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2008年1月

2008/01/31

論理は真理? 

つ、疲れました~~

昨日、今日レポートを330人分
読みまくる。

ぶっきょのレポートは、ほんと、まずいわ。

ぶっきょ、って、もう、むずかしいんだわね。

わたしも、ものすごく力入れて

縁起と中道の話をして
龍樹の話なんかしたもんだから
まずかったわね。。。

学生さんは、そこをレポートした人が多かったけど
もう、まったく、アップアップでした。

悪戦苦闘はしてることがわかる。
一生懸命だというのもわかる。
なんかいいたいのもわかる。
わからないのは、中身だけ。

龍樹。。。きみ、概論向きにできてないのね。

来年から、少し考えよっと。

それでも、なんとか龍樹に食らいつこうとしてる学生さんもいて
ほほえましい。

少し前にとった画像です。
005

 
 
 
  
 
 

少し、これで和みます。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

さて、「ブッダと論理の微妙な関係」について
スマ長老さまより、ありがたくもお言葉をいただいたので
ここで、ちょっと、

論じてみたい、おほん!

http://gotami.txt-nifty.com/journal/


「真理は論理的ですが、論理は真理ではありません」

これですね。
この一文は、非常に微妙なところを表現していて、
なんとも、言えない感じです。

上座部としての立場が示されているのだと思いますが、

たしかに間違いではない。。。と思う。

だけど、
ブッダ論理学者(あれ、いつから?) としては

もう少し、述べてみたい。

「真理は論理的である」について、これはよい。

問題は、後半ね。

「論理は真理ではない」

これですよ。

間違いとは言えないと思うが
でも
正しいとも言えない、と思う。

ここでいわれる「論理」というのが、何か、によると思う。

「論理」を、即、「言語」と見なすなら
スマ長老さまの、おっしゃるとおりでしょう。

しか~し

わたしの述べている「論理」は、じつは、必ずしもそうではない。
ブッダ論理は、ブッダ世界のどこにでもある。

 語りたいことが自然に口から出てくるような、
そのような語りのなかで人々が理解しあえるとき、
わたしたちは幸せである。思考の流れがスムーズで、
おたがいのあいだを時間がゆったり流れているとき、
わたしたちは微笑んでいられるだろう。
そして、その語りが論理に則っているということを知れば、
いっそう心おだやかである。
「論理的でない」などと非難されることもなくなるからである。
(『ブッダと龍樹の論理学』より)

論理は、
ブッダの語りの中にある
が、
論理自身はことばで表されない。
それは、「形式」だからである。

それは
語りをとおして、
わたしたちに伝わってくる。

そのような論理が、伝わるとき
わたしたちは、満足して、もはや
言葉を交わすのを止めるだろう。

論理が行き渡るとき
わたしたちの心は
安らいでいて安楽である。

それは、涅槃である。

なぜ、そういうかというと
そのとき、行(サンスカーラ)は消え
疑問(煩悩)はなくなっているからだ。

わたしは、論理で、そこまで行けると思う。

「行ける」というのは、経験ではない(残念ながら)
「行ける」というのは、道理による。

だから
「論理は、真理である」といっても
まちがっていないように思う。

もう少し、言い換えれば
「どこまでも論理的であること、それは、真理である」

これで、どうかな。

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2008/01/26

ブッダが語ったわたしによって語られない法

雪は降ります。
降るものです。
アイスまんじゅう型。
003
 
 
 
 
 

 
ナナカマドの赤い実にも雪の山。 
005

  
 
 
 
