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2007年9月

2007/09/28

寝る子は育つ。。ってんじゃ

今週は、休みなくはたらく管理人です。
だから、毎日眠くてしかたない。

朝、起きたら、「えっ!6時50分!」
7時過ぎには出発なのに。

顔を洗ってバッグをひっつかんで
家を出たら
7時10分過ぎ。

なんとか、間に合ったけど、
駅のベンチでパンをかじって

生活がくずれてきたなぁ
と、思いながらも
ペットボトルのお茶を飲みながら
駅の階段かけあがる。

よし!無駄がない人生だ!
多少見苦しいかもしれないけど
ガマンだ!

なんか、だんだん、
駅前留学
ならぬ
駅前生活、
ってのが身についてきたような気がする。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

さて、今日、久しぶりに、アクセス解析を覗いて
腰をぬかす。
最初の数字が、訪問者数で、
あとの数字がアクセス数です。

はじめは、ふつうの数字です。
だいたいそろってるのね。

2007年9月21日(金) 75 198
2007年9月22日(土) 74 251
2007年9月23日(日) 70 353
2007年9月24日(月) 76 287
2007年9月25日(火) 69 194
2007年9月26日(水) 82 254

ところがぁ~、じゃーん!

2007年9月27日(木) 324 511

数字が、三ケタ!300超えた!わー!
このブログはじまって以来の最長不倒アクセス数です。
寝てる間に、アクセス数は増えるのかも。。。ンな訳ない!

昨日の、尊師のことば
(「自己より他に本当に愛しいものがあるか」)
のせいかな?

それとも

『ブッダと龍樹の論理学』が
少し巷に広まったからかしら。

何にしても、きっと二度とないと思うから
記念に、ブログに書いておこう。

明日も仕事だ。
さっそく安眠して、
遅れないようにしなくちゃ。
それに
寝てる間に、
アクセス数が増えるかもしれないし。。フフ
。。。ンな訳ない、っつうの。

寝るアクセス数は育つ

。。。管理人!変なことわざ作らない!

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2007/09/27

自己より他に本当に愛しいものはあるか?

哲学とは、厳しいものである。
自己の極限にせまるのである。

これは、哲学の問題です。
学生諸君は、一生懸命考えたのである。
エライのである。
では、では、問題です!
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
次の文章を読んで、下の問いに答えなさい。

『サンユッタ・ニカーヤ』1.3.8  「マッリカー」

1.サーヴァッティー(でのことである。)
2.さて、そのとき、パセーナディ・コーサラ王は王妃マッリカーとともにすばらしい高楼の上に上っていたのである。
3.さて、パセーナディ・コーサラ王はマッリカー妃に語った。
「そなた、マッリカーよ、いったい誰かほかのもので、自己(アッタン)よりももっと愛しいものがいるだろうか」
4.「王様、わたくしには自己よりほかに愛しいものは誰もおりません。それでは、王様、あなたさまは自己より愛しいものが誰かほかにありますでしょうか。」
5.「マッリカーよ、わたしにとっても自己より愛しいものは誰もほかにはおらぬ。」

6.ところで、パセーナディ・コーサラ王は高楼をおりて、尊師のところに近づいていった。尊師に近づいて挨拶を交わし、一方の端に座った。一方の端に座って、パセーナディ・コーサラ王は尊師に次のように述べた。
7.ここで、わたしは、尊師よ、マッリカー妃とともにすばらしい高楼の上に上って、マッリカー妃にこのように言いました。
『そなた、マッリカーよ、いったい誰かほかのもので、自己(アッタン)よりももっと愛しいものがいるだろうか』
こう言われたとき、尊師よ、マッリカー妃はわたしにこのように答えました。
『王様、わたくしには自己よりほかに愛しいものは誰もおりません。それでは、王様、あなたさまは自己より愛しいものが誰かほかにおられますでしょうか』
このように言われて、わたしはマッリカー妃にこのように言いました。
『マッリカーよ、わたしにとっても自己より愛しいものは誰もほかにはおらぬ』

8.さて、尊師はこの意味するところを知って、そのときこの偈を語った。

   心があらゆる方角にさまよいいくとも
   自己より愛しいものにたどり着くことは決してない
   同じように他の人々にとっても自己は非常に愛しい。
   それだから
   (                       

問題  あなたなら、空欄の中に、どんな言葉を入れるでしょうか。
    ふさわしいと思われる言葉を入れてみましょう。
    理由も書いてね。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

