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2005年3月

2005/03/31

ずるずる引きずるもの

もうすぐぅ、は~るですねぇ!
ちょっと自覚してみませんかぁ♪

って、歌なかったでしょうか?

昨日、今日、吹雪いて雪が積もってくるのを見ると、春になる気がないのではないかと思う今日この頃。

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だらだら雪の降る今年の天気のように、わたしもだらだら引きずるものがある。

いつも心に引っかかりながら、ついついずるずる引き延ばしている。
いけないわ。

そうだっ!ここに書いておくわ。
そうすれば、懸案事項の筆頭に躍り出ることになる!

じつは、一ヶ月前から、冷蔵庫に眠っているクリームチーズと生クリーム。

みんな覗いて、「これどうすんの?」
わたし「チーズケーキ作るの」

       …

「これどうすんの?」
「チーズケーキ、いつか作る」

       …   

「これまだあるよ。どうすんの?」
「チーズケーキ、作りたい、そのうち」

       …

「もう賞味期限来てるんじゃない」
「大丈夫!4月5日だから」

それにしても、タイムリミット近づいてますわ。

ぜったい、今日作るぞ!

っという、せりふも言いあきた。じつは、このところ、毎日朝固く決意してることではありますが…
まぜて焼くだけというこの簡単な作業が、こんなにむずかしいとは…

しかし、よく考えたら、インド論理学なんて、何十年も引きずってるよ。
とっくに賞味期限キレてる材料で、論文作成して発表してるわねぇ

            …       つみぶかいわ

っていうか      …       けっこうみんな丈夫なお腹してんのねぇ。 

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2005/03/29

春の読書は…向かないかも

昨日のヨーガの話、「宗教っぽい」って言われてしまいました。

そうか、「悟ってないのに『悟ってる』という場合」という、何となく宗教チックな例をあげたからかなぁ。

じゃ、ちがう例もあげておきましょ。
宗教っぽくてイヤな人は

例えば「石ころでないものを『石ころだ』という場合」って、置き換えてください。
これは他のものでもOKだよ。自分の好みでいろいろ変えてね。

「ドラえもんじゃないのに、『ドラえもんだ』という場合」
「ブランド品じゃないのに『ブランド品』という場合」
             …
つまり

「そうじゃないのに『そうだ』という場合」であれば、いいのです。

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さて、前にウォルター・ワンゲリン『小説「聖書」旧約篇』(徳間文庫)を貸してくれた人が、こんどは新約篇を貸してくれました。

ウォルター・ワンゲリン『小説「聖書」新約篇』(徳間文庫)です。

真剣に読書!

む、むず…

か…

すい…

読んだ感想というか、率直な印象:

旧約聖書は、小説として読むと、ストレートなメッセージだった。
倫理をとく忍耐強い神と愛すべき愚かな民の「もー!何とかしろよ」的関係の軌跡。

しかし、今回 … それに、イエスというファクターが入って、完全に三角関係になっちゃっている。

小説ということでフィルターがかかっているのを抜きにしても、

新約聖書というのは、ものすごい謎ときですねぇ。

ウソは書いてないのだと思う。

でも、

ストレートに書くべき真実のどこまでストレートに書いているのか全然わからない。
これを書いた人は、ものすごく慎重に書くべきことを選んでいるという感じがする。
反対する人々にはぜったいばれないように、しかし、信じようとするものにはメッセージが伝わるように。

イエスの説法は魅力的だが、それをそのまま書くことは何らかの圧力によって許されなかったようだ。

読後に残る印象は、
まったく具体的にはかかれていないが、
その外圧のいかにすさまじいかです。

イエスの教えが何なのか小説の最後まではっきりしてこないほどすごい。
神の勧める倫理を、部族を超えてより普遍的にしようとしたのが、
イエスの意図だというのは最後の方でようやくわかった。

「汝の隣人を愛せ」というメッセージがそこで出てくるのでね。

それにしても

よくよく思うのは、暗愚の民は超強力で頑固だっちゅうことですね。

そして、
まぁ、それは、わたしたち誰でもがもってる要素ではある…っと。

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新約聖書の学問的な解読はいろいろ進められていると思うのですが、
それとは別に、聖書といわれるような、みんなのための書は、人それぞれいろんな読み方ができると思う。
素人は素人なりにねっ(^_^)v


