« 2006年11月 | トップページ | 2007年1月 »

2006年12月

2006/12/31

つらつらつれづれ

100円ショップで、半年だけの「ダイアリー」を買いました。
どうせ計画倒れの管理人ですもの、これでいいや。

そう思って、買って帰ったら、
「こんなもん、どうすんの」
と夫に言われました。

わたしの 計画倒れ的性格は、
一家にバレバレの模様。

計画立てるのは好きなのよ。
ただ、出来ないだけ…って、そりゃ、まずいでしょ。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
机の上も整理して、本が雪崩れてこないようにしたら
下からやっていなかった仕事が一つ見つかりました。
オイ!
そういえば、「年末でいいですよ」って言われたような気がする。
今日は、年末ですね…まずいでしょ。
今晩やれば間に合うな。

龍樹は、とうとう年を越してしまいました。
みなさま、ごめんなさい。
年内になんとかしたかった…
一番暇な(そうなの?)正月にがんばります。

仕事かかえて、お正月を迎えるのは、久しぶり。
どうも気分的に追いつめられてる感じが抜けません。

論文書いてる人間がもう一人いるし。。。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
その上、ノロウィルス
最後にかかっていなかった上の子に行ったもよう。

もう終わりだと思っていたのに。。。
上の子のこと、勘定に入れてませんでした。

こうやって、永遠にウィルスが我が家に居座るンじゃなかろうね。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

以上が、年末の我が家の風景でした。
たぶん
穏やかなお正月でございます(どこが?)

来年も、仏教、インド哲学などなんでもかんでもまとめて
どうぞよろしくお願いします。

みなさまも、どうぞよいお年をお迎えください。
では、最後の買い出しに行ってまいります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/12/28

日々是口実(あれ?)

授業が終わったと喜んでいたら
あっという間に一週間経ってしまいました。

上の子が帰省し
下の子は講習に行き
締め切りかかえた者約二名
ノロウィルス発病二名

合計六名

ノロウィルスは、順繰りにかかって
最後におじいちゃんにいきました。
でも、なんとか山を越えたかなというところ。

なんだかんだといろいろあって落ち着きません。
忙しいんだわね。

細切れに書く龍樹本も
それでも、こちらも
山を越えつつある…のかな。
山にさしかかってる…のかな。

あれ?だいぶ、印象ちがいますね。

おいしいところは
最後に食べるタイプだったかもしれない管理人です。

龍樹本の一番おいしいところ

「第一義諦」の論理学

ここに入ろうとして、うろうろ。

頭の中ではできているので
あとは書くだけですが
どんな風に書こうかと
楽しみつつ苦しんでいるところです。

一応
おおざっぱな目次としては

第一章
世俗諦の論理学
第一義諦の論理学

第二章
龍樹著作(ちょびっと)について

第三章
龍樹の半生

ま、だいたいこんな感じで。
え、何で「龍樹の半生」なんだって。

全生涯は、とっても考察しきれない!
まだ、無理。

それに「(ちょびっと)」って?
全著作なんて、とっても考察しきれない!
まだまだ、無理。

書こうとしていたものをだいぶ削ってしまいました。
大乗の方にも行きたいと思いましたが、無理そう。
となると、弁証法も無理そう。
さらに『中論』研究というわけでもないです。

(読者候補A)
なんだ、ちぇっ!つまんないの。
目次も、つまんなそう。

仕方ないわよ。

でも、『中論』は、
「これで読めるようになる」
というところを
目指しているから
大丈夫よ!

そのまんま読んで
ああ、なるほど
って、なればいいわけでしょ。

期待がしぼんじゃったかもしれませんが
一冊で書けるのは
これでせいいっぱいで…ゆるしておくれ!

