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2006年2月

2006/02/21

倚りかかるなよ

日記も勢いだな、って思う。
勢いのあるときに書こう。

北海道新聞(2月21日)、今日のです。
一面の下に、「卓上四季」というコラムがある。
(朝日の「天声人語」にあたるのよ)

そこに、亡くなった詩人の茨木のり子さんの詩集が紹介されていました。

「倚(よ)りかからず」(筑摩書房)は、ベストセラーになっているのだそうです。

読んだら、「ああ」って思った。みんなも、そう考えているんだなぁ。

引用をさらに引用してみるからね。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない

もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくない
ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合なことやある
…」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
そうだよ!

できあいの思想に倚りかかるな!
いかなる権威にも倚りかかるな!

これ、ブッダが言ったこととおなじだ!

自分の耳や目を使え。
自分の目で世界を見つめて、じぶんの智慧で世界を知って生きろ。

芝木さんも同じこと考えてたのね。

「できあいの思想」と「権威」
ほんとにそうね。
今の学問の世界も、そんなものだらけだ。

新しいものが、何もない!
何も生まれない!

じぶんの二本足で立って、
じぶんの目や耳を使って、
じぶんで考える。

これだよ!みんな。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
おほん、しかしです。

日記っつうのは、勢いだと思うぞ。

ずうぅぅぅっと、そう思ってたけど、
茨木さんの詩を読まなかったら
書かなかったもん。

ろーる・おーう゛ぁー・できあい学問!

すっきり したっちゃ。

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2006/02/18

正覚者の孤独

すっかり、時間が経ってしまいました。
横井さま、お返事を書こうと思いながら、
なんだかんだと過ごしてしまいました。

掲示板の横井さまの書き込みを一度あげてみましょう。
それから、わたしの思うところを、少々。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

2655. 既踏の地 横井直高 [URL]  2006/02/12 (日) 19:29

>で、仏教学についても、入り込んでみれば、
>人の手の入った跡に行く先々で出会うので
>す.どんなに仏教の森の奧に分け入っても、
>そこにはポツンと人家があり、人が住まう
>人か?
>人里離れて奥山に入っても入っても必ず人
>に出会ってしまうように自分の研究は、無
>数の人の研究の続きにすぎない…という感
>覚が、わたしには、これまた、あれよかし
>この感覚も、捨てがたい…と、思うように
>なりました。

 人里はなれて雑草生い茂る原野をかきわけ、
かきわけ歩いていくのは本当に心細いものです。
未踏の地へ分け入り、くたくたになって、
自分がどこに進んでいるのかさえ分からなくなって、
とんでもない間違いを犯しているのではないか、
誰も歩んだ道ではなく、
そもそもこんなところは歩くべきところでさえないのではないかと
疑い出したらきりがありません。
一歩も進めなくなってしまいます。

 そんなとき、はるか向こうにポツンと人家の明かりが見えたら、
どんなに安心するでしょう。
歩んできた道は正しかった、
これでいいのだと確信できたら
自分の人生は無駄ではなかったと思えます。

>だから、インド哲学でも同じようにまった
>く人の踏み入れたことのないところあるい
>は、今では誰も見向きもしないところこう
>いう場所を、自然と好んで研究してきたん
>だろうと思う。

 どんなに心細くとも未踏の地を歩む力は、
これが既踏の地であってほしい
という祈りが支えているのではないでしょうか。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
わたしが歩んでいるのは、
ほとんど未踏になってしまった既踏の地でした。
本当の未踏の地ではないはずでした。

