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2005年4月

2005/04/26

諸行無常

昨日は仕事帰りに、調剤薬局によって薬を処方してもらっていました。
見るともなくテレビを見たら、
列車事故のもようがうつしだされていて、「えっ!」とテレビを凝視。

「事故から6時間が経ちました」とテレビは言っています。

ええっ、何にもしらんかった。大事故だわ。

大事故、大災害って、どうもわたしの仕事の日と重なることが多い。

古いところでは、阪神大震災、地下鉄サリン、みんな火曜日、仕事の日だった。
バス・ターミナルのテレビで何かが起きたらしいことはわかったけど、帰るまでわからないのでドキドキものだった。

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どうも、現代文明って、あやういです。

それと同時に

自分の存在も、あやういもんです。

こうなると生きてるのはたまたまで、ただ運だけが命をつないでいるような気もしてきますね。

だから
諸行無常

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それと、テレビでは原因究明に余念がありません。
原因を知ることが事故の真相を知ることになるからでしょう。

だから
因果律(縁起)

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どうして、いつもお釈迦さんの言うことって、あたっているんだろう。


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2005/04/24

阿含経典

「春眠暁を覚えず」とはよく言ったもの。
眠くてたまらんです。

ようやく暇ができたと思って、さぁ、何をしようかと手ぐすね引いていたのに、
結局寝てしまって、暇はなくなってしまいました。

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このところ、また再び、増谷文雄氏『阿含経典』第一巻~第三巻あたり、ちょろちょろ読んでいますが、

読めば読むほど味がでる本だなぁ、っと思って感動。

どうして阿含経典みたいなモンが、人を惹きつけるんだろう。

「阿含」とはサンスクリットの「アーガマ」の音写で、「伝承」「言い伝え」の意味。
お釈迦さんの教えの言い伝えを集めた古い経典のことで、お釈迦さんの直説も入っていると言われている。
ただ編纂されたのは必ずしも古いものばかりではなく、比較的時代の経過した新しいものもあると言われている。

増谷氏は、口誦文学として阿含経典という点から、阿含経典の<きまり文句>を説明している。
「暗誦によってこの法を持するものであったから」くり返しが多いのだと述べ、
くり返しの多い冗長な文体が、人々をして「よく法を理解せしめ」たのだとも述べている。

そして、こう述べる前に、本居宣長の『玉勝間』にあった「仏経の文」を引用している。

「すべて仏経は、文のいとつたなきものなり、一つに短くいひとらるる事を、くだくだしく同じ事を長々といへるなど、天竺国の物いひにてもあるべけれど、いとわずらはしうつたなし」

もちろん本居宣長は『阿含経典』を指してこう言っているいるわけではないだろうが、と、増谷氏は述べながらも、これは『阿含経典』にピッタリあてはまっているとも言う。

とはいえ、もちろん本居宣長に反対している。そして、
くだくだしい<決まり文句>こそが、暗誦して覚えて理解するために重い役割を担っているとも述べている。

たぶん、口誦文学として見るなら、増谷氏の意見で正しいンだろう。そうなんだろう、って思う。

だけど、何か、どこか、まちがってるような気がする。
それだけではない、と思う。

『阿含経典』はつたない
『阿含経典』は長々しい
『阿含経典』はわずらわしい

これは、全部はずれてる意見だと思う。まるっきりすかしてる。

「つたない」というのはあたっていない。お釈迦さんはやさしい言葉で説いたと言われるけど、ぜんぜんやさしくない。
長々しいと言われるが、短いくらいだ。必要最小限の言葉で最大限の内容を語るから、いつも、もっと説明してほしい。
わずらわしいなどとは、もってのほか。全部必要な言葉だと思う。

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大きな声では言えませんが、(と、こんなところで言うのも何ですが、)
根本的に『阿含経典』って、誤解されているんじゃないだろうか。

もっとちがった読み方があるように思う。

阿含経典が、かくも人を惹きつけるのは、論理の力ではないだろうか。
何だろう、ほんとに。
ミツバチが蜜を含んだ花に吸い寄せられるようなもんだわね。
今その秘密を必死に探っているところ。


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2005/04/23

直観を直観してみると…

昨日(22日)帰るとき、あられが降ってて寒かった。

と、思ったら

今朝、真っ白け。初冬のたたずまいでございます。
確か地球温暖化してたよねっ、と地球に確認したいぞ。

久々に急ぎの仕事がない状態。
土曜日が、ホントに休日というのも、しばらくぶりだわ。
サッカーのコンサドーレ(北海道のプロチーム、超よわい!)の試合でもテレビで見ようかな、っていうところ。

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女子学生の非概念知のお話をしてて、思いついたのですが、
若い男子学生の非概念知についても考察してみようかな。

以前「ロゴスの穴」で、看護学校で女の子ばかりだったけど最近男の子も入ってくるという話しをしたことがあります。
そのとき、男の子がいると緊張感がでるということを書きました。

