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2005年11月

2005/11/28

話題は、ひやめしなのだ

みなさん、冷やご飯をどうやって食べていますか?

なんじゃ、今日の話題は?
たまには変わったお話を。

お弁と、作るので、必ず朝にはご飯を炊く。
そうすると、夕べのご飯の残りは、必然的に冷凍ご飯になる。
わずかであっても、冷凍ご飯は、着々とたまる。

そして…

冷凍庫が全部、冷凍ご飯でいっぱいになる。

な、何とかしなきゃ。

雑炊にする
炒飯にする
チキンライスにする
ライスグラタンにする
クッパにする

他に何かないカァ
みんなが、「また、これ」という顔をするんだよ。

んで、

最近、良いもの見つけたのよ。

オムライス

下の子が、けっこうはまってる。

「今まで、食べた中では、うちのが一番おいしい」

いい子だわ

「ただし」

え?

「東京のホテルニュー○○タニのオムライスをのぞいて」

にゃにぃ!なんと高価な体験学習だっ!

「なんとなく全部がちがうんだよな、他とは」

これしか言わないので、参考にならない。
100円のトマトの缶詰はつかってないだろな、きっと。

と、思いつつ
でっかいオムライスをみんなに作ったら

こんどは、上の子が

「全部食べるとあきるね。もう、オムライスはいいかな」

だって。

ああ、冷やご飯をどうやって食べていますか、みなさん!

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2005/11/26

道徳、お一ついかが

ココログに入ろうとしたが、仕様が変更になったのか、
様子が違う。

「アカウントを入れろ」とか「パスワードを入れろ」と言われる。

わかんないよ!
わすれてるんだから。

ノートを引っぱり出して、
めちゃくちゃふざけたパスワードを、
声に出して入れていたら、

夫に笑われる。

なんてぇ、こったい!
それでも入れない。

やみくもにいろんなところをクリックしていると、
何かの加減でカレー日記に来てしまう。

わかんないシステムだなぁ。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
まあ、よいのです。

仕事二つ片づけたわたしは、寛大なのです。
あと残った仕事は、三つになりました。

あれ?減ってない。
いくつ片づけても、残りは三つなのか?

まあ、よいのです。

人生そんなものなのです。
達観する我(われ)は、倫理について、学生諸君とお話ししています。

君らぁ、ぜったい守るべき倫理・道徳の基準をもつやいなや、という問題です。

おおよそ、どの人も
「自分が嫌なことを人にしない」
「ウソをつかない」
「約束を守る」
「人の気持ちを踏みにじらない」
「筋を通す」
など、思うところがあるのです。

いいヤツです、みんな!

でも、道徳の基準は何もない!という人もいます。
直感で生きてる人もいます。

いいヤツです、みんな!

ところが、一人、こんな人が。
著作権があると思いますので、一部抜粋にしようかな。

「なんでも自分勝手」

を、自分の道徳(?)にしている人です。
他の人には「オレについてこい」といっています。

彼はこういいます。

わたしはジャイアンの考え方にたいへん同感しているし、尊敬している。
というより人生の目標は『ジャイアン』である。
行動を決めるとき、わたしの基準は「お前のものは俺のもの。
オレのものはオレのもの」である。
心の友は大事にしてガキ大将として生きたい。

と、このように書いたため、みんなちょっとぉ … ひいてるなぁ。

他の人に
「この人はどうかな?と思います」
なんて言われてしまいました。
わたしが、なんとかフォローしようとしていると

一人女の子が言いました。

「この人は、友達思いの人ではないかなと思います。
『お前のものは俺のもの』っていってるのは、
お前の悩みも俺の悩み、
って言うことかもしれないから」

って、言ったので、みんな、感動!

「ほお!すごい!すご~い」
と彼女をほめたたえたのでした。

いいヤツです!みんな!

はぁ、せんせ、教えることないや 

道徳・倫理の基準をみんなから体験的に学ぶせんせだったのだった。

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2005/11/23

夢がふくらむ方法論!路線変更ぉ、しましょ。

一晩寝て、

下宿人さまの『仏教かく始まりき』の「はじめに」の提言を

かみしめる。

経典のことばを、そのまんま、ありのままのものとして受け取る。

なんて!幸せなんだっ!!


