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2006年1月

2006/01/26

『龍樹造「方便心論」の研究』ご紹介

気を許すと、すぐ月日がたつのが、この世の中の欠点だわ。

という言い方もよくないわね。

世の中の欠点というより、
世の中について行けないわたしの欠点なのか。

ま、ええのよ。相対的な問題なのでパスしちゃいます。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
で、このたびは、あらためまして、

拙著『龍樹造「方便心論」の研究』の宣伝をば、

地味にやりたいと思います。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

じつは、この本に関しては、
みなさまには申し訳ないような気持ちでいっぱいです。

(管理人のわりには、殊勝な意見だって。
ははは、まあね、たまにはね。)

まるっきり、専門書のイメージで書いてしまったので、
えらく素っ気ない、身も蓋もない書き方をしています。

研究者向けなので、

「つ、つめたい!つめたすぎるぞ!この書き方!」

と思われた方もいると思いますが
許してください。

要するに、

「龍樹論理の骨格標本」を

そのまま出したみたいな本なのです。

これまでの研究はビシバシ批判してるし
別の方法論どかんとあげてるし
中身は、素っ気ない
和訳と注とちょっぴりの解説だし
以前に発表した論文も
紙面の都合上載せてないし
二つの論文もごろっとあるだけだし

つめたいよなぁ。。。なのです。

なので、
職人さんの作業過程の途中を
垣間見ているようなイメージで
読んでいただけると幸いです。

龍樹論理学の詳細とその意義、
どう解釈すべきか、などなど

「あんた、何言いたいのさ」

というところもあると思いますが、

それらは、

これを元にして
これから明らかにしていきたいと思っています。

ともあれ

今までのインド論理学研究の

「ターニングポイントになるものを書いた」

という自覚はあります。

どっちに曲がったかって?

う、うう…うううん、
ええ~と、

と、とにかくだ、

「戯論断滅」の方向で…

まさか、自分の
…戯論断滅だったり…

考えない、考えない(汗)

ということで、よろしうお願いします。<(_ _)>

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2006/01/22

文章もヨーギン・スタイルで、ねっ!

最近、寒いのとばたばたしてるのとで、ここにも、ちっとも書き込めませんわ。

寒いってのは、関係ないんじゃないの。
寒いのは、外だからね。

確かに、家の中はいつも一定の温度であったかだけど、
なんとなく人間の身体ってのは、外の冬にあわせて、
動きが鈍くなり活動も緩慢になるような気がする。

はっきり言って

冬眠モード っちゅうことです。

作業もとろいし、効率悪いし、肩は凝るし…

んで、伊藤武氏『秘伝マルマツボ刺激ヨーガ』(講談社文庫)を
しみじみ、しみじみ、読むのでした。

インドでさまざまな修行を経験した伊藤氏は、すばらしいヨーギンですね。

なぜわかるかって?
お前はヨーガなんてろくにやったことないだろ、ってんですか?