なぜかなぁ、と思って理由もいろいろ書いたと思うのですが、今ごろになってこれは非概念知にかかわるのではないかと思いはじめました。

一概には言えないかもしれませんが、
若い子は大人よりやはり非概念知による割合が多いと思われます。
が、その中でも男の子の非概念知と女の子の非概念知とは比べてみると、
いささか趣を異にするのではないか、っていうお話です。

女の子の非概念知は、水の流れるがごとくというか、肌に触れるがごとくというか、抵抗感なくその子の中に流れ込んでくるよう。

だから、女の子と話すときは、水のように、こちらも彼女の気持ちに添って、哲学の話題をそれとは見せず彼女に流し込むのでありました。おいしいから飲んでみて、ねっ、なんて。

一方、

男の子の非概念知は、嗅覚鋭い動物のごとくで、獲物をつかむがごとくにとらえます。

だから、男の子と話すときは、油断なくこちらも身構えて、足に食いつかれないように牽制しながら話しをするんだわ。
んで、こっちも、同じ感覚で、おもしろそうな話題や意外な事実をえさにして哲学の話題に惹きつける、なんてことついつぃしちゃうんだよ。食いつけ、わん!なんて。

布や水のようなスムーズ感とハンターの緊張感っ!

両方わかってくると、わたしのインド哲学も少しはよく見えてくる…かな、なんてね。甘いかな。

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2005/04/21

概念知と非概念知のしみじみしたお話

あれま、あっという間に時間が経って、数日更新してませんね。

掲示板(1892~1902)でもお話していたことですが、
インド論理学が非概念知を扱う、あるいは、直観勝負であるという点については、じつはね、

話しが

いろいろある

んですよん。

この点、いつも考えてたことだったのだった。
『ビックリ!インド人の頭の中』で、「『みえる』と『わかる』のはざま」というのを書いたのですが、

これは、じつは西洋哲学に対する、わたしの心の叫び!

っていうのは、大げさですが、概念知のみを重視する西洋哲学的なものの見方に対する東洋哲学からの批判のつもりで書きました。

これをもとに講義をして、すごくおもしろい展開になってるの。
自分でも、「ビックリ!インド人の頭の中」って言いたい気分だったんだから、世話ないわ。

話の内容は、簡単に言うとこうです。
ロビンソン・クルーソをテーマにしてます。遠くから来る船を、目の悪いクルーソは知識をもってたから「船」と知った。若い未開人の召使いフライディは、目は良かったが知識がなく「船」とわからなかった。西洋では、クルーソは船をみたが、フライディは船をみてない、と解釈されます。

これに反撃!したのが、わたし。インドじゃ、概念知は誤りをもつかもしれない知識、無意識に見ている無分別の知こそ、真実の知、フライディこそが見たのであって、クルーソはもしかすると誤ったかも、って、内容なのです。

女子学生400人に聞きました。って感じで、どっちの知識が好き?って聞いたら、この無分別知に軍配を上げてくれた学生が、思ったよりずっとずっと多かった。

去年は、大半「西洋哲学の見方をとるかな」と思って、おそるおそるだったんだけど、この結果に勇気百倍、今年もアンケート実施。

思うんですけど、若い女の子を侮っちゃだめよ!
哲学やってる男の先生はとくに注意した方がいいわ。へましないようにね。

女の子は、基本的に、かわいらしくて、素直で、「かしこい」。

と、ノートに書いておかなきゃダメ。
彼女たちは、多くは、非概念知で生きている。
もちろん、大学に来る子たちだから、概念知も豊富にもってて熱心に勉強する。
でも、生活の場では非概念知を有効に使っている。

「あなたがちょっと自慢できる特技、ってありますか?」って聞いたら、

多かったのが
「場の雰囲気を読める」「誰と誰が好きかすぐわかる」「自分に起こる悪いことはわかる」「他人の気持ちが読める」「気まずい雰囲気とかすぐわかっちゃう」「スポーツで飲み込みが早い」「すぐ上達する」「バイトで店長の言うことがすぐわかって仕事を覚えるのがはやい」「水泳歴が長いので、小さい子の泳ぎを見るとどうすれば上手になるかすぐわかる」「絶対音感がある」「ウソを見破ることができる。なんとなくうそだなぁってわかっちゃう。」「はじめて行くとこでも道を間違えない」「一度見た人の顔は忘れない」「一回行ったら間違えずに行ける」「デジャブを見る」「正夢を見る」「霊を見る」
などなど。

いいなぁ。

(哲学の)男の先生がとくにまずいのは、若い女の子と逆だからです。ま、おじさんだからね。

先生は、基本的に、かわいらしくなくて、素直でなくて、「かしこくない」、だけど、優秀だ。

哲学の女のせんせはどうかって?わたしのことかいな。つまり、おばさんということね。

基本的に、かわいらしくなくて、素直でなくて、「かしこくなくて」、優秀でもない、だけど、両者のちがいがわかる。

ま。こんなかな。
まぁ、それはいいけど、彼女たちは、学問でならったこととは別に非概念知を駆使して人生を生きてて、正しく世間に対応している。だから、とてもうまくやっていける。

