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2007/04/24

怒っても、仏教

管理人には、足がある。

だから、
最近、よく歩くのです。

北大の中をぬけたり
駅前をちょろちょろ歩き回ったり
仕事帰りに
今日は、近代美術館にも寄りました。

空海曼荼羅展を見てきました。

両界曼荼羅図を拝見!
すっばらしいのです。

4メートル四方の立派なものです。
でも、かなり色がかすれて文様が
はっきりしません。
赤外線写真やレントゲンなどでとった下絵の
線描画は、とても精密に描かれています。

完成当初はどんなにすばらしかっただろうと
思わせられます。

空海直筆とされる、三教指帰も見てきました。

運慶の八大童子像は
みごとだし、ほんとにほれぼれする。
まるまるとした身体に、きりっと厳しい表情が
よく似合う。。

一人だけ、
お釈迦さん顔の阿耨達(あした)童子が
なんか、ぱっとしない。。
もっと きりっとしなさい
と心の中で文句を言ってしまう。

厳しいと言えば

快慶の不動明王と愛染明王の
忿怒の形相は 
なぜだかわからないけど
チョーステキ!
うっとりと見ほれる。

そうだ!怒れ!
もっと怒れ!
拳を振りかざせ!

と、大いに共鳴する。。

こうして 管理人は、イカレた。。(おい)

冗談はおきまして
なぜかは知らねど、最近、

「怒る」という形相に

魅力を感じるのです。

瞋(いかり)は、捨て去るべきもの。。。なんだけど、
忿怒の形相は、捨て去るべきもの と言われてないもんね。
などと、言い訳しつつ

なぜだろうと思う。

「怒る」というのは、
人にメッセージを伝える簡便な方法だからかも。
「怒る」と、みんなビックリしてこっちを向いてくれるしね。

みんな、 まじめに 聞いてくれる。。。。。
ふぬけた精神がぴりっとするような気がする。

う~ん、これかなぁ。
真剣になってもらいたいからかもしれないな
って、思いながら
人間て、おもしろいなと思うのでした。

「怒り」は、みんなに嫌われる。
ブッダも、怒りを捨てなさいと言った。
そうだと思う。
怒って、いいことなんか これっぽっちもない。
すぐに自己嫌悪とともに苦しみがやってくる。。

だけど、「怒り」はいつも人間とともにあったのだ。
怒るなんて嫌だ、と思いながら、「怒り」と一緒にいる。

まぁね、かなしい友達なのさ。。嫌われ者の、ね。

だから

この不動明王の忿怒の顔には、どこか
悲しみが宿っているような
感じにも見えるよね。

いいよね。仏教って、さ。
怒っても、仏教なんだもんな。

って、思って帰りましたとさ。。

ちょ、ちょっと!
管理人!
か、かおが、不動明王に似てきてない。。。

まずい!見過ぎた。

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コメント

えび天サンバさま

ありがとうございます。管理人も、ほとんど人事不省でした。ようやく、復活の気配です。
えび天サンバさまも、楽しい連休を!
管理人は、予習をしだめしておく予定です。。あとがちょっと楽かなって。

投稿: 管理人エム | 2007/04/28 18:37

エム先生

人事不省に陥る傾向の多い私には、怠らず精進すべし、
というのがピッタリカンカンですが、お疲れの様子のエム
先生には、どうぞごゆるりとご自愛くださいませ。

投稿: えび天サンバ | 2007/04/27 16:17

> 足もなかなか満足に使えなくて、不足ばかりになってしまうので

うまい!なぁ。「照る照る坊主~」も、ぴったりですね。足だけで生きる管理人も、何か気の利いたことを思いつこうと、一晩考えましたが、うううう、出ません。頭欲しい。。。出るのは、蛇足ばかり(く、くるし、笑)。