自分の行く道は、確かに大昔ブッダが歩いた道だ、
あるいは、その昔龍樹が通ったこともある。

確かにそのはずだと
何度も何度も確かめましたが、
もはや行く人もなく
道の跡はなくなっているようでした。

ブッダの通った道だと確信してすら、
これだけ、不安なのだから、
ブッダ自身はどうだったのだろう
と、思わないではいられませんでした。

ブッダについては、
増谷文雄氏が
『この人を見よ ゴータマ・ブッダの生涯』(講談社文庫)の中で
こんな風に語っています。

悟りをひらいて幾日も幾日も樹下で過ごしているとき、ブッダは
孤独のおもいにとらわれます。

「その時、世尊は、ひとり坐し、静かに思うて、かように考えた。
<尊敬するところなく、恭敬するところない生活は苦しい。
わたしはいかなる沙門または婆羅門を尊敬し、
親近して住すべきであろうか>と」(p.59)

このように、自分が、師と呼びうるような、
尊敬すべき人を求めますが、
自分の前を歩く人はなく、ただ未踏の地があるのみで、
自分の来たこの境地にも誰もやってくる気配のないことを
知るのです。

天涯孤独 … 誰も彼を理解する者はいない。

天上天下唯我独尊

とは、こんな意味だと増谷氏は言うのです。

「彼が親近して住するに値するような思想家は、
どうしても思い浮かばない。それもその筈である。
彼がさとり得たものは、天にも地にも
いまだあらざりしところのものであった
はずであるからである。」(p.62)

とうとう、孤独のブッダは最後にこう言います。

「われは、むしろ、わが悟りし法、
この法をこそ、敬い尊び、親しみ近づいて住しよう」(p.62)

こうして、
自分の悟った法を、
師とも友ともなして歩むことを決めたのでした。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

何もいいことない、ってわかっているのに
人は、どうして、道を求めていくんでしょうね。

孤独でやりきれないのに

ほんとに、どうしていくんだろうなぁ…われ。

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2006/02/08

前人既踏?

北海道に比べると、それ以外の日本のすべての土地は、
開拓されまくっていると、言ってもよいだろう。
(注:「すべて」っていうのは、もち誇張だからね)

津軽海峡を渡って、はじめて気づいたのがそれだった。

あら?なんか変!
なんかどっかに、違和感がある。

なんだろ?
なんだろ?

わかった!
雑草が、貧相
(韻をふんでみました)

っつうか、雑草がお行儀良い。

コンクリートの割れ目から、出ている雑草は、
ふつう、コンクリやアスファルトを持ち上げ、
ぶち壊しているはず。
それが、雑草の常識! あるべき姿だ!

なのに、雑草のくせに、隙間に細々生えてるだけだぁ。
そんなことで良いのかぁ。
もっと雑草としての気概をもたんかぁ。

あ、すいません、興奮してしまいました。

まぁこんな感じで、「自然」とおぼしきものが、
みんな人間さまの世界の中に取り込まれている
という点に驚きをもったのでした。

ここ、日本の土地では、自然は人間界の一部だった。
山野の木々も人の手の入らぬものはない。
自然は、従順に人間さまの意向にしたがう既知のものなのです。

…という感覚が、わたしにはある。

で、仏教学についても、入り込んでみれば、
人の手の入った跡に行く先々で出会うのです
どんなに仏教の森の奧に分け入っても、
そこにはポツンと人家があり、人が住まう
人か?あれ、キツネ?あ、失礼、仙人かも

…という感覚が、わたしにはある。

だから、人里離れて奥山に入っても入っても
必ず人に出会ってしまうように
自分の研究は、無数の人の研究の続きにすぎない

…という感覚が、わたしには、これまた、あれよかし

この感覚も、捨てがたい…と、思うようになりました。

前の「前人未踏」とセットで読んでね。

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2006/02/07

前人未踏

北海道は、明治以来、和人によって開拓されてきた。

「でっかいどう 北海道」 なので
道路をつくり、開墾し、放牧して、人々が住んでも
人の手の入らない土地はいっぱいあった。

なんか、至るところ、草が生え木が生え虫がいて動物がいて
自然は生きるエネルギーのかたまりだった。
その前に、人間さまは、ちっちゃくなってた。

先住のアイヌの人たちは、この美しい大地と本当に仲良く暮らしていた。
人は、自然のごくごく一部にすぎなかった。
だから、人は自然だった。そういう人の心も自然そのものだった。
アイヌの人の心は、雪解け水や透明な空気や白樺の木と同じだった。

