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2005年10月

2005/10/27

文献学とはなんぞや~っ!

毎日更新!えらいぞ!わたし。

昨日図書館に行って、磯部隆著『釈尊の歴史的実像』(大学教育出版)を借りました。

さっそく、拝読…したのはよかったが、
雲行きはどんどんあやしく
わたしのあたまに暗雲がたちこめる。

とうとう35頁で …… 絶叫しかける 「ええ~っ!まさかぁ」

以下は、磯部氏の意見とわたしの驚愕の心情吐露です。
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磯部氏は、第一節で
『スッタニパータ』(中村元『ブッダのことば』岩波文庫)の
405~424の「出家」と題されるところを扱っています。

『スッタニパータ』の内容を簡単に言うと…

ブッダが王舎城で托鉢している姿を、
ビンビサーラ王が高殿から眺めていて、
ブッダの高貴な姿にうたれて家来にあとをつけさせます。
そして
居所を知った王様自ら、ブッダのいるパンダヴァ山に、赴いて、
ブッダにいろいろ出自などを尋ねるというシーンが描かれています。

それについて、
磯部氏は

「おそらく、そうではなかった。」といい、

驚愕の「歴史的事実」を述べるのです。

「釈尊はヒマラヤのふもとシャカ族の地から軍事同盟を結ぶためにマガダ国までやって来た。(33頁)」

「釈尊は宮殿で、シャカ族の地理的位置、富と勇気を持つがコーサラ国に従属していること、釈尊自身は「太陽の裔」という誇り高き門閥に属し、シャカ族の支配層であることなどをマガダ国王に名のり、軍隊の提供を求めたが、マガダ国王はこれを拒絶した。(34頁)」

今まで、いろいろな研究や評論やエッセーを読みましたが、
これほど○○○なものははじめてです。(スキな言葉を入れよう!)

わたしがビックリしているのは、主張の奇抜さだけではありません。
奇抜な主張であるという点では、わたしの本だって、けっこう負けてないと思うからね。

そうではなくて、もっとも驚愕なのは、理由とか、根拠とか、そういう説明がいっさい

「ない」

ことです。
推測に推測を重ねて、ただただ自分の意見を述べているだけだからです。
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インド哲学、仏教学が「文献学」というある決まった方法論をとるのにはわけがあります。
手に入るものが、ほとんど文献しかない状態で研究するのですから、
「この文献をいかに扱うか」はとても大きな問題です。

1)できるだけ確実なテキストによること
2)できるだけテキストに添った解釈をすること
3)研究の結論には合理性があること

こうしてはじめて研究が意味をもったものとして認められます。
現実には、これらの条件を完全にクリアするのはむずかしいので、
だから
研究には、程度に応じて、良いものと悪いものが出てくるのです。

でも、どの学者も、これらをクリアしようとそれなりにがんばっているのです … のはずです。

1)に注目する人は、テキストを確定するためにたくさんの写本を集めてテキスト・クリティークを行います。
古い写本を探し回る人もいます。ある程度確実と言えるテキストを用いること、これは重要です。そのための基礎作業です。労多く困難ですが大事な研究です。

2)が効力を発揮するのは、例えば、写本は少ないが思想的に重要なテキストの場合です。その場合、文献同士を比べたりして、解釈で補うこともできます。他のたくさんの同系統の経典と比べてみたりするような場合です。テキストに対する信頼性は落ちるかもしれませんが、研究者の知見がそれをカヴァーするのです。やりがいのある仕事です。

3)は、最後に得られた結論が、一貫性があり合理的であると判定できることです。非常に些末に見えるところを扱いながら、しかし、重箱の隅をつつくような研究にならないためには、この視点が必要です。大局的な視野があって、研究を行うのとそうでないのとでは、得られる結論に雲泥の差が出ます。広い分野をおさえられる研究者の経験と知識と、それと、文献に対する鋭い感受性が、研究の支えです。

これらにもとづいて、誰が聞いても「そうだな」と思うような説得力のある研究業績をあげられるように努力するのが、学者の使命だと思うのですよ。
これは理想だから、こんなにうまいこと、なかなかいかないけど、できるだけ理想に近づくようにするもんなんです。