そうなんですけど…
書いてある文章が、なんというかヨーギンなんです。

すぐれたヨーギンは、非常に知識が豊富です。
人間の心や身体や自然について、多くの微細な微妙な知識をもっています。

それは、驚くほどの量と質なのです。

ところが、

この御本もそうだけど、なぜか表現や説明が、短くて非常に簡潔なの。

インドの教典類と同じです。
非常に短い簡潔な表現で、ポツっと、時に、ズバッと書かれているだけ。

なのに、その内容は、すべてに及んでいて驚くほど深い。
知れば知るほど、その言葉の意味がどんどん深くなる。

伊藤氏の本を読むとそんな気がする。
非常に簡潔なのに、何度もくり返して読むと
どんどん深く知ることができる、そんな内容を語っている。

初歩の人には、初歩の内容を語る。
熟練した人には、熟練した内容を語る。

じゃ、言うことがちがうのか、って言ったら、
両者に、同じことを同じ表現で語る。

そんなことができる人だと思う。

けっこう世界が広がって、
インドのちがう側面があらわになった感じがします。

ああ、もどかしいわ。何かうまく言えないわね。
わたしの胸の内。

あっ、そうか、言いたいことを思いついた。

ヨーギンの身体のように、無駄の全くない統御された文章を書く

って、こういうことを言いたかったのでした。

学者の文章は、得てして、贅肉だらけの無駄文章だからな。
余計な概念を脂肪にして、まわりにくっつけて
さもさも立派なこと言ってるように見せたがる。

でも、余分の脂肪を取ると、驚くほど中身は痩せて貧弱、
ってのはよくあることです。

え?
誰のことだって?

いや、まぁ一般論ってことで。

わかった、わかったわよ。
正しく言うわよ。

もち、自分の文章もそうだと思うけど、

はっきり自分で言い切ると、
思いっきり傷つくので、一般論にして脂肪を少し…つけ…

管理人!ってば、

まったく、しょうもないなぁ

言ってるそばから、これじゃぁね。

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2006/01/15

ヴェサリウス

ここもご無沙汰でした。

「悲観は禁物」を書いたとき、
まだ三つくらい書くことがあって
毎日更新できるな、って
余裕でいたんだけど

何だか、いろいろ書き込みしたり
メールしたり
本読んだり
調べ物してる中に

忘れてしまいました。
きれいさっぱり!

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
で、今、わたしが読んでるというか、眺めてるもの

芸術です
詩です
歴史です

こんな要素が、あふれかえる

医学書です。

ヴェサリウス・中原泉(訳)『人体構造論抄 
─ヴェサリウスの the Epitome─』(南江堂)

「考える骨格人」と題して、

骸骨くんが、墓碑を机代わりに
肘をついていて、
もう一方の手で骸骨をもてあそんでる

そんな精密な版画がついています。

ほんとに、すんばらしいですぅ!
芸術であり、学問であり、というものだと思います。

この『エピトーメ』といわれる書は、もう一つ別の
『ファブリカ(構造)』と通称される書を、
簡潔にしたものと考えられます。

この『ファブリカ』とは何か?

では、泉先生、お願いします。

(泉先生の「序」)
「近代医学は1543年、Andreas Vesaliusの
『人体の構造に関する7章の書』によって開かれた。
the Fabrica(構造)と通称されるこの名著に関しては、
古今東西、語り継がれ語り尽くされているといっても
過言ではない。」

ヴェサリウスという人は、当時、キリスト教では禁忌とされていた
人体解剖に没頭して人体の内部構造を精査したのです。

その緻密な観察力には、圧倒されてしまいます。

そんな人体の内部に分け入って、
いろんな臓器や組織を見つけては
ひとつひとつ名前をつけていくわけですよね。

名前は、その人が観察した証拠となる。
細かく名前がつけられればつけられるほど
観察の緻密であることがわかる。

それは、人体の外部、つまり、
わたしたちが目で見てわかる部分にも及んでいて、
人間の身体をこんな風に描写できるのか、と
驚いてしまいます。

例えば、顔の描写だって、とってもビックリものです。

「額の下の部分はやや突き出していて、
境目として毛の植わった2つの眉と、
それらの中間部[眉間]とによって区切られている。
これらの下に眼がある。眼は、上下の瞼によって
保護される。瞼が互いに合わさる箇所は、
ちょうど船の櫂のようにまっすぐでていて一列に並んだ
毛で飾られている。これは睫毛とと呼ばれる。」(p.66)