昨晩マジにまじまじ読んでたら、部活でぼろぼろ・足揉んでもらいたい息子がそばに来たので

クライマックス「骨が分けられ、大釘が…」に気を奪われているわたしは

「かあちゃん、今忙しい!
ちょうどイエスの足に大釘うちつけて、十字架に張りつけてるところなんだから、目が離せないっ!」

と先手を打ったら、

「僕だって、足うちつけてもらいたい。…足が十字架の棒…」

と言いつつ、さびしそうに行ってしまいました。

うう~、げんじつにひきもどされるぅ~

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2005/03/28

インド人(インディアン)うそつかない

先週土曜日、ヨーガのみなさんとお話ししたとき、

「今日のテーマは…」といって、

上の表題の「インディアン(インド人)ウソつかない」をあげたら、「古いですねぇ」と言われてしまいました。

ははは、みんな知ってるじゃん。

でも、いい題名だと思うわよ。
すごく受けたもの。
それにとってもあたってるし。

最近、ヨーガの人に話をするとき、うまくいくことが多い。
今までは
「とっても乗れないわ、その話。何言ってるかわかんない」って戸惑ったような反応も、けっこうあって

こちらの能力不足と勉強不足とテクニック不足を実感し続けましたが、

最近、ちょっと開眼することがあって、それ以来うまくいくことが多くなった。

何に開眼したかって?

ま、たいしたことじゃないんだけど、

「自分のわかっていることだけ話す」

という方針に徹することにしたの。
今までもそうしたかったけど、それやると2時間も時間がもたないのよ。
実力ないって、さびしいことね。

ああ、それで、何話したかって?

『ヨーガ・スートラ』

もっと詳しく話せって?

あのね、『ヨーガ・スートラ』が言ったのはね、

悟ってないのに「悟った!悟った!」って言うのは、誤りだって言ったの。
みんな、すごく納得してたわよ。

悟っているのに「悟ってない!」というのも、誤りじゃないかと言うかもしれないけど、これはいいの。
気がつけば直るものだから。

でも、悟ってないのに「悟った!悟った!」という人は、気がつきにくいし、直すことがむずかしい。

ウソを言ってると思わずに言うウソが、一番のウソなのだ!

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ヨーガの人と話してると、とても楽しい。
自分でも、いろいろ勉強になる。

悟ってないのに「悟った!悟った!」って言うのは、誤りだ。

って、このことは、わたしは論理で知ったのだった。
でも、ヨーガをやってる人は、実践で知ったのだった。

二つが一つだってことがわかって、やっぱり、「インド人はウソつかない」、って実感したのでした。

知識の道と行為の道のどっちの道によっても、一つの結論に到達するからです。

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2005/03/25

おお!神よ!

今日は、一日猛烈な吹雪でした。

冗談は、よしてくれ。

っと、本気で言いたい北海道民一同です。

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さて、今日は、コマーシャルをちょっと。

國學院大學の刊行する『國學院雑誌』の3月号は、インド哲学・思想関係の特集号です。
題して

「インドにおける神概念の諸相」

5人のメンバーが、それぞれの得意分野で神を存分に語っております。
これだけまとまって、神を論じたものはちょっとないと思います。
大きな声では言えませんが、じつは、わたしも書いてます。
わたしのとこは、まぁ、「かみ?アンタでも語れるの?ははは」、って感じですが、他の4人の人はそれぞれすばらしいです。

機会があったらぜひ読んでみてください。

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インドがすばらしいと思うのは、神のような、語りにくい存在を、かくも多様に語ってきたという点である。

ほんとに、こんなに自在に語れるなんて、人間の方が神を超えてるんじゃなかろうか、って思うくらいだ。
もう少し考えると、パラドックスが見えてきて楽しそうだけど、あんまり深入りするのはやめておこう。

でもちょっとだけ!

人智を超える神を、人智を超えてるその様相のままに、人間の智によって語りうるとすれば、

人智は、人智を超えてる神を超えてる。

うひょぉ、ステキ!