…という、感覚が、わたしにはある。

「わたしの知らないところ」「未知の大地」「茫洋たる自然」
そういうものは、家を一歩出ればどこにでもころがっている

…という、感覚が、わたしにはある。

だから、インド哲学でも同じように
まったく人の踏み入れたことのないところ
あるいは、今では誰も見向きもしないところ
こういう場所を、自然と好んで研究してきたんだろうと思う。

わかれば、わかっただけ世界が広がる。
しかし、広がってみると、
それは世界全体のごくごく一部にすぎないことがわかる。
世界の中で自分はちっちゃくなってしまう。

自然のエネルギーの前にちっちゃくなるように、
大地にとけこんで、白樺の木と同じ心をもつように、
自分の研究は、哲学全体の中に取り込まれて一部になってしまう。

…という、感覚が、わたしにはあれよかし。。。(文語調になっちゃった)

まったく、はぁ、決まらないわねぇ。
ほんとは

…という、感覚が、わたしにはある。

と書いて、終わりたかったすよ(ぐす)。

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2006/02/04

なるようになる

昨日の朝も、今日の朝も大忙しだった。

今日は雪かきが、余分に加わって、その分さらに早起き。

でも、

お!ラッキー!
強風で、家の前の降った雪がかなり吹き飛ばされてる。

しか~し、マジに考えれば
その分どっかにふきだまってるわけだよね。

心の中(車のあたりかも……)

さあ、家の前「は」きれいになった、入ろ。

ははは、春には溶けるって。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~、
昨日、息子「弁当の煮物がちょっと…にんじん固かった。」

心の中(やばっ!あわててたからなぁ)

で、

今日、わたし「今日のお弁とは、自信あり!
         どんなに煮なくてもだいじょぶなタケノコとガンモだけだから。」

横目でわたしを見ながら

息子「なんだかなぁ…」

ははは、まっすぐ育ってね。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~、

こうしてみると、かな~り、わたしの人生って、
いい加減です…

ははは、さぁ、このノリで龍樹でもやりますか…やるなっ!

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2006/02/02

喜びも悲しみも幾年月…本文とあってないわね

今日は、雪ですね。

毎日寒かったり、寒かったり、寒かったり、寒かったり。

あら、おんなじ文句ばかりね。
でも、雪だから、気分的にちょっとあったかいかも。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
山喜房佛書林から、毎日新聞が届きました。
1月29日の一面トップの下に、

な、ぬぁんとお

『龍樹造「方便心論」の研究』の広告が!

前田恵学先生の論集とともに載っていました。


すごい!す…でも、でも、いんすか?…

コレ、宣伝するような本だっけか?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
で、ここ数日、治っていたと思った風邪の勢いが復活らしい。

というか、龍樹の『中論』のせいかも。

なんか、また、熱っぽい!!

今まで

ぽつぽつ拾い読みみたいに見ていたときは
テーマに合わせて、その箇所を読むから、
あんまりいろいろ疑問にも思わなかった。

全体、ざっと流して読んでみても、
まぁ、だいじょぶだべな…
なんて、思ってただよ。

だけど

根性すえて「読んでみっか」と思ったら
こりゃ、とんでもない本だ、っちゅうことが、
よーく、よーく、よーーーーーっく、わかりました。

ごめんなさい!ごめんなさい!
謝るわよ。本気でさ。

だから、ほんっと、冗談やめてほしわ、龍さん。
単細胞には、つらすぎる!だよ。

1月終わり頃から、もう完全に
人生余裕なし!

っていうか、

わたしの人生は、

『中論』の

たんなる

「おまけ」

です(>_<)。

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