のように続いていくのです。
いちいち、自分の顔で確かめながら

「ごもっともです」

とうなずかざるをえない。

こういう説明を読むと、
わたしたちは、自分の顔においてもさえも
何か大事なものを見落としているのではないか
っていう気もしてきます。

ずっと、こんなことを考え続けていたら
最近、慣れないせいか、耳鳴りがしてくる…

観察力と思考力の限界、超えてるらしいです。

なんというあいまい、かつ、漠たる世界の中で
「自分はものを見てる」と錯覚しながら
暮らしてきたんだろうと思うのでありました。

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2006/01/08

悲観は禁物

問題です。次の(1)~(5)の中に一つ仲間はずれがあります。
それはどれでしょう。
問題作成者の意図を「読んで」答えましょう。

(1) 本を読む
(2) 場を読む
(3) 字を読む
(4) 時代を読む
(5) 空気を読む

できたかな?
ヒントもあるから、簡単だったでしょ。

え?ヒントって?

やだなぁ。
「読む」という言葉の意味を示すヒントが
問題文の中にあるのよ。「読んでよぉ」、そのくらい。
で、答えは、どうですか?

わからない?しようがないなぁ。じゃ、答えます。
答えは、(3)です。

なんでかって?
わたしが、答えを(3)に決めてから問題作ったからです。

ばかぁ、そんなの答えになるかぁ。

わかった、わかった。
まじめにやるわ。
実は、「本を読む」という言葉の意味を考えていたら
問題ができちゃったのよ。

「本を読む」  これは一体何?
わたしたちは、何を読み取っているの?

「本を読む」とは

結局、自分たちの能力に応じて
「行間を読み取る」作業にほかならないのではないか

と、いうことなのです。

そこから考えると、
「場を読む」も
「時代を読む」のも
「空気を読む」のも
みな同じ、
そこにある行間を読み取る作業のような気がします。

んで、
「字を読む」のだけが

そのまんま、じゃ。

というわけ。

だから、正直に言えば、
「本を読む」のは
誰でもできることではないと思う。

「読む」という行為は
自分の生き方とか主体性とか
そんなもんが、反映されて出てくるんだから

主体的に生きてない人は
受け身でいる人は
流されて生きている人は

「本が読めない」

という結論にいたりました。

(おお、すばらしい!結論。
調子に乗って続けると)

で、一番読みにくい本は何か?

(お答えします)

やっぱ、聖書といわれるもんだろう。

一番主体性のあるもの(者or物)が、述べたものは
もっとも読みにくいはずである。

自分の主体度チェックに使えるわね。

だから、
仏典とか聖書とか

何度も読み返されて
そのたびにあらたな発見があるのね。

つまり、自分の「主体」度を自分で自覚するためのものだわね。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

って、


こういうこと書こうとしたんじゃないのよ。
ほんとはさ。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

書く側からするならば、
こういうことが言えるのではないかと
言いたかったの。

つまりね

書いたものは、
著者の意図をはずれて
いろいろ誤解されるだろう

それは、行間を読む人にかかっているから
仕方ないことだ。

でも、
ても、

本当に伝えたいと思う相手には、

その相手が不特定の誰かであっても、

「確実に伝わる」ってことだ!

って、言いたかったのよ。

言い換えれば、

確実に伝わった人が、伝えたかった人
ということかな。

だから、ほら、あなたよ
悲観してるあなた!

言ってることわかってもらえなくても
悲観することないわ。

人類が続くかぎり
いつかどっかに一人ぐらいはいるわよ。
無数の人の中には
一人くらいは、さ。

(とつぜん「あなた」登場)

(あなた)人類史上、自分以外にたった一人ですか?
はぁ~、書きつけた紙が風化しちゃう~かもです。
(うるうる、涙目)

しまった!
もっと悲観させちゃったかも。

空気読め、ってば、管理人!

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2006/01/07

私生活をチェックしろ、なのだ

年が明けたというのに、まったく進化していない管理人です。

いろいろ雑用が多くて…っと言い訳してみよう。
このまま雑用に埋没すると、退化しちゃうなと心配になる。

むなしく空回りしながら、かつ、異様に焦るので
『印度学仏教学研究』の最新号(第54巻第1号)を読む。

で、
前田恵学先生の「釈尊の悟りには展開があった」を
地味に熟読する。

もう一度熟読する。

えい!もう一度だ!