つまり、概念知を講義しても、論理学や哲学で西洋の知識を植えつけても、以下のようなことが起こるのです。

場の雰囲気を読めるので、先生に言われたとおり、試験まではしっかり覚えて完璧にマスターしていてくれる。素直でかわゆい!けど、実生活で役に立たないと「直観」したら、試験が終わったとたん瞬間で忘れる!「かしこい」ぞ。

そして、先生の心の動きに気づくのがはやく、とくにウソやあいまいなところを直観し、「あのせんせ、こうだったよねぇ」とか、「わけわかんないこと言ってたよねぇ」とか、友達と寸評する。せんせの私生活まで察知されちゃいそうだい。

ゆ、ゆだんならねぇ。
わたしみたいに、鳥なき里のコウモリみたいな存在だと、男の(哲学の)せんせの「頭脳」の腐れたやつと、女の子の「直観」の腐れたやつをもってるから、ホントやばいと思います。

腐れ直観で、女の子たちが、自分をどう思ってるかもわかっちゃうからなぁ。
だけど、
腐れ頭脳で、概念知の世界も、そんなに悪いことばかりでもないことも知ってるしなぁ。

かくして、
若い女の子の「直観」をもち、
おじさんの「頭脳」をもち、
おばさんの「識別知」をもつ
三位一体の偉大なお釈迦さんの哲学というのが、魅力を持ってせまってくるのでありました。
ちゃんちゃん。

え?終わったの?
最初と最後とで話しあってる?
ちゃんと概念知と非概念知の話しになってた?

まぁまぁ、良きにはからえ。(管理人っ!あんた、態度がおばさん!)


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2005/04/17

つらつらすりー…

何だか忙しすぎて、日記を書く暇もないというありさまになってきちまいました。

あと、明日の予習が待ってるし。
400枚ミニレポートを読んで、自分の頭の中にまとめなければならないし。
明日のお弁当の準備をいくらかしておかなきゃならないし。

昨日のことが、遠い昔のよう。
昨日の話しも書きたいのになぁ。
やっぱり、ちょっと書くわ。

昨日は、ヨーガの人にお話をしたのよ。

題はね、「振り込め詐欺とヨーガ」っつうのでした。

なかなかよかよ、って自分で言うのも何だけど、
ヨーギンは振り込め詐欺にはひっかからない、というお話を分析的にしました。
ま、ヨーギンというか、お坊さんや修行者などの人々のことです。
(そもそも、ヨーギンは携帯なんてもってないだろ、っていっちゃあいやよ)

人の心の隙間を次々ねらって不意打ちをする「振り込め詐欺」は、いくつも罠を上手に張り巡らすのです。
たいていの人は、いくつかの罠にはひっかかっても全部の罠に捉えられることなく、「おかしい」と思って逃れるのですが、全部きれいにひっかかってしまう人が、世の中にはいるのね。

どんな罠があり、それはどんな心や身体や頭の隙間をつくのか、
ヨーガはそれをどう防ぐのか、っていうお話でした。
自分でも、分析しながら、「へぇ、そうか」って感心したりしてるから、世話ないです。

感覚器官にかけるトラップ
心にかけるトラップ
頭脳にかけるトラップ
倫理観にかけるトラップ

これらのトラップを避ける方法を編み出し教えてくれるのが、インド思想だわ。

人間というものをよく知っていて、心や身体についてはとても詳しいのだわ。
ヨーガも「振り込め詐欺」撃退には効果的なのよ。

あ、ヨガでもエアロビ・ヨガっつうのじゃダメみたいだけど。
体操みたいなヨガじゃなくて、ラージャ・ヨーガっていうやつです。

まぁ、こんな話しをしながら、次に、十二因縁についても分析検討…むずかしか…わかりまへん…って、最終的にはなるんだけど、かなり苦闘しながら、あきらめ悪くがんばる。

苦闘しながら、あっと思ったのは、これはわからなくて当然じゃないかってこと。
これが、白日の下にさらすように一切が解明できたら、それって、もう涅槃にいたっているってことじゃないかと思って、やや安心する。(よかった!わかってる人ってすくないわよ!ほとんど、いないかも)

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さて、それから、帰って寝たら、インドの田舎をバスに乗って旅する夢を見て、かなり臨場感いっぱいでした。
夢の中で、インドの町医者みたいなところに行って、「頭痛がするんです」といったら、治療してくれました。
治療方法は、「上向いて口あけろ」と言われて口を開けたら、牛乳を流し込まれて、それから「ぐるぐるまわれ」と言われました。三回くらい回ったら、目が回りました。目が回ったら、頭の痛いのは忘れました。
ふうん、こういう治し方もあるのかぁ、さすが夢だなぁ、って思って目が覚めました。

まだ他にもいろいろ野次馬みたいなインドの人がでてきて楽しかったけど、書いてる暇がないので省略します。

だんだんひどい日記になるなぁ。
トラックバックが、一つありました。どうすれば、よいのじゃろ?見守っていればよいのかしら。
わからないので、そのまま何か起こるのを待つことにしよ。
では、管理人、次の作業に移りますっ!