人智によって捉えられてはじめて、神は人智を超える。

いやはや、神さま!がんばるべし。

は!いま気がついたけど、かみさま!こんなこと言ったわたしに天罰下さないでね。
お許しください!罪深いわたしを!(今さらおそいぞ)

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2005/03/24

誰にでも、誰にでも弱点はある!

もう三月も終わりに近づいて、新学期も秒読み!
この前、お正月じゃなかったっけ!ね。

やらなきゃならないことが、またぞろ、出てきて、やだわ。
そういえば、もう一つ論文書かなきゃいけなかった、って思って、
昨日、昔の原稿の半ぺら読んでみたら、もう完全に忘れてました。

もう一回、一から出直しだい!

龍樹のつづきも書きたいし、「困ったわ、時間がないわね」

と、嘆きつつ、つい手近にあった

増谷文雄『ブッダ・ゴータマの弟子たち』(現代教養文庫)を読んでしまう。

そして、「さらに困った、もっと時間がなくなった」

と、嘆きつつ、隣にあった

増谷文雄『この人を見よ』(講談社文庫)もあわせて読んでしまう。

「ああ、ほんとに時間がなくなった」

と、嘆きつつ、パーリ仏典の翻訳をはじめてしまう。

ほんといい加減にしなさい!時間がないなら、もう少し考えて行動しなさいよ。

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ところで、増谷先生の本読んで、おもしろかったのは、
お釈迦さんが女性の出家者を受け入れるのを頑強に拒んでなかなか認めようとしなかったところ。

最初に比丘尼(女性の出家修行者)になったのは、ゴータミーと言うお釈迦さんの乳母だった人。

ゴータミーは何度もわたしも出家させてくださいと頼むが、ブッダは聞き入れず、
とうとう最後に、アーナンダが取りなして、
「女性は阿羅漢になれないのですか」とたずねてブッダにせまり、とうとう女性の出家者を認めさせてしまう。

何せ、ブッダの乳母だった人だから、ブッダも弱いよね。
何だか、このあたり、けっこうブッダが困ってる風に見えて、おもしろいなぁ。

いや、はっきり言って、ブッダ、困ってますよ、ぜったい。

なんのために、わざわざ家を出てきたんだ、出家したんだ。
女子どもを含むしがらみから逃れるためです。執着の種をもたないようにするためです。

なのに、なのに、せっかく出家してきたのに、
またそのしがらみである女性を受け入れなければならなくなっちゃった。
ううう、し、仕方ない、って感じがありありね。

でも、いったん女性の出家修行者を受け入れたら、ちゃんと比丘尼たちを守るように教団が条件を設けているのね。
これも興味深いわね。

比丘尼はどんなに長い年月修行しても、比丘には敬礼・合掌しなければならない。
たとえ出家したての比丘であっても。
あるいは比丘のいない精舎には、比丘尼はけっして住んではいけないとか。
これも比丘尼だけでいるのは危険だからと思ってるからかもしれない。

仏教教団は、カースト否定などにみられるように、一般社会とちがってずいぶん革新的なところがあると思ってたけど、女性にかんしては、案外保守的な感じだわね。

ひ弱で守るべきもの、それは女性、って思ってるのかなぁ。
女三界に家なし的な発想よね。

お釈迦さんて、案外古いタイプなのねぇ。

そうか!お釈迦さんでも、弱点ってあるのね。大発見だったわ、もうけ!

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2005/03/23

あしたがあるさ

都市ガスを天然ガスに切り替えるとかで、工事にきたので、午前中から火が使えません。
明日の朝にもう一度工事の人が来るまでです。

こまるのでしょうからと、ガス会社で、卓上のコンロとガスボンベを貸してくれました。

ご親切に、っと言いたいのですが、卓上コンロではあんまり火を使おうという気がおきません。

みんな、卓上コンロを見つめながら、パンをかじってしのぐのでした。

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さて、「龍樹!君は悪いヤツ」を間違えてアップしたため、

龍樹の証言、

どこまで書いたらいいか、まとまりません。

龍樹のやったことは、一見すると、全然たいしたことない意見のようですが、

これは、論証と結びつくと大事(おおごと)になってくるのです。

ど、どうしよ、っと悩んでるところです。
あんまり深入りすると、もっと論文ネタがなくなって、困っちゃうしなぁ。

軽めにまとめるかもしれないけど、許してね。

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なんか、今日は、管理人ヤケに殊勝だな、って思ってませんか。