そもそも

むかしっから、「経典は、中で説かれていることは一定していない」って、
言われてきたんだしね。

あるところでは「自己」を説き、あるところでは「自己」を否定する。
それで、みんな困ってるわけよね。

だからといって、何でも「後代の増広」では、あまりに安直な解釈です。
お釈迦さんの教えは、ほんとはなかったというも…。


だからこそ、ここが解釈の見せ所でもある。
どう解釈するかは、研究者や読者の能力にかかっているのだわ。

ま、そこで、

「ブッダ論理学」って、言ってみてるけど、

どうですか?

あんまり、まだ、ピンときませんかしら。
まるごと認めて、解釈する計画なんですが。

この路線ですすみますっ!鼻息あらいです、管理人。

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2005/11/21

哲学 vs 歴史 なのかな

一つ仕事を終わり、少しホッとする管理人です。

ホッとしつつ、あわててアップロードして、
中をちゃんと読んでいなかった

下宿人さまの御本
『仏教かく始まりき---パーリ仏典『大品』を読む』の

「はじめに」を読んでみました。

      ………
もしかして、けっこう過激なんじゃ…
ひょっとして、現行の方法論批判では?

このような意見が出てくることは、管理人としては、歓迎したいです。

これまでは、何かを言えば、必ず

「その点は後代の可能性がある。
本当のブッダの説かどうかわからないよ。」

と言われて、何も決定できない、何も解明されない、という状況でしたから、

このように述べてくれる人が多くなれば、

ブッダの哲学・思想研究も進むのでは、っと思われます。


そもそも、歴史的な研究と哲学・思想的な研究は、

方法論的に相容れないかもしれませんね。

哲学に歴史的な観点はほとんど入らないです。
哲学の問題は普遍的だから、時間など関係ないよ、となってしまう。
ブッダの哲学・思想を知ろうという人は、「2500年前のことだから」なんて考えないですよね。
その人にとっては、今現在の問題です。

一方、歴史には哲学的な観点は入らないです。
時間を追って、何が起こったかを知ることが大事なのであって、
哲学や思想が普遍的でいつの時代もおんなじだったら、困っちゃう。
歴史にならない。時代ごとにどう違っているかが、大きな関心になります。

だから、二つの研究は、どうしても対立するかもしれない、と思う管理人でした。

わたしとしては、興味の対象が哲学・思想なので、
歴史的な観点には冷たくなるのかもしれません。

仕方ないか … ブッダや龍樹は、わたしの中でミニの姿で生きてるんだもんなぁ。

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2005/11/16

ウィットをちょいっと

そういえば、夏用の「メタル」というテンプレートを使っていましたが、
ちょっと寒そうですね。

あったかいクリスマス用のにしてみました。
サンタさんなんか来ないでしょうけど、
せめて背景だけでも、クリスマス気分で!

ああ、クリスマス・キャロルなんか思い出すなんて、
あなたも…

あれ、マッチ売りの少女ですか?
それもまた…

と、このようにあれこれ思い浮かぶのを何とかしたい。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
話題を変えてみようと思います(妄想飛んでけぇ!)。

「かゆい」というのは「イタイ」という感覚の微細なものだということを聞いたことがあります。

その伝でいくと

「ウィット」というのは「アイロニイ」の微細なものではないでしょうか。

西洋哲学をふくめて西洋の知識人がもっているもので
東洋の知識人にはなかなか見られないもの  …  それは、ウィット。

機知、英知、知性

いろいろに言われるけど、やっぱり、「ウィット」は「ウィット」ですね。

西洋の哲学書の中に、そんな表現を見つけると、何とも「おしゃれだなぁ」と思ってしまう。
東洋がもってる「とんち」というのともちがう。
ちょっと独特だと思う。

最近、ウィットに満ちてるなと感じたのは、掲示板2225「エンジニアを理解しよう」で、無宗ださま直伝の

「コンピュータジョーク」
http://hp.vector.co.jp/authors/VA000092/jokes/index.html

のサイトです。
久しぶりに、西洋感覚を思い出しました。

わたしが好きな「ウィット」に飛んだ表現は、クワインの「何が存在するのか」についての一節。

「…これは、非存在についての古いプラトン的難問である。非存在は、ある意味で存在しなければならない。そうでないとすれば、存在しないそれは何なのであろうか。この込み入った説は、『プラトンのあごひげ』とあだなしてもよいであろう。歴史的にこれは頑強なものであることがわかっていて、しばしばオッカムの剃刀の切れ味を悪くしている」