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2005/04/14

つらつらつー…

龍樹のこと書いたせい?
アクセスが多いわ。

どうしたのかしら。たんなる偶然?

龍樹ぅ、あんたってば、有名なのねぇ。人気で言えば、ブッダをしのぐかもね。
でもね、この前、龍樹の研究書読んでたら、どうして、龍樹は尊敬されないのだろうか、って書いてあったわよ。
インド人か誰かの研究書よ。ちょっと本に埋もれて出てこないので、名前はあげられないけど。

必ず、詭弁家だの何だの、悪口書かれちゃうモンね。
わたしもしこたま書いたけど…ははは…ゴメンね。

ホントは好きだからね、ちゃんと「龍樹!大好き」っていうコンテンツも作ってあるんだから。

そうは言っても、確かに、やっぱり、尊敬はできないわねぇ。
正直言って。

これは、そういう要素があるからに他ならないわ。
尊敬しちゃいそうで尊敬できない要素ってのがあるのよ。

ブッダ、あんただってそうよ。突き詰めれば、あんたが発端だもの。

なぜかしら?

って白々しく言ってみる。

わかってるのよ。ホントはね。ブッダ、あんたの論理にあるのよ。
とうとう、わかったと思うわ。
解明できたように思うわ。ブッダの論理学。
ま、でも、ほんとうにみんなに全部言ってもいいかどうかわからないって、気もする。
世間一般、全部だましてこのまま何も言わない方がいいのかも…何て気もする。

ま、とにかく、ブッダの論理学について、とにかく尊敬できる部分については、本に書きました。

それが、そろそろ出るらしいです。
論理学者ブッダにビックリ!してもらいたいわ。

今日は、宣伝でした。明日から仕事詰め。
じゃ、おやすみなさい。

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つらつら…

なんかなぁ、失敗してるかしら。
「龍樹大好き」の「龍樹!君は正直者」。

けっこう考えて、何とか書けるかなと思ったけど、さっぱりだったわ。

でも、読んでくれた人もいっしょに考えてもらうためには、あんまりわたしの答えを押しつけちゃうのもよくないし。
っていうか、わたしの答えって、そんなもんないし。
やっぱり、「さっぱり」と言うだけあって、ずるずる引きずるわ。

こうなったら、みなさんのご感想をお聞きしたいもんだわ。ホントよ。

ま、でも、あんまりこればっかり考えると、「苦だ」「苦だ」っちゅうことになっちゃうから、やめよ。
初コメも来てめでたいから、「あとは野となれ」精神で行くことにするわ。

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ところで、あらゆるものが芽吹く春、あらゆることがらが始まりを告げる春。
まったく、そのとおり、一気に始まる我が人生、って感じで、いろんなことが起き始めました。

「いろんなこと」っていうのは、「いろんな仕事」ってことで、「いろんな苦」ってことです。

今から目指すは、五月の連休。そこまで一気に駆けぬけろ、です。

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2005/04/10

ブッダの光と影

自分で書いてて、自分で感心しちゃ世話ないすが、

「認識は世界を作る」って昨日のお題は、なかなかよかったんではないだろうか。

なんて気もするのであった。

ふつうの現代人にはぜんぜん良くないと思いますが、
ふつうじゃない人、あるいは、現代人じゃない人には、お勧めできるかも。

とは言いつつ

じつはね、管理人は現代の科学思想にはとっくにあきちゃって、
それで、仏教的なものの見方やインド哲学的なものの見方に心引かれているんですが、
最近、仏教的なものの見方も、ずううぅぅぅぅっっっっっっっっっとそればっかり考えてると、

あきちゃった、

ってことに、3日前気づきました。
アリストテレスの「快楽」のところ読んでしみじみしてしまいました。

何でも「苦だ」「苦だ」いうのもなぁ。あきるよね。
「快楽」という考えももいいモンだ。

そう思いながら、また、ひさしぶりに
龍樹の天敵アクシャパーダの『ニヤーヤ・スートラ』を読むと、
ここでも、なんか、とってもホッとするわ。

「いくら偉大な思想でも、ブッダ・龍樹の思想だけが、思想じゃないぞ!」っていう反骨精神が、
そこかしこにあるので、

勇気づけられる。

それに、思うんだけど、龍樹自身もそれを感じてたんじゃないかとも思うわ。
「それ」ってのは、「いくらブッダの思想が偉大でも、それに追随するだけじゃないぞ」っていう反骨精神のかけらみたなもののことだけど。
反骨精神というと、語弊があるけど、つまり、ブッダの教えに無批判にしたがう部派の修行僧(声聞)の阿羅漢への道ではなく、自分から主体的に法を求める菩薩の道を選んだということで、それを感じるのよ。

