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2005年8月

2005/08/29

本音とたてまえが分かれてくると

昨日の続きです。

『方便心論』の「理相違(ことわりに相違するもの)」ね、

なんとなく、わかったかも。

この短い文の中にこめられた意味の豊富なこと。
これは、たぶん、じっさいには、この通りのことが行われていたんでしょう。

バラモンが本業ではなく、国政や狩猟にかかわったり、
案外、クシャトリアの人が瞑想修行に励んだりとか。

ブッダだって、クシャトリアだったけど、禅定得意だし、ね。

『ニヤーヤ・バーシャ』の中に、出てくるのよ。
ヴラーティヤという、バラモンから脱落した人のことが。
一定年齢になっても浄化の儀式を行わないと、不浄のものとみなされて
ヴァルナ(カースト)から落っこちてしまう。
『ニヤーヤ・バーシャ』は次のように言うのです。

 「ああ、あのバラモンは、知識と徳行を備えている」と言われたとき、
誰かが言う。─「バラモンであれば、知識と徳行をそなえているものだ」と。

だけど、このような

「バラモンなら知識と徳を備えている」

という一般化した意見は

正しくない。ヴラーティヤ(脱落バラモン)にはあてはまらないから、って言ってるわ。

ふうん、アクシャパーダは、龍樹にちゃんと答えてるのね。
「ことわりに相違した」バラモン(=ヴラーティヤ)を排除したのね。
ま、筋を通したって感じかな。
しかし、これだけの短い言葉で、これだけ議論の応酬をするとは、すごい奴らだわよ。
それに、およそ関係なさそうなところで、突然出てくるし。

話しを元に戻せば、世の中、いろいろ乱れていたんだと思うわね。
乱れた社会では、必ず本音とたてまえに分かれてくるもの。

って、いうか、本音とたてまえなんて言い出すと、すでに乱れてきてるって言うことかな。
道警の裏金問題をめぐる不祥事、駒苫高校の暴力事件の不祥事…ありますわね。
本音とたてまえが見事に分離。
警察と学校について「ことわりに相違したもの」というわけね。
ありゃぁ、全部北海道だよ。

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2005/08/28

愚か者を考察してみる愚か者、だったりする?

昨日の日記を読んだ人が、
おや、今日も日記書いてないぞ、またなんか失策やらかしてるな、

って、思うかもしれない…っと、

心配する管理人は、そう思われないためだけに日記書きます。
いろいろ日記を書く理由というのもあるもんですね。

さて、特筆すべき失策はおかしていないような気がするけど、

じつは、熱っぽい。
熱でぼうっとしてるので、なんかうっとりします、だいじょぶか。

管理人という人は、子どもの頃から、熱を出す名人だったのだった。
40度~42度なんて、よくある話し。
あんまり自慢できることなかった管理人は、けっこう自慢だったのよ。

でも、小学校のとき、せんせが
「あんまり高熱が出ると、頭がおかしくなってバカになるんだ」
と、おっしゃいました。(なんで敬語だ!)

そしたら、みんな、わたしの方を向いて
一斉に「バカになった?」
と聞いたのでした。

「ううん」
と答えたわたしもわたし。
見てわからん?

聞く方も聞く方だけど答える方も答える方だわ。

さて、バカな話しはおいといて、っと。
学術的なお話でも、コホン!

と思ったけど、あれ、また、愚か者が出てきてる。

『方便心論』の中の「理相違」というところ。

「理(ことわり)に相違があるもの」というのは、
「バラモンは、王として国土を治め狩猟などを教えるものである」というようなものである。
「クシャトリヤは座禅し観想する」という、これを「理に相違があるもの」という。
このような二つの法を、愚かな者は理解せず、これを真実とするのである。
これを「相違するもの」と名づける。

変な文?いいのよ。ちょっと変わった語法なの、龍樹せんせ。
バラモンといえば、僧侶階級なんて訳されるんだから、座禅瞑想に浸ってヴェーダを学んだりするのよ。
祭式を実行しなくちゃいかんしな。