 
いつもよりずっと雪が少なかったのに
一気に降って
けっきょく例年通り。

ま、そんなもんです、世の中。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

さて、本日、朝カルで

『箭喩経(せんゆきょう)』を、じっくりお話ししてきました。
どうなることかと思いましたが

なんとお
ぴったり1時間半
しゃべりまくって

うまく、全部終えることができました。

こんなにきれいに
ぴたっと
話が決まったのは

はじめてだ。

いつも、全部話が終わらないんです。

ちょっと少なめに見積もったのがよかったのかな。

いわゆる 十難無記 という十の形而上学説も
けっこうしっかり説明できたし、

論争好きの若いマールンキヤプッタが
ブッダとの問答の中で
ブッダの貫禄ある語りに
圧倒されてくの様子も
浮き彫りになった。

毒矢の喩えも
じっくりと検討できたし

ブッダ論理学の
語りの語順の話も
展開できた。

いっつも、こうだといいな。
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

仏教は、ええですな。。。
なんか、最近、何を言っても

仏教思想になってきちゃった。

こういうこと言っていいのかどうかわからないけど

あらゆる哲学の中で

わたしのわかるものは
ブッダと龍樹だけだ。

この二人のことなら
自分は
「わかる」
といっても
嘘つきにならない、と思う。

ブッダと龍樹の言うことは
シンプルなのだ。
だから、わたしが、わかるのです。

二人を理解するコツは

================
Ⅱ  言ってることしか言ってない  Ⅱ
================

ということに、気づくことのような気がする。

ただ、言ってることだけを言っていて
中身、それしかない。

だからこそ、いろんなところに応用できるんじゃないだろうか。

ブッダがマールンキヤに言った言葉:

「それだから、マールンクヤプッタよ、
わたしによって語られなかったことは、
語られなかったものと憶持しなさい。
そして、
語られたものは、語られたものと憶持しなさい」

語られない教えである十難無記の説も
語られないものとして、覚えておくんだよ。

これが、ブッダが語った
「わたしによって語られない法」
という教えなのです。

言ったことは言っただけのこと。

おもしろいヤツだよ、お釈迦さん、ってさ。

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2008/01/23

中国でも珍品は珍品

寒い写真のあとは、寒くない写真もあります。

月曜日のこと、苫小牧に行きました。
たしか、千歳をすぎるまでは
雪があったんだけど

あり?
ない!
雪が。。

006
 
  
 
 

 
 
正面の山は
樽前山(たるまえさん)
山だけ雪をかぶっています。

同じ北海道とは思えん!

007

 
 
 
 
 
苫小牧ではスケートが盛んだと
聞いてたけど

これじゃ
どう見ても
スキーは無理だよねぇ。

苫小牧は雪が降らないとも聞いてたけど
ほんとに、こんなにないとは!

しかし、寒いことは寒いです。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

苫小牧駅に向かうバスで
イエス・キリストにかんする
話をずっと読んでたら

だんだん
怪しくなって
苦しくなってきた。

やばい!

人々に福音を告げて
説教を行うところや
山上の垂訓、奇跡物語
パリサイ派との論争や
十字架にかけられるところ
イエスの復活

ダメだ!
もう、これ以上読んだら
管理人はパンクする。。。

はぁはぁ。。。

話が濃密すぎる!

『中論』読んでるときと
同じ感じがよみがえる。

人間の根源にふれる話を
バスの中で読むのは

止めよう、っと。

@@@@@@@@@@@@@@@

そういえば、講師室で

中国人の仲良しの先生が

「センセ、ヘンな飴あげる」

と、ヘンな飴くれました。

中国の飴だぞ!すごい!
食べたあとの包みだけで、ごめんね。

011

 
 
 
「え、ヘンな飴? ども!
ふつうの飴だけど」

「ふふふ、味は、おいしいんだけどね。。。」

「じゃ、いただきます。。???
うっ!すごい、におい」

「ドリアンの飴」

たしかに、味だけは、おいしいけど。。
においが、なんちゅうか、すごいユニーク!

しかし、さすがに

ちゃんと「珍品」と中国語で書いてあるな。

中国語も、読めちゃうわたし。。。ってか(笑)

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2008/01/19

寒い写真

何せ寒いので、

こんな「お寒い」写真しか撮れない管理人です。

ドンだけ寒いかというと

こんだけ。003
 
 
 

 
 
わからないですか。

列車が去っていって
雪煙が上がっているんです。

たしかに列車は写っているはずだが
雪煙の煙幕で見えません。

では、もう一枚。雪煙よ!おさまれ!001
 
 
 
 