これ読んで、思わず吹きだしました。
存在物をイデアの形でこの世界に次々組み入れるという、この技を、
プラトンのあごひげにたとえています。

そして、

それによって
「存在物をむやみに増やすな」という、オッカムの剃刀と呼ばれる原則が
無効になってしまう状況を、

軽く皮肉っているようです。
たしかに、プラトンのあごひげは、相当ごわつきますな。

まじめに論じながら、どことなく斜に構えた感じもするし、
ある意味、自分をも批判の対象にしてしまう自虐性もある  ウィット

こういう感覚は、東洋には、あまり見あたらないような気がする。

龍樹に「ウィット」があるなんて言われたことないし。
しみじみ思うけど、龍樹に、さらにウィットが加わったら、

もう、ほんとにほんと完全に「おかしい人」だと思います。

まじめに言ってることが、トンデモないことなんだから、
これに常識人・知識人のウィットなんて混ぜてごらんなさい。

どこまでほんとで、どこまでウソだかまるきり見当つかんわよ。

「…これは、非存在についての古いプラトン的難問である。非存在は、ある意味で存在しなければならない。そうでないとすれば、、存在しないそれは何なのであろうか。…もちろん、それは、非存在に決まっている。この明白な説を『プラトンの第二の頭』とあだなしてもよいであろう。第二の頭や第三の手といったものは、概念上のものであって非存在だからである。オッカムの剃刀は、いつも空(くう)を切っているのである。あたかも、虚空を切る剣のようである」

ははは、なんちゃって。

おかしいでしょ?
え?

ええっ!むずかしい?深淵?微妙?
さすが、龍樹だってぇ … 冗談で書いたんだけど … 

でも。

どことなく。

自分でも深淵に見えてきたり … して … … ううん。 

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2005/11/15

過去を偲んで …

岩見沢(いわみざわ)は、雪でした。
おお!積もっている。

わたしの住んでる札幌は、まだ雪が降っていないので、
うっかり夏靴で出かけてしまい、すべる雪道におっかなびっくりでした。

ああ、久しぶりに、「冬ってこんなだったな」って思い出しました。

今年は暖かい日が多かったので、
北海道感覚というか
北国体質というか
シベリア気分というか
そういう感覚が乏しかったのでした。

そこで、しみじみ冬感覚に浸りつつ
札幌駅に戻ると
改札口の上に、
「おかげさまで札幌駅は今年で125周年を迎えました」
と書いてありました。

それで、ここでも、なんとなくしみじみ
125年前を偲んでしまいました(え?)。
木造の小さい駅舎で、中でダルマストーブなんか赤く燃えてるんだわ。
かく巻きの女の人や行商の人が暖ををとってる図なんてのが、
浮かんできて、
最近チョーおしゃれになった現代調の駅の姿とは似ても似つきません。
外に出ると猛吹雪で足跡も消えかけている。
雪の中で人の姿は遠くに黒いシルエットにしか見えません。

なんて、
どうして、こんなモンがどんどん目の前に浮かぶんだろ。

ああ、125年前も良かったなぁ、って … おい!
わたしって、ほんとはいくつなんだろ?って、気もしてくる。

こんな風に
言葉が目に入ると、そこからすぐ何でも勝手に連想する癖って、
何とかしなくちゃいけないかもな。
研究してても、ちっとも進まないのは、そのせいだったりする?

ところでね、今回でめでたく200個目のカレー日記でございます。
昨年10月にはじめて、かれこれ1年余、
あの当時、ブログもまだめずらしく、
何もかもが新鮮な日々 …

ああ、いかんいかん、また、勝手に連想が始まるぅ …


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2005/11/14

朝の妄想

わたしってば、いつも「忙しい」と書いているような気がするけど、

「忙しい」といってるわりには、忙しさになれてない。

三つ以上いっぺんに仕事が来ると、必ずパニックになる。

で、

もっちろん!だい
パニックだぁ~

完全に破綻しそう
そう思っただけで、確実に破綻できちゃう、暗示に弱いわたし。

たまには、しっかり対応したい … 無理なお願い聞いてよね(誰に頼んでンの)。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
そのパニックのせいかもしれないけど、