病み上がりの上に、パンだけじゃ、パワーが出ないのよ。

お風呂掃除したら、息切れするし…生きてるのがやっとだわ、

龍樹のことは明日考えるわ、
これ「風と共に去りぬ」のせりふだわね。

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2005/03/22

99個目の日記

この「ウェブログ」をはじめて、今日で99個の日記を書いてきました。
日記って、一個二個と数えるのかな?

ま、とにかくめでたいです。
100個になったら、どこかに保存してみようかな。
っと、いい加減に考える。

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昨日おとといと熱の中で、「龍樹!君は悪いヤツ」を書いたせいか、思いっきり間違えていたことに気づく。

し、しまったぁ。
このネタは、まだ出してはいけなかったのだったぁ。

これをメインに、一つ二つ論文を書くはずであった。
論文書いてから出す予定にしてましたが、てっきり、自分ではもう論文に取り上げたつもりでのんきに書いてた。
よく考えたら、まだ論文なんて書いてませんでした、たはっ!

ははは、どうしよ…また、熱出そ。。

アップしちゃったもんねぇ。
このままいくしかありませんわよ…わたしのばか。

こっちじゃなくて、あっちだったのだ、ネタは。くう、くやし。

ま、でもね、いいのよ。龍樹ネタ、他にもきっとあるわ、たぶん。

最近、「龍樹」伝道に目覚めた管理人は、このように後先も考えずに、

龍樹の誤解を解くため、
輪廻転生の誤解を解くため、(下宿人さま、発奮)
ついでに
この世の悪を除くため、

日夜、奔走するのでありました、熱が出ようと鼻血が出ようと。

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さて、論文の話ですが、少し「研究履歴」の方に書き足すものが出てきました。
立川武蔵先生の記念論文集Three Mountains and Seven Rivers が刊行されました。
國學院雑誌第106号特集「インドにおける神概念の諸相」も出たてホヤホヤです。
國學院雑誌の方は、いずれ論文をネット公開できると思います。

昨年は論文出ませんでしたが、今年はわたし少し働いてるかな。

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2005/03/19

龍穴にいらずんば龍児(樹)を得ず

マジですか?
また雪ですよ。30センチ。

窓なんかとっくにぜんぶ埋もれて二階にせまる勢いです。
いい加減に3月だということを思い出してよ。雪ン子ちゃん。

朝、雪かきに外に出ると、除雪のブルドーザが向かいの官舎の除雪をしていて、
独りお兄さんが車の誘導や除雪の安全確保についていました。

暇そうなお兄さんと除雪をしながら、おしゃべりする。
厳寒の吹雪の中でずっと立って仕事をするわけだから、とてもたいへんです。

わたし:寒いのにたいへんですねぇ。

お兄さん:(マイナス)五度を超える(下がるという意味)ときついけど、今はインナーのいいのがあるから、そんなに寒くないんですよね。冬山登山のインナーがあるんですよ。
それより、日焼けが困りますよ。皮膚ガンとかありますから。

お兄さん:今年はもう1月で例年の積雪量に達してるんですよ。それから、こうですからねぇ。

わたし:二冬(ふたふゆ)分いっちゃいましたね。

お兄さん:いや、ほんとですね。大雪の年は豊作だっていいますからね。それを期待して、ね、ま、わからんですけどね。


お兄さん、すっかりブルドーザに背を向けてわたしとおしゃべりし始めたので、ちょっとまずいかもと思って、雪かきはほどほどでやめる。
朝から、おしゃべりするのも楽しいわ。