~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ところで

『十二門論』を
再度読んでみまして
いろいろ見つけました。

気づかなかったところが
いろいろ出てきました。

『十二門論』の龍樹作を確信しました。

だけど、どうしたら証明できるかな…
と考えているところ。
いわゆる文献学的研究として…ね。

安井氏の論文も、
疑問として
「おかしいのでは?」
と述べているだけなので

こちらも反論するとしても
「そんなことないのでは?」
という感じになってしまい

あんまり迫力でません。
なので、
ちがう観点から検討してみたいと思ってます。

今日は、忙しいので
この辺で。備忘録風でございます。

チャオ!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/12/22

授業が終わるとうれしいものよ

うれしい!今日で、授業が終わっただ!
ああ、長かったなぁ~。

ほとんど誰も聞いてない授業を
力ずくでしゃべる!
どうせ聞いてないと思うと

好き勝手に
四法印をアレンジして
自分の授業の計画に当てはめて
説明し、
自分で感動する…めでたいヤツ

いかにも四法印を根拠にして
講義を組み立てたみたいジャン

んで

仏教をめちゃ賛美をして終わる!

最後の最後だからいいよね。

なんて思ってたら、
一人女子学生の人が
授業が終わった後に

「これ(四法印)
よく考えたら
実際やるのはたいへんだなぁって、
思いました」

と言ったので、我に返る。


へ!

授業聞いてたのね。
し、知らなかった。

んで、
ついつい
滅尽定だのなんだのいろいろ
話をしてしまう。

うーん、授業聞いてる子もいるのかぁ
意外だったなぁ…まぁ、いいか

昔は、たくさんの子が聞いてくれたけど
今は、

「授業は寝て待て」

と言われる時代です。

そうですか?

わたしの作った授業標語だから、ははは
真に受けないでね。
~~~~~~~~~~~~~~
仕事帰りに大学の図書館に寄って
駅に戻る途中で、

印哲研究のお仲間にばったり出会い
お茶をしました。

締め切り人生を送るのが
研究者の宿命なり

久しぶりに会ったので
ホッとするけど
結局、お互い

「締め切りを一瞬だけでも
忘れましょう」

という、
悲しい癒しのやすらぎなのでした。トホホ。

頑張れ!原稿!お互いに!
~~~~~~~~~~~~~~~
んで、帰ってみると

おばあちゃんにノロウィルスの疑い…

じつは

一家は、絶不調。

ずっと今週、晩ご飯が雑炊ですたい。
飽きたと言っても、やっぱり
湯豆腐か、うどんの似たもの通し。

簡単でいいけど

パワー不足だわ。

体調、スカッとしませんねぇ…

あら、ゴメンなんしょ。

日記も、スカッとしませんこと…

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006/12/19

第三章から始まる本なんて

風邪が流行ってますね。
お元気ですか?