で、

磯部氏の場合ですが、
1)について
まず、テキストを疑っています。ここには真実が書かれていないという立場です。
その場合、やるべき仕事は、正しいテキストを探すか、校訂するか、とにかくテキストの整備をすべきです。

1)の仕事をしないのなら、2)のケースと考えられますが、この場合、テキストは一応信頼すべきものという立場は崩れていないのです。テキストをあるがままにとらえて、それと他の文献との比較したり、他を参考に読んでいったりするのです。テキストに対する依存度は、むしろ1)より高いと言えます。テキスト信頼せずに、この研究は成り立たない。
もし、この立場で、テキストの読みを変えるとすれば、大きな賭をすることになります。ある個所だけ読みを変え、他はそのまま読むとなると、何か決定的な事実を根拠にあげる必要があるでしょう。両刃の剣です。
しかし、2)でもないことがわかります。テキストを書いてあるとおりに読んでいません。他ともろくに比較していない。自分の導きたい解釈に都合のいいところだけ引いています。

で、3)かというと、これは『スッタニパータ』一つの研究でしかないですね。
さらに、「ブッダが軍事同盟結ぼうと出家を装ってビンビサーラのもとにやって来た」っと、このような主張をもつなら、ブッダの哲学思想、あるいは、今までの思想研究にどのような影響が及ぶか、それによって、ブッダ研究について何がどう変わっていくのかという展望を示してほしいものです。
あ、あとに出てくるのかもしれませんが、主張のテーマになるはずだから、このあたりで少しは読者にみえるようでなくてはなりません。が、ないですね。
さらに、インド思想の一般常識という点からも、疑問符がつくような説明がちらほら。

例えば、407「出家して身による悪行を離れ、言葉による悪を捨て、彼は生活を浄めた」とある文について、この『彼」とは当然ブッダのことですが、この文に関連して次のような解釈をしています。

以下が、磯部氏の意見。
この文からすると、出家して身と言葉の悪を離れたことになるから、逆に言えば、出家以前のブッダは身と言葉において悪を行っていたことになる。それを後代の仏教教団はたえきれなかったので、この偈を含む三偈を切り捨てた。

経典をよく読めばわかるだろう。
わたしたち普通の人々は、すべて、身体と言葉において悪を行っているんですよ。
普通の暮らしは、そういう暮らしなのっ!だから、出家するんじゃありませんか。
ブッダといえども、出家前は普通の人の暮らしだったんだから、悪を行っていると言えるわけです。
どんなにいい人でも、どんなに優しい人でも、どんなに立派な人でも、普通にくらしている人はそうなんだよぉ!
「教団はたえきれない」という、この表現も、教団にいる人々を出家者と思っていないようにみえますよっ!

あ、いかん、いかん、腹を立てては。

以上によりまして、1)2)3)のいずれも満たしていないので、
わたしは35頁をもちまして、この本を読むのをやめます。

いろんな学者がいると思うし、
文献学の方法にも問題がないわけではないと思うけど、けど、

…けど、

本気で研究している人は、真理を求めて、けっこう、命がけなんだってわかってもらいたいすよ。

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2005/10/26

カースト的生存・ほのぼの風

昨日は、ちっとも書くことないなぁ、と思いながら書いたけど、
今日読んでみると、そんなに「すごく変!」ってわけでもないみたいだ。

よかった。

ということはだ、
「書くことある」って思ったときの方が、
ほんとは「変」なこと書いてるんだろうか?

ありうるな… でも … ま、いいことにしよ(するなぁ~っ)。
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では、管理人のカースト的一日をご紹介。