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さて、龍樹問題について再び考えます。

辛口批評の昨日をふりかえって、言い過ぎたかなぁと反省してみる。
ここまでわかるだけでもたいへんなんだから、そんなにすぐ何でも解明できないよね。

まぁ、今後の課題ということで聞いてもらえば…

っと、ここまで書いて、一つ気づきました。

わたしの方法論と今までの方法論とでは、大きなちがいがあることを。

今までのやり方は、一つの作品を註釈にしたがって検討するというのがふつうでした。
だから、註釈のないものはあまり検討されないし、注釈者が何人もいる場合、注釈者同士の比較検討などが行われてきたわけです。龍樹研究というより、龍樹の注釈者研究というのが正しいのでしょう。

わたしのやり方はちがいます。
というか、調べたくても註釈ないので、そのまんま作品にずぼっと入っていかざるをえない。
作品に入っていくと、当然わからないので、他の龍樹の作品を註釈代わりにする以外方法がない。
そうなると、註釈がついているものであっても、註釈ぶっ飛ばして龍樹の作品にどんどん直接アタックするという姿勢が生まれる。

で、思うんですけど、

このやり方、悪くないと思います。

龍樹をこれから読もうと思う人に、この方法をお勧めです。

っていうのは、

龍樹の理論体系がずいぶんわかってきました。
いま、『中論』見てますが、わりとよく理解できます。註釈なしで、偈頌だけで。

『方便心論』をぜんぶ読み終えたとき、じつは、『中論』に何が書いてあるか、おおよそわかっていたのですが、
今のところ思った通りの展開になっています。

『方便心論』
『中論頌』
『廻諍論』

この三つはセットで扱えると思います。

龍樹知りたきゃ、この三つにかぶりつけ!

これがわたしからの愛のメッセージです。(「愛」だけ余計だってば)

やっぱり
「虎穴にいらずんば虎児を得ず」

といいますから

それにならうと

「龍穴にいらずんば龍児(樹)を得ず」

ということかにゃ。

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龍樹がらみだとどうしても真剣になる自分がこわい!
読んでおもしろい、「悪い子」龍樹の話でも、少し考えよ、っと。

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2005/03/18

今日は、辛(から)いです

龍樹関連の参考文献をあげてみましたが、いかがお過ごしでしょうか。

っという、文脈無視の書き出しで、ごめんなさい。

ここのところ、参考文献にあげました「龍樹もの」を読ませて頂いておりますが、かなり辛(つら)くなってきました。

たしかに、すぐれた研究ではあります。
得るところも大であります。

だけど…

一読者としてみると、読者のみなさんの不満が渦巻くのもわかるような気がするのです。

龍樹は、すごい!立派だ!すぐれている!「八宗の祖」だ!人々の尊敬を集め、論師としてしては最大級の人物だ!空だ!縁起だ!輪廻だ!涅槃だ!

というように、書かれていますが、そして、そのことを説明してくれていますが、

いくら読んでも

ああ、ホントに龍樹はすごい!

って気がちっともしてきません。
なんかペテンにかけられているような気がしてくるだけです。

ことばの対立を超えた不二の世界が、戯論寂滅なら、なんであんなに詭弁チックな論理を駆使しなければならないんでしょうか?最初から黙ればすむじゃん。


この質問に答える必要があると思います。


ゼノンの「アキレスとカメ」のパラドックスで、
「足の速いアキレスは永久にのろまのカメに追いつけない」という主張に対して、

論につまったある人は、じっさいにカメを追い抜いて、「どうだ!追いつけるだろ」と言った話もありますが、

それにならうと

「戯論寂滅、戯論寂滅」とさわぐなら、自分で黙れば戯論寂滅の世界を示すこともできように、
という気もしてくるわけです。

なぜ、そうしなかったか。そこが知りたいところでしょう。
なぜ、部派にちょっかい出したか?

なぜ?

そうしない彼の「やり方」、「方法」に、龍樹の卓越性があるのでしょう。

そして、

その「やり方」を示しているのが、わたしは、龍樹の「論理学」だと思っています。
だから、論理論理とうるさいわたしです。

これまでの研究は、非常にすぐれているけれど、龍樹の「論理学」についてはまったく述べられていないと思います。

なぜ述べられていないか?