また、クシャトリアといえば、王族階級とか戦士階級とかいわれるから、国を治めるのがお仕事よ。

こんな分かり切ったインド人の常識、インド人が逆にして言うわけないじゃん、って思うでしょ。

だけどね、油断大敵よ!
こう書いてあると、龍樹の場合、ぜったいその通りのことが起こってるのよ。

ええ!っていうところで、このような過ちを愚か者はおかしているのよ。
いわれて気づくたぐいの過ちだから。だまされた気になると思うよ。

どこで、出てくるんだろ?ね。

おらも、どうやら愚か者らしいぞ。
わからんわ。

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2005/08/27

予定どおりにいきさえすれば…

ここに、日記を書いていないときは

管理人のヤツ何か失策をしでかしているな、と思ってもらうとよいでしょう。

はぁ~

とても書けないわ。
授業忘れてたなんて。
ぜったい書けないわよ!

だから、書かないから、わかったわね。
書かないわよっ!

ううっ!

だから、無料のスケジュール管理ソフトを入れたわよ!
ぜったい大丈夫よっ!

今日の仕事は忘れてないし…

だけど、頭は、「龍樹の科学」でいっぱいなんだから、困っちゃうわ。
数日前から、科学者龍樹の姿を、『方便心論』の中で見つけてしまってから、
科学者アクシャパーダとの大論争に気を奪われているのよ!

現代に彼らが生まれていたら、どんなことになってたんだろうと、ほんとに思うわ。

でも、こんなことしてられないわ。
予習するから。

今日の日記も、さっさと書いちゃって、
管理人、計画的な人生おくることにしたわ。

え?なに?
起こったことを書くのが日記だろ、だって。

いいのよ!
予定どおりにいけば、前に書いても後に書いてもおんなじよ。
(思わず、時間を考察しそうだけど…ダメよ!管理人)

管理人は仕事に行きました。
帰って、答案をつけて寝ました。

よし!
今日の日記も完璧だ!

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2005/08/25

読書の秋/妄想の秋

なにやら、巨視的な物質の世界で忙しくなると、
ミクロな細胞内部の粒子レベルでも忙しくなるようなんです。

数日前から、いろんな考えが沸騰するので、なんとなく寝てない感じがする。

「時間」「アナロジー」「量子力学」「言語の用法」「因果律」
ニールス・ボアの「相補性」「アートマン」

上のようなことについて、寝てるとどんどんいろんな考えが湧き出すので
なんか寝ながら忙しい管理人です。

困るよ、まったく。
寝不足で起きて、もうろうとおべんと作ると

あれ!昨日と同じおかずの構成だ。
やばいかも、っと思って、ご飯のところに昨日は入れなかった梅干しを入れて

変化を示す。
これで時が経過しているのがわかるはず。

息子が、おべんと食べようとしてフタ開けて

「あれっ!これ、昨日の弁当じゃん!
かあちゃんのヤツ!時間をちょろまかして
昨日のぼくの食べたべんと、今日にまたもってきたな!
手抜きだぁ」

と、思われないようにするためだい!

「何を言うか!昨日のおまえの食べたべんとではない。
なぜなら、ご飯のフタを開けなさい。じゃーん!。

この梅干しが見えないかぁ。
昨日のべんとと今日のべんとはちがう存在なのだ。」

と言えるはず…

などと、ばかなことを妄想しながら、やるべき仕事をそっちのけで
また、本を読んでしまう。

完全に破綻してるわよ、人生設計、っつうか、日常生活、っつううか。
読んでるのは、
おととい衝動買いした

ロバート・ギルモア著 高橋智子訳『量子の国のアリス 量子力学をめぐる不思議な物語!』オーム社

おもしろいのよ、困ったわ。
その前に地下鉄で、ニールス・ボアの『因果性と相補性』岩波文庫
を、読んでたせいだと思う。
通りすがりに平積みの表紙見たら、つい手にとって買ってしまいました。

ここ一週間でも、全部読んだものは一つもないけど、とにかく、ごく部分読みだけで
何冊も手をつけてるし…
ちょっと書いてみる?