カラー写真なのに
白黒ばかり目立ちます。

この日は、-12度の札幌。

この駅?
これは北広島というところ。
むっちゃ、寒い。。。。

春間さま、こんなだけど、いいのでしょうか。

とりあえず
生きてます、管理人

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2008/01/15

ブッダ的 vs 龍樹的

もう15日。

あれ、5日おきに日記を書いてるんですね。
規則正しい管理人です、こんばんは。

早いですね、月日のたつのは。
001

言うと思った?
思わず、口をついて出てくるんですよ。

また、怒濤の日々がはじまるなぁ。。。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@

ブッダ論理学も、なじんだ言葉になってきました。

今年の暮れからまた、
『方便心論』をひっくり返しながら
ニヤーヤの方を見て、
あれこれ龍樹の周辺を探りはじめています。

あんなに謎だらけだった龍樹が
今では、かなり見えてきましたよ。

知れば知るほど

わたしは
龍樹とタイプが似てることに気がつく。
レベルはちがうが、タイプはいっしょ。

はっきり言えば、ブッダとはちがうタイプ。

聞きたいですか。
==============
ブッダ的性格 vs 龍樹的性格
==============
別に対決させなくてもいいんだけど、ね。

まぁ、はっきりしてるのは

倫理のブッダに、論理の龍樹 ですね。

これは、一般的な性格としては
どう分かれるでしょうか。

みなさまもどちらのタイプが考えてみましょう。

★倫理の人は、善いものを求めます★
なんせ、倫理ですからね。
そういう人は、どこに向かうかというと

苦行に向かうのです。

必ず、そうなってるみたいね。
ブッダも苦行に邁進しました。

で、瀕死になってあきらめました。

苦行より立ち上がったブッダは
瞑想に入り真理の世界をえました。

真理の世界の中でずっと静寂なる瞑想しつづけ
真理のことばを人々の上にふりそそぎました。

人々は、真理の世界の中で暮らしてた。。。いいなぁ


さて、それでは


★論理の人は、どうなるでしょう★
論理の人は、何たって真理を求めます。
言い方かえれば、真なるものを追求します。
そういう人は、どこに向かうかというと

快楽に向かうのです。

なぜかそうなってるみたいね。
龍樹も快楽の世界にはまりました。

で、命からがら逃げ出しました。

快楽より逃げだした龍樹は
仏塔に入り善なる世界を見ました。

善なる世界の中でずっと活動しつづけ
善なることばを人々にぶつけつづけました。

こんな感じかな。

「ぶつける」ってのが
ちょっと乱暴ですが、
活動を本来とする龍樹は、なかなか激しいのです。

また、「善なることば」ってのは?
論理を語ったんじゃないすか?

論理を求める人は、語ることばは、善いことになる。
論証の内容は、善に向かうことがらである。

これは、ちょっと、わたしもわかる。
どんなに、激しい議論をしていても
善に向かう意識があり、善を語る。

もし、善を語れないならば、
それは論理的にはならないことを知っている

ひたすら真理に向かいたいがゆえに
善を語らねばならない。

人々は善なる世界で活動した。

★まとめ★

ブッダタイプの人は、善なるものを求め
そのため、ずっと論理的な世界に生きた。

龍樹タイプの人は、真理を求め
そのため、ずっと善なる世界に生きた。

ブッダを追求する仏教は、苦行の系譜を引いている。
その性格は、静止的である。

龍樹を追求する仏教は、快楽の系譜を引いている。
その性格は、活動的である。

到達する境地は、一つでも
そこに至る道には、個性がある。

。。。って、言ってもさ、管理人!

二つしかないじゃん、個性!

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2008/01/10

イルカのキリー

もう10日

月日のたつのは、早いものでございます。
前回と同じせりふでございます。

成長しない管理人だ。
いえ、でも、でも、
いろいろあったんでございます。
いろいろありまくりの中から、一つ
お話ししたいんです。

イルカの世界を旅行してたんです。。。ええのう。

アリよりも小さく
ゾウよりもでかい
その動物の名は?

そんなの イルカっ!

なんて、言ってないでまじめにやってよ!管理人。
ごめんごめん

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

はじめから話すよ。

実は、メールを一ついただいた。
それには

『ブッダと龍樹の論理学』を読みました
いい仕事してますねぇ

という内容のことが、
丁寧な言葉で書いてありました。

で、その方は、
ご自分の本を一冊くださった。

これは
「仏教の精神を仏教にふれずに伝えたい」
という本です

とおっしゃったが、読んでびっくり!
これは、わたしの言葉で言えば

「ブッダ論理学が、小説になりました」

っていう本ですね。

その本の名は 『イルカのキリー』(新風舎)
作者は、三上憲一さま

Ktdvb1

ある意味、三上さまの意図とわたしの意図は
重なっている。

仏教の中から
何が出てくるのか
おのれの力で
掘り出そうとしているという点では
同じような気がする。

10年の思索の果てに生まれた
イルカのキリー、小さいキリーは
この世界の中に生まれ落ち、泳ぎ出す。

つんつん
つんつん

「あれ、痛いな、だれ、つっつくの?」
「ぼく」

「ぼく、って?ありゃ、水から顔出してる」
「イルカのキリーだよ」

「キリー、どうしてこんなとこに来たの?」
「ブッダロンリーガクガ、ショーセツニナリマシタ、って言ったでしょ、だから来たの。
ぼく、ブッダロンリーガク、って、知らないから」