投稿: 管理人エム | 2007/04/27 05:47

エム先生

足もなかなか満足に使えなくて、不足ばかりになってしまうので、
もう少し頭も使えたらなぁ、というか、使える頭があったらなぁ、と
いうある種、「照る照る坊主~」に似た願いの言葉なのでした。先生
にそうすんなりほめられますと、あせるといいますか、あぶら汗が
出るといいますか…(苦笑)。

投稿: えび天サンバ | 2007/04/26 09:26

えび天サンバさま

> えび天サンバには頭がある(のかなぁ?^・^)。

あ、いいなぁ、頭があって。足だけで生きてる管理人です(笑)。
怒りも方便、というのは、ありそうです。

> おかしくなって危険な人物がいた場合とかは、とりあえず張り倒す、とか、そういう応急処置の必要性のことなんだろうか、とも思います。

そうですよね。「怒る」というのしか、とりあえずうまくいかない場合があるように思います。小さい子が、ライターで遊んでる場合のように、すぐやめさせなければならない時などです。
わたしは、ブッダに怒られたことがあります。目が赤く光ったような気がして、めちゃくちゃこわかったです。
経典読んでて、経典の勧めるとおりに生きるのはとてもたいへんで無理だと思いました。で、不遜にも、書いてあることの中でわたしに都合のいいとこだけ利用してやりましょ、と思って、読んでいったら、ある部分を読んだとき、ブッダの目が光ってどかんとわたしの上に雷が落ちました。
経典のことばに衝撃を受けたんだと思います。
ブッダも怒るんです。効き目100%ですよ。えび天サンバさまの言葉でいうと、「内面に向けられた誓戒」という意味になるのかもしれませんね。
こういうわけで、今では、よい子のわたしです(笑)。

初期仏教と大乗仏教のちがいは、構造上の問題もあるように思います。部派の人にとっては、ブッダはまだ身近に生きている存在ということかもしれません。法身や応身を説く大乗との対比でいうと、ですが。それが「ブッダの神格化」と見えるかもしれませんねぇ。。。
また、逆に、大乗はブッダを神格化していった、などと書いてある概説書もありますよね。ちょっと見方がちがうと、逆に見えちゃうのですね、なるほどなぁ。。

投稿: 管理人エム | 2007/04/26 00:25

えび天サンバには頭がある(のかなぁ?^・^)。
で、エム先生の話題について、私もいささかながら思い当たる節があります。いろいろな方便のうちの一つだ(怒りも方便)、という人や、怒りは内側に向けられた誓いや戒めなどのことを意味するんだ、という人などの意見を聞いて、私も考えました(大きくなったなぁ、という感じですか(笑))。
怒りも方便、というのはお不動さんの縄で縛り付けたりして、改心させるとか、そういう押し付けがましい感じがありますが、おかしくなって危険な人物がいた場合とかは、とりあえず張り倒す、とか、そういう応急処置の必要性のことなんだろうか、とも思います。これは集団的自衛権の行使についての議論にも通じるものがありそうですが、国家間の紛争を武力で解決するのを憲法で禁じた場合でも、盗賊に押し入られた時には即、撃退ということも必要であるということでしょうか。しかしアメリカの手下になるための集団的自衛権というのはいただけませんが。
内面に向けられた誓戒という意味合いを取るとすれば、セルフ・コントロールということになるのでしょうか。大乗仏教(とそれ以降の仏教)と、それ以前の初期仏教の違いについて最近よく考えるのですが、ブッダも自らを阿羅漢(アルハット)と呼んだ、ということを、ブッダ亡き後の弟子達はやはりゴータマ・ブッダだけを神格化して、ブッダの説いた法から逸脱したのではないかと思います。それに対する原点回帰の意味合いが、大乗仏教運動だったのではないでしょうか。自灯明だけでは論理的に一貫性というものが成り立たず、やはり法灯明と合わせないといけないのではないか、と思う今日この頃です。

投稿: えび天サンバ | 2007/04/25 08:14

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