数日前から、わたしの頭の中で、ちっちゃなブッダとちっちゃな龍樹が出てきて

なんだかんだ、なんだかんだ、と、うるさい。

パニック対応を教えてくれるつもりなんだわ、きっと。

ブ「最初に簡単なものからやるんだよ!いいかい!すぐできそうなヤツだよ」

わたし「うん!わかった」

龍「最初に、楽しいヤツからやった方がすぐすむと思うけどな、ぼく」

わたし「それも、そうね」

ブ「それじゃあ、だめだよ。楽しいことはすぐ苦しみに変わるんだよ。」

龍「そうか!とにかく仕事のろいんだから、僕たち呼び出してる暇あったら、さっさとやりなよ。」

わたし「へぇ、龍ちゃん、リトル・ブッダの前では、ずいぶん素直なのね」

龍「龍ちゃんはないだろ、龍ちゃんは。ミニでもブッダには弱いの、ぼく」

ブ「龍!瞑想にいこうぜ。仕事の邪魔にならないようにさ。
  そういえば、思うけど、龍、おまえ、あんまり瞑想に強くないよな」

龍「え!ば、ばれてる。ぼく、頭良すぎて瞑想苦手なの」

ブ「ぼくが開発したむずいヤツ、最後の段階、『滅尽定』やってみたら。」

わたし「あ、わたしもやりたい。仕事滅尽したいもん。」

龍・ブ「初禅もできないで、何言うか~ぁ~、かぁ~つっ!」

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
って、こんなこと考えてるなんて

瞑想、っていうより、妄想

でもさ、龍樹って、あんがい瞑想苦手だったって、これどう思う?
わたしの中では、なんか、そんな気がしてならないのよ。

どう思って?ありうる?

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2005/11/11

始まる前に終わる日記

急に寒くなっちまいました。
やっと雪です。

最近、ものわかりのいいわたし。

「走るなら、バスに間に合う」と書いて
なぜ、こんなのじゃダメかわかりました。

これじゃ、十二因縁の中に入れてもらえません。
科学の法則にもなりません。

複合的なものは、複合的になればなるほど、
因果度数(?)が弱くなるのよ。

五蘊のかたまりの「わたし」と、やっぱり五蘊のかたまりの「バス」。
五蘊(色形、感受、表象、志向作用、識別作用)だからね。

バスが五蘊なのは、運転手さん込みだからです。

因果の道は、純粋素材を求める道か。
なかなか!かしこくなるわたし。


ブッダの気持ちがよくわかる。。。そんな気がする

。。。だけ

かな。。。。。。。。。雪、ふるかなぁ?。。。こんなゆき。。。。。


寒いけど我慢して仕事に行かなきゃ。
じゃあね。

今日の日記は、始まる前に終わります。
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

帰ってきて、日記読んだら、何書いてあるのかわからんですね。

ええとね、
因果関係を求めるときは、
「原因」におかれるものと「結果」におかれるものとが
その哲学体系の最小単位の要素であることが望ましい

って、言おうとしたのでした。

「原因」「結果」が複合的なものだと、あまりきれいに因果が出てこない

って、言いたかったのでした。

朝だから、寝ぼけてたのかも。
あら、いつもですか。

そうだ!思い出したけど
「最近、サイトの内容がむずかしいですよ」と言われました。

ええっ!
そうお?そうなの!

なんかさ、龍樹がでてくるせいかしら。

わたしね、もう、自分じゃ、わかんないのよぉ!

どれがむずかしくて、どれがむずかしくないのか、

はっきり言って、全然わかんないの。

味見しすぎて、舌がバカになった感じにちかいかな。

つまり

龍樹やりすぎて、頭がバカになった感じ … 「感じ」っていう字取ってもいいかも。

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2005/11/08

因果の道

ここ1~2日、何だかいろいろ変化が著しく、いろんなことを考えてしまいました。

掲示板で、無宗ださまと議論しているうちに、龍樹の『中論』が、ぐぐぐっと
せまってきて、ありがたかったです。

今までは理論の輪郭をつかんだなという感じでしたが、
とうとう本丸に切り込んでいってる感触がしはじめました。
ずいぶん見えてきたのだった。

んで、

覚悟を決めて、チベット訳をごそごそさがしはじめる。
ああ、チベット語を読むのかぁ。つらかよ。って思うです。

それにしても、龍樹の作品はほぼすべて、しっかりつながっているのを感じる。

どうして『大智度論』が龍樹じゃないっていう説が出てきたんだろう。
どうして『廻諍論』が龍樹じゃない、なんて言うんだろう。

龍樹は、いつでもおんなじことをくり返してるんじゃん、って思って、
みんな、なんでわからないかとちょっぴり焦燥感!