ブッダ自身が、また、「みずから主体的に法を求める」人だったという点では、ブッダの思想をほんとうに受け継いでいるのは

ブッダの法にしたがいながら、それを乗り越えようとした

龍樹

ブッダの法にはっきり反発しながら、それにしたがった

アクシャパーダ

この二人ではないかと…思う今日この頃。

二人は、ブッダの光と影…これ、誰も言わないけど、あたりだと思う。

で、さらに、昨日の話に戻るんだけど、
龍樹とアクシャパーダの二人の天才がいた時代は、
ブッダ一人がいた時代より、いい時代だったんじゃないだろうか、…哲学思想的には。

対立する二つがあるのが、自然なのよ。

(ひさびさに、うまくまとまったわ。いつもこうすっきり考察したいもんだわねぇ。)

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2005/04/09

認識は世界を作る

人間というのは、おもしろいもんですね。一つしかないものは、喜ばれない。

東洋と西洋とがあるように、
男と女がいるように、
有と無があるように、
善と悪とがあるように、
昼と夜とがあるように、
楽と苦があるように、

この世の中のものは、対立する二つに分けられる。

そうなら、なぜ現代の思想にはただ一つ、科学的なものの見方しかないのだろうか。
それって、変じゃないだろうか。


春秋社が出している雑誌『春秋』4月号に望月海慧氏の「仏教と輪廻転生」という題のエッセーがありました。
その中で、
「苦である輪廻的な生存を引き起こす原因は渇愛であり、それを滅ぼすものが智慧であると言われている」とあって、次に

(1)「このことは智慧により渇愛を滅するという心理的な認識の変換により、物理的に身体が輪廻するという生存形態から脱することを意味してるのだろうか。」と疑問を出しています。

そして、
この疑問を否定して、
「わたしはブッダがそのようなことを意図していたとは思わない」と述べて

(2)「智慧により渇愛を滅するという心理的な認識の変換により物理的に肉体が輪廻するという認識を排除することを意図していたと考える方が整合性を伴うように思える」とありました。

ここを読みながら、「ほんとうに、そうだろうか」とふっと思いました。

(望月氏の表現はちょっと…「物理的に身体が輪廻する」とはふつう解釈されない(死ぬと腐って身体は使い回しがきかないため)ので、ここは、「認識が物理的身体に影響を及ぼす」という意味に理解しておきます。)

たぶん望月氏は、現代人に一般的な実在論的な立場に立って考えているから、認識は身体に影響を及ぼすことはありえないと思うのでしょう。(2)の方が(1)より確かであると思うのは、意識は物質に手出しできないと思っているからですね。
しかし、このような実在論的な考え方は、やはり一つの考え方です。

一つの考え方だけではさびしい。対立する二つの考え方があって、ようやく思想や哲学も活気づいてくるだろう。

だから
ここでちょっと発想を変えてみるといいかもしれない。

というわけで…

物理的な身体と考えているものも、それはしょせん認識の所産です。
意識の上で実在であると信じているだけなのかもしれません。
物理的な身体と思っていたものも、認識の上ではそれは「色や形」にすぎません。
感覚器官が働かないとそれは現れて来ないのです。意外と、あやふやなものかも…って気もしてきます。

また、一方、実在論では目に見えずはっきりあるかわからないと思われる心の作用も、
逆に
認識されるという点では、これほどはっきりその存在が知られるものもありません。
心の作用は感覚器官が働いていなくても、はっきりとわかります。

苦しみ・悲しみ・喜び・怒りなどについて、「そんなものはない」という人がいないようなものです。
これらがあるなら、これらによって生みだされてくるものもあるでしょう。
現実の世界は、これらの感情によって生みだされ作られている世界だといってもウソにはならないでしょう。

ここに、実在論と全然ちがった世界がみえてくるように思うのですよ。
科学的な実在論ただ一つの世界観の中に住むのではなくて、もう少しちがった世界を見ようとしてみるのもいいのじゃないかと思うのでした。

仏教の思想というのは、現代の思想とはちがった世界を築いているというという点で貴重かと…。
そう思ってみれば、(2)ではなくて(1)の方が、ありうるかも。
認識が世界を作るんですから、ね、ね。

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2005/04/08

一難去ってまた一難

龍樹について、泥沼脱出とお伝えしましたが、
龍樹沼というのは際限なく続くので、
一つ脱出すると
次の沼が「はまってくれ」といわんばかりにひかえているのです。

んで、

はぁ、落ちたぜ!新たな沼に!

