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2005/09/28

ブッダさま、みごとに説いてね、とくにわたしによっ!

何もないあたま、それは悟りの境地ね、

昨日の考察の結果ですが、
ほんとは、
ほんとは
マジに得たいものですなぁ。


前に、友人と話したことがあったんだけど、

(友人)
「わかるまでは、ものごとはわからないものだから、『わかる』という言い方と『わからない』という言い方の二つしかない。何十パーセントはわかった、っていう言い方はおかしい」

と言われて

(わたし)
「わかる直前が、一番わからない。だから、そうなったら、もうそろそろ次に答えが来るなぁ、って思うんだけど。わかる前にも、『わからなさ』の段階を感じる」

と答えて、

意見が食い違いました。


20%わかる、とか、40%わかる、とかいうのは、あるかどうかわからないけど

わたしのばやい、

なにかわかる直前は、とにかく、もっともわからない。

今までもってたなけなしの知識が全部、借金の形に取られたような、きれいさっぱり何にもない状態になる。

小学校1年生のテストでさえ答えられない、っと自分で思うくらい何もない。

さびしいぃぃぃぃ~っ、何にもないぞぉ~、どうしよ、

って思ってると

それから、おもむろに、答えがやってくる。

こういう過程で、やってきた答えは、わたしのそばに寄り添って、けっしてどこかに行ってしまったりすることはない。

ほかの手段で得られた知識は、忘れてしまったり、もう通用しないと思ったり、知識ではなかったと思ったりするけど、こうして得られたものは、今のところ、出そうと思うときはいつでも出てきて有効に働いてくれるし、いろんな風に変化して、問いにあわせた答えになる。


一回これを経験すると、いつでも知識はこんな風にやってきてほしい、って思う。

けど、

こんなことはなかなか起きない。


普通の人は、見ているときには、見ていない。
普通じゃない人は、見ていないとき、見ている。

ああ、普通じゃない人になりたいわ。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
って言ってたら、ふふ、プチ普通じゃない人になったかな…

パーリ経典読んでて、進展ありっ!
イェ~エィ!龍樹論理学にも少しプラスになったかな。

『ブッダ論理学…』にも書いたけど、ほんとに、
どうして、
パーリ経典は一つもまちがっていないのか、
互いに矛盾したりしないのか、
ほんとに
ほんとに
ほんとに
不思議だわ。

人間だったら、ぜったいどっかミスするはずよね。
言い方が少しちがったり、
表現がやや揺れたり、
言葉がちょっと変わったりするわよ、
人間ならよ。

記憶が薄れたり
説明が前後したり
思想自体もやや変化したりするものよ。
人間ならね。

くり返しが多いととくに
ミスが出やすいのよ。
とばしたり
同じことをくりかえしたり
機械的になって誤用したりするはず。
人間ですもの。

だけど、経典にはそれがない。
ミスは、ちゃんと気がつかれる。
確実に教えられたとおり
順序正しく
正しい言葉で

「見事に説かれる」

ブッダも言ってるわ。

「みごとに説かれた言葉のみ語り、悪しく説かれた言葉を語らず
理法のみ語って理にかなわぬことを語らず
好ましいことのみ語って、好ましからぬことを語らず
真実のみ語って虚妄を語らないならば、
この四つの特徴を具えてる言葉は、みごとに説かれたのであって、悪しく説かれたのではない。」(中村元『ブッダの言葉(スッタニパータ)』岩波文庫、91頁)

自分で言ったとおりにしてるのね。
この文自体も、この文の内容を守ってるわね、
自己完結してるわ。

それはいいんだけど、
とうとうわたしの『ブッダの言葉』、
かわいそうに、表紙が取れちゃって、
さらに、ページが1ページずつとれてきて、

だんだん本が薄くなってるのよ。

みごとに説かれてても、ちょっと問題かな…

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コメント

>人間どものことは忘れよう。

こう言われると、ついその気になるのがエムのくせ。


そうだなぁ


忘れて生きると … いいかも。
よけいなこと考えなくて済むよね。


それだけでも、じゅうぶん良いね!
よしっ、やってみよ、っと。


迷ってるだけなのか、
それとも、
いくらかでもさとりへの道へ向かっているのか、
自分でもわからん … です

投稿: 管理人エム | 2005/10/06 08:46

生きて死ぬ事。
生き抜く事、道を最後まで、端まで歩み通す事。

人間じゃなきゃいけないって何処に書いてあるんだ!

人間じゃなくていいだろ?

エム、君をせつない気持ちにさせる為に僕がいるんじゃないんだ!

人間どものことは忘れよう。

投稿: 宮本浩樹 | 2005/10/04 21:37

煩悩いっぱいで見れば、ブッダは人間やめました…かな。

だけど、

「人間である可能性を消尽した、
道の果てまで歩む事が我々の生死の実相じゃないのか?」
という点からすると、

それは、涅槃への道、「空」の悟り。

しみ抜きみたいに、
煩悩を抜くようにして見れば、ブッダこそ人間生きました…だわ(断定)。


人間じゃなくなることが、もっとも人間として生きることか~。


自分の人生考えると

ときどき、せつなく、ときどき、ちょーうらやましいブッダ。

投稿: 管理人エム | 2005/10/02 10:09

人間である可能性を消尽した、
道の果てまで歩む事が我々の生死の実相じゃないのか?
宇宙である可能性を消尽した、
その果てまで歩む事が宇宙のあるがままの有り様じゃないのか?
それが
「全ての可能な出来事の関係の総体」である宇宙が
そのまま「空」である。
という悟りじゃないのか?
人間じゃなくなる事。
宇宙じゃなくなる事。
一切全て以外の、なにか。

投稿: 宮本浩樹 | 2005/10/01 21:56

ブッダって、そう考えると、せつないす。
人間やめました…だもんね。


韋編三絶って、宮本さんのことだったのか。
エムは、まだまだ未熟者だ。


修行が足らんぞ!はいぃ。

投稿: 管理人エム | 2005/10/01 17:05

何かを理解するっていうのは、それを理解出来なかったそれまでの自分が死に、それを理解できる新しい自分に生まれ変わるっていう出来事だよな。

一切知者である。
って事は、その、理解の可能性を全て使い尽くした、
言い換えれば、人間である可能性を消尽した、
もはや人間とは呼べない何者か、なのかも知れない。

俺の「スッタニパータ」は3冊目だよ。

投稿: 宮本浩樹 | 2005/10/01 13:55

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