天気がいいので、朝もはよから、洗濯山ほど … ドービー(洗濯人カースト)なわたし。

午後から、そうだ、図書館に行こう … とつぜんブラフマチャーリン(清浄行)するわたし。

期限を大幅に遅れている大量の本を返して、
別の本を借りてくることにしよう … 本を乞う、沙門なわたし。

一応、急ぎの仕事は全部片づけたので、
心にゆとりがあるのです … 気分は瞑想、ヨーギンなわたし。

そうだ、なぜか今日は
朝から、意味なく、風呂場を掃除してしまうし … バンギー(汚物処理・掃除人カースト)なわたし。

バラモン(最上位カースト)から
バンギー(最下位カースト)までこなす

カレーな管理人の一日 … カレー … 今日は、大根のカレーにしよ


ほんとわたしって考えることに無駄がないわね … だから、ブッダ(目覚めた者)なわたし。

ちょっとずうずうしかったしら。ははは。

しかし、
昨日より確実に「変」な日記になっちゃったわ。

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2005/10/25

輪廻的生存・つれづれ風

今日は、寒い!でした。

岩見沢(いわみざわ)というところがある。
雪の多い北海道でも、豪雪地帯として「尊敬されている」ところです。
寒さでも、一目置かれている。

その岩見沢の駅のプラットホームというのは、
どのプラットホームよりも寒い、と思う。

そこで10分以上立ってたけど、
待っている人たちを見たら、
全員ポケットに手を突っ込んで小刻みに震えていました。

ああ、冬ですねぇ。
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今日は、とりとめなく、だらだらと書いてみます。
(と言うか、書いたら、そうなっただ。)

ここのところ、軽い気持ちで「縁起」と「輪廻」に取り組んで、
とんでもない目にあっている管理人です。

む、むむ、むずかしいす。
けっこう、脳髄しぼる考察が必要ですね。

ふう!
輪廻かぁ!
「縁起」のシステムをこれほど巧みに使った究極の理論は他にはないなぁと…
「縁起」の、この関係のすごさも、しみじみ。

ほんとに、仏教って、はてしなく勉強することあるなぁ。

最近は、

また、また、パーリ聖典に首を突っ込んで、格闘する日々なのでありました。
最近、パーリ語のやわらかい音が耳に快いです。
癒し系のブッダ調ですね。でも重厚!

一方、ちょっと俗語っぽいとはいえ、龍樹のサンスクリットは、
かたい感じがするわね。でも、少し訛りのある感じもする。
明快!切れ味最高の演説調。

それに比べると、
ニヤーヤ派の『ニヤーヤ・スートラ』『ニヤーヤ・バーシャ』は、
すごく現代的。いつも、現代の論理学書を読んでるような、
都会的なスマートな感じがする。
知識人アクシャパーダとヴァーツヤーヤナ調。

それぞれによい!
これは、きっと、彼らそれぞれの個性なんだと思うわ。

こんな風に
テキスト読む暇あるときは、幸せですぅ…だけど、長くは続かないのだ。
シュードラの身はつらいよ。。

来世は、シミ虫にでも生まれて、
インドの古本の中でサンスクリットかじって暮らしたいわねっ!

しかし、
「悟る」って、発想がないのかね、管理人。

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2005/10/21

若者よ!コントロール・マインド!

ふう、一週間に二回も哲学やるとたいへん。
身が持たないやと思う、が、がんばるわ。


「心」についていろいろ書かせたり読ませたり話したり
可能な限りいろいろする。

そして、

「最終的に、自分は心を制御できると思う人」

「いや、心を制御するなんてそれは無理と思う人」

と挙手で聞いてみる。


およそ、半々だけど、制御できる人の方が少ない。

心は制御できると思えば、そうなるし

そう思わない人は、やはり制御できない。

心は思ったとおりになっていく傾向があるというようなことを話していると…

「愛と恋愛はちがうんですか」と誰かが質問したのを皮切りに

異様に話しが盛り上がる。

ニャンだよ、みんな!

「好き」だの「愛」だの「心をコントロールできる、できない」といいつつ、

とうとう最後は「離婚」だの「不倫」だのという話しにまで至る。

こ、こっちに振るな!振るなっつうの。

「すぐに『先生はどうなんですか?』と聞いてはいけない」
と言っても、効果なし。
わたしの私生活なんて、言うほどのものでもないんだから、さ。

仕方ないので、まるっきり普通に
「不倫はしてはいけない」
とまぬけたことを言う。

あれ?まぬけてない意見のようで。
え?なんかもっと聞きたそう。


では、では、っと、「愛」に引っかけて

「渇愛」、「むさぼり」、「執着」の話しをし、

「不倫」ついでに、これが苦しみのもとだと話す。

自分では、ニャンだ、仏教になっちまった、と思って話してたんだけど、

みんな、けっこう目を丸くして聞いている、シンとしてるし。

え?欲望を抑える、なんて話し、はじめて聞いたの?