もう種々さまざまでした。
それだから(世の中はうまくおさまっている)
       (自分を大切にしなさい)
       (他を理解しなければならない)
       (正義はなかなかうまれないだろう)
       (この世は争いごとがおこるのです)
       (他の人のことも愛しく思うことができる)
       (人間はやめられない)
       (どんなに他者のことを思っても最後は自分が一番)
       (自分の次に他人を愛せばよい)
       (他者を思いやることができない)
       (自己より愛しいものをさがす)

まだまだあるけど、こんなもんで。
理由も書いてもらったので、読むと
どの答えもそれなりの説得力のある理由があることがわかります。
けっこうみんなよく考えてるのね。

では、最後に、尊師(ブッダ)のことばを!
尊師、どうぞ!

それだから (自己を愛しく求めるものは、他を害してはならない)

ううむ、こうしてみると、さすがです。
自己と他者の両方に、ちゃんとふれています。
尊師の答えは、漏れがない。

では、では、尊師の授業を終わります。

管理人、何だ、手抜き授業だぞ。
尊師におんぶにだっこじゃん。

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2007/09/23

龍樹本つれづれ

さっそく「ひじる日々 東京寺男日記」で、ajitaさまより、
ありがたいお言葉をいただきました。
初校ではたいへんお世話になりました。
ありがとうございました。
っと、まるきり、個人宛のお手紙になっております。

ひじる日々 東京寺男日記

> サンガが本格的に仏教系出版社の昇り龍として、
良書をたくさん出してくれるようになるか否かは、
上記二冊の売れ行きにかかってます??

そ、そんなぁ、責任重大なりぃ。
おどかさないでくださいよ、ajitaさま。

しかし、こうなったらですよ、
いっそ
昇り龍
ならぬ

昇り龍樹っ!

をめざすというのはいかがでしょう?

え?なに?
龍樹はイヤだ、ですって。

やっぱりダメか。

@@@@@@@@@@@@@@@@

わたしは、いま、
一緒に載せていただいている
新刊のパユットー師の
『テーラワーダ仏教の実践』を拝読してます。

簡単な仏教の言葉が
いかに深い内容をもつかを
説明する
そのみごとな解釈に
脱帽です。

仏教が、これまでの
ちょっと古びた解釈を捨てて
まるきり生まれかわる感じがします。

わたしの本とも、
ことばという点で
関連したところがあるような気がしました。。

こちらの本もぜひどうぞ。

わたしの今回のテーマの一つは

「空」 を究める

ことなのです。
おちゃらけさまのために(ほんとなの?)

「空」ということを
しっかり取りあげてみたいと
思ったのです。

「空」は使うもんだと思います。

その点、
ホントにすばらしく「空」を活用されているのが
先にあげました
パユットー師かもしれません。
ことばにいろんな意味を込めて説明できる
その手腕は、すばらしいのです。

わたしも、がんばって

仏教的にみごとに言葉をあやつるには
「空」を知らなければなりません。

と、こういうことも、書きました。

龍樹本は、いろいろな読み方ができます。
いろいろな問題が入っています。

ご感想、問題提起、ご批判、何でもOK。

ぜひ、みなさま、道場でお待ちしております。
よろしゅう、おたのもうします。<(_ _)>

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2007/09/22

『ブッダと龍樹の論理学』(株式会社サンガ)

龍樹本の完成です!

とりあえず表紙だけご覧ください。Img_2412_2

今きたとこなので
お披露目です。

あとは、また、仕事から帰ってから。

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2007/09/20

しっぱいは、いっぱい(じゃこまるぞ)

あっという間に、地獄の日程。
後期開始っ!

ひぇ~~っとばかりに仕事が押しよせてくる。

さすらいの非常勤講師なので
毎日、
今日は北へ
明日は東へ
あさっては西へと
ぜんぜんちがった方角に行く。

完全にまちがいそうだ。
いつかまちがって
ちがうところにいくんじゃないかと
とっても、心配。

それに、最近
大学でアンケートとかいって
学生さんに授業のアンケートをとって
それの回答をくれて
コメントしてくれ、とか、書いてあることも多い。

そ、そんな、もう、前の講義のことなんか
忘れてるよ。
過去は、ふりかえらないタイプだし。

ぜんぜんちがったところで
ちがった授業のアンケートの
回答しそう。

昨日も
めちゃ、とんちんかんなことを
関係ない授業で、くちばしってしまう。

これから、はじめて授業するのに

「講義内容に関心が多い人が多くてうれしいです」
「レポートはよくできていました」

とか、言ってしまう。
みんな、きょとんとしている。
すみません。ちがう講義だったわ。

同じ曜日の同じ時間帯にはじまると
自動的に、同じ学生さんだと思ってしまうのであった。

しっぱい、しっぱい!