とは言っても、

そこはそれ、落ち慣れてる管理人だい、学習してるのよ!
致命的なダメージは避けるように、呼吸だけは確保してるモンね。

完全にはまって身動き取れないことがないように、いろんなところにつかまるモン用意してるのよ。

アリストテレス棒とか、阿含座布団とか、現代論理学の投げ縄とかね。

こんなこと言っては、失礼かもしれないけど、
今までブッダの教説全体を正しく理解した人って、龍樹くらいしかいないんじゃないだろうか。
現代にいたるまでのたくさんの研究者たちは、みんなせいぜい部分にとどまっているような気がするわ。

やればやるほど、これは煩悩消さなきゃぜったいわからん、ってことがよくわかる。
ミイラにならなきゃ、ミイラ取れない仕組みらしい…

それで、がんばって「煩悩消し」の行を行いつつ、読んでるんですが、

煩悩って、モグラたたきのモグラそっくりね。
一つ消したと思ったら、別のところからすぐでてくるんですもん。
三つも四つも出てくんなっ!っつうの。

本気で、思うんだけど、

断食とか、瞑想とか、エアロビクス(?)とか、ランニング(?)とか

した方がいいかな?

こんなことまで考えるなんて、本気で追いつめられてると思うわよっ!

誰よ?底なし沼に入ったなっ、ていう人は。

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2005/04/07

快を求めよ

急激に暖かくなって、一気に雪が解け雪山はみるみる小さくなってきました。
春じゃのう。

弁証法について詳しいことが知りたいけど、なんかいい本ありませんか?
西洋哲学、論理学の弁証法といえば、誰のを読めばいいんでしょう。

いま、アリストテレスを読んでいますが、これは「弁論術」だわね。

「快楽」ってのがあるわ。

「快楽とは精神の一種の運動であり、精神が全体として意識的に本来の状態を回復することであり、苦痛はその反対であるとしよう」(「弁論術」第一巻、『アリストテレス』(世界古典文学全集))

へぇ、本来の状態にあるのが快適なのか。
習慣も快適である、だって。
習慣づけられたものはすでに自然的状態になっているから、ですって。

強制されたものは、つらいものだから、それらと反対のものは快適なんだって。あたりまえだわね、これ。
強制されない、自然的欲求の対象は、快適だとあるわよ。

くつろいだり、骨折りや気苦労のないこと、娯楽、休養、睡眠

いいわねぇ。ほんと、快適なものばかりだわね。
ギリシア時代も、今の時代も、快適なものはおんなじね。

でも、自然的な本来の状態が快適だっていうのは、ギリシア的かな。
インドじゃ、快適なものをこんなにたくさんあげないわね。

ギリシアの「快適」って、とてもささやかだわよ。
おもしろいわね。

あれっ!これって、インドじゃ、苦じゃないかしら。

ちょっと聞いてよ。
「たいていの欲望には何らかの快楽が伴う。人は起こったことを思い出すか、起こるだろうことを期待して、何らかの快さを楽しむものだから。例えば、熱のために渇きに苦しむ人はかつて水を飲んだことを思い出したり、これから飲むことを期待して喜ぶ。」(「弁論術」第一巻)

渇いてる人が水を得られないのは、インドじゃ苦しみなんだけどな。ギリシアじゃ、快なんだ~。

ほお、

「死んだ人に対する悲しみや歎きにさえ一種の快感が伴うものである」

こりゃぁ、目から鱗だわ。でも、当たっているわね。思い出しているときは、たしかに喜びがあるものね。

こうなると、失恋の悲しみも、ギリシア人にとっては、甘美な思い出というわけね。
求めて得ざれば苦しみである、なんて、仏教の発想はない!

仏教じゃ、恋が成就したって、苦しみなんだぞ。執着がふえるだけだから。
えらいちがいですなぁ。

でも、ギリシアの人間讃歌は魅力あるわねぇ。
「何でも快適」って考え、管理人のこのみだわ。

こっちの研究にしようかな…おいおい。


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2005/04/06

映画を見に行った話

数日前、映画を見に行きました。
なぜ、日記に書かなかったかというと…

「ハウルのなんたら、見に行こうよ」と下の息子を誘ったら、
部活に人生をささげている息子は忙しくて暇がとれません。
結局「ダメだ」と断られ、こんどは
上の息子を誘ったら、一言「行かない」と言われました。
そのとき、誘ってないのに、夫が「行ってもいいよ」というのです。
ええっ!誘ってない!さそってないっ!っちゅうのに。

やむを得ません、来世の功徳のためと決心して、夫と行くことにしたら、
こんどは、息子が「ずるい、僕も行きたい」と言いだし、
結局
三人で行くことに。

もう、この時点で、先行きに暗雲が立ちこめているのでしたが、
なんとかようやく日程を調整して、札幌駅のシネマなんたらという映画館の集合体のようなところへ行くことにしました。ま、そこしか映画館ないんだけどね。

人混みと都会が苦手の夫と息子は、駅のおしゃれなコンコースを歩いているだけでびびっています。
ようやく7階までエレベーターであがり、扉が開いたとたん、絨毯を敷き詰めた映画館の豪華な(?)券売所と人混みに完全に足が止まって進みません。