最初は
『大智度論』
藤川吉美『判断の論理学』
松本史朗『チベット仏教哲学』
ウィトゲンシュタイン著 黒崎宏『『哲学探求』読解』
黒崎宏『ウィトゲンシュタインから龍樹へ 私説『中論』』
梶山雄一著『般若経』中公新書
山本義隆編訳『因果性と相補性』ニールス・ボーア論文集1
あ、そうだ!
斉藤慶典『レヴィナス 無起源からの思考』
そして
最後に『量子の国のアリス』

本の脳みそ煮込み  といってよいかと。
そして、この他に、専門の『方便心論』だの『廻諍論』だの『チャラカ・サンヒター』だの。

いくら読書の秋といっても、ねぇ、
完全におかしいですね。わたし。

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2005/08/24

時間よ!止まれ!

今週は、もうさっそく忙しくなって、火の車状態の、管理人です。
う!
論文提出の打診までいただいてしまいました。
ゴメン、ゴメン、すぐ出すわよ。

さらに、「ツッコメば、通ずの」の日記を読まれた各所より、

「そんなのんきにウィトゲンシュタインなんか読んでないで、
やることやってくださいよ」

ツッコマれてしまう。
わたしも、「ツッコメば、通ず」と思われちゃったかしら。

でもねぇ、
やらなきゃならないことがあるときに限って、
いろいろ読みたいもんがでてきたり、
いろいろアイディアが浮かんだりするのよね。

今はね、「じかん」「時間」「じかん」「時間」(これ!遊ぶでない)

すごくいい考えが浮かんでくるのよ。

時間を語る!

これはいったいどういうことだろうか?

8月24日15時54分、管理人は日記を書いていました。
8月24日15時55分、管理人は日記を書いていました。
8月24日15時56分、管理人は日記を書いていました。
8月24日15時57分、管理人は日記を書いていました。
8月24日15時58分、管理人は日記をまだ書いていました。

とってもステキな日記だけど、これはわたしの貴重な「時間」を語ったものだろうか?
4分間の貴重なわたしの時間、それが語られているでしょうか。

時系列で起こったことを記録すれば、「時間」を語ったことになるのだろうか。

否!だんじて、否! である。

「時間を語る」とは

こんなことくだくだ書いていて、
買い物に行って、郵便出して、食事の支度して、予習して、調べ物して…っという時間が、
どんどん削られて削られて

ああ、

あああああ、っと、

後悔すること!
また、徹夜かも…っと、覚悟すること!
もどってこない時間を嘆くこと!
これから先のあまりにも短いわたしの時間を呪うこと。

後悔の神さまには後ろ髪はないのよ!管理人!

書けば書くほど、状況は逼迫してきますな。
管理人の徹夜は決定したもよう…

みなさん!これが時間を語るっ!っということですっ!
(ほんとに身を削ってるわね、時間を語るために)

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2005/08/21

ツッコメば、通ず!

8月も終わりに近づき、ああ、正月がせまってきたことを感じる管理人です。
気が早い?
なんたって、雪が降ることを考えると、気がはやる。
やっぱ、どんなに住みにくくたって、どんなに寒くたって、

これがなければ、生きてる甲斐がないっ

雪が降らないときは、思うのよん。(降ったらすぐ考え変わるから)。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
さて、さて、さっそく実践中ですよ。
何が?って、やだわ、

「本を読むとき、『理解しないように』読む」っていう読書法よ。
下を読んでね(「つまるわよ、わたしの考え」参照)。

ウィトゲンシュタイン・黒崎宏 訳・解説『『哲学探求』読解』(産業図書)に挑戦!