皆勤賞のかかった息子は
38度の熱もなんのその
意地でがっこにいくのだった。

がっこというのは
皆勤賞のために
存在するものだったのだった。

などと言っていると、

管理人も
やばいです。
喉がいたくて
身体の節々がおかしい。
風邪が移ったかも。

~~~~~~~~~~~~~~~
ところで、龍樹本ですっ!

メインテーマに入る前に、
本のページが尽きそうな気がしてきました。

こちらも、やばいです。

そもそも、腰が据わっていないのは
第一章
第二章
第三章
の順序をどうするか決まってないからです。

第一章に書くことを第三章に書くか

第一章に書くことを第一章に書くか

迷ってるので、

「これは後で述べよう」
と書くべきか
「すでに述べたように」
と書くべきか
決まらないのだ。

龍樹の本って、
さすが龍樹だけあって

とんでもない変なところで
悩むことになる。

二つ書いてみるか。

第一章
第二章
第三章

という本と

第三章
第二章
第一章

というこういう順序の本と。


本開いて読もうとしたら
とつぜん

第三章

だったりしたら、みんな怒るよね

だけど

龍樹だったら、許される

ような気がする


こういうことが許される!って思うときは
必ず、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』のお話を
思い出す。

なんでもありの、言葉遊びのナンセンス物語。

龍樹のお話からも
こういう、おもしろいお話が出てこないかな

いつも思うんだけどな。

まじめに書きながら
思わず遊んでしまいたくなる龍樹本。

龍樹なら、何書いても
大丈夫、って気もするから、
こわいよね。

ブッダのまじめぶりに比べると
どことなく
やんちゃ風な「遊び」があるのは、なぜなんだ?
本人、大まじめだってのに
どこか、ふざけてしまいたくなるのは、なぜなんだ?
チョー難解なのに
どこか、スルッと抜けてる感じがするのは、なぜなんだ?
論理に一分のスキもないのに
どこか、詭弁のインチキ男に見えるのは、なぜなんだ?

りゅうじゅ、あんたって
ホントに不思議な人物だわ。

仏教のなかでも
こんな人いないわね。

だって、だって、
いっつも思うけど

りゅうじゅ!
あんたが
仏教徒って

ほんと

ありえない!

と思ってしまうのは、なぜなんだ?

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2006/12/17

龍樹、君は交通整理のお巡りさん

やらなきゃならない仕事はありませんか?
とりあえず期限つきのものは、当分ないかな。

明日までは … だけど。

よし、このスキに龍樹だっ!

なんかいつも気分はこんな感じです。
スキみては、龍樹をこそこそっと書く。
あ、予習が間に合わない … やばっ、っと仕事する。

寝てるときも、「なんか考えることあったよな」って
いつも思っていることに
起きて気がつく。

寝てるとき考えてることが
一番、龍樹のネタ(寝た)になってるのが

書いてみるとわかるわ。

寝てるときは、邪魔されないのでいいのかも。

それで、最近、龍樹以外のネタとしては

寝て考えてるのは
『般若心経』です。

後の方の大明呪、って、いってるところと
その前の、空の話の継ぎ目に

目がいきます。

この継ぎ目は、いったい、ナンじゃ??

と思いながら、また、龍樹にかえっていく。

やっぱり、龍樹が、仏教の諸派の交差点です。
交通整理しているお巡りさん、なんだわねぇ。

よし、やらなきゃ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/12/16

哲学しませんといけませんだ

日々、忙しく立ち働く管理人です。

というほどでもありませんが、
あせあせと授業の準備して
バタバタっと、授業するもんだから、

哲学なのに、哲学するヒマありません。

なので
いろんなところで思索不足を露呈する。

まぁ、学生さんの思索も大半夢の中だ!

どっこいどっこいだぜぃ、みたいな 授業だ。

「自由」と「責任」ということについて
考えようとして
「自己責任」という言葉を取り上げたら

反応が、「今どき風」になって

突然思索がとまる。
なんか、こう答えたらダメみたいのが
あるんじゃないの、と思いたくなってしまう。

ほとんど誰もが
「どんな行為にも自己責任がある」
と答えてくれる。

ホントか?

で、よく読むと
でも、自己責任はあるけど、すべてのことに
責任をとることができるかと言われると、そうでもない、ともいう。

たとえば、「子どもができたら、自分一人では責任とれません」という。