「不倫しないと思ってても、なっちゃったらどうするんですか?」と聞くから

「そんなにとつぜん不倫にならない。

注意して不倫に向かわないようにすればそっちに行かない。

不倫になるかも、思う人は、不倫になる」と言う。

でしょ?ダよね?


なんかなぁ、心をコントロールするという話し、

去年あたりから、みんなの反応が、わたしの予測を超えてるのよ。


そんなに「心って制御できない」と思ってるんだろか?

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2005/10/18

生と死の選択

「カレーな一日」なんて、日記の題名にしたけど、さびしいなぁ。
一週間にたった一日だよ。

こんな更新ぶりじゃ、日記になんないし。
また、口の悪い友人が、「週記になってますね」とか言うにちがいない。

よしむりやり更新じゃ。

小学生風にやってみよう。
今日(ほんとは昨日17日)は、朝起きま … じゃなく
朝3時50分に目覚ましを鳴らしてしまいました。

起きたのは

朝5時でした。(あれ?おかしいなぁ、時差があるぞ)
授業の予習をしました。
(これは不測の事態のときを想定してです。)

ほんとはビデオを見ることにしてあるのだ。

朝7時出かけました。

朝9時授業です。(問題:次は、朝何時と書くでしょう?)

朝11時って、思ったでしょ、はずれ。
昼12時10分、ビデオ見ちゃった。もうすることないわ。
じゃ、終わります。

なんか、イージーだって?
失礼ねっ!
たいへんなとこみんな省いたからよ。

じゃ、次には、たいへんなとこだけ抜き出すと
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涙のビデオ~~ううっ!みんな鼻をすすって見たのでした。

「生と死の選択」

ある病院の記録です。延命治療の最先端をいくアメリカのハーマン病院。
といっても、これは10年も前に作られたビデオだから。

しかし、中身は古くなってないと思う。

生命維持装置につながれた患者について、
いつその装置を外すか、
それが最大の問題なのです。

延命をはかるか、いや、機械の力によらず患者の生命力にゆだねるか。

家族、
それから医師、
その他には看護師、ソーシャルワーカー、牧師、弁護士など
多くの人が関わって、最善の道を模索するドキュメンタリーです。

銃弾で脳を著しく損傷してしまった若い女性。
心臓発作で倒れた80代のおばあちゃん。
意識はなく、反応もあるようなないような…ないような…ないよ…いや…ないともいえないかも

見た目では、素人には判断がつきません。
医師も「( I ) can't tell(わからない)」といいます。
ただ、よくなることだけはないと…。

みんな、誰も、どうなるかわからないんだ。

さて、問題です。(こんな深刻なときに問題出すなよぉ。)

問答無用じゃ。

【問題】こんな風に、誰も、この先予測がつかないとき、何を基準にして、
みんなは決断するでしょう。
あなたの最愛の人が植物状態になったら、どうしますか。
その人はあなたにこんなときどうするか何も言っていませんでした。

解答欄(                       )

では、さっそく、お答えです。

【答え】患者の苦しみを減らすような方向で、善処する。


すべての希望を失った家族が望むのは、ただ一つ

苦しまないように

ということです。

つまり

「苦しみ、あるいは、苦痛、これの滅」


いや、本気で、驚愕です。

ブッダ、あんたは、えらい!

人間の最終的な目標を「苦しみの滅」としたすごさを今思い知りました。

医師の言葉も心にしみますよ。

「わたしたちは、つい患者の治療のことばかり優先させてしまい、
直すことだけ考える。そして、本来の目的を忘れてしまうのです」

「(わからない)患者の意志」を生かそうと努力する家族や病院スタッフ。
いやぁ、いいビデオじゃン

授業よりずっといいって?

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2005/10/13

アスペクト変化

ブツッ!