かくして、後期は
しっぱいから入るのであった。

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2007/09/15

消えます、消えます、これがブッダ流

みなさま、こにゃにゃちは。

「コンサドーレの試合で札幌ドームに4万人を集める」
というキャンペーンに協力して
我が家も3名、雨の中を出かけました。

たくさんの人が来てたのに、負けちゃいました。。。

途中から、もうこりゃダメだ!と、
悟りをひらいて
今日のブログに書くことを一生懸命考えてました。

2万2千のコンサドーレのファンの人は
このように
後半の試合では
全員、瞑想に入り、
観客席には静寂がただようのでありました。

ヴェガルタ仙台の303人(?)のサポーターが
元気よかったです。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
さて、昨日は、「空」について
「名色」の特徴であるという点から
お話ししてみました。

「空」を、平川先生のように、まず「色」の特徴と見て
説明しますと、ちょっとよさそうに見えますが
しだいにボロが出て仏教から離れていくような気がします。
われらは、もっと、注意して、ブッダの教えから
落っこちないように、いきたいと思います。

お?

何ですか?なんか、文句でもありますか?

あります、あります、おおありです。
じゃ、何ですか、管理人、
あなたはぶっきょから落っこちないというんですか?
その証拠を見せてもらおうじゃないすか?

え?証拠?
証拠といわれたって、そんな!
だって、だって、ちゃんと「名色」の項目をクリアして
次の「識」にいけてるもんね!
昨日のブログを読んだ人は、みなさん、納得してくれてるはず!

管理人が「名色」、クリアできるなら
誰でも「名色」くらいクリアできると思うのが、世界のじょーしきっ!
管理人が、名色の原因である「識」に到達してるという証拠は?
さぁ、見せてもらおうじゃない。

え、そんなこと言ったって。
「名色」が滅しちゃったから、
言い訳がましいこと言えないもん。
「ことば」や「考え」から離れてるんだもんっ。
「識(識別作用)」があるだけなんだから。
(う、うまい言い訳だわ、名色が滅した、って言えば、なんとかなりそ)

う、敵もやるな。
じゃ、ちがう方から攻めるか。
管理人の説明には、大きな欠陥がある!

え?欠陥?

そうですっ!欠陥。
昨日、管理人は
「科学も、また、たくさんの見方のうちの一つの見方でしかない、
ということを知らせるのが仏教である」って、いったよね。
そして
「こうなると、いかなる見解も、見解として見るという態度が生まれます」
とも言った。

いかなる見解も見解としてみると言えるなら、ですよ、
ぶっきょ、だって、一つの理論。つまり、見解じゃないんですか。

ぶっきょ、だけが、「見解」の中で
とくべつあつかいされるということは、
ありえないでしょ?

ぶっきょの十二支縁起説とかなんとかだって、
プラパンチャ(虚妄)って、ことになるでしょ。
さぁ、どうだ!
自分たちの理論は、他とはちがってプラパンチャじゃない
というなら
そのことは、どうやって証明できるか、「名色」の中で、
やってもらおうじゃないの!さぁ、さぁ。

ま、まずい!
進退窮まった!仕方ない。
ブッダの教えも、見解だわよ。
だから、プラパンチャの中に入ってるわよ。
虚妄だわよ。
これならいいでしょ。

え?なに?
自分の見解も、プラパンチャ(虚妄)なのか?
そ、それなら、どうなるんだ!?
ばかな!
自分の見解を自分で虚妄というヤツはいないぞ。
ほんとのバカなのか、それとも、破格に利口なのか、どっちだ?!
それに、それなら、なにも主張していないことになるじゃないか。

そうだ、そうだよ。(破れかぶれだい!)
もう、ブッダは、何にも言ってないよ。
名色は滅したら、次に、識に行く。
でも、識だって、滅するんだ。
わかったぞ!ブッダはこう言ってる。

「名色が滅すれば識が滅する。識が滅すれば、名色が滅する。
名色が滅すれば、六処が滅する。六処が滅すれば触が滅する。。。。」
(『サンユッタ・ニカーヤ』12.65)