みんなに聞くと、そうだという。

じゃ、責任は誰にありますか?
わたし一人だけじゃなく、相手にもあります。

そうですか。じゃ、誰に対して責任をとるのですか?
え?誰に?え、誰にって、いわれても…。

一番、困る人はだれ?
え?

じゃ、生まれてくる子供に対してはどうですか?
あ、… それもあります。

なんだ!子どものことなんか、何にも考えてないジャン。
「自己責任」は、空回りしてます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
別のクラスでは、まだマシでした。

「自分の一つの行為、一つの言葉が、
周囲になんらかの影響を及ぼすから、
いつも責任がある」

なるほど!いつもそう自覚して行動してますか?
僕は、そう思ってやっています。

よし!「自分の主(あるじ)は自分です」ということかな。

で、徹底的な自己責任を貫く
「業と輪廻」の話をする。

みんな、し~んとなって聞いているので、
こちらは、ビックリする。
「輪廻」という言葉も、はじめて聞いたの?

一年にいっぺんくらい、こうなるんだよ…
予期せぬ反応、ってヤツです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
今の子は、どうもよくわからない。

もろくて、従順で、狡猾で、わがまま、です。

わりと標準的には、こんな感じ。

でも
芯があって、生意気で、愚直で、やさしい子もいます。

若者諸君!哲学してください!
哲学するとは、「言葉と行動の乖離に気づくこと」でもある!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/12/12

世の中は、捨てたものではない話

毎日、物議をかもすようなことを書いているものだから
アクセス数が半端じゃなくアップしてまいりました。

では!公開。

昨日は、な、なんと
アクセス数: 254 (前日値:137)
訪問者数: 112 (前日値:65)

前日のほぼ倍近いアクセス数なのです。

よし!ますます、はりきって物議を…

おおっと、やめなさいィ、管理人!
ただでも、物議をかもすこと書いてるんだから
この先、はりきったらどうなることか、おそろしい。

そ、そうですか、
残念ね、では、少しおとなしめに、いきます。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ほったらかしで、つけていなかった試験問題の採点をする。
(ゴメンよ、ゴメンよ。試験問題くん)

パセーナディ王とマッリカー妃の有名な会話。
一番愛しいものをたずねるお話から一問。

王妃は、王から、一番愛しいものをたずねられて、
「自己」と答えます。
王は、王妃から、一番愛しいものをたずねられて、
やっぱり「自己」と答えます。

この答えを知ったブッダは

「心があらゆる方角にさまよい行くとも
自己より愛しいものにたどりつくことは
決してない
同じように他の人々にとっても自己は非常に愛しい

それだから自己を愛しく求める者は他を害してはならない」
(『サンユッタ・ニカーヤ』3・1・8)

と偈をもって答えるのです。
で、問題は、ブッダの最後の言葉
「自己を愛しく求める者は、他を害してはならない」
について、どう思うか、というのです。

いろいろな意見が、出そうにないなぁ、
って、思ってましたが、

なんとお!
いろいろ、出ましたのじゃ。。。

自分が自己を大事にするなら、
他人にも自己があるから、
他人も自己は大事である、とわかる。
だから、他を傷つけるな、は正しい。

自己愛は、他人への愛へ変化する。
他人を愛するのも、結局自分への愛なのだ。
他を傷つけるのは、自分を傷つけるのと同じだ。
だから、他を傷つけるな、は正しい。

自分にされていやなことは、他人にしてはいけない
これと同じことである。
だから、他を傷つけるな、は正しい。

王と王妃は、自己愛のかたまりだから、
よくない。国を治める者として。
もっと他人への思いやりをもたなければ
国を治めることはできない。
だから、他を傷つけるな、は正しい。

自己を愛する者は、他を傷つけるな
という、ブッダの意見は、いまいちだ。
自己を愛する者だけではない。
誰でも、他を傷つけてはいけないからだ。

「自己を愛する者は、他を傷つけるな」は、
そうかもしれないけど、そんなの小さい!
自己を捨てて他人を助けるようでなくては
いけない。
看護の仕事は、自己犠牲的である(とあったかなぁ、忘れました)

他を本当に愛した者でなければ、愛はわからない。