不気味な音がして、ああ、パソコンが真っ暗に …
電源ぶっとんだぁ。

昨日のことでした。久しぶりにここに書き込みしようとしてたんです。

「へたしたら、ハードディスク全部だめかも」と脅す夫。
オロオロするわたし … 生きてけない … わ

即行で、パソコン屋さんに駆けつけ、ケースごと電源を買う。
9980円 う!
(出かけて買ったのはぼくだと夫が脇で主張。)

夫に詰め替えてもらい、おそるおそる電源入れたら、
無事だった、ほっ!

パソコンないと、
生きてけないからだになってるんだわ 

… こんなんじゃ、ほんと、出家できない … 
パソコン背中に背負って出家してる人、見たことないもんね。

だから、出家は、やめて、かわりに、カレーな日記でも書くわ(代わりになるのか?)。
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昨日書いていた続きを書くわね。

ココログの書き込み途中だったのに、なぜか、バックアップをとってあるのよ。
虫の知らせって、ヤツかしら。
以心伝C … なんちゃって(Cは、もち、PCのCだかんね)ハハハ。

では、はじまり、はじまりぃ
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世の中って、わかりませんわねぇ。


    ………


おい!何か書きなさい。
わからないからって、黙ってちゃほんとわからんでしょ。


    ………

とおっても、書けないわよ。
ブッダ世界が裏世界だなんて …
言い方悪くてゴメンよ。 

うすうす思ってたんだけど、そうか、 … 
価値観ひっくりかえすと、現実の世界は、まったく虚構の世界ってわけね。

にゃんか、わかってきたにゃー。

ニャンで、こんにゃ、話しをしてるかっていうと、にゃ!
寺男さまより、お勧めのスマナサーラ長老さまの法話を
聞いてたんですわよ。
(どうして、「にゃ」というのかにゃー、自分でもわからんにゃ)

そしたらね、
「他の人の意見は、みんな『我見』ですよ、西欧でもどこでも…」
と、いうようなことをお話しされたとき、

くるっときれいにわたしの価値観がひっくり返って、
「あ、ほんとだ、まったく『我見』だ、それ証明できるにゃ~ん」

って、思ったと同時に、

現代の学問世界いる優れた人々がこれを聞いたら、
「わたしたちが、『我見』ですとぉ、何いってんですか、ふふん」

って、ぜったい言うなぁ、って思ったのよ。


現代風に言えば、

「アスペクト変化」

と言うんだろうね、こういう くるりん変化

ヴィトゲンシュタインが出してきたのは

ウサギ-アヒルの図
(見ようによってはウサギに見えたり、アヒルに見えたりする変な絵)

見たことある人もいると思う。有名だから。

そんでもって、すっかり価値観ひっくり返っちゃったわたしが言うんですけど、

西洋なんて、さ、かわいいもんよねっ。
ウサギ・アヒルですもん。
しょせん、ウ サ ギ ・ ア ヒ ル!
ウサギとアヒルに迷惑なだけで、
人間さまには、何の迷惑もないっちゅうか、我が身は安泰なわけ。

ぶっきょ なんて、あ、まちがえた、ぶっきょお、なんて、たいへんなんだぞ。
ひっくり返るの自分たちなんだから。
心のアスペクト変化は、自分たちの世界がひっくり返ることなんだから。

どんなにたいへんか、みなさんも味わってみましょう。

例えば、
クラス一番の優等生が劣等生に、劣等生が優等生になるのです。
これがどんなにたいへんかわかりますか。
わかりませんね。

ドラえもんでいうと、できすぎ・のび太君というアスペクト変化が起こるわけ。

何もしない怠け者のように見えたのび太君は、
ドラえもんを従える、ものに動じない賢者。
「宿題してもしなくても、ぼくの人生には、大差ない、でしょ、ドラえもんっ、ねっ!」

一方、優等生だったできすぎ君は、
あくせくくだらない宿題におわれる小心者。
「あ、これは、7(なな)なのか、てっきりぼくは、7(しち)かと思ってた、
むずかしいなぁ、セコセコ」

では、テレビのチャンネル変えてみましょ。

こんどは水戸のご老公さまが、悪役やってんだ。
「助さん、格さん、行って代官を懲らしめてやんなさい、ついでに、越後屋も」
「いざとなれば、印籠をかざして見せてやンなさい。思うがままです、はぁ~っ、はっ、はっ、はぁ」

