


(しかし、なんでうしろにピントあうんですか。このカメラ)


まぁ、とにかく、むりやりでかしたのだ。
そして、
送りました。。。。あとは、野となれ山となれ

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

しかし、誰がなんと言っても 龍樹ですわねぇ。

仏教は、龍樹がいないと、

火の消えた暖炉。
電気のきてない冷蔵庫。
キーパーのいないサッカーゲーム

ほんとに、色あせちゃう。

いくらブッダが偉大でも
ブッダだけでは
輝かない。。。と思うぞ、ちがうかな。

龍樹の
詭弁、能弁、強弁、勘弁。。。(言い過ぎ)

四拍子そろわなくちゃ、ねっ!

がんばれ、龍樹、フレフレ、龍樹!

って、

また、一つ、論文で、ちょっとわかったので、
龍樹にエールを送ることにする。

だいぶ、龍樹になじんできて
詭弁(ちがうってば)も身に付いてきた今日この頃。。

詭弁ぽいけど
詭弁じゃない

不可思議なことばの世界を
書き表したいな。。。

新作、龍樹本、少しずつ
ネタがかたまりつつ あり!

やれ、うれしや!
もうすこしがんばるぞ!


それにしても
道場を拝読していると、
ほんと
みなさまも、ドラゴンマスターならぬ

龍樹マスター 

の名にふさわしい
切れ者ぞろいで、コワイです。

やっぱ、論法を押さえると
龍樹は、速いすね。

んじゃっ!

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2008/07/12

恋は念力

恋は、淡いピンクの花のよう。。。

002

ど、どうしたん?管理人?
血迷ったか!

ちがいますよん、失礼ね。


やっぱ、哲学なんか講義していると
なんとなく

恋の哲学(?)にも

詳しいんじゃないか
って、ことで

相談受けたりするんです。。。

管理人、恋は、専門。。。。。。。外、
という専門で。。。ははは。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

せんせ
運命ってあるんですか?


??? 

ほら、運命的な出会いっていうの。。。


ああ、ありますよ。。。(お、あっさり、言ったじゃないすか、管理人)


わたしは、運命的だと思うけど
向こうは、ちがうかもしれないんです。


ううん、そういう場合もあるかな。。。(よく)。。(汗)


それだと、困る、っていうか。。
運命的な出会いであってほしいんです。


ううん。。。。。。。。。。。。。。。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。

な、何回か、出会ってみたら、
運命的な出会いだ、ってことに
相手が気がつくかもよ。。。
思っていたら、
いつかそうなるかもしれないし。。


そうですよね!
どうもぉ。。。

003
 
 
 

 
 
 
有益なアドバイスだったかしら。
恋は、念力!
アタック、ナンバーワン!

もしダメでも、

ほんとうの運命的な出会いは
今回ではなくて、

次の回なんだ

って、ことが、わかるだけ!

だから

だいじょうぶっ!

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2008/07/08

大論争は誰のせい?龍樹のせいさ!

007
 






街は、洞爺湖サミットで厳戒態勢のようです。

人のいるところを避けて、
北大の中を抜けていこうと思ったら

警備の人が、数十メートルごとに配備されている。。。

サミットのイベントがあるんですって!

ほんとに、実りある話し合いをしてください!
飢餓に、温暖化、待ったなし。。。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

さて、わたしも、待ったなし。。。

もう少し勉強したいけど、
時間がないのが苦しい。


先日、1984年に雑誌『理想』3月号に掲載された

梶山先生の「詭弁とナーガールジュナ」という論文を

拝読する機会があった。

だいぶ古いものだけど、

はじめて拝読。


梶山先生、『方便心論』の研究について述べているところで

宇井博士の批判を

行っている。

宇井先生は、批判されている時には、すでにお亡くなりである。


梶山先生は

おおっとぉ!というくらい、はげしい批判で

わたしも、ビックリ。

とても温厚な先生だと思っていたし

きっと、そうなのだろうと思うけど

この、はげしい批判ぶりは

やはり、よほどの思いがあったのだろう。

まぁ、

梶山先生の気持ちは、

わかる気がする。。。

宇井先生は、批判されても仕方ないくらい

『方便心論』については、

重大な誤りを犯しているからだ。

しかし、一方、

宇井先生について考えてみると

たぶん、梶山先生の批判は夢にも想定できなかったことだろう。

どうして、自分が批判されたか、存命であれば

青天の霹靂だったことだろう。


二人の先生は、すでにお亡くなりになっているので、

もう、どちらも、意見を述べることはできないのだけど、

宇井先生の「方便心論の注釈的研究」と
梶山先生の方便心論にかんする研究やこのはげしい批判を

眺めていると

たしかに
たしかに
た~しかに

ここに!

龍樹がいるぞ!!

