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2005/07/18

A Logical Mystery Tour へようこそ

ブッダ・ロジカル・ワールドにお越しのみなさま、ようこそ。

入り口は、『ブッダ論理学五つの難問』。

中に入っていくと『方便心論』のラビリンス(迷宮)。

そこを必死で抜けると、そびえ立つ『中論』の岩山。

死にものぐるいでそこを突破すると

夜盗の出没する恐怖の『廻諍論(えじょうろん)』の崖の道。

生きて抜け出せたものだけが、ブッダ・ロジックのすべてを手に入れられる。

何か、こんな感じでしょうか。ほんとにほんと、ズダボロ・ツアーにようこそ。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

さて、みなさま、『ブッダ論理学五つの難問』の関して
インターネットのいろいろなところでたいへん好意的な書評いただきありがとうございました。

それで、御礼をかねて、さっそく読者のみなさんにお願いを。

さて、この本の主題
「ブッダが論理学を説いていた」
ということ、
みなさん、納得していただけたでしょうか。

本の最後にある質問には絶対ちゃんと答えてくださいませませ。

質問「みなさん、これはダンマと言えるでしょうか。」

ここは、しっかりお答えください。
疑問の個所はビシバシチェックをいれて、
作者の論にミスがないか、厳しく厳しく検討してから答えてね。
(そんでもって、あったら、教えて…こっそりね)

考察を手抜きしちゃダメ!
ちゃんとやってよ。
(だんだん読者に向かって命令調になってきたな。わりい、わりい。)

だって、ね、わたしのみつけたブッダ・ロジック、まだあるんですもん。
話してないこと、まだたくさんあるのよ。
だから、次に進むためには、読者のみなさんのお力が必要なんですわよ。

ブッダがどれだけ天才か、ぜったいみなさんにおみせしたい!
(と、なんでわたしがこれほどブッダに入れ込まなきゃならんのか、
って気もするんだけど…)

だから、納得したら「よしっ!」って言ってね。
それを合図に次に進むわ。

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コメント

今自分の文章を読んでみて、「 」の付け方が間違ったと思いました。中程に


>そこで、対比させてみたらわかりやすくなるかと思って、とくに対立する人にしぼって哲学史を眺めわたし「影響力」の大きな人に注目してあげたのです。この「影響力」というのは、現代人にとってということです。

とありますが、

そこで、対比させてみたらわかりやすくなるかと思って、とくに「対立する人」にしぼって哲学史を眺めわたし影響力の大きな人に注目してあげたのです。この「影響力」というのは、現代人にとってということです。


のように訂正してください。ブッダと協調する考えの人はあげなかったというように考えてもらうといいと思います。
なんだか、論文の校正してるみたいだわ。
すみませんね。

投稿: 管理人エム | 2005/07/22 10:47

ブッダの六つの感覚器官とその対象は、センス・データのように実在論的ではないのですが、でも、目で色形を見たり、耳で音を聞いたり、…というのは、みんな認めますよね。ちょっと観念論的かな、ブッダは。


「二つの世界観の対立」を拝読。う~ん、西洋だなぁ。こうなるかぁ…こうなるなぁ…これしかないかぁ…と。
「ある」からはじめちゃってますもんね。「物質」も文句なしに認めちゃってますもんね。選択肢が、少なくなっていきますよね。
「ない」からはじめるのもありでは?でも、虚無論は嫌われ者だからなぁ。これはむずかしいですかしら。また、世界は恒常か、あるいは、第一原因(神)を認めるか、という選択肢を出していますが、「原因なし」ってのもありますよね。偶然ぼこっと生まれたというのも、選択肢としてはありうるかと。ダメですか。
すみません。勝手に妄想中です。ブッダは、『梵網経(ぼんもうきょう)』で、形而上学説を六二に分類してますが、今度これを丁寧に分析してみようと思っているところです。比べてみますね。


弁証法についても拝読しました。このあたりは、よく勉強したいところです。
ありがとうございました。


さて、第三問。ほお、スピノザが!たしかに、言われてみるとそうなのね。「着目してなかつた」という答えでございます。m(_ _)m
西洋哲学から見ると、スピノザは重要で落としてはならない思想家なのだと思いますが、ブッダの思想や論理学を伝えることが目的なので、その目的のために西洋の思想家は「贅沢に」取捨選択させていただきました。自分のとりあげる問題と重なる人にしぼらないと、話しがぼけてしまいますのでお許しを。