何と言っていいかわからない!
けっこう目から火花、って感じで
ガツン!とやられる。

ブッダは、ヤサやその友人達を出家させたあと、
ウルヴェーラーの第一回目の雨安居の時
次のような体験をするのです。

ブッダは
「比丘らよ、わたしは真の精神集中、真の正しい努力によって
無上の解脱に達し、無上の解脱を実証した。
比丘らよ、おんみらも、真の精神集中、真の正しい努力によって
無上の解脱に達し、無上の解脱を実証をせよ。」
と述べているのです。

これは何を意味するかというと、

ブッダは、菩提樹下の「最初の現等覚」より、
さらに進んだ境地に達したのだと
前田恵学先生は語っています。

むむむ!そうなのか。

はっきり言って、わたしもブッダに関しては、
まだまだ、いろいろひっかかることがあるのよ。

ずううっと、考えてることもあるの。
でも、この悟りの二段階(もっとあるかもしれないけど)には
気づかなかった。

教説にばかり気をとられているのもいけないわね。
ッテ、言っても教説だってよくわからんところがいっぱいあるし。、

45年間の教導生活の間、ブッダは、「進化」してたんか?

ありうるよなぁ
…そういえば、ちょっとそう思ったこともあったっけ。
あれは、何でそう思ったんだろ?
思い出せない…

と、退化しつつある頭で呻吟するのだった。

ブッダは進化し、わたしは退化するのか。
反比例の関係かしら

などと言ってるばやいでは、ない!

また、一つ、やること増えたでねえの。

ブッダの私生活チェックしろ、なのだ!

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2006/01/03

年頭のご挨拶なのかな

明けましておめでとうございます。

もう三日になっちゃいましたね。早いなぁ。。

暮れに大急ぎで年賀状を書いていたんだけど、
一言二言書こうと思うと

「老化するばかりです」とか
「足腰立たなくなりました」とか

そんなせりふばっかりで、
みんなに「正月なのにぃ、くらいよ」と言われたので
できるだけ一言書くのをやめました。

それ以外の文句が浮かばないのよぉ!
くらい年賀状受け取った人、ゴメンね。
何もない年賀状受け取った人も、ゴメンね。

でも、おばあちゃんは、年賀状のことを
「(自己)生存証明書」と呼んでるんだから、
それに比べたら、かわいいもんだと思うわ。

「年賀状が来ているうちは生きてるって、相手も思うから」と、
ばあちゃん!
それって、すごいんじゃない。

かなり元気でる意見だぞ、っと。
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
さて、今年もあと363日。

昨年暮れには、いろいろ悩み多き人生でした。
みなさまには、いろいろご迷惑をおかけしました…ような。

で、
いまも続いているけど、気を取り直し、
少し地道にテキストに埋没しようと心に決めました。

ブッダ・龍樹と向き合うことにするわ。

いままでと変わらんのじゃ?

そうね、変わらんけど…

いままでは、ブッダ・龍樹でもうめいっぱいだったのよ。
いまでもそうだけど、それに第三の人物を加えようと思うの。
ちったぁ進歩しなきゃな、いくら管理人でも。

第三の人物、誰も注目しないが、
仏教の論理学を現代化できるただ一人の人物。

彼の名は、アクシャパーダ(別名、ガウタマ)。

もっとも現代論理学に近い男、
そして、
わたしたちの心情にもっとも近い思想の持ち主。

そして、
龍樹をもっともよく理解した男。
そして、
ブッダ思想の上前をはねた男。

彼を本格的に加えることにするわ。
そうなると、ますます頭が爆発するかもしれないけど、
やむを得ないわね。

頭ぐらい何よ!

…っていう、問題ではない…か。

今年も波乱の幕開けとあいなりました。
みなさま、
よろしく巻き込まれちゃってください。

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