あらん、せりふはほとんどおんなじね。

罪のない代官と越後屋を思うようにあやつる黄門さまだった。

っちゅう設定で。

善い人は悪い人に、悪い人は善い人に
優れた人は愚か者に、愚か者は優れた人に
先生は生徒のようで、生徒は先生のよう
大人は子どものようで、子どもは大人のよう
正義の味方はテロで、テロは正義? … さりげなくいれてみました どうかな?
ノーベル賞はイグ・ノーベル賞に、イグ・ノーベル賞はノーベル賞に

これが一気に起こるんだよ、そして、なかなかもどらない。
ふぇ~ん、もどらないどころか、ますます極端に。

もう、今までの世界は … 消えちゃうんだ … 幻の如く

仏教は、すばらしい教えだと思うわよ (アスペクト変化後の意見)

だけど、だけど、… ほんと、身が持たないって、気もする

(はぁ、これ書くのに二時間かかった、
一回、間違えてアップ寸前に全部消しちゃったんだもん、
何が、以心伝Cよね)

「幻の如く」ってのだけは、アスペクトに関係なく言えるかもね。

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2005/10/08

智恵と力と勇気のこぉ

ああ、とうとう一週間経ってしまいました。

忙しいすよ。
寝てないすよ。

何だか息子とも会話が少ない。
ずっと会ってないような気がするけど、気のせいだよね。

その息子が、朝とつぜん
「アンパンマンて、友達少ないよね」
という。

(え?アンパンマン?なな、なんなの。とつぜん、
友達って?しょくぱんまん、カレーパンマン…ジャムおじさんにバタ子さん…)

と、目を白黒させていると

「愛と勇気だけがともだちさ~♪、って、さびしいよね」

っと、言いながら、がっこに行ってしまう。
やっぱ、会話がなかったわね。
ついてけないわ。

でも、愛と勇気かぁ。あんぱんまん、少ないわね。二つじゃん。

「スーパー・ジェッター(だったかな?)」(チョー昔のテレビ・マンガ)は、
「智恵と力と勇気のこぉ~♪」だったわ。(なんつー、古いもん思い出すんだ!)

いい言葉じゃん!
つらつら考えてみると、やっぱ、「智恵」と「力」と「勇気」は、欲しいわね。

何かやろうとするときの三種の神器だと思うわ。

最近思うけど、学者やろうと思ったら、ぜったいこの三つはいるわよ。
「力」は、体力よ。 … 最近、わたしに欠けてるものだわ。ここをなんとかしなくちゃ。

「智恵」も、本気で必要だわ。
だけど、意外と「智恵」を使ってる人って、少ないように思うわ。
みんな学者だから、頭は使えるのよ。
でも、智恵は、頭とハートと必要だから、ちょっと変則的なのよ。

智恵は情熱と同じであふれてくるもんだしね!たしかに必要よ。

だけど、
だけど、
学者に一番必要なのは、
ほんとは「勇気!」じゃないだろうか、って気がする。
智恵があって、体力もあっても、勇気がなければ、何も言えないもの。

勇気

それは

言う気

言うと思った?ははは。

たった一言でも、それを言うには、
清水の舞台から飛び降りなきゃならない場合がある。

それを言える人だけが、ホンモノの学者やれるのよ。

ダサイと思ってたけど、学者もけっこう

かっこいいじゃない?

だけどさ、勇気出して言っても、

誰も気がついてくれないことも、

あったりすると … やっぱ、ダサいだけだったりする …


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2005/10/01

まずっ!

「町に行ったら、ジンギスカンキャラメル買ってきて」
と言われました。

ご説明しましょう!じゃん!

その名も名高き「ジンギスカンキャラメル」

北海道のさまざまな食材を練り込んだ12種類のキャラメルの中の一つです。

ワイン、ラベンダー、夕張メロン、牛乳、ヨーグルト、昆布、リンゴなどなどいろんなものがありますが

その中でひときわ輝く 不朽の名作 いや 腐朽の駄作 超人気商品 でっす。

「とってもおいしい夕張メロンキャラメル」を抜いて 売り上げ第1位に躍り出た人気の秘密は?