その上、ぎりぎりで行ったので、よく見るともう券がが売り切れで、「入場できません」と書いてあります。

夫とむすこは、これ幸いとそのままくるりときびすを返し、

「こんなところに来るくらいなら、もう一生映画見なくてもいいね」
「映画は場末の映画館で見るもんだよな」

といいつつ、すたこら家に帰って来たのでした。

わたしは、わたしで、もう二度と功徳を積もうなどと殊勝なことは考えまいと、
かたく、かた~く、心に誓うのでした。

それにしても、裏寂れた場末の映画館でイージー・ライダーやバスター・キートンなんか見るのが、
しみじみ映画っちゅうもンだよな…

って気もちょっとする管理人は、やっぱり同類かなぁ、ああ、やだわ。


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2005/04/04

論理は、しょせん論理だから、ね、まあまあ、こらえてよ。

それにしても、日記というのはおそろしいものだわね。
作者の心をうつす鏡だわ。

研究が泥沼化してくると、すぐばれちゃう。
すずしい顔をして、わかったふりしてようと思うんだけど、
うまくいかんわ。

さて、そこで、今日のわたしはどちらでしょう?

あいかわらず泥沼でもがいているでしょうか、どろんこだけど泥沼脱出でほっとしてるでしょうか。

なんて、こんな問題出せる余裕がでてきたってことは…

あたりです。
小さい泥沼突破しました。

三浦氏の『論理サバイバル』(二見書房)は、なかなかいい本です。
サバイバル競争に生き残らねばならないわたしには、けっこうバイブルになりそう。

クレタ人が言ったという

「クレタ人はけっしてホントのことを言わない」

という文についての問題の解説見てて、キリスト教の教えにいたりました。(なんでやねん、どういう思考回路や?)。
ま、ま、そう、つめよらんでよ。話すからさ、ちょっとだけ、あとで。

こういう、論理学に詳しい人が書くと、一般向けのお楽しみ本のような形をとりながら、
内実、分析哲学や論理学の学術論文の内容も伝えうる、っていうところがすごいと思います。
え?
そういうモンを読み取るアンタの思考回路の方が、もっとすごいって!
…うう、ごもっともで。

パズルやパラドックスを扱った本でも、出来の良いものと悪いものがあって、

本そのものがパラドックスになってるものと、

パラドックスそのものが本になっているものと

二種類あるんだけど、後者に当たるのはなかなかない。
この『論理サバイバル』って、わたしには後者に見えるわ。さんきゅ!

さて、「クレタ人はけっしてホントのこと言わない」ですが、このパラドックスについて中村秀吉氏は
『パラドックス』(岩波新書)の中で

「このパラドックスの表現方法にもいろいろあるが、クレタ人の逸話になって現れたのは、パウロ書簡『テトスへの書』第一章12が最初のようである。そこでは次のように書かれている、
『クレタ人の中なるある預言者曰く<クレタ人はつねにいつわりをいうもの、あしき獣、また懶惰の腹なり>』。」

っと、このように述べておるのよ。そして、パウロはこの言明のパラドックス性に気づいていない、とも述べているわ。

みんな、なにか感じない?
パウロはパラドックスと受け取らなかった。「ある預言者」の一見すると矛盾する内容に反応を示さないとすれば、これはパラドックスではないからだわ。預言者の中にある真意を読み取っているからでしょ、たぶん。
『新約聖書』の小説読んで、思ったのは、秘められた情報がここにはわんさか入ってるんじゃないかってことなんだけど、こんなところでも、確信するわね。何だかわからないけど、何かあるのよ。
だから、表現がパラドックスになるのだわ。
政治家が「ぜったい金は受け取っていません」といえばいうほど、みんなの心に「金もらったのか」という確信となって残るようなものね。否定は、じつは肯定を表すことがあることをみんなは経験的に知っている。
クレタ人の言うことには裏がある、っていうことか、クレタ人であることを確認したら情報が引きだせるということか、じっさいどうなってるのか、この一文しか知らないので、全然わからないんだけど、でも、キリスト教関係の書物って、謎解きだってことはわかるわ。世間一般をだまくらかしたい、みたい…?どう?

そして、いつの頃からか、この文がパラドックスとして定着したということは、その頃から、この文脈がもつ意味が誰にも分からなくなって、ただ表現だけにみんな気をとられるようになったということだと、シャーロック・管理人は思うわけ。

このクレタ人のパラドックスは、どこに純粋のパラドックスがあるか示してくれた三浦氏に感謝っ!

だって、ね、(純粋のパラドックスとしてみれば)クレタ人本人は、こう言ってる、って、彼三浦氏は言うのだわ。

「わたしのこの発言はホントではない」

そうだろ。そうだろ。
たぶんそれが重要なメッセージになるんだろうね、世の中何事も意味があるとするならば!だっ!と勝手に納得。

当たってるのか、当たってないのか、全然わからないんだけど、論理学からすれば、これしかないだろってことで。

なに?
解決したのか、解決してないのかわからん? …ははは、…ま、わたしも。

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2005/04/03

わかるって、わかんな~い

再び、龍樹に食いついて、数日たちました。

ちょっと立ち往生しているところです。

みんな!聞いてくれ!