龍樹の論理学に関するものを読んでいないからだし、龍樹の論理を探ろうという姿勢もないからです。

わたしがわからないのは、なぜ、龍樹の作品とされているものをどんどん読んで探ろうとしないのかという点です。
なぜ、後代の注釈者の意見ばかりに目がいくのでしょうか。
注釈者はみんな龍樹ほどの頭をもっているとは思えません。
龍樹の作品ぜんぶに通じているとも思えません。

水で薄めた牛乳と本物の牛乳と、どちらが好きですか?

龍樹を知りたければ、とりあえず龍樹のものとされているもの、何でも読んでみたらよかろうと思います。
ほんとに龍樹かどうか、ぜんぶ読んでから判断すればよいでしょう。

本物の牛乳をげっぷのでるほど飲んでみるのも悪くない、って思うんです。

それで、

これから、

牛乳飲むとこです。日o(^0^|)
(ほんとに飲むかね!)

ま、冗談さておき、やるべきことははっきりしてきたかと…。

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2005/03/16

伝説とフィクションと

うわっ!書いたのがぜんぶ消えてしまったい!
アップ寸前まできてたのになぁ。くぅ~!

仕方ないわ。

簡単に書くわ。

龍樹ものを書いてて思ったことです。

いろいろな本は、龍樹伝説はたぶんにフィクションだ!と述べています。
とうてい龍樹の実像にせまるものではない、とも述べています。


しかし、管理人は、そんなことない!っと言いたい。

これらのエピソードは、龍樹をよく知っている、そして、じっさいの行動ばかりではなく思想や哲学全体も非常によく理解している人が書いたものだと思います。

なぜなら、龍樹をホントによく知りたいと思って勉強してくると

この点どうだろ?

っと、どうしても知りたいことが出てきます。

この『龍樹菩薩伝』『付法蔵因縁伝』は、ちょうど知りたいと思っている当のことがらが、まさしくそこでタイミングよく述べられているのです。

すごく作品理解にも役立ちました。
エピソード3など、納得しまくり。

『方便心論』が龍樹の作だと確信したのも、『廻諍論』がブッダの論理の限界を示す作品だと確信したのも、このエピソードのおかげです。
あと龍樹が「一切知者」を名乗ったというのも、さもありなんという感じです。
自分でも、龍樹は一切知者だなぁと思ってましたから、
その言葉が出てきたときには、とても納得!


伝記は主観に満ちている表現にみえますが、それがかえって状況をよく説明してくれる。

このような主観的な表現は、じつはホントに知りたいと思う人には、すごく多くの情報を伝えてくれる

が、

おざなりに見ている人やフィクションだろうと頭から疑っている人には、ホントになんにも情報を伝えてくれない。

そういう書き方なんだと思う。
ホントに不思議なモンだわ。

一度消えたこと書くのって、けっこうつらいもんね。今日はこの辺で。

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2005/03/15

何本足りないのですか、管理人?

「ココログにバグがあるぞ!おかしいな、直らない。
『……… アイディア、出でyあ』と、変なyの文字が入ってるぞ」

っと、夫。

「変じゃないよ。それでいいの。『イディア』と『出でよ』をかけたんだから。
(yは半母音なんだから、いいかなって、思って)」

「ええ~???掛けてる?変だぞ。わかりにくぅ。
それに『龍樹!どんな人?』で、『ナーガ』は『ヘビ』じゃないの?」

(※このとき「『ナーガ』は『龍』のこと。」と説明していました。今はもう直ってます。)

「うん、『ヘビ』とか『象』の意味もあるけど、龍樹の名前の説明なんだから、いいかなって、思って」

「ええ~?…」

っと夫。

なんだ!あの「ええ~?」のあとの「…」は。
ひょっとして、あきれてるのですか。

気になる!
やっぱり直そうかな、って、思って、「龍樹!大好き」にいって直したついでに、「龍樹!どんな人?」を読んでて、気づきました。

あら!
肝心のちょー肝心の、「大乗仏教中観派の開祖」の説明がどこにもなかったわ。

いやはや、これじゃ「どんな人?」だか、わからんわね。

一番おいしいところを最後に食べるタイプだって、ばれちまったかしら。
大事なところは、あとに残して…って、思ったら、それをぜんぶ落としてしまいました。

最後に、思いついたように書き足してあるのが、「一番大事な」龍樹の説明です。

ほん~~っと、わたしって、抜けてる!
前からわかってたけど、さ。

なにか気づいたら、教えてね。
ぜったいよ!社交辞令じゃないから、まじめにあらさがして!本気でおねがい!