「あ、ううんとね、小さいイルカには、ちょっとむずかしいかな」
「どうして?」

「あ、ううんとね、それは。。。それは。。。それは。。うう、
あ、いるかいないか、わかんないもんだから。。。ほっ」
「ふうん、おばちゃんは、わかるの?」

「おばちゃんはわかるよぉ、だってさ、本書いたもん」
「どんな本?」

「『ブッダと龍樹の論理学』っていう本」
「そこに、ぼく、出てくる?ぼく、出てくるでしょ」

「え?あ、出て。。くるかな。。ちょっと、あんまりそういう感じじゃないけどさ」
「そういう感じじゃないって?ぼく、どんなになってでてくるの?」

「(あ、そんなにつっこまれると、こまる)
うう、イルカじゃなくなって、いるかいないか、
わかんなくなって出てくるの (いいのか、こんな説明で)」
「じゃ、その、いるかいないかわかんないイルカじゃないぼくは、
なんて名前なの?」

「へ?いるかいないかわかんないイルカじゃないぼくは。。
名前が。。。なんだろ?。。(どうしよ、どうしよ、子どもはいや~ん)」
「おばちゃん、ぼくわかったよ。。ぼくが教えてあげるよ。
いるかいないかわかんないイルカじゃないぼくは
ロンリーって言うんでしょ。名前が似てるもん。」

「キリー、えらいなぁ、そ、そう、そう、ロンリーっての」
「ぼく、おばちゃんの本の中では、ロンリーって言うのか。
ロンリーによろしく言ってね。ぼく、帰るよ」

ぱしゃんっ!!!

おばちゃん、汗書いちゃったよ。
あ、まちがった。
汗かいちゃた、だったわ。
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

『イルカのキリー』の世界は
ロンリーのいない世界。

だけど、たしかに仏教のロンリーが
水のように透明に漂っています。

こんな風に、仏教を描くこともできるのかぁ!

って、きっと思ってもらえる。
感性豊かなみなさまに、
こんな仏教の精神的な世界があることを
知ってもらいたいです。

わたしの感じでは、どちらかというと、部派もあるけど
大乗仏教のにおいが、ちょっとしてくるような。。。

おすすめします。

で、

作者の三上さまが、なんと10冊贈呈してくださるそうなので、
読んでみたい方は、以下のメールアドレスより
ぜひご連絡ください。

mikami.kenichi@gmail.com

三上さまのブログもあります。

http://www.serpents-egg.com/

仏教世界は、無限大!
仲間が増えた。。。しょーせつがやってきた、うっほー!

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2008/01/05

仏教徒は外からやってくる、そして、外へ出て行く

もう5日。

月日のたつのは、早いものでございます。
先週は、去年だった。。しみじみ。

ろくに勉強しないのに、一日があっという間に暮れていく。
日々過ぎていくのに、変わるものは、ろくに ない

写真も、昨日と似たようだって?
文句言わないでくれぃ。

自然も人間も、そんなにすぐには 変わらない。
001

 
 
 

 

 
な~んて、言ってないで、管理人!
さあ、いってみようか~!やっとな!

=====================
仏教徒は外からやってくる そして 外へ出て行く!
=====================
前々から、書いてみたいと思ってたのだ、これ。

■仏教徒というのは、どこにいるのか?■

こんな疑問をもったことありまへんか。

あ、ありまへんのね。
変ですか?この疑問。

わたしは、ずうっと、仏教徒というのはどこにいるのだろうかと
考え続けてきました。

「はい、はい、わたしが仏教徒です」

という人はたくさんいるでしょう。
それは、それで何も問題ないのですが、

そういう人たちは「どこに」いるのだろうか?

というのが、疑問だったのです。

「どこにいるのだろうか」って、言ったって、そんな。。。

家にいたり、お寺にいたり、がっこにいったり、会社に行ったり、
スーパーに行ったり、神出鬼没だと思うぞ。。。

あ、そういう意味じゃなくて

教え(仏法)との関係で言えば、
どのあたりにいるのかな

って、意味なんですけど。。。

???