なかなか調子いいすよ。

すんごく悪い読者やってますから。

ところどころつまみ読みだし、

しかも

すぐ
「それ、ほんとにそうなの?」
「どうしてそんなことがいえるのよ?」
と、ツッコミ続けてますわ。

だけど、本がよすぎたかしら。
いやん、わかっちゃうのよ…まずいわね。

それに、黒崎宏氏の、ひいてる下線とか波線とかが

ものすごく説明になっちゃうので、

確かに、ウィトゲンシュタインの『哲学探求』をよんでるんだけど、

耳のそばで黒崎氏の説明が聞こえる。

はっと、気づくと、傾聴しちゃってるから…まずいわよ。

ツッコミ!ツッコミ!って、自分をはげましながら読んでる

ってのもなぁ、
本末転倒のような。

でも、たぶん、これでいいんだ。
今まで何度も読んだのより、一番よくわかるもの。

『哲学探求』がはじめて「わかった!」と思った管理人だった。

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ウィトゲンシュタインは、これ、確かに、インド哲学で言うと、ヴァイシェーシカだわね。
下宿人さまの御説でもあるけど、わたしも、前から『論理哲学論考』見てなんとなくそう思ってた。

でも、『哲学探求』も純正のヴァイシェーシカだわ。
下宿人さまにこの本お勧めしちゃうわ。もう読んだかもしれないけど。

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2005/08/19

つまるわよ、わたしの考え!

最近、心境の変化、ってヤツですわ。

「本」について、いろいろ思うことがあるの。

この世の中には、つまらない本  と  つまる本  がある。

つまらない本は、つまらない。
だから、頭の中に詰まらない。

つまる本は、つまる。
だから、頭の中に詰まっちゃう。

たくさん詰まるのはいいんだけど、詰まって出てこなくなっちゃうわ。
だから、だんだん、頭が煮つまるのよね。

って、ことは、つまりっぱなしの頭だと、この世の中、ちっとも  つまらない!

つまるところ、つまる本は つまらない というわけ。


じゃ、つまらない本はどうかっていうと、
つまらないもんだから、流れていくわ、どんどん。

流れていった先で、つまるのね。そして、つもるのよ。
つもったまま、つまらないので忘れられ、ある日、つまれる。

つまれると、花のように人の頭に飾られる。ファッションとなった古本は  つまるわね!


そうか! 本というのは、どんな本でも 、
つまる  部分と、 つまらない  部分 をもってるのね。 

そういうことになると、本の読み方というのも一つには決まらないわけか。

いつも、著者の言いたいことをしっかり理解しよう理解しようと、
努力してきたけど、そういう読み方はいつも正しいとは限らないわねぇ。


今度、著者の言いたいことをまったく理解しないようにしようしよう、
って読んだらどうなるかしら?

きっと新たな展開があるかも…

やっぱり考察はするもんだわ。
よしっ!ほんきでやってみるわっ!


ああ……ばか…

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2005/08/18

これ、遊ぶでないぞ!管理人

「明日からがっこが始まる」と息子が、突然のように言う。
おお、おお、おべんといるんだぁ。

夏休みなんて、夏休みなんて、結局一日しかなかったじゃん。
夏休みをかえせー

っと叫びたいけど、もともとなかったんだわね。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
さて、今日、図書館に行く。

検索してテキトーに『国訳大蔵経』論部第二巻、ってのを借りてみたら
『大智度論』だった。それも途中からだ。

となると、わたしの推理では、ワトソン君、
きっと、論部第一巻ってのも、『大智度論』だわね、この分じゃ。

帰って、思わず読んでしまう。
巻の第二十二から始まっとるわよ
まるっきり途中ですね、はは。

ま、いいわよ、何でも。

「巧出(こうしゅつ)」ということが書いてあるわ。

「この法は巧出なり」だってよ。

「巧出とは、二諦に相違せざるが故なり」って書いてある。

はは~ん、「縁起」のことね。二諦ってのは、世俗諦と第一義諦だってあるからね。

わたしの本で言えば、「生ずる道」と「滅する道」のことだわよ。
「巧出」って、まんま理解できるわね。
「巧みに出てきたもん」なのね。
如来が出てても出なくても決定していて確定してる、といわれる「縁起(因果律)」のこと説明してるのね。
「巧出」ね、いい言葉だわね。

しかし、まぁ、いつも思うけど、

『大智度論』くらい、わかりやすい論書はないわね。

経典や論書って、わかりにくくてむずかしいっていうイメージがあるけど、

この『大智度論』だけは、全然ちがうわ。
普通にすらすらわかるから。

どこ読んでも、これだけわかりやすいこと書いてある本て、ないように思うんだけど…。

すごく現代的で科学的。
ぜんぜん荒唐無稽じゃないし。
説明は合理的だし。

って、思うのは、わたしだけかな?

だから、次のような考えが浮かぶのよ。

どうして『大智度論』の作者は、龍樹でないという説が出てくるのか、ほんと不思議だ!

龍樹しか、こんなの書ける人いないでしょ!
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
あ~ぁ、また、趣味の世界に遊んだな。
ほれ!仕事せんか!管理人!

それにしても
『大智度論』を「趣味」の本にする、ってのも…

微妙にビョーキかな?

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2005/08/14

答えを言いなさい、ほれ、早く言わんかぁ!

盆も正月もない暮らしをしている管理人でございます。

今年は、ほんとに夏休みっつうもんがない。
昔は、子どもが「夏休みの計画表」を作る段階で、
夏休みがこれからやってくることを知ったのだった。

そこに描かれる理想の夏休み!イデアの世界!
プラトンを知る息子は、イデアはけっして現実の世界にはないことを知ってて、
理想を実現する、っていう姿勢を一つも見せずに夏休みを終えるのであった。

だから、夏休みはとっても楽しい夏休みだったのだった。

なんて話しをしたいわけではなく、
昨日、ようやく我が家で唯一の休みがとれたという話しをしようとしたのでした。

一家全員が、家にいて出かけなくてもよい。

よし!どっかいこ!

なんとなくあまのじゃくな発想ではありますが、んでもって、
コンサドーレのサッカーを見に行ったのだ。
SA席です!いつも(というほど行ってないけど)のB席ではなく!

つまり、長方形の長い方の辺です(自慢してます、もろ)。
短い方の辺はB席で、ゴール裏とかサポーター席とも言われます。
相手チームのゴール裏は人が少なくてのんびり観戦できるのよ。いつもはそこです。

よかったです!席が、…あ、ちがいました、試合が、でした。勝ちましたです。
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

じゃ、書くこと書いたし、満足したから、今日はこの辺で。

おっとっと!待ってくれ。昨日の答えを言わんかい!
何のために今まで我慢して読んできたと思ってるんだ!

という読者の心の叫びが聞こえたような気がするわ。

そ、そうね!悪かったわよ。じらすつもりはないのよ(ちょっとしか)。
そんなに怒らなくていいじゃん、ちょっと遊んだだけなんだしさ。
じゃ、いくわよ。

心によって心を知る

この例としてあげるにふさわしいものは…

今までのお話の中に答えがあるのがわかるでしょ。
え?わからない!
やだわ!冗談言っちゃあ。

わたしが、あなたのハートを確実にとらえてきたのは

ただ一つ!

「疑い」

これですよ。
ちがいます?

話しの中につじつまのあわないことや説明不足なことがあれば、

まじめに聞いてる人の心には、共通して

「?」っていう心が生ずる。

それは、たいてい一斉に起こる。
そして、その心は、話し手の心にそのまますぐ伝わる。

「?」って言ってるぞ、ってね。

話題が共通していたり、同じ状況にある人たちは、

心によって相手の心を知る

ということが起こる、とわたしは主張します!んがっ!

管理人!こわいです!

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2005/08/13

他人の心わかります

本日、素数の歌さまのコメントよりいただきました問題

「他人の心は知られうるか」

を考察したいと思います。

というよりですよ、哲学者諸君!いったい何だと思っとるのかね、他人というものを。
本気で言ってるのか、いつもこの問題見ると悩むんだわ。

わかるに決まってるじゃん。
いや、わかるに決まってると思って暮らしてるに決まってるじゃん。
いや、わかるに決まってると思って暮らしてるに決まってると決めてるじゃん。

たとえ哲学的には「他人の心は知られない」という結論に達しようとも、
実践的には、上の三つの文のうちどれかを信じているんじゃないかと思うわけです。

じっさい、わたしの観察・考察したところによりますと、

他人の心はある場合とてもよく知られます。それは、自分の心とまったく同じようにです。

例えば、他人の歯の痛みは他人のもので、自分は痛くありません。
でも、うう、イタイだろうなぁ、って自分の歯の痛みを思い出したり、想像したりします。
顔をゆがめている様子を見て、知るわけです。

歯の痛いのを
見て知る

同じように

泣いている人を見て、笑っている人を見て、怒っている人見て、そうと知ります。

泣いている人の悲しみは、その人のもので自分のものではないのです。

が、

ときたま、その人の悲しみをそのまま自分の心が感じることがある!
(まったくの珍説ですが、マジな珍説です)

それは、いつでも起こるわけではなく、まれにしかやってきませんが

心によって心を知る

っていうのが、起こることがある。

何?疑うんですか?
胸に手をあてて考えてみてよ。

その人の喜びがそのまま自分の喜びになるから、
甲子園は盛り上がる!
その人の苦しみがそのまま自分の苦しみになるから
戦争は悲惨なものになる!

このあたりは、まだ疑う人もいるかもしれない。

そんなこと言えるもんか。
他人の喜びが自分の喜びと同じだってどうしてわかるんだよ、
証拠見せてくれよ、おい!

こう思った人いませんか?
思った人がいたとしたら、わたしはあなたの心を「ネット心」によって知ったことになりませんか。
ちっ!詭弁だぜ!それにだいたい「ネット心」ってなによ?

こう思った人いませんか?
思った人がいたとしたら、わたしはあなたの心を「ネットでつながるネット心」によって知ったことになりませんか。
はは~ん、きっと続くでしょ、この話!「ネットでつながるネット心」ってなによ、ってぐあいに延々と。

はは、あたり!
みなさんが、
「ああ、わかったわかった!他人の心は知られますよ、そう言えばいいんでしょ」
って根負けするまで続けられるけど、大人げないので止めます。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
でも、チョーマジにいうと、

「心によって心が知られる」というこのことが、確実におこると断言できる場合が、

わたしの経験では一つだけあります。一つ見つけました。

どんな場合でしょう?

考えてね。答えは、明日よ。

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2005/08/11

まずいですか?まずいようで…

おととい

「なんかまずくない?
こういうこと考えるのって…」

と書いたわたしですが、
ずんずんまずい方向に進行中。

「やっぱり、まずい…」として、シリーズ化決定しようかと思うくらいだ。
別の考えも浮かんじゃったからですわ。

自分から古池に飛び込むカエルのように、
自分からわざわざ古い偏見にとらわれに行くのが(哲)学者じゃないか、

って考えをさっきから消そう消そうと必死なんだけど
出ていかないのよ。

誰か「あなたのそういう考えも十分偏見だと思うよ」っていってくれるとうれしいけど…

うれしいかな?
うれしくないか

結局自分で定義づけた「哲学者」の典型が、自分、ってことになるんだわね。

自己完結してる、ってとこは、いちおー、すばらしい(?)と思うけど、
結論は、ちっともうれしくない!わ。

それに、この考え思いついたの、自分をみてて思いついたんでなくて、
他の人みてて思いついたんだから…。

めちゃ、まずい…
めちゃくちゃ、まずい…
あまりにまずいので、仮止めの封印するぞ!

なんかひとりでもがいておりますが、
それもこれも、ブッダの論理学を知ってしまったおかげさまでございます。

ブッダは、悟ったあと、解脱の楽を感じつつ7日間結跏趺坐していたそうな。
わたし、本を書いてから出るまで7ヶ月ボケッとブッダの論理学の中に浸っておりました。

隣で、何だか知らないが、ひとり奮闘してる龍樹眺めて、
「そんなにかりかりしないでさ、こっちきてお茶でも飲めば」
って言ってたのよ。

本出てわかりました。
かりかりしてた理由が。

『方便心論』の中で、
マンゴーの実(仏の正法)を守るために荊棘(とげとげいっぱい)の林(龍樹論法)を張り巡らせるのだ、
と言って、
論法を造ったわけだけど、

この龍樹の論法というのは、

ブッダ論理学をたんに変容させたものにすぎない、ただそれだけ。

ある意味、自己完結してる。

『ブッダ論理学五つの難問』の中では、たぶん、みなさん、そんなにとげとげ感じなかったと思う。
現代論理学を批判したので申し訳なかったけど、
「すでに業界内部言われている批判だ」という意見もあるように、
そんなに痛手ということもなかったと思う(希望的観測)。

でも、ブッダの論理学をエッセンスだけでも書いちゃったんだから、
このブッダの論理学を外敵から守る必要も生まれてくる…かもしれない。
デリケートだから、ブッダの論理学は。
とげとげ論法もいるようになるかしら…願わくは、なしで済ませたい。
わたしも、うれしくない結論、自己完結へといくことになっちゃうし。

ブッダは悟ったあと何してたんだ、という疑問のある方もいらっしゃるかと思いますが、
こりゃ、悟ったあとのケアの方がめっちゃたいへんだったろうということを、しみじみ実感中。

奥歯にものがはさまったような日記になっとりま。


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2005/08/09

哲学者ってヤツは…

哲学の講義で
夏休み前に、前期の試験問題出して、
「夏休み中かけて考えて力作を仕上げて答えてね」
と言っておいた。
そしたら

「せんせ、自分の書いたの見てください」

と言われたので、

メールアドレスと住所を教えて、

「送ってくれたら添削してあげる」

と言ったら、ほんとに何人か送ってきた。

今の学生さんて、まじめだなあ。
一生懸命考えてるし、えらいわ。

去年なんかすごいのがいくつか出てきてビックリしちゃったわ。

去年は「論に甘いところがあればツッコミ入れるから。わたしのツッコミ、かわしてよ」と刺激したら、
かな~り対抗意識もやして、マジでツッコミかわそうと相当すごいの書いた子が何人かいておもしろかった。

哲学の中にも競争原理みたいのが入るんだな、って思って。
ときたま、そんな子がいて楽しい。たいてい男の子だ。
哲学の動機は、「よおしぃ!せんせに負けるか!やってやる」なんだけど、
そんな不純な動機でも、そういう子が集中すると、あっという間に哲学最前線までいっちゃうから、ほんとおどろくわ。

ナーマギリの神さま見たな!って子もいる。
書いてるもんみるとわかるわよ、わたしだってさ。

こういう体験を何度もしてるとね、
自然に浮かんでくるのよ、こんな考えが…

この世で一番頭悪くて感覚鈍い人がなるものが、哲学者なんじゃないか、って。


なんか、まずくない?
こういうこと考えるのって…

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2005/08/07

ナーマギリの神さま

イマイチ、疑われている本『世にも美しい数学入門』

これから引用すると、ますます疑われそうだけど、インド関連のお話なので、いいかな。

数学の天才ラマヌジャンが毎朝新しい定理6こづつつくって、ハーディ教授のところにもっていくお話が書いてありました。

ラマヌジャンについては、詳しい伝記も読んだことがあるし、論理学の本の中でもでてきたことがあるので、わりとなじんでる人です。彼にまつわるエピソードで必ず言われることがあります。

天才の彼は、そのすばらしい定理の数々をどうやって見つけていたのか。
彼が言うには
「夢の中でナーマギリの神さまからおそわって、起きたらその公式を書きとめているんだよ」

いつもこう言っていたそうです。
ここで、問題になるのは、この話いつも

「へぇ~、そんなことあり?そんなわきゃないだろがぁ。」

って、感じがつきまとって話されるということです。

インドの文献長く読んでるとわかるけど、これまるっきりそのまんま、ほんとだと思うよ。

つまり、知恵の極致というのは、案外無意識に近いんだよね。
インドの人がいう「無分別知」ってのが、そうだと思うけど、それだけが真実なんだ。
「有分別知(概念知)」は、普通のみんなの知識だけど、これに至るとミスを犯すんだよ。
だから、わたしやあなたやみんな間違うわけ。
そんな有分別知だけでやるから、1年に一個の定理がせいいっぱいなんだと思う。(あ、すみません、F原せんせ)

論理学で、この話が出てくるのは、「発見の文脈」という話しのときです。
発見するときには、天才のひらめきみたいなもんで見つけるから、そこには論理は存在しない。
だから、すばらしい定理ができる理由をあげるとき

ナーマギリの神さまが現れたから

というのは、理由にあげてはいけないと言われるんだわ。
これは「発見の文脈」だからね。つまり、たまたまでしょ、ってわけ。
だから、正しいことを示す「根拠づけの文脈」で理由を語りなさい、っていうのよ。

昔はね、この話に納得してたのよ。
なるほど、そうだよなぁ、神さま出てくると定理が出てくる、ってのはおかしいよな、って。

愚かだったわ。
まったく。

ナーマギリの神さまが出てくるようになったら、確実に新しい定理が生まれてくるに決まってるじゃん。
これは、定理が生まれる確実な前兆なのよ。

だってね、真理というのは、自分の中から絞り出すもんではないからだわ。
絞り出す苦労の果てに疲れ切った頃
ふいに向こうからやってくるのよ、ほとんど意識してないときに。

「ナーマギリの神さまが現れたから」

しかし、まぁ、彼を信じる人には、これほど確実な論拠もないけど、
彼のことを知らない人には、これほど嘘くさい論拠もないわねぇ。

おもしろいもんね。同じ一つの文なのに、同じくらいの確度で、真になったり偽になったりするなんて、ね。

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2005/08/06

ホンモノって?

またメタルむき出しになっちゃった。8月に入って何も書いてないからなぁ。
ゆお~し、むりやり書こ!
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どんなことでも、その道で優れた人というのは、いるもんだわ。
ホンモノとそうでない人というのも、案外わかってしまうしね。

なんの話しかって?
掲示板2084や2089あたりのことに関連してね。
普通の人は、専門家の仕事はわからないというけど、案外そんなもんでもないような気がするわね。

どんな分野の人でも、ホンモノの仕事してる人は、他の分野のホンモノの人がすぐわかる。
そして、そうでない人はホンモノとホンモノでないものが見分けがつかないんじゃないかと思うわ。

そうではない人とはどんな人かというと、言葉の上だけでものを考える人よね。現実というものを見ずに、いつも言葉だけにかかわっているとだんだんホンモノじゃなくなるわ。

学問の世界で、話しをはじめるときに、例えば、哲学だったら、哲学というのは、フィロソフィア(知を愛する)という言葉を訳したものです。なんて感じで、言葉についてのみくだくだ語っているような場合だわね。

メタ言語(言語について語る言語のこと)の世界だけで満足している人はホンモノじゃないと思うわ。言葉にのみこだわる人。

対象言語(対象を語る言語)と対決しなくちゃね。
そして、対象言語と格闘する人は、つまり、対象そのものを語ろうとするから、いつも自分の身を削ることになる。
ま、自分の命がかかるわけ。

つうことは、命がけのものでないと人は受け入れない、ってことか。
人って、あんがい残酷なものだわねえ。

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