名色→識→名色→六処→…という順序になってるんだ。

「見解(名色)」をプラパンチャとみて、名色を滅する。
しかし、「名色をプラパンチャと見る」というのは、自分の見解である。
つまり、自分の見解という「名色」の一部はまだ残ることになる。
でも、とりあえず、名色が滅するので「識」に進む。
他の見解からの識別(識)はあるからだ。だから、「識」に進む。
「識」においては、あるのは「自分の見解」である。
でも、それも「プラパンチャである」と識別する。
すると、「識」が滅して、ついで、自分の見解(名色)が消える。

こうして、名色→識→名色→六処→…という順序で、滅していくわけか。

たしかに、
自分のバカ(虚妄)の部分を消していけば
見解もなにもなくなっていくわね。

もってた財産、どんどん失って、
まるはだかになってく気分だね。
ほんとに無我になるしか道はなさそだ。

ブッダの教えを受けとって
教えの通りに進んでいくと
わかればわかるほど、
どんどん教えは消えていく。

これが、ブッダ流。

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2007/09/14

「空」の考察(妄想風味)

平川彰先生の『インド・中国・日本 仏教通史』の

龍樹のところを読んでいたら、こんなふうに書いてありました。

「竜樹は『中論』で、仏陀の根本思想である縁起説を空(シューニャ)の立場で解明した。事物の本性は空であるから、現象の世界が成りたつ。諸法の本性は無自性・空である。これは有部が、法を有自性と見る立場で現象を説明するのと真向から対立する。空の立場は、物質の本性をエネルギーと見る近代科学の立場に近い。すなわち空とは虚無の意味ではなく、力として実在であるが、特定の固有性をもたない意味であり、物質的と精神的との無自性の力の結合、強力のあり方の上に、現象の成立、変化を理解する立場である。
………それゆえ、空とは現象成立の能動的根拠を示した用語である。」(39-40ページ)

かなり、解釈が入っていますね。
「空」については、このような現代の科学的見方をアレンジした解釈が多いと思います。
玄侑宗久氏の『般若心経』(ちくま新書)の解釈もそうだったような気がします。

「空」ということばは、それこそ空(空っぽ)なので、
ここに、いろんな意味を入れることができる便利な用語です。

その分、けっこう恐いことばでもあると思います。
どんな場面に使っても、それなりに、ピタッとおさまってしまうことばです。

平川先生の解釈も、それなりにピタッとおさまって、うまく説明できているように思います。
これは、これで、このような見方をする人には、成りたちます。
科学者にとっては、説明のとき、この解釈は便利に使えるかもしれません。

でも「空」ということばが、これだけの意味しかないかと言うと
どうでしょうか。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

「空」は、ブラックホールのように、人々の思惟を何でも吸い込んでしまう。
しかし
「空」は、虚空のように、人々の思惟を雲散霧消させてしまう漠々たるものでもある。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

「空」は、「名色(名称と色形)」の特徴だと思います。
「縁起」の論理を「名色」において展開させると「空」という特徴がでてくるのです。

ということは、平川先生は、「名色」のうち、おもに「色(色形、物)」の部分について
説明したということになります。

仏教は、科学ではない。
科学を部分としてもつけれども、それだけに終わるのではない。

科学も、また、たくさんの見方のうちの一つの見方でしかない、
ということを知らせるのが仏教である。

仏教では、「名」を先に説くからです。
「名色」とは、名称と色形のことです。
基本的に、名称が先に来るのです。
その後、色形をそれに添って認識するのです。
しかし、この「名色」というのも複雑で
「名称」と言っても、
たんに「ことば」と言うだけではないさまざまな心の働きを
すべてふくめていっています。
意識の上にのぼってくるもの、それらをほぼすべて
とりまとめて「名」と呼んでいるように思います。

こうなると、いかなる見解も、見解として見るという態度が生まれます。
その見解によって、色(物質)が、説明されます。
いかに巧みに説明されようと、色(物質)は名(名称)の支配を受けています。

色が、独り立ちして、わたしたちを圧倒することはありません。
(平川先生の解釈は、ちょっと、色が一人歩きしてる感がありますね。)

科学の世界が、現代人のわたしたちにとって、世界のすべてであるように見えても、いずれ、それは失われていく理論でもあることを、名色の「名」→「色」という順序は、暗示しています。

しかし、それだからと言って、「名(心の働き)」が、一切を生みだす真実なるものかどうか、それもわかりません。

なぜなら、仏教では、名色の世界をこのようなことばで呼ぶからです。

プラパンチャ

名(心の働き)によって広がる世界を、多様な現象世界(プラパンチャ)と呼んだのです。
それは、心の中に広がる意識の世界、さらには、言語で言い表される世界をさしています。

わたしたちの心の営み、ことばをもつ人間の営み、一切が、プラパンチャです。

プラパンチャは「戯論(けろん)」と訳されます。
巧みな訳語です。「戯」の字が効いています。

現代人が、人間を他の動物から区別するところの誇るべき特徴
「思惟する動物」「言語をもつ動物」
このような、側面を、仏教では、プラパンチャと述べるのです。

なんちゅうこった!