龍樹は、ほんとに、ほんとに、ほんとに、ほんとに、ほんとに、ほんとに、ほんとに、ほんとに、ほんとに、ほんとに、ほんとに、ほんとに、ほんとに、ほんとに、ほんとに、ほんとに、ほんとに、ほんとに、ほんとに、ほんとに、ほんとに、ほんとに、

むずかしいんだよ!

昨日の日記「すり混ぜる」の次は「かみ砕く」「たたきつぶす」「きざみつける」「練り合わせる」という作業もいるなぁ。
まるっきり、力技ですわ!ふう。

彼のもの読むと、必ず現代論理学の本や分析哲学の本を読まなければならない。
それがわからないと、龍樹は理解できないだろうという予感がしてくる。

彼のもの読むと、必ず阿含経典を読まなければならない。
彼の初期の作品は、じつは、阿含の忠実な注釈書である。
とくに、『中論』と『方便心論』。
阿含経典と全然ちがうように見えるかもしれないが、それは、あなたの気の迷いなのよ。

『大智度論』は龍樹作ではないという意見もあるけれど、

その内容に深く入っていく研究をしている学者は、ほとんどの人が
龍樹作であると述べているようだ。

わたしも龍樹作なんだろうと思う。
『中論』と『方便心論』の理解にとても役に立つからだ。

でも

その内容のふか~いところで効いてくる、というように役立つので、
それを目に見える形で示すことはなかなかむずかしい。

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@ わかる人にはわかるが、わからない人にはぜったいわからない     @
@ しかし、誰でもが、分かりうる                         @
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インド哲学のむずかしさって、こんなむずかしさだわ。
いや、哲学のむずかしさだわね。
いや、論理のむずかしさかな。

そして、インド哲学や仏教の教説は、出しゃばりでないのもこまっちゃうわ。
そのむずかしいことを、さらっと簡単に核心だけ述べて、あとおすまししてるんだもん。
だから、みんな気づかない。

で、困るのは、インド哲学や仏教が、分かる人には常にその核心を示しつつ、分からない人には何も言わない、という不親切スタイルを、わたしも踏襲すべきなのかどうかということ。

自分で分かったものを自分のものにだけしておくのは、良いことなのか、悪いことなのか、ってこと。
自分で分かったものを世間に公表するのは、良いことなのか、悪いことなのか、ってこと。

わからないわね。

わからないので、
迷惑かもしれないけど、発表してみることにしてるのよ。

一つ思うのはね、

わかりやすいことは必ずしも良いことではないし、
わかりにくいことは必ずしも悪いことではない、

ということだわ。
そしてね、本を読むときは、とくにインドの文献は、

他力本願はぜったい効かない、

ってことは言えるわね。

それにしても、
龍樹と戦うってことは、
朝青龍と相撲とるようなモンだよな…とんでもねぇ、こった!

だけど、土俵にあがっちゃってるし…

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2005/04/01

すり混ぜる

札幌4月1日の積雪85センチは、1890年以来統計上二番目の記録だということです。
だろうなぁ。去年は、今ごろ自転車に乗ってどこにでも行けたのに。

雪は、基本的に好きだけど、ここまで多いとため息が出ちゃう。

それから、おかげさまで、とうとう、とうとう、チーズケーキ作りました。
ああ、よかった。

みんなも作る?
生クリーム200g(一パック)、クリームチーズ200g(一箱)、卵3個、小麦粉大さじ3杯、砂糖100g、レモン汁一つ分、塩ひとつまみ
ぜんぶすり混ぜてどろどろにして、バターを塗った型に流し込んで170度のオーブンで40分焼く。

最初にクリームチーズと砂糖をよく混ぜて練っておくと、うまくいく。べたべた…っと。

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さて、チーズケーキもできたので、

心おきなく『廻諍論』と『中論』とウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』とスマリアンの『決定不能の論理パズル』とを読んでみました。

と…

こんなにぜんぶすり混ぜてどろどろにして読んでいると…

何ができるんだろう。

龍樹の『廻諍論』と『中論』をすり混ぜていると、

『ニヤーヤ・スートラ』と『ニヤーヤ・バーシャ』の解釈が浮かんできて
あ、そうだったのか
スートラが見えてきた。

さらにスートラが見えてくると弁証法が気になって『論理哲学論考』に到達。
これを自分の脳みそとすり混ぜると

ブッダの『阿含経典』の解釈が見えてきた。

へえ、っと思いながら、ブッダのことを考えていると
『決定不能の論理パズル』と内容が似ていたこと(?)を思い出し、
それもすり混ぜると

三浦俊彦氏の『論理サバイバル』が分離してきた。

ああ、ここにもあったのか、っと、パラドックスの問屋さんのような見本目録をながめて、

問題分析をしようと試みるわたしでした。

論理の問題は、ぜんぶどこかで繋がっているはずだから…まぜて焼くと、でっかい論理ケーキができるかな?

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こういうべんきょの仕方してるひと、いないと思うぞ、うん!
(よい子はけっして真似してはいけません)


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