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

次に、久しぶりに『ニヤーヤ・バーシャ』を読んで、
こっちサイドに、頭が切り換えられなくて、完全にパニックになる!
アクシャパーダの書いているのを読むと、あまりの大胆さにほんとに信じられない!

龍樹を正面からぶったぎっておるのよ。

畏れ多くもかしこくも、あの、天下の、龍樹さま!!に、楯突こうなんて…、
っという
まるきり仏教サイドの意識で、非難のまなざしになってしまう。

いつからこんな考えが … 自分でも驚愕じゃ。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

前回、ブッダ論理学で因果関係を語ろう、なんて、
かなりルーズなことを書いたらさっそく罰が当たる。

今日は、看護学校で、説明してて、
みんな「ならば」が全然わかっていないことがわかって、
四苦八苦してしまう。
全部最初から説明し直し!
余計わからなくなったかも。

「推論の形式化」をするため、前提の文を結論にあわせていらない修飾語を削ったら、
それは実際の文とちがうから「正しい」推論の形式化ではないのでは?と言われて
絶句してしまいそうになる。
「形式化」というのは、実際をアレンジすることなんよ … うう
もう、めちゃくちゃ疲れる!

まあ、そんなこんなで、つらつら考えると

因果関係というのは、ほんとに難しいものだと思う。
因果関係の「ならば」を使うということは、大げさにいうと、
命がけだなぁと思う。

例えば、「走れば、まだバスに間に合うよ」なんていう文ですら、
けっこう覚悟がいる。
走って間に合わなかったら、その責任は言った人にあることになるし。

科学や医学は厳しい!
これは、因果の道を歩む学問だからだ。
患者さんの命を預かる医師は、いつもぎりぎりの選択を迫られる。
手術をすれば、患者は完治する … ほんと? … 完治する? … しなかったら?

因果ということそのものを考えても、
この世の中のどこからそんな関係を取り出すか、
それはすべて主観の側にかかっているわけで、
ここにも、この関係の信頼性を疑う要素が入ってくる。

それに

原因と結果はただの観念連合にすぎないという見解がでてくれば、
それだけで、因果関係の足場はぐらぐら揺らいでしまう。

こんな風に因果を語ることは、リスクが多すぎるから、
だから、みんなこの関係を避けようとするのかも。

でも、じっさい、「生きる」ということは、因果の波にもまれるということだし、
自分で命をかけて因果を選び取っていくことじゃないかっていう気がしてくる。

まことにハードな人生です!
でも、というか、だからこそ、生きてる実感はおおありっ。
ブッダが自ら選んだのも、わかるかな。

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2005/11/05

ブッダ論理学!!自己責任の論理学を学ぼう!

わたしたち現代人の論理学では、言葉を上手に使えない。
言いたいことも素直に言い表せないし、不自由な言い方でごまかさなくてはいけない。

それは、論理学が、「ならば」の使い方をまちがって教えたからだと思う。
よく「ならば」のパラドックスが、問題になるけど、
パラドックスがあるのは「ならば」にあるのではなくて
論理学者の頭にあるのじゃないかと思うんだ。

だからね

自分の見たこと・考えたことを自分の責任で言えるような論理学を持とうじゃないか!
ってのが、
今回のメッセージなんだ!

言葉を正しく使うために論理はあるはずだ!
論理のしもべになるために言葉があるのじゃなくて。
でしょ!