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2005/03/13

……… アイディア、出でyあ

本気出しましたね、雪です、雪。
30センチはつもったでんでしょうか。

1メートル58センチの身長で、3メートルくらいまで雪をはね上げて積むのは、キツイでござる。
30分くらいしかやってないのに、キーボード打ってても、もはや手が震える。
筋肉痛になるかなぁ。

さて、昨日は、論文がはねたので、うれしくなってウキウキ今後の身の振り方を考えはじめる。

HPも気になりはじめる今日この頃。
だいたい、このサイト刺激にとぼしいと思う。
非凡さに欠けるし、読者にサービスするという精神にも欠ける。
まじめさにも欠けるし、そうかといって、おもしろさにも欠ける。
ロマンにも欠けるし、ウィットにも欠ける。
学問性にも欠けるし、大衆性にも欠ける。
夢にも欠けるし、希望にも欠ける。…そこまで言わんでもええか。

ふうむ、ないものだらけですわ。
そこで、他のサイトの見分に出かけるのでありました。

モチ、「龍樹」「大乗仏教」で検索。

ほお、すばらしい。みんなまじめなサイトばかりだわ。
仏教を信じている人のサイトが多いので、とても学問的で信心深く清らかでまじめです。
けっこうむずかしいことが平気で書いてあって、レベルの高さを感じてしまう。
サイト立ち上げるくらいだもんね。

帰って、さっそく、わたしも真似して、
みんなが感動でむせぶような学問的でまじめでお役立ち感いっぱいの「龍樹情報」を載せようと、
意気込みかける。

ところが

(おっと、まったぁ~!)

という、声がする。

またかい!
ぜったい、出てくるんだわ。

(「まじめ」は、おめぇには似合わねぇ。つまらんぜ。
「まじめ」なのが読みたい人は、もっと「まじめ」なサイトに行くに決まってる。
どうせやるなら、とことん変なものにしな!
誰も来なくなるような。)

どうして、こういう誘惑に負けてしまうかなぁ。
誰も来なくなったらさびしいけど、この誘惑も捨てがたい。

トップに「インド論理学並びにインド哲学研究者のためのサイトです」という

あやしい看板が掛かっているから、カモフラージュにはなると思うわ。
ちょっと見た目には深淵っぽいかもしれないし…ぶつぶつ。

頭の中は、

おととい見つけた、龍樹のメモ・ファイル(「はしをとおるな」参照)がよみがえる。

これとパラドックスを組み合わせてっと、なんかできないかなぁ。

 


 …………

なんか考えてるから、期待しないで待っててね。

時間がなくならないかぎり、なんかしようと思うけど、時間切れだったら、またの機会にということになるわね。

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2005/03/12

へいわな一日

3月も半ば近いというのに、吹雪いてますよ、マジですか。

今年は雪も多くて、机の脇に窓がありますが、窓の半分が雪に埋もれています。
最盛期(?)は、窓がほとんどぜんぶ雪でふさがっていました。
夜になってもカーテン閉めなくていいから、楽だったが…無精モン。


それにしても、へいわだ!

誰がなんと言おうと、悪戦苦闘の論文をやっつけたからです。

論文原稿は、編集作業のために特殊な入力を要求されるのです。
管理人の事務処理能力ゼロ、という特技をいかんなく発揮しましたけど、
なんとかいわれたとおりにやったと思う。
そう信じたい!

やり方や要領が「わからないときはそのままの形式で出せ」とある。、
「わからないとき」というのは、わたしのようなケースだということはすごくよくわかる。

でも、次の「そのままの形式で」というのが、もうすでによくわからない。
どういうのが「そのまま」なんだろ?

「そのまま」って何?

こういうところで悩んでいるようでは、もうすでに終わってるのです。
それすらわからないのでは仕方ない!

要領説明のとおりにやるしかなくなったのでした。
わかっても…わからなくても…(まずいかも)。

もう提出しましたから、管理人にはあずかり知らぬこととなりました。


とりあえず、へいわだ!