西洋の哲学者であげたのはアリストテレスとヴィトゥゲンシュタインとデカルトくらいですか。はじめは、アリストテレスやデカルトもあげていなかったのです。が、西洋の哲学を一般的な教養とする現代人には、ブッダの思想はわかりにくいかと思いました。そこで、対比させてみたらわかりやすくなるかと思って、とくに対立する人にしぼって哲学史を眺めわたし「影響力」の大きな人に注目してあげたのです。この「影響力」というのは、現代人にとってということです。
その時代、その時代で、注目され読み直される哲学の巨人はたくさんいると思います。「今のわたしたち」にとって、必要で問題とされるべきとわたしが判断した人をあげました。えらそうに使ってごめんなさい。この哲学者の選択とそれを提示するその仕方が、すでに「わたしのブッダ理解」を示しているとお考えください。


それに、じつは、引用していただいた文章は、仏教研究内部の他の問題も抱えております。ここには、ちょっとわたしも目立たないように仕込んだものがあるのです。(あやしい表現です。)で、仏教研究方面に気を奪われておりましたので、西洋哲学の方から何か言われるとは夢にも思っておりませんでした。いま、ご指摘いただいて、仕掛けに気づいた人もいると知りビックリしています。真実の言葉には力がありますね。ここには、ブッダの言葉を練り込んであります。


古代と現代しかとりあげなかったのは、どうしてか、自分でも考えてみましたが、これらの時代は西洋でも「神」とかかわらなくても、ものがしゃべれるからではなかろうかと思いました。デカルトはどうだと言われるかもしれませんが、【難問4】では、それでもわずかに「神」も取り上げましたので、勘弁してください。


「神」の問題は、また別にしっかり論じるべきと思います。ここは、わたしも、考え中です。神さまだって、証明しやらないと存在できないんだぞ!っと、西洋の人たちに言いたい気持ちもあります。かわいそうです、神さまが。あ、話しがずれてます。
「考え中」だの「勉強中」だのという答えばかりですみませんが、こんなところです。

投稿: 管理人エム | 2005/07/22 10:31

>わたしが念頭においた認識論の世界とは、この目で見て語れる世界のことです。
>ブッダが「一切」と言ったのは、心も含めた六つの感覚器官で捉えられる世界なのです。
 
 と言はれますと何やらセンス・データのやうなものを思ひ起こしてしまひ、また「心」といふのが不勉強でよく分からないのですが、私の單なる知識不足もあると思ふので保留致します。
 
>現代科学が、認識過程を語りうるとして科学的な説明を提示することによって、
>ある意味哲学を食い尽くし、哲学を科学のはした女としてきたのはご覧になるとおりです。
 
 これは同感です。
 
>わたしたちは、これらに対しては正邪ではなく優劣で判断するでしょう。
>どちらのシステムが人々を幸せに導くかで、選べると思います。
 
 ではその判断は事實の名においてなされるのではなくて、價値判断として私たちに委ねられてゐるといふわけですね。
 自分の方の話をしてなんですが、なんだか眞理を押し附けてくるかつての自称マルクス主義者たちとは對照的だと感じました。
 
上述の例は私の師と仰ぐ三浦つとむ(1911-1989)の本からとつたものですが、ブッダも「黨派性」を持つ主張をしながら、それをドグマとしては出さず、あくまで人々が結果として承認すべきものとして提出したわけですね。
「二つの世界観の対立」
http://www.geocities.jp/kusyaku_niken/BENKA/PRE-1-sekaikan.html#B010201

御囘答ありがたうございました。
 
 
 
さて、後は極く外面的な感想ぐらゐしかありません。
 
「因果関係は現実の世界を適切に描写する。それは、時を語り、人間を語り、事象を語る関係だからである。因果関係を語れる人は、人々に現実の世界がどのようであるかをあるがままに示すのである。だから、人はだれでも聞けば納得せざるを得ない。教えさとすような調子に聞こえるのも無理はなく、それゆえに倫理的に響くのである」(前掲書、p.90)
 
 「スピノザですやん!」とこの箇所を讀んだときに思ひました。
 と申しましてもワタクシのスピノザに關する知識は『知性改善論』及び上野修氏の『スピノザの世界』(講談社現代新書1783)ぐらゐなのですが。
 從つて前掲書p.129以降についてはスピノザと同様に事物の本性をありのままに觀ること、ただ虚心坦懐に事物の必然性を認識するのが大事だと説かれてゐるのだと理解しました。
 尤もスピノザの場合は根本に自己原因者たる神(=自然)を置き、それが變化しないもの、從つて天地創造もしないものとして示されるので、後代ヘーゲルから無世界論者であり生成變化を説けなかつたとして批判されるわけです。ヘーゲルの場合は最初に存在と無との大矛盾を置くことで變化を含む一切を説明しようとしたわけですが、これがまた神祕的だと言はれてマルクスらに批判されます。マルクスらは變化を矛盾としてみるといふヘーゲルの方法を受け繼いだが、脱ヘーゲル學徒ラッセルらは逆に「矛盾を肯定するなんてワケワカラン」「なんだよ『否定の否定』って?」として捨てた、といふのが私の大雜把な觀方です。
 しかし、この西洋近世(なぜか哲學史では「近世」と言ひますが)の歴史は西洋がブッダの論理に大きく近づいたときだと思ひます。