ひとえに、その

「まずさ」

にあります。


だけど、一回うちでも買って食べたけど、だれもそんなに「まずい」って思わなかったんだよね。
こんなに「まずい」って言われるほど、まずかったっけ?ってんで、
もう一度買うことに。

わたしは食べたことなかったので、
はじめて、いただきますです。

あれ、普通の …… あ、ジンギスカンの臭いとマトンの油のような … 
甘いキャラメルの奥底で … タマネギみたいなくせのある臭いも … 
おお!ま…ま……あ、失礼 おいしくいただきま…した、っというと、嘘になる味です。

うん!これはだ!分析しますと、

サッポ○ビール園でジンギスカンを山ほど食べたあと、

口直しにと言ってミルクキャラメル食べたら、こんな味がするだろうという味です。 

ぜひ、北海道みやげに、お買い求めください。

十二支縁起の「感受→渇愛」のこの→は生じませんわよ。たぶんね。

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ええ、さてさて、野矢茂樹氏の『心と他者』(勁草書房)に、再度挑戦。

あれ?前にはぜんぜん気にならなかったところに、ひっかかる。
疑問も感じず読んでたところで、すごく違和感が出てきて、ビックリよ。

野矢さんは、彼が「親殺し」と名づけたように、著作の中で、
彼が強く影響をうけたウィトゲンシュタインと大森荘蔵の説を批判するのですが…

野矢さんにとっては、乗りこえなければならない大きな壁なので批判するんですよね。
大森荘蔵さんの「立ち現れ一元論」に立ち向かっていきます。

立ち現れ一元論とは、
「ものを知覚する」というとき、何が起こっていてどんなことになっているかを哲学的に説明した大森さん独自の理論です。
ものが「見えてるまんま立ち現れる」という、
おお!シンプルにして強力な説明です。

大森さんのことばですよ。『心と他者』の引用の引用です、「孫」引用ってのかしらね。

 「立ち現れ」には真偽がない。遠くに丸く立ち現れた塔が近づくと角塔に立ち現れた場合、いずれの立ち現れが真でいずれが偽ということはない。(中略)ともに、事実そのように立ち現れるのである。
 すべての立ち現れはひとしく「存在」する。夢も幻も思い違いも空想も、その立ち現れは現実と同等の資格で「存在」する。(p.6.)

うん!わかった。

で、大森さんは、その理論の中で、触覚的な立ち現れを、「現実の核」として重視します。「さわる」ということは現実性の核心だからである、と彼はいいます。「いやおうなく自分の命と生とにかかわる」から「われわれの現実の核」なのです。(p.10.)

うん!これも、わたしはわかる。

だけど、野矢さんはここを批判して、いろいろ論じ(一言ですますなぁ、っていわれちゃうかな)

こう言います。

(1)「生の現場における触覚の優位性と立ち現れの虚実無記性とは混同されてはならない」(p.14.)

で、ああなって、こうなって(おい!いいのか、こんな説明で)

幻覚論法
(ええと、彼の言葉では「正常な知覚であると分かった場合も幻覚と判明した場合も、その見え方そのものに違いはない」)
という考えを否定するのです。

こんどは、野矢さんの言葉。

(2)「けっきょく、事情は、知覚として呑み込んでいたものが実は幻覚と判明し、いまやまったく異なった見え方をするようになった、ということにほかならず、そこには虚実無記の立ち現れのごときものを要請する必要などありはしないのである。かくして、幻覚論法は失敗している。」(p.35.)

このあたりで、野矢さんの言いたいことがうっすら分かってくる。
野矢さんの、現象主義の理解、

(3)その第一点は、「まず私には虚実無記の立ち現れが、そしてそれだけが与えられている」ということと、第二点「虚実は単独の立ち現れそれ自体に対して言われうることではなく、そうした諸々の立ち現れの連関において初めて言われうる」(p.14.)