わかんないすか?
じゃ、はじめから話すよ。

【前半】
まず、人は生まれたときには、仏教の教えを知らないので
仏教徒ではない。

沙門ゴータマが、悟りを開いてブッダになったとき、
ひとり 仏教徒が生まれた???

いや、ブッダになっちゃったら、もう、仏教いらないから
仏教「徒」ではないかもしれない。

ということは、なんとおお、

1.仏教が開かれたとき、仏教徒は 誰もいなかった!
衝撃の事実 です。

ブッダが最初に五人の比丘に教えを説いたとき
はじめて仏教徒が生まれた。

ということは

2.教えを聞かないと仏教徒にはなれない。
「帰依します」って言わなくちゃならないもんね。

つまり

仏教徒というのは、
★必ず仏教外からやってくる★のです。

仏教の教えを聞くためには、
ほかの教えをもってるか、
何も教えをもっていないか
どちらかなのです。

確実に仏教外からやってきた人が、仏教徒なのです。

わかる?よく考えたら、不思議でしょ。

そうやって考えてみると
有名な弟子たち、優れた弟子たちは、
もとから、みな仏教徒ではなかった。

有名でない弟子たち、優れていない弟子たちも、
もとから、みな仏教徒ではなかった。

サーリプッタとモッガラーナは、
六師外道の一人サンジャヤの弟子だった。
天下の龍樹は、大金持ちのバラモンの子だった。

ほかにもたくさんのバラモン・沙門・ふつうの人が
ブッダの弟子になった。

で、それらの人が優秀であればあるほど
ブッダの弟子になった。

ブッダの教えを聞いて優れていることが
すぐわかるからだ。

ブッダは、もっとも優秀なものたちを
続々弟子にしていった。


仏教は野火に似ている。

野原や草原を焼き尽くす野火は
どこで、もっとも激しく燃えるのか。

まだ燃えていない草木と、火とが
接するところである。
燃え広がっていく火の先端部分は
もっとも激しく勢いがある。

そのように
仏教外の人と仏教徒が出会うところは
もっとも激しく燃えるのである。
教えがぶつかり合い、燃え上がるのである。

そして、やがて

火が、必ず草木を焼き尽くすように
仏教は、非仏教の教えを焼き尽くす。

焼き尽くすと、燃えるものを求めて
火は、次々と草原をなめるように進むのである。

仏教は、仏教徒ではない人たちを求めて
次々となめるように進むのである。

仏教徒は、どこにいるのか?
野火の激しく燃える先端に生まれる。
非仏教徒たちのいるところと仏教徒の接するところに
生まれてくる。

だから、
★仏教徒は、いつも外からやってくる★

【後半】

こうして、仏教はその教えを広げていく。
しかし、喜んでいるのは、ちょっと早いよ。。

次の展開をご覧じろ!
次は、仏教の危機がやってくる。

勢いのある仏教、優れた仏教
すべての教えは、仏教に飲み込まれる

ようにみえるけど、落とし穴が待ち受けている。

ちょっと、燃えてしまった後をごらんよ。。。

仏教は、どこに行ったんだろう。
あんなに勢いのあった優れた教えは
沈静化する火のように
下火になっていく

ああ、ああ、燃えた後の養分の多い土から
また、再び草木が芽吹いているじゃないですか。

こうして、瞬く間に草木は復活する。

焼けた野原は、仏教の王国ならぬ仏教の焦土。。。

仏教徒たちはどこに行ったのか?
どこにいるんだろう。

心ある仏教徒は焼けた野原にはいられない。
教えの失われた地に住めない。

だから

★仏教徒は、また、外を目指して出て行く★

たくさんの優れた仏教徒たちは、
仏教のないところをめざす。

チベットを追われたダライラマ14世は
活動の場を世界に求めた。
チベット仏教は、世界に広がった。
スリランカからやってきたスマ長老さまは
日本に活動の場を求めた。
上座部の仏教は日本に広がった。

だからね

日本の仏教徒の人たちよ
君たちも

外をめざせ!
教えを広めよ!二人して行くな、一人で行け。。。

■仏教徒はどこにいるのか■

じっさいに、仏教の寺院に住まうのは
まだ、外からは守られなければならない
修行中の人々です。

ほんとうの仏教徒になるために修行する人々です。

「仏教徒はどこにいるのか」
の答えは見つかったね。

仏教徒には、この世に 安住の地はない。

ただ 涅槃をめざすのみ。


ブッダは、仏教をうまくつくったなぁ、と思います。

仏教は
外から人々がたえずやってきて
外へ人々がたえずでていくとき
隆盛です。

変化の教えに従っているとき
仏教自身も生きられる

ってことだね。。お見事!仏教。

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2008/01/02

不活の畏れ?何それ?