自己を愛するというのは、あたりまえだから。
子どもを助ける母親のようであって、
はじめて愛がわかる(うろ覚えです)

看護師さんですから、こういう問題には
”力強く”
反応してくれるのが、ありがたい。

まだまだ、
戦争問題などいろいろにからんで出てきたけど
せんせがボケなもので
忘れてしまいました。

「自己を愛しく求める者」

これは、現代人にとっては、あたりまえかと思ってたけど
看護師さんのタマゴたちには、そうでもない、ということが
わかりました。

「人のために生きよう」

こういう人も、たくさん現代にはいることが
わかって、感動したっちゃ!

それに、学生さんの中にも
ブッダが、なかなかいいこと言ってることがわかって
感心している人もいましたっけ。

なんか、一応、論理学がらみの問題なんだけど
論理学なんて、関係ない感じもするですね。
あんなに論理学の問題に苦しんでたのに、
こんなに上手に論じることができるんだもん。

論理学なんて、論理学なんて、どうでもええか
こんなもん、いらんかも

って気もしてくるわ。

こんなこと言っては、物議かもすかすら…
ま、いいよねっ!
ほんじゃ、ばいちゃっ!

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2006/12/10

こわい本、それは…

毎日、何にかしら用があって、
なかなか進まない龍樹本。

龍樹気分を持続できず、細切れなので、
前に書いたことを思い出すだけで、日が暮れる。

それでも7割は超えたような気がする。

書いてるうちに、どんどん予定していた内容とは
変わってくるのも、
困ったもんだわ。

ブッダの深い思索が、だんだんあらわになってくるので、
それを書いていると、龍樹に至りません。
困ったもんだわ。

で、
ブッダ論理学が、ずんずん深化していきはじめました。
それはそれでいいけど、龍樹本としては
困ったもんだわ。

『中論』の「空」をメインテーマにする予定だったのに、
四句分別と八不中道を説明したら、紙面が尽きそう。
困ったもんだわ。

あと、「行く者は行かず」の解釈にもふれなきゃね。
ここにも、紙面を使いそう。
困ったもんだわ。

ホント難問だらけの『中論』に、悪戦苦闘する毎日です。

と、いいながら、

玄侑宗久氏の『般若心経』(ちくま新書)を

読んでしまいました。おいおい!困ったもんだわ。

そして、
『中論』のずううっと延長線上にあるこの経典の難解さに
もだえ苦しむのでした。

力の入った玄侑宗久氏の能弁な解説が、
なんとなく
空回りしてるような
そんな印象です。

玄侑氏は、
『般若心経』を
現代科学の知識や
西洋哲学の知識や
現代仏教学の成果を
十分活用して
説明してくれようとしているのです。

よく勉強してたくさんのことを知って
説明してくれようとしているのです。

ところが、読めば読むほど
逆に
経典からたちのぼる
異様なオーラにむせかえる。

こんな知識じゃ
まるきり歯が立たないんだ
って、いう気がしてくる。

現代の知識レベルでは
この経典を読むことはできない

思って

心底震え上がって
本を
パタと閉じました。

ああ、こわかった!

あら、あまりにレベルの高い経典に
ふれたので

なんだか『中論』がやさしく感じる…
けがの功名かな…

ラッキーかも…

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006/12/07

仏教は、男女の味方

ココログ・メンテナンスで
しばらく入室できませんでした。

どれどれ、どんなに便利になったかな?
あれ?ぜんぜん変わってない。

な、なんと、メンテナンス失敗したもようですね。
メンテナンス前にもどします、ですって。
管理人!また、おばかなこと考えてない?

ははは、ばれたか。
メンテナンスをメンテナンスした方が、ええかも、って…。

さて、このココログ・メンテナンス中
管理人も、脳みそメンテナンス中でした。

で、
一挙、3冊いきますっ!

スマナサーラ長老さま『ブッダ─大人になる道』
スマナサーラ長老さま・立松和平氏『ブッダの道の歩き方』
玄侑宗久氏『現代語訳 般若心経』ちくま新書

『ブッダ─大人になる道』は、中高生のための仏教書です。
というより、人生を生き抜くための手引き書です。

ふうむ、効くなぁ。
いつもながら、スマナサーラ長老さまは明快です。

それにとても勉強になる。
お経の展開図の作り方を、学んでるのです。

どのように経典のお話を開いて、現代人の悩みに答えるか…
文字通り、展開していく方法を、だんだん学んできましたよ。

たとえば、スマナサーラ長老さまなら、