この理解にもとづいて、幻覚論法を批判する内容なのですね。
ものわかり悪いぞ!はぁ、はぁ、つかれるねん。

(1)と(2)と(3)の要点をまとめると、

現象主義が認めている(と、野矢さんは思ってる)第一点

「まず私には虚実無記の立ち現れが、そしてそれだけが与えられている」

という見解について、野矢さんはこれはなくてもよい、っという意見だということがわかりました。
まとめると

(4)現象主義の第一点に説かれる条件「まず私には虚実無記の立ち現れが、そしてそれだけが与えられている」は、いらない

お願いします、どうかそれを最初に一言で言ってください。
そうすれば、いくら鈍くたって、わたしもわかります。


で、ひっかかった点は何かというと、野矢さんの(4)の意見と、大森荘蔵さんの「立ち現れ理論」とがどんな関係になっているのか、よくわからないことです。

野矢さんは、大森さんを批判してると、自分では思っているようなのですが、
批判してるの?

(2))「けっきょく、事情は、知覚として呑み込んでいたものが実は幻覚と判明し、いまやまったく異なった見え方をするようになった」という野矢さんの説は、大森荘蔵さんの「立ち現れ」理論で、そのまま説明できそうですよね。

大森荘蔵さんの本は、昔読んだけど、詳細は忘れちゃってるから、野矢さんの引用だけで考えます。
すると、大森さんが、野矢さんの「現象主義の理解」を、そのまま主張しているようには読めないです。(「孫」引用などにより。)

野矢さんの「読み込み」かもしれません。
「虚実無記の立ち現れ」という言い方は、大森さんの文の中にはなくて、「すべての立ち現れはひとしく『存在』する」とあるだけだよね。

「虚実無記」ではなく立ち現れは「存在」するんだ!微妙にちがうよね。
野矢さんは、大森さんの文脈を少しはずして語っているような気がするわね。
あとで実在するかどうか確かめたいのは、野矢さんで、大森さんは、別にそんな望みはないようだわ。

ということは、野矢さんの(1)の意見は、野矢さんの「読み込み」による誤解だとすると、この考察はなくてもいいのでは?
そうすると、大森さんをあげる理由もなくなるから、頁数が減って、読者もありがたいのでは?

なぜ、そういうかというと、次のような理由です。

もし、ほんとに野矢さんの言うように
「虚実無記の立ち現れ」を大森さんが主張したとしても、
それを野矢さんが「そんなことない」と否定してしまうことはできないのではないでしょうか。

大森さんには、何の知覚もないことになってしまうからです。
大森さんは、「ものは立ち現れてる」と言ってんだから、彼には立ち現れてるんでしょう。

それをそうじゃない、っと、だれが言えるのか、っという気もする。
つまり、以下にようになるのでは。

(「『幽霊が出たっ』って思ったんです」
 「いいえ、あなたは『幽霊が出たっ』って、思ってません。
  それに、そう思ってはいけないのです。まちがいなのです」
 「だって、だって、思っちゃったら、どうすんですか?
  思っちゃったもん、どうしろ、っつうのよぉ(悲痛な叫び)」)

ただ、哲学理論としては、
この「立ち現れ」で、どこまで認識の問題を論じきれるか、そこに関心が集まることになります。
一貫して、どこまで無理なく理論展開できるかですよね。

一方、
野矢さんは「そうじゃない、虚実無記の立ち現れは想定しなくてよい」と言うなら、
自分の立場をもっと最初に言ってくれなくちゃ。
自分は、どんな風にものを見てるのか。
大森説を完全に批判できるちがう理論をもっているのか、それとも、大森説の部分的な訂正なのか。
そういうことがわからないと、批判してるのかしてないのかよくわかりません。

なんつーか、
「学説として批判してる」のかという点と、
「たんなる経験的な認識の説明として批判してる」のかという点が、
まぜこぜになっているように見えて、

わたしには、とってもひっかかるです。

それに、かつて『心と他者』を全部読んだのに、どんなことが書いてあったか、
なんかきれいさっぱり忘れとる。
野矢さんの問題が、自分の問題として実感できなかったからかも…ふう、さびしいすね。


できたら、スートラ(短文で最初に要約を出すこと)で書いてくれないかなぁ。
その場合、時間なければ、要点だけでもいいすよ。説明省いたっていいのよ。
そうすれば、ぜったい、野矢さんの考えを誤解することもないと思うんだけど。

インド哲学流、っつのになじみすぎてて、
西洋哲学流、っつうのを受け付けない身体になっちゃったんだろうか …

まずっ! … ジンギスカンキャラメルと同じじゃ。

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