そこで第三の質問ですが、なぜ西洋の論理學として古代と現代しか取り上げなかつたのでせうか?
 ヘーゲルやらマルクスやらは、專門外から語るのは厄介だとしても、スピノザは注目してしかるべきだと思はれます。「着目してなかつた」と言はれればそれまでですが、いささか殘念でしたので質問します。
 
タダモノたちのつぶやき
http://www.geocities.jp/kusyaku_niken/

投稿: SNG | 2005/07/22 00:50

なるほど!「そうですね」と言ったらいいのか、「そうですか」と言ったらいいのか、わかりませんが、おもしろいなぁと思いました。
SNGさまとわたしのちがいが出てきてしまいました。これは認識論についての見方のちがいと言えるかもしれません。

わたしが念頭においた認識論の世界とは、この目で見て語れる世界のことです。ブッダがそう言ったので。ブッダが「一切」と言ったのは、心も含めた六つの感覚器官で捉えられる世界なのです。だから、見たり聞いたりしてわかるものについては、お互い、まぁ、ふつうに語り合うことができます。
その語り合える世界について存在論的に組み立てたのが十二因縁説です。(この説明は、うまい説明なのかどうか自分でも疑問ですが。)しかし、他の人は、自分の認識論的存在論体系として出せる学説がありません。自分が認識したもの(例えば形而上学説)を語るだけです。いかにして認識はおこるか、どのような仕組みで認識は成立するか、それを語れると形而上学説を取り込めると思います。
現代科学が、認識過程を語りうるとして科学的な説明を提示することによって、ある意味哲学を食い尽くし、哲学を科学のはした女としてきたのはご覧になるとおりです。(こう思うのはわたしだけ?)
このような科学に対抗しうるものは、同じような認識論的存在論体系でしかありません。形而上学説は、正邪を争いますが、認識論体系の場合、優劣を争います。
ブッダは、2500年前に、現代科学のニューロンやらシナプスやらを使った認識のシステム説明と同じようなシステム説明を開発したのです。苦しみの起こる過程と消えていく過程です。
わたしたちは、これらに対しては正邪ではなく優劣で判断するでしょう。どちらのシステムが人々を幸せに導くかで、選べると思います。

ところで、ブッダは、科学が哲学にしたような乱暴なことはしませんでした。本当は他の人の形而上学説を飲み込んでしまえるのですが、そうせず、自分の体系をそっと出したのです。「他の人の説は苦しみにいくけど、ぼくのはちがう。他のよりいいだろ」と言ったのです。優劣を決めるのをわたしたちにゆだねたのだと思います。えらいなぁ、お釈迦さんて。あ、すみません、つい感動してしまいました。

ご説明になったでしょうか。まるっきり自分の文脈でお話ししたのでうまくご説明できたかわかりません。「みなさんも、いいかどうか考えてください」と本にも書きましたが、このあたりは、もっと考えてみなければならないところなので、あまり自信もって言えないのです。すみません、さしあたりということでよろしくお願いします。

投稿: 管理人エム | 2005/07/21 08:28

う~ん、でも「時間を抜く」かどうかは、
形式論理學においては最初から捨象されてゐるので、
どうしても内容の話になつてしまふのだなといふ印象です。
先生は形式は同じだが、内容は異なるといふ主張なんですね
(内容の話は存在論・認識論の話につながるのでせう)。

《以下感想》

 形式論理學で時間が扱へないかどうかは、論理を適用する
訓練が足りないせゐもあつてか實感が湧きにくいですが、
半ば意圖的に扱はないやうにしてゐるやうには思ひます。

>現実に雨から雲が生ずることを経験しないから
>pとqは入れかえてはいけない

「現実」は形式論理學では扱はないもので、
これは現代論理學の對象無視から來るものでせう。
「時間を扱はない」のは、
時間的存在としての認識する者と、
時間的存在としての認識されるモノ(對象)とが
時間的に一致してゐる場合のみを扱ふからで、
前者と後者との時間が喰ひ違ふ場合(過去或いは未來の關係)が
對象を無視することから捨象されるのだと思つてをります。
このやうな視點では飛んでゐる矢もアニメーションのコマの
やうに切り刻まれるだけです。

《感想終はり》

御回答ありがたうございました。
   
   
   
 
 
 
 