と思う。


このお二人の

まっぷたつに分かれた意見を見ても

明らかに、

ここに龍樹がいる!!


龍樹でなければ

こんなに意見がまっぷたつに

わかれるもんかっ!

ねっ!そうでしょ!

二人は偉い先生なんだぞ。

ふつうなら、

こんなけんかじみたこと

するはずないんだから。

だって、ね、

梶山先生もはげしいが
宇井先生も、負けてない。

宇井先生も批判をしまくっている。
宇井先生の批判の矛先は
漢訳の訳者である。


まず、

宇井博士は、次のように述べている。

「…此論の訳者は確に此二十種は
我常と声常との主張に対して
二十方面から論破し得ることを説いて居ると
解したことがわかる。

然し少しく因明論理の事を知るものは、
たといここに相応といはるるもの即ち
ジャーティが誤難なることを聞かされなかったとしても、
二十種の一々の破を見れば明確に知らるる如く、
此章は誤れる能破を説くものなることは
了解し得えられねばならぬ筈である。

これをしも正しい能破と見、我常声常を
之によって破し得となす如きは
実に沙汰の限りであるといはねばならぬ。

然し原著者が已に此の如く解して居たと見られないのは
此の如き人が因明論理の書を著はす道理は
絶対にあり得ることではないから、罪は全く訳者に帰する。」

要約すると

★宇井博士は★

「相応」という名の二十種は、
誤った能破(誤った論破)である

としている。

著者が誤ったものとして書いたのに
訳者が、勝手に
正しいとしたのである

としている。


これに対して、

梶山博士は、ガマンできずに、次のように述べる。


「吉迦夜と曇曜※こそいい面の皮である。 (※方便心論の訳者)
ここまでバカにされても化けて出てこなかったのは、
二人が成仏した証拠である。

第一、漢訳以外に原典もチベット訳も存在しないのに、
相応を正しい能破とすることが、
著者の見解でなくて、訳者の誤解であると言うことが
どうして宇井氏にできたのか。

相応を能破とすることが沙汰の限りであるならば、
同じ論法を用いたナーガールジュナも沙汰の限りである。

わたくし自身は少しく因明論理の事を知っているものであるが、
何度読み返してもみても、
この章が誤れる能破をとくものであることが
了解し得られないのはどうしたことか。」

要約すると

★梶山博士は★

「相応」の二十種は
龍樹論法そのもので
正しい能破である

としている。

訳者が、勝手に
そんなことするはずない

としている。


正反対なのである。

優秀な学者なのである、お二人は。

世界的に名の知られた優れた学者が
二人とも、真っ向から
反対の意見を述べているのである。


こんな事できるのは

龍樹しかいないのである。


これは、梶山博士に軍配が上がるだろう。


宇井博士は、龍樹のことは念頭にも置いていない。

「空」ということばが、説かれていても
まったく無視してしまっている。
そして、
全部、都合の悪いことは
何の根拠もなく
訳者のせいにしてしまっている。
この他にも、いろいろ
訳者に罪をかぶせている。


梶山先生の言うとおり

訳者が化けて出なかったのは

成仏したからだと

わたしも思う(笑)。

吉迦夜と曇曜は、えらいお坊さんだったのだ。

【教訓】

研究していて

龍樹かもしれないと思うときは

研究者のみなさんは

十分注意しなくてはいけない。

だって、トンデモない目にあうことは

必定だから。。。。。。


って。。。わたしもさ、

もっと早くわかっていれば。。。。。

006


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2008/07/04

若者よ、哲学せよ!

蒸しますね。

暑いです。 
 
管理人の仕事先の 恵み野 というところは

ほんとにきれいなところです。

家々の庭は、ほんと、花盛り。
なぜなら、恵み野は、ガーデニングの町 だからです。

ガーデニングの雑誌に載りそうなステキなお庭も
たくさんあります。

ほら!学校の空き地でさえ
こんなに色とりどりに草花が咲き誇る。

012
 
 
 
 
 

011
 
 
 
 
 
 

013

 
 
 
 
 
これらの草花は、何を訴えているのか?

もう少しで、夏休みだなあ。。
がんばれ!

みんな、休みは近い!

って、言ってるな!きっと。。。


@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@


去年の学生さんに会ったら、

「せんせっ!
みんなで、

また、
てつがくしたいねぇ、

って
言ってるんですよぉ」

って。


えらい!

学生さんは、知っている。

哲学は

「するもの」

だって、知っている!


この一言で、

哲学の科目の
存在意義があったかな

って、

管理人は思ったのだった。

そろそろ
管理人も、哲学しなさいっ!