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
さぁ、「ならば」をべんきょしようぜっ!
今日のべんきょだよ。

「ならば」は、大きく三つの用法に分けられる。

#####################
#                            # 
#  (1)ゆるい「因果関係」を表す場合      #
#  (2)「理由づけ」を表す場合          #
#  (3)言葉を定義づける場合          # 
#                            #
#####################

(1)は、とてもよく使われる「ならば」で、次のような用例がある。

  そんなにコーヒーに砂糖を入れると、すごく甘くなるよ
  走っていけば、まだバスに間に合うな
  火のついたたばこをポイ捨てするなら、山火事になるかもしれない
  水うがいをするなら、インフルエンザにかかりにくい
  困ったら、わたしに電話をしてください

「~かもしれない」も「~してください」も、コミュニケーションの場合には用いる言葉だから、使える表現に含めよう。
論理的には、もっと断定的に「山火事になる」とか「電話をする」とか、言い換えても良い。
なぜいいかというと 
 
  P Q    P*Q        
  1 1     1            
  1 0     1(※ここがミソ)
  0 1     0
  0 0     1

という真理表をもつ、「*(ならば)」を用いているからです。、(「P」「Q」は命題、「1」は真、「0」は偽)


これは、第二番目の(※印)、Pが真、Qが偽のときも、真として用いられる「ならば」です。

だから、
たばこのポイ捨てしたけど山火事にならなかったとしても、この文は、まちがいだとは思われないのです。
この第二番目のケースを考慮するから「かもしれない」というあいまいな表現になるのでしょう。

この「ならば(*)」の特徴は、第3番目のPが偽、Qが真のときだけ偽ということです。
そこで、第3番目と第4番目の場合を応用して、こんなことが言えます。
Pが偽の時、Qが真(第3番目のケース)ではなくて、偽(第4番目)であれば、
P*Qは真となるわけですから、

「Pでないなら、Qであってはいけない」と言えます。

ここで、「ブッダの公式」としてまとめられる二つの式が導かれます。

  1 Pであるならば、Qである
  2 Pでないならば、Qでない

たとえば、「たばこのポイ捨てしないなら、山火事は起きない」と言えるなら、先の「たばこのポイ捨てするなら、山火事になる」は、正しい文として確信がもてるわけですね。2は、本当にP*Qが正しいかどうかを確かめる公式として使えるのです。えらいぞ!お釈迦さん。

この「ならば(*)」は、日常もっともよく使います。まとめると、

  a)事実と事実のゆるやかな関係を表す法則的な「ならば」
  b)人と人とのゆるい約束ごとを表す打診的・推測的な「ならば」

として頻繁にでてきます。

みなさん、よく使いますね。でも、これらの例は、今の論理学の教科書には載っていません。
この「ならば」は、今の論理学でうまく説明できないのです。

それでは(2)に行きましょう。
(2)は、(1)の理由づけとしてよく用いられる「ならば」です。

(1)の前件と後件をひっくり返すと出来上がります。
「前件」というのは、「ならば」の言葉の前にある文です。例えば、 「そんなにコーヒーに砂糖を入れると、すごく甘くなるよ」という文では、「そんなに(たくさん)コーヒーに砂糖を入れる」という文です。
これに対して、「後件」は「すごく甘くなるよ」です。

ひっくり返すと
「すんごくコーヒーが甘いなら、相当たくさん砂糖を入れてるね」
となります。

この場合、時間が入っていませんので、現在形になったり、推測などの表現形式になります。
または、前件と後件は同じ時制で語られたりします。
判断している「時」が、今現在なのです。では、ひっくり返した文を、全部あげておきましょう。

  コーヒーがすごく甘いなら、相当たくさん砂糖が入っているよ
  バスに間に合ったのなら、走ったにちがいない
  山火事になっているなら、おそらく火のついたたばこのポイ捨てだろう
  (こんなに流行っているのに)インフルエンザにかかっていないなら、水うがいの効果ですね
  お電話をくださったということは、何かお困りのことがあるからでしょうな。

これが、論理学では、含意の「ならば(⊃)」として真理表で表されます。

  P Q    P⊃Q        
  1 1     1
  1 0     0(※ここがミソ)
  0 1     1
  0 0     1

でも、論理学の本には、このような「ならば(⊃)」の実例として、上のような文は用いられませんでした。(まちがって用いた場合を除けば。)

実際には、論理学の実例で用いられるのは、概念と概念の包摂関係や、集合と集合や、集合と要素の間の関係を表す、いわば、論理上・言語上の関係が主でした。

  ニュートンが物理学者であるなら、彼は科学者である
  100が4で割り切れるなら、200だって4で割り切れるさ

こんなかんじです。論理学では、現象的な事実にふれる発言を避けるのです。

それは、へたをすると科学が扱う問題にふれてしまうからです。
例えば「ビタミンCのたくさん入ったレモンなどを取ると風邪の予防になる」と言えるかどうかは、科学的に証明するべきことで、論理学では、真か偽か判断できないからです。
そして、また、科学も真偽についてはとても慎重です。
帰納的な手段を主体とするので、真理は、簡単に決定できないという態度を取るからです。

だから、「雲があると雨が降る」というこんなありふれた場合でも、
本当に科学で法則的に言えると決定してからでないと言えないのです。
そして、科学は、なかなか決定してくれません。とても不自由です。

しかし、諸君!