「考える」
「ことばをもつ」

これなくして、人間を他から差別化するものはない、とまで言える
大事な特徴。

われらが誇り、ともいうべきもの。

なのに、
なのに、
このような思惟によって広がる世界を

プラパンチャ(迷妄、虚妄)

と、仏教では述べるのです。

人間が、奢れば奢るほど、仏教の思想は
ガツンガツンと
人間の頭をたたくのです。

そして、

おまえは、おまえ自身(自己)において

「空(空っぽ)」だと

知れ

と、とどめを刺すのです。

行き詰まった人間が
「えーん、ごめんよ、ごめんよ。バカです、バカです」
と、反省したとき

そのとき、ようやく扉が開く音がするのです。
「名色」を脱して、ようやく、次の行程にいけるのです。

ああ、まだあったのか、次の行程が。。。「識」「行」「無明」
がんばれ!先は長いぞ!

仏教は、自分がバカであることを
一つずつ確認する道なのです。

なんてぇ、こったい!仏教って!

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2007/09/09

部派と大乗、どっちに転んでもいばらの道

本を一冊書くごとに
わたしはかしこくなる。

書いたものが、自分の中にしみわたってくると
何を書いたか、自分でもわかってくるらしい。

ってことは

それまで、わからんで書いてたのか?
という疑問が当然出てくるでしょう。

ううううむ、そうかな。。。

というのは、世間のテマエ、まずいので、
書いたものの意味が自分でも自覚される
といいましょう。

でも、これって、
「わからんで書いてた」
と同じ意味ですね、ははは。

つまり、ね、何が言いたいかというと
あらかじめもっていた偏見が
一つ、また、一つと減っていくということなのです。

ものすごく率直に言いいますと
これまでの龍樹解釈は、明らかに、変。

何が変かというと、
何かどこかにタブー視してるところがある。
龍樹の部分だけで満足しようとしている、意図的に。

これは、龍樹がでかすぎた、ということでもある。

ブッダを、わたしたちがとらえきれていないように
龍樹を、大乗仏教はとらえきれていないのだ

と思ったら、ストンといろんなことが見えてきた。

龍樹は、大乗中観派の開祖なんていわれるけど
そんなもんじゃすまないことは、
大乗の諸君は百も承知だと思う。

中学生になってるのに
おまえは小学生だと言い聞かせて
むりやり、きつくなったランドセル背負わせて
学校へ行かせてるようなもんだと思う。

中観派というランドセルを無理に背負わせても
龍樹には、小さすぎてきついんだわね。

だけど
大乗仏教が、ほんとうに、龍樹の大きさを量りそこねていたのか
というと
これも、必ずしもそうではなさそう。
どこか意図的にランドセルを押しつけていた
感じが残る。

大乗仏教って、そうとう。。。そうとう。。。
なんて言ったらいいか
ほんとは、悩みは深いんだって、思えてきました。

菩薩摩訶薩(ぼさつまかさつ)、って言うけど、
摩訶薩(大士、マハーサットヴァ)って、
ほんとに言うとおり
「偉大な人物」「偉大な志の人」
だったんだと思えてきました。

大乗が、なぜ、そんなにつらかったかというと
たぶん、基本的に
龍樹の論法を受けとることを
拒否する道を選んだからだ
と思う。

論法を得ても、きつかったと思うけど
これを拒否すると、
ラクダが針の穴を通るような道を行かなきゃならない。

小さいランドセル背負った菩薩が
大人に向かって
訴えても
誰が聞くだろうか?

子どものくせに
大人に説教するとは何ごとだ
「空」「空」とうるさく言うんじゃない
となっちまう。

大乗は、たぶん、主要なところでは、
部派の中から生まれてきたのだろう。

八千頌般若などの初期大乗の経典は
そう思って読むと
胸に迫るものがありますね。

この経典が作られた頃、まだ、
龍樹は生まれてないだろうから。
さぞかし、きつかったことだろう。

龍樹を得て、ようやく、大乗は
使わないまでも
伝家の宝刀、論法を
心の支えとして持ちえた。。。

表だって使ってはいけないことに
変わりはなかったけど、
自分たちの理解のためには
支えとなったのだろう。

部派も大乗も
いずれにしても
歩む道は

いばらの道なのか。。。

大乗経典を
大衆向けの宗教的文芸作品という
解釈を
わたしは
捨てます。ぽいっ!