経典から素材を選んで
しかし
経典であることを悟られずに
自分の話のようにしてお話ができますね。

なんとなくコツがわかってきた。。。
おもしろい!

昔の仏弟子たち、菩薩たち、みんな、
スマナサーラ長老さまのように
経典を 開いて 砕いて 裂いて 割って 練って
わかりやすく話ができたと思う。

すごい能力だよね。

『ブッダの道の歩き方』は対談本。
わたしの興味が、立松氏の興味と少しずれるけど
でも
おもしろいお話がいっぱいだったわ。

スマナサーラ長老さまの解釈の中で、一つだけ
わたしとちがうところがあるのね。

ゴータミー妃の出家のお話。
ブッダは、女性の出家者を認めなかったけど
最後には、アーナンダの取りなしで
比丘尼を認めることになります。

このとき
ブッダは
「女性の出家を認めたから仏教はながもちしなくなった」と
述べたとあるのですが、
これは、ブッダの「しまった」という気持ちから出た言葉だというのです。
詳しくは、ご本をお読みください。

ゴータミーの出家を認めることになったことを「しまった」と
表現していると、スマナサーラ長老さまはおっしゃるのですが、

わたしは、ちょっとここはちがうような感触があるのです。

ここには、 深い 男女の哲学的考察、
っつうもンが必要な気がするのです。

誰も、今まで、考察したことはありませんが

仏教 というのは、 「男女のあいだの不条理」に踏み込んだ 
画期的な宗教のような気がするのです。

けっして、一部でいわれているような 
男尊女卑の思想をもっているわけではない!
と思います。

わたしの意見だからね、
信じるも信じないもあなたの勝手だけど
ちょっとお耳を拝借。

「女性」なるものは、ブッダのアキレス腱だった と思うのです。
なぜなら、ブッダは女ではないからです。

一切智者にして一切に打ち勝った勝者 ですが、
しかし、彼は男性だったのです。これは事実です。
結婚して子どももいます。

渇愛(愛)、執着(取)、生存(有)、生まれること(生)、死ぬこと(死)

この十二因縁の項目は、どれも 男女 ということにかかわります。
(蜂の単為生殖は、この際、虫、おっとっと無視!だから)

苦しみの生まれる道は、男女の仲なのです。
輪廻の原動力は、男女なのです。
男だけ、女だけなら、ぜんぜん輪廻しなくてすむのです。
最初から、解脱してるのです。

ブッダは男なので、論理的に女性のことはわかりません。
女性は、また、論理的に男性のことはわかりません。

互いに互いをわからない男女が、お互いに、関係をうまく構築して、
一緒に解脱の道へと進まなくてはならないのです。
輪廻に向かう道なら、簡単なんだけど…
これは、もう、至難のワザというべきでしょう。

やっぱり、比丘尼の集団を抱え込むことは、ブッダにとって
大きな負担だったにちがいないと思うのです。

「女性を入れなきゃ1000年もったけど、
女性を入れたので正法は500年ですたれる」
というようなことを言っても

わたしはぜんぜん驚かないのです。
やっぱり!そうか!女性はブッダのアキレス腱…フム

で、500年しかもたなかったら困ると思うあなた。

そんなこと心配することないのです。
500年たったら、別のブッダが出てくるのです。
最初は、出てきにくいけど、1回ブッダが出たら
後は、次々教えを聞いて、出てくる人がいるから
心配ないのです。

それより、ゴータミー妃をしぶしぶ出家させたブッダは
男女関係の謎にふれた勇気ある最初の宗教者かも。

男女は、互いに、相いれぬ、異なる存在でありながら、
しかし、力的には互いに引きあい、平等なのです。

以上により結論です。

平等なるがゆえに

ブッダも女性には勝てないのです…
(しかし、これはここだけの話で、内緒です、
彼、一切に勝った者、って言ってますから…
いや、比丘尼を認めたのだから、やっぱり一切に勝ってるかな)

どうかしら?

冴えてるわね。
わたしって、「男女の哲学」には、強いのよ。ふふ。
熱弁ふるうと疲れるわね。

あ、次の玄侑さんの本は、また明日。

| | コメント (31) | トラックバック (0)

2006/12/03

スパムとあそぼ(そんなこと書いていいの?)

「ヒマカナ掲示板」のタイトル変わってるのに
お気づきですか?

HIMAKANAにしました。

じつは、スパム対策の網をくぐって
やって来る「悪い」書き込みを防止するためです。

「悪い」書き込みというのは、
読まれることを目的にしていない
英語やリンクばかりの書き込みです。

憎まれっ子の書き込みは、
耐性菌のように進化するのです。

最近では、
タイトルの日本語文字を読み込んで