あらしのまえの静けさでありませんように…

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2005/03/11

はしをとおるな

昨日、書いたらすっきりしたんですけど、論文のネタをばらしているような気もする今日この頃。

ま、いいか!
忘れたら、日記を探ればいいのは、便利だし。

じつは、こんなネタとかアイディアとか、
考えはじめると山のように出てくるので、
思いついたときになるべく書き留めるようにしている。

書き留めることも忘れるのが、なさけないところなんですが。

掲示板にある、ヘンリーさまのreasonsに相当すると思う。
あんまり速いスピードで出てくるもんだから、ヒントみたいにメモしか書いてないときもある。
もちろん、詳しい論文みたいのもある。

昨日、PCのファイルを探っていたら、「龍樹関連」のメモがひょんなところから出てきた。
それにはこう書いてあった。

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パズルはどうして生まれるか?

論理のすり抜け

メタ言語
西洋のパズル
東洋のパズル

詭弁論者を作るには?

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まだ、まだあるけど、おもしろそうなとこだけピックアップ!

すごくビックリ!はじめて見たわ、こんなの。
何考えてたんだろう?
自分で考えただけあって、項目見るだけで、すごくわくわくする。

んで、項目しかないから、もどかしいんですが。
きれいに忘れてるので、新鮮すぎる。

ふうん、項目から見たところ、パズル作家をめざしていたのかも…ンなわけない。

アイディアが枯渇するときもあるから、採っておくのはいいことだわ。

わたしの中には、二人の「わたし」がいて、常識人と非常識人に分かれてる。
3月9日「死後の世界は???」の例でいえば、(  )の中が常識人。そうでないのが、非常識。

「非常識」がわたしの大半を占めるが、楽しく「非常識」してると必ず最後に「常識」が出てきて文句を言う。
これがよくない。そこで一気につまんない考えの方に行ってしまう。

なんでこんなこと言うかというと

アイディアがいっぱいで楽しく考えてるときは夢中だけど、それをまとめたり、いじったりしてると、
「常識」が顔を出して、必ず

「そんなつまんないこと考えるヤツはおまえくらいだ」
「そんなバカなこと誰がとりあうもんか」
「世の中みろ!少し常識ってもんをわきまえたら」

とか言う。
そうすると一気に萎えてしまう。
そうか!やっぱりつまんないのか…そうかもなぁ。

こうして、「常識」と「非常識」のはざまをぬう「中道」をいくのでありました。
個人的には「常識」は嫌いだが、ないと困る気もする弱気なわたし。

ここんとこ、さいきんなんでも「中道」で、済ませてるな。
「中道」を己の道とした龍樹やってんですから、仕方ないか。

「マディヤマ(madhyama)」は、「真ん中の」という意味のサンスクリット語。
ここから派生した「マーディヤミカ」は「俺たちゃ、真ん中(中道)を行くぞと主張する学派」の意味のサンスクリット語。

別名、「中観派」と申します。

一休さんと同じです。

「はしをとおるな」

この言葉が中観派の合い言葉よ。
「中観派」という言葉がむずかしい人は、この言葉で覚えるといいわ。
わたし、こっち。

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2005/03/10

煩悩除菌剤売ってませんか

朝飯前に(ホントは済ませた)、試験の採点の仕事を二つ片づける。
なんか、一生懸命働くサラリーマンのような気分がするが、その後、ココログの操作方法を誤り、同じページをあれこれ何度もあけて混乱する。
ヘルプを一度見て閉じたら、二度とヘルプにいけなくなる。
どこ押したんだっけ?

ココログって、何だかよくわからないな。
トラックバックというのも説明読んだけど、意味がよくわからない。
トラックとくれば、バスでしょう。
トラックバスならよくわかる…トラック型のバスだってさ…どんなバスじゃ?

ここで時間を浪費してはむなしいので、ココログ研究はさっさと止めよう。

比較的今日はラッキーな部類に入る一日の予定なのです。
なぜかと言えば、炊飯器のタイマー忘れてるのを朝7時に気づくという、幸運に遭遇したからです。
おべんとがフイになるところを危うくセーフ。