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2008/07/02

二つの仏教 部派と大乗

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道場に寄せた河本さまへの返信no.4545です。

仏法を知る上で、ヒントになると思われることがらです。


とくに、部派仏教と大乗仏教は遠い親戚ではありません。

双子の兄弟のように、同じだけど、性格が違うんです。

おとなしいルイーゼと、元気なロッテ、みたいな感じです。
(ケストナー『二人のロッテ』より)

http://hpcgi1.nifty.com/manikana/bbsnew/wforum.cgi?no=4545&reno=4544&oya=4466&mode=msgview&page=0

==============================
河本さま

以前に『即身成仏義』をあげていただいたとき、
河本さまの思想的中心は、大乗仏教にあって、
そこから、部派などをご覧になっているのだなぁと感じましたが、
また、今回もそのような印象を受けました。


部派→大乗と話が進みますと、
ちょうど、世俗諦中心の思想から第一義諦中心の思想へと進む感じですので、
違和感はないのですが、
逆ですと、話にずれが生ずるのかもしれないと思いました。


    (略)


> 1.直線的な因果関係は、
> 「縁起」を意味するわけですから、絶対に必要なもの
> 2.「我」と「無我」の語、
> この二つの語が出そろった相対的な「我」と「無我」について論ずる
>
> エムさまの推察通り、「我」と「無我」の語が、
> 二つ出そろった後の菩薩のあり方の問題にになるでしょう。

このあたりは『ブッダと龍樹の論理学』が
ご参考になると思います。
今まで、多くの概説書・研究書を見てきて思うことは、
部派の思想と大乗の空の思想に、まったく、
なんの連絡もつけられていないということです。


要するに、「縁起」から「空」は、
思想的にスムーズな流れが導けていないのです。
それを明らかにしたのが、ブッダ論理学であり、
『ブッダと龍樹の論理学』です。


般若思想は、「空」を説くといわれます。
じつは、そこには「中道」という思想が、
論理的に介在して、「空」へと導くのですが、
それらも解明されていないように思います。

経典の作者たちは、みな、十分了解していますが、
わたしたちには知らされません。
これを、明快にしているのが、龍樹です。


河本さまのあげていただいた論文は、
たいへん丁寧にトレースしてあって、
15年も前にこれだけの内容をまとめたと思いますと、
ちょっと感慨を覚えます。

> http://www3.ocn.ne.jp/~tomson/


この中で、インド論理学について書いてあるところは、
わたしの研究と重なっており、わたしの関心事でもあります。
ここの問題をわたしは研究していたのです。


わたしは、このような問題について、
解決するために、『ブッダ論理学五つの難問』で、
ブッダ論理学を提唱したのです。
西洋論理学とインドの論理学が、
まったく異なる論理によっているということを示しました。


けっきょく、これらが、明らかになったのは、
誰を研究したからかといいますと、
それは、龍樹です。


「直接、龍樹の論法に取り組んだ」ので、わかったのです。


で、不思議なのですが、
大乗仏教史、あるいは、大乗仏教研究史を見てみますと、
「直接、龍樹論法に取り組んだ」人は、
見あたりません。わたしの知るかぎりでは、
八〇〇年近い歴史の中で、
わずかに梶山先生くらいしか知りません。


何が言いたいかといいますと、
シャーンタラクシタも龍樹論法を、完全には、知らないと思います。
これは、シャーンタラクシタのせいではありません。

チベットには『方便心論』は伝わりませんでした。
インドでも、ほとんど忘れられているような状態でした。
中国でも、読んで理解する人はいませんでした。
誰も、『方便心論』の内容を知らなかったのです。

『方便心論』が、阿含経典の中から生まれていることを。

「論法」というのは、論理学ですから、
「縁起」「中道」の論理、さらには「空」ということを、
一切知らしめるものです。


もし、シャーンタラクシタなど、大乗の中観論者・唯識論者たちが
「龍樹論法」を、完全に、知っていれば、
異なった展開になったと思います。
梶山博士が『仏教における存在と知識』の中で、
次のように述べています。
シャーンタラクシタの『中観荘厳論』を解説した中です。


上述した普遍的な空性と、
論理や言語による空性の論証との間の矛盾に関わる疑問は、
ナーガールジュナ以来すべての中観者が直面してきた
古い問題である。(p.75)


この問題は、「空性の哲学は虚無論者の考えに等しい」という批判を
かわせなかったことです。
これに、答えようとしているのがシャーンタラクシタだと思いますが、
この問題は、なんと、じつは、すでに龍樹が解決しています。


龍樹をしっかり読み取れなかった
後代の人々の力不足のせいであるように思われてなりません。
しかし、シャーンタラクシタ、ミパムの解決がどうであるかは、
大事な問題であると思いますので、
それはそれで注目しています。

oさまが、この点を注目してくださって、
わたしの研究にも関心を示してくださったのです。

『方便心論』は、世俗諦中心の論法です。
一方、『中論』は第一義諦を中心とします。

それらは、つながった一つの論理であることがわからなければ、
仏法は理解できません。
中観論者を虚無論者のように呼び、
部派の論者は、有論を説く者と絶対視されます。