わたしたちは、自分の体験から
「レモンをたくさん取っていると、風邪を引きにくい」と知っていたり、
「雲が出てくると、雨が降る」と知っていたりします。

科学のお墨付きを待っていたら、何も語れません。
わたしたちは、自己責任で語ります。
自分の見たままを、あるいは、考えて知ったものを、堂々と語ります。
推論はそのためにあるのです。

だから、(1)の「ならば(*)」と(2)の「ならば(⊃)」を使いましょう。

論理学が、何と言おうと、(1)の「ならば(*)」は、
(2)の「ならば(⊃)」の前件と後件をひっくり返した Q⊃P (⊃は「理由づけ」)というのではないのです。

これは、わたしたちがもっともよく使う

ゆるい因果関係をあらわす  「ならば(*)」  なのです。

論理学の解釈、Q⊃P とすると、

  ニュートンが科学者であるなら、彼は物理学者である
  200が4で割り切れるなら、100だって4で割り切れるさ

と、なります。これは、論理学では、正しい文とはみなされないので、使われないのです。
つまり、論理学では、結局、P*Qの真理表で表されているような真理値をとる関係を表現できないということなのです。

こんな風に、論理学は、わたしたちの言語世界を非常にちっぽけでつまらないものにしているのです。
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

何だか、収まりが良いのでここでやめとくわ。
(3)は、言葉の定義に使う「ならば」なので
「ならば、そして、その時に限って」
という「等値」を意味する「ならば」です。

これは、略すから、みんな、各自自習してね。

せんせは、べんきょして、つかれたから、お茶でも飲んでベートーヴェンでも聴くわ。

べんきょするなら、つかれる

今から堂々とこの文も言えるのよ!よかったね!

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2005/11/01

苦しみの果てに…じゃなく、「果てたら、やっと苦しみが」

衝撃の告白っぽいんですけど、

はっきり言って、

わたしって、

仏教徒に…


向かない
体質だと思う。

家族には、
「書いてること読むと仏教徒みたいじゃん」

って、言われるんだけど、
どうしても、ダメなのよ。
決定的なところで、わたしには欠陥がある…

「諸行無常」もわかるし、「諸法無我」だっていけちゃうもん。
我執だって、「消せっ」といわれりゃ、それなりに「無っ!」とねっ、やれちゃうしさ。

それから、十二因縁だって、がんばれば(そういうもんか?)、なんとかわかりそ。
「輪廻転生」なんか、まるごと、その気だから、ね。
来世の計画まで立ててるわたしは、「まったく凡夫の鏡(?)だな」って言われちゃうほどよ。

だけど、一つだけ、どうしても理解に苦しむ教えがある。

なんで、なんで、「一切皆苦」、なんだろ?

そりゃ、苦しいこともたくさんあるけど、ま、なんだかんだ言ったって、
おもしろいじゃん、それなりに、楽しいし…
苦しいことも、慣れるとこんなモンだと思うから…

なんて、こんなこと言ってたら、絶対
仏教徒に
なれないよね~はぁ。


ホント
わたしが、いっちばん、苦しいのは、ね
すべてについて、完璧に「苦しい」って、思えないことなのよ。
テキトーに「くるし」ぐらいは思えるけど

(なに?めでたい性格だからだって。
余計なお世話だわよ。)

これが、なんたって、最大の苦しみだわね。

あら?
「すべてについて、心底苦しいとは思えない」、っということは、
すべてについていえるのだから、
わたしが心底苦しいと思えないでいるかぎり、

それについては、いつも最大の苦しみと感じる自分がいる…

およっ!
最大の苦しみが…今、ここに…やったぁ!

おい!おいっ!喜ぶな、っつうの。
ここは、苦しまなきゃあ、元も子もないでしょ、管理人。


 … ほんとに、向いてない!!!かも

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