新年あけましておめでとうございます。

穏やかに年が明けた管理人です。
よかったです。こんな感じです。

001

 
 
 
 
 

みなさまはいかがでしょうか。
 
005

 
 
 
 
さて、のんびりしてないで、管理人!
さっさといってみようかぁ~、ほらさ!

=======================
「哲学はどこにあるのか」(マジカル広場、横井さま[1041]より)
=======================
[1042]の続き

「多くの人は、生活のために学問をする」と書きました。

そうでない人は、名誉のために学問をする。
そうでない人は、権威のために学問をする。

これらは、およそ皆同じです。
生活のために学問をしていると、

どうしても、学問的には
その人自身の内面と直結しない。
その人の「生活」と直結してしまう。

そこで

そのみすぼらしさを隠すために
名誉 とか 権威 とか
求めざるをえなくなる。

仕方ないす。。。

名誉と権威が手にはいると
失うのがこわくて何も言えなくなる。

仕方ないす。。。

これらは、必然的な結末です。

===

こんな生き方が嫌な人は
どんな生き方をするのでしょうか。

「学問のために、生活する」を選ぶのです。

”学問さま”に、自分の身をくれてやるのです。
粗末なものですが、お使いください。

学問さま:うーん、ホントに粗末だな。。仕方ない。。ないよりまし
わたし:そんなぁ、これでもせいいっぱいですのに、とほほ。
学問さま:もうちょっと、真剣に 真理、っちゅうもんを求められんかね。
わたし:能力の限界ですけど。。。
学問さま:ちっ!この程度で音を上げるんじゃ、いらねぇな。
わたし:そ、そんなぁ(言葉遣い悪くないすか)、もっとがんばりますです

このようにして、どんどん身をささげていくのですが
そのうち、主客逆転といいますか、
おもしろいことが起こってくるのです。

生活は、学問のためです。
が、
学問が、生活させてくれるのです。

生きるは、学問のためです。
が、
学問が、生かしてくれるのです。

わたしは、”学問さま”の言葉を語ります。

学問の言葉は、身をささげて得た報酬です。
それは、わたしを生かしてくれて、
生き生きとさせてくれます。
その言葉には、嘘はなく

学問の言葉であり
生きてるわたしの言葉です。

生きてるわたしの言葉となってしまえば
こちらのもの。

もはや、生活のために生きて
何を語ってもみじめだった昔とはちがいます。

何を語っても
学問の言葉であり、わたしの言葉です。

たとえ、自分の貧相な生活を語っても
真理の言葉になる!

めざせ、ここまで。真理の道を。

======================

多少、脚色していますが、ほぼ本音です。

わたしは、非常勤で働いています。
ま、生活のためですね。

大きな声では言えませんが、
この悪名高いシステムは、
わたしにとっては
そんなに悪くないのです。

真理勝負に使えるシステムなのです。
まぁ、いつ首になるかわからないので
その分、思いっきり

自分の真理を語れる

という強みがあるのです。

? 

なんか変ですか。

いつ首になるかわからなかったら
真理を語れないんじゃないすか?

ちゃう、ちゃう。
そんなことしたら、首になっちゃうの。
それは、名誉や権威による人の発想です。

真理を語っているうちは、首にならない!のです。

嘘だ
って、思ったら
やってみてちょ。。。。ってのは、むごいかな。

====================

では、『十住毘婆沙論』より、ちょびっと引用。

問うて曰く、菩薩は何故に初地に住すれば「不活の畏れ」無きや。

大威徳の故に、能く堪受する故に、大智慧の故に、止足を知る故に。
……
有智の人は少しく方便を設けて能く自活を得る。
…不活の畏れ有るべからず。

【飜訳コンニャクぅ】
(初地(最初の段階)になれば、どうして、
『生活できないかも』というおそれが無くなるのですか。)

(とても威徳があるから、能く耐えるから、すんごい智慧があるから、なくても満足するから)
……
(智慧のある人は、ちょっと手段をつくって自活の道を開くのです)
…(生活できないかも、というおそれは有るはずない。)

=======================

だからね、まぁ、大丈夫でしょ。

(うーん、管理人、智慧って、智慧ってところが。。。心配よ)

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