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2007/09/08

ダリ

木曜日に、サルヴァドール・ダリ展に行ってきました。
最終日ということで、ずいぶん混んでいました。

集中して見ていると
なんか
危ない感じがしてきたので

「こりゃ、ヤバイ」と思って
さらっと、眺めて出てきました。

ダリは、若い頃から

一つのものを見ていると
別のものに見えてくる

というダブル・イメージの人だったようです。

人の身体に穴が開いていて
むこうの空の風景が見えていたり
します。

虎の顔に中国人の顔が三人入っていたり
だまし絵みたいなのもあります。

仏教でいえば
認識(五感+心、と、その対象)は「一切」なのですが、
それが、ダブル・イメージでは
ずいぶんたいへんだろうと
思います。

でも、ものはどんどん変わっていくのだから
ダブル・イメージでも
まぁ、いいのかな
と思ったりしますが、
ちょっと強烈でヘンテコな感じが
残ります。

ものを見る目は、認識の入り口。
目が、人とは変わっていると
次に、結びつく心も
ちょっと変わってくる。

ダリの心は、ふつうの人より
コントラストが強い。

だから、絵が、はっきり、くっきり
している。
物とそれによってできる影が
対比的に強く表現される。

でも、背景は、もあっとしてる。
見ようとしてないものは
もあっとしちゃうのかもね。

しかし
何を見ても、仏教を使ってしまうわたしは
ユニ・イメージ(こんな言葉ある?)
といえるのではないか

と、思ったりもするのです。

芸術の秋。。。にしては強烈でありました。

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2007/09/06

龍樹本の宣伝

とうとう『ブッダと龍樹の論理学』校了しました。

ぜんぶで338頁の本です。

どたばたして気がつきませんでしたが
よく考えたら
結果的に、自分で書かなきゃならないと思ったことは
ほぼ全部書くことができました。

自由に書けた上に、出版までしてもらえるなんて
ほんと、めっちゃ、幸せです。

短期間勝負だったので
編集者の方の不眠不休の仕事ぶりに
ついていけず
完全にパンク。

校正ミスがでないといいなぁ。

内容を考えて読んでしまうので
ぜんぜんミスが見つかりません。
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
では、本の宣伝もかねて、少々龍樹本をご紹介。

★龍樹については? まったく新しい説です(ブラボー)★

仏教を知る上で、
世俗諦の論理では、「縁起」をおさえ
第一義諦の論理では、「中道」をおさえることが
必須です。
「中道」、この知られざる論理を
マスターするなら、「空」は簡単にでてきます。

「空」とは何か?
知ってるようで知らない「空」、これをマスターできるのです!

★ブッダについては? 新しいものはないかな(あらま)★

ただ、『中論』は『スッタニパータ』を下敷きにしているので
『スッタニパータ』の解明にも一役かっていることになります。

★大乗については? あんまりパッとしないかな(およよ)★

ただ大乗への道筋は、一本見えてくると思います。

あらゆることが「縁起」によって生まれてくる
という思想をもつ仏教においては、
大乗も、生まれてくるときは必然です。

だけど、大乗の生まれる「縁起」を説くのが
主たる目的ではないので
あまりはっきりはしてないかも。

★ブッダと龍樹は、
すっきりさわやかな哲人であることを
証明した本です★

宣伝になったかな?
どうかな?

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2007/09/03

もの思う秋

かなり青息吐息だった管理人です。
忙しいです、サンタマリア

で、あまりに忙しくて

仕事に行くのを


一つ

忘れてました。。。。。。。あちゃ~、ごめんなさい、ごめんなさい。

でも、行ってたら死んでたかも。
許してください、もうしません。
カレンダーを見そこなっていました。

でも、最後の答案もつけきって、返しました。
明日、最後のクラスに返却すれば、一件落着です。

そして、気がつけば9月。。。わたしの意識の中では
ちょっと前にお正月だったんだけど、
いつの間に、9月になったんでしょう。

何してたんだろう。。って、気もします。
堤防の土手にはススキがそよいでいるし
クリの青いイガも落ちていました。

秋は。。。。

読書の秋っ

といきたいけど、惰眠の秋になりそだな

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