投稿してくる

すると、こちらでは
他は英語でも
受け付けちゃうんです。

んで、
かしこい管理人は
ぜんぶ、英語(ローマ字のことね)にすれば
はねられることに気づいたのだったっ!えらい!

一番簡単な対策だし。
わたしでもできるし。

今のところ、大丈夫そうですね。

スパムの憎まれっ子クン!
次の手、待ってるぜぃ、なんちゃって。

ホントに来たらどうしよ…

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/12/02

龍樹、「天上天下唯我独尊」を語る

天上天下唯我独尊」にかんしては、
いろいろコメントいただきまして
ありがとうございました。

天下御免の管理人です…つおいぞ…

ではなくて
文字通り読んでいただいてけっこうでございます。

天下にゴメンしてる管理人です…

だいぶ、イメージ変わりましたね。

まぁ、いろいろあります、このように…
解釈は、ね。

しかし、さすが、みなさま、ふかい!です。
やっぱり、「仏教はこわいなぁ」というのが本音です。
やっぱり、「こわいけどたのし」というのも本音です。
やっぱり、「たのしいのでやろっ!」というのが、もっとも本音です。

では、「やろっ」と号令かけて、
最後の解釈を出してみたいと思います。

それはっ、真打ち龍樹先生の解釈であります。
では
龍樹せんせっ!よろしくお願いしますっ!

ブッダは、生まれたとき、7歩歩んで、
自ら「天上天下唯我独尊」と発しました。
その後、ぴったり何も言わず、他の嬰児のように
歩まなかったし、何も語らなかったのです。

他の赤ちゃんと同じように、
おっぱいのんでねんねして
おんぶしてだっこして
またあした

ってかんじで、育っていきました。
まるで凡人そっくりでした。

どうして、すぐに生まれて語れたのに、
その後、語れなくなったりしたのでしょうか。

それは、方便の力なのです。
まるで「ふつうの人ふう」というやり方を
方便力で現出したので、
みなさんは、ブッダがふつうの人のように見えたのです。

もし、菩薩(ブッダのことね)が、
生まれた直後からずっと、
「歩いてしゃべって」というのを
やっていたら、みなさんはどう思うでしょうか?

「こんな人はいまだかつていたことはない。
こりゃ、天龍鬼神にちがいない。
きっとこのような人(?)の学んだ深い教えなど
常人の及ぶところではない。
我らの肉身は、業の法則に従い、
自在にできるものではないのだから」

このように考えてしまっては、
賢人聖者となることのできる人でも
最初からあきらめてしまうことになります。

そのため、ブッダは大衆路線を歩んだのであります。

だから、みなさんは知らなければなりません。
「仏身は無数であって、諸々の世間を超えたものである」
ということをね。

(『大智度論』p.59a.…注:龍樹が書いた本という解釈をとってます)

やはり決まりますね…というか、より混沌へといいますか…(たらっ)
ま、とにかく、せんせっ!ありがとうございました。

「ブッダの身体」については、
生身(生まれて死んだなまみの肉体)
法身(法が身体のかたちになったもの)

このような区別をつける必要があるということでしょうか。

「法身」という考えから行きますと
目的論的な解釈になりますね。
龍樹せんせっ。

よけいわからなくなりました。
仕方ないので、がんばって
龍樹せんせの解釈を、さらに解釈してみます。

「法身」については、以下のようなところから理解できるかな。

「法(此縁性)は、如来が出ても出なくても、決まってる、確定してる」
って、ブッダみずから言ってます。

また

「法を見る者は、ブッダを見るのだし、ブッダを見る者は法を見る」
とも言ってます。(ちょっと正確でないかも)

この二つの文を混ぜると、こうなる。

如来が世に出てないとき、
ブッダを見るとすれば、法を見るのですが、
法は、なかなか見えないので、
法を見る者はやっぱりブッダを見ることになります。

この場合、法を見る者がみるブッダが、「法身(のブッダ)」なのです。
でも、法を見る者なら、法身は見えるかもしれないけど、
ふつうの人にはやっぱり見えないので
ブッダは、方便力で、法身をあたかも「生身のように」現出して
人々に示した

と、

こういうので、いかがでしょうか。

「如来が世に出てないとき」

案外、ここがポインドですかしら…はずれてます?

龍樹っ!むずかしいよぉ!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2006年11月 | トップページ | 2007年1月 »