このような、二つの立場があるように誤解されてしまいます。

虚無でもなく、有にも流れない仏法は、
論理を究めたところにあり、
それを知るのは、
龍樹の論法をおいてはないと思われます。

「我」と「無我」の相対が出てきたところで、
第一義諦がはじまります。

ここで、今までの概説では、
「相依相関関係」と解説してしまったために、
その後の解説は、すべて、仏法の解説から脱落しました。

なぜなら、ここで、「縁起」が見捨てられるからです。
西洋論理学の牙城に入ってしまうため、
仏教の思想はまったくねじ曲げられてしまうのです。

ここをなんとか避けるため、
「空」で乗り切るのはいいのですが、
そうすると、「空」は「有」の対立概念のように、
これまた、誤解され、空VS有、という構図になって、
虚無論者の道へと堕ちていくのです。

いくつもの落とし穴をかいくぐって、
仏法が、部派をも大乗をも含む、
すべてを包み込むものだと知るためには、
ただ、ただ、煩悩を捨てて、虚心に、
経典・論書を読む以外にないと思われます。

独演会になってしまってすみません。


> ------------------------------
> 現象世界を正しい論理に従って研究し、
> 社会の役に立とうとすること、そしてその結果として、
> 自らの社会実現を為すこと、それこそを人間は為さねばならない、
> とシャーンタラクシタは述べているように思う。
> これは大乗仏教が理想とする「菩薩」の理念と相応するものであるように思われる。
> ------------------------------
>
> これがシャーンタラクシタの真意であるなら
> とても素晴らしいことだと思うからです。


わたしも、河本さまと同じように思います。
シャーンタラクシタとミパムは、よくよく読むべきだと
自分でも思ってます。
彼らの独自性と求道心に深い敬意をもっています。

でも、わたしの場合、その前に、龍樹です。
かれの、『方便心論』を全部解明しなければなりません。
前半はできたけど、後半が残っています。
もう少しがんばりたいと思います。

これは、ブログにも載せておこうと思います。
自分の気持ちだから。

(道場の書き込みと変わっているところが
一部あります。)

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2008/07/01

ガンダルヴァの城

001
7月です。
早いです。

月日のたつのは夢のうち。

玉手箱を開けた浦島太郎の心境になってきました。  

龍樹先生も、言っています。

「諸々のものは、ガンダルヴァの城(蜃気楼)のようだ」

日の出の頃
東の空に
城郭・天守閣・宮殿・行き来する人々が
見えることがあるが。。。。
日が高く昇ると
それは消えてしまう。

この町は、ただ眼に見えるだけのもので
じっさいにあるのではない。

ガンダルヴァの城を探し求めても
行きつくことはできない。。。。

はっと、われに返ると
ああ、っっとっとっと

たちまち、おじいさんとおばあさん。。。

さびしい~~~

  。。。。。。。。 です


      が、

  。。。。。。。。


ま、いいか!

おおっとっっとっと

管理人! 夢のように、立ち直りも早いです。
さすが 日の出前のノー天気な 管理人です!

消えた城を、あれこれ思い煩っても仕方ないす。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

ここで
踏みしめるは、論理の大地ですぞ!

龍樹先生は、感傷にふけるために

ガンダルヴァの城を出したわけではないのです。

これは、ひとえに「空」の論理を説くために他ならない。

006

 
 

 
 
 

「空(くう)」というのは、何か?

これは、「論理」を蒸発させて「空気」のような気体となしたものである。

だから、スプレー式にふきつけられるのだ。

つまり、ここ一番、ブッダの法を知らしめたいとき、

このスプレーを使うとよいのです。

なんで、こんなもんが、龍樹の頃に 売り出されてきたかって?

ううん、それまで、使ってた「無我」のお線香では

効き目がいまいちになったからでしょう。

やさしくソフトなタッチで、「論理」を沁みつけるんですけど

なんか、効かないジャン!って、なんてきたんだわ。

だからね、

龍樹先生、『十二門論』で、悪戦苦闘。

十二章説く中で、最後に、かならずと言っていいほど
次の文句がくるのである。

=================
「有為、無為すら空である。
況や、我においてをや。」
=================

作られたもの(有為)である諸行
作られていないもの(無為)である涅槃

これらは、みな空である。

だから、どうして

我が空でないだろうか。


無我の思想を
受けて
さらに強力バックアップしたのが
空の思想。。。。なんですね。


たぶん、だけど、
『十二門論』も
阿含経典を、ふまえて
作られていると思うけど

まるっきり、まだ、五里霧中で

ゴリゴリ夢中。。。ガンダルヴァの城のようです。


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