では、第二の質問です(・∀・)。

前掲書p.126に
「認識の射程内で存在を扱うのであれば、とりあえず認識されたものは何でも語りうることになる」
 
 まづ、私はこの箇所を次のやうなことだと解釋しました。
 世界が神によつて創造されたと主張する者と世界は永遠の昔から存在してゐたと主張する者がゐるとしませう。
 前者は自分は啓示によつて神の創造を直觀したのであり、後者を啓示がまだ降りてをらず、悪魔に誘惑されてゐるから神を否定するやうなことを主張するのだと説明します。
 一方、後者は前者は自分の神秘體驗を語つてゐるに過ぎず、前者の言ふ啓示も、一種の幻覺であると説明します。
 
 いづれの主張も内部では整合性があり、それぞれ認識論も持つてゐます。つまり、前者はなぜ無神論に陷るのかを説明できますし、後者はなぜ宗教にハマるかを説明できるでせう。ですから、對立した超經驗的な存在についての主張を持ちながら、互ひに自前の認識論で相手のことを説明できるわけです。
 
もし上の引用がこのやうなことを意味してゐるのであれば、下の記述はあまり妥當なものとは思はれません。
 
「[……]ブッダは好みのまま何でも語りうるということになる。例えば、誰と論争しても、ブッダは自己の体系のなかで自在に語って相手の説を否定できるのである。他を圧倒する必殺の論法を手にしたも同然である」(前掲書p.126)
 
 確かに私が引き合ひに出した兩者は相互に相手を否定できるのですが、いづれも他を論理的に壓倒することはできないと思ひます。兩者はどこまでも平行線をたどりますし、「それは相手がドグマに支配されてゐるからだ」と互ひに思ふでせう。兩者とも超經驗的な主張をしてゐるといふ意味でドグマを主張してゐるのだとすれば、經驗に裏附けられたことしか語らない不可知論者の登場です。
 
かうしてみると「あらゆるものは認識される」といふのも、
他の立場の人々からしてみれば、
「ブッダさんがさう考へてるだけでせう。さう考へてしまふ原因は私たちの認識論ではかう説明できるわけで……」といふことにならないでせうか?
 ブッダが他を壓倒せず、またしようとしなかつたのは、自分で枷をハメたからではなく、最初から壓倒できないことを見切つてゐたからではないでせうか?

投稿: SNG | 2005/07/20 23:21

あ、すみません。お返事が遅くなってしまって申しわけありません。はい、そうですね。設定されていないというところにあるといってもよいかと。
¬(¬p∧q)をとりあげておられますね。
現代論理学でも、一見「雲がないのに雨が降る、ということはない」と因果関係のように読みうるとおっしゃるかもしれませんが、ちょっと変えてみましょう。
現代論理学の約束に従い¬(q∧¬p)とすることができますね。そうすると、「雨が降っていてかつ雲がない、ということはない」と読むことができます。(時間抜きですね。あるいは同時でもいいかもしれません。)
おや、q⊃pになってしまいました。そして、この⊃も、時間抜きです。
q⊃pは、含意のところで述べられていますから、【真理表6】とはちがいます。
ブッダの論理学では、まず、何よりもまず、「時間」を語るのです。時間をふくんだ関係で、この世に成り立つとわたしたちが考えるもの、それは因果関係でしょう。それは、【真理表6】で示されます。pとqは入れかえてはいけない。現実に雨から雲が生ずることを経験しないからです。これは、ブッダの論理学の柱です。これだけが、思惟の領域にないもの、如来が出ても出なくても確立した法とブッダが述べたものです。他の関係は、思惟の領域にあるときは、現代論理学と同じように時間を抜いて考えることができます。考えているときは、つねに「同時」であり「今現在」だからです。
質問していただいてありがとうございます。どうぞご意見をお寄せください。掲示板の方でもけっこうです。おそくなってすみませんでした。

投稿: 管理人エム | 2005/07/20 20:57

はじめまして、SNGと申します。

つまらないことですが、質問させて頂きます。
『ブッダ論理学五つの難問』のp.43に、
「命題論理学の演繹的な推論の中には
【真理表6】で定義される接続詞は存在しない。
したがって、世界のできごとの中でこの接続詞に
対応していることがらは語ることができない」
とありますが、
この眞理表は¬(¬p∧q)で定義できます。
雲と雨の例で申し上げれば、
「「雲がないのに雨が降る」なんてことはない」
でせう。
ですから、
「世界のできごとの中でこの接続詞に
対応していることがらは語ることができない」
といふのは言ひ過ぎだと思ひますが、
先生の意圖はこれに直接該當する接續詞が
西洋論理學では設定されてないといふところにあるのでせうか?

投稿: SNG | 2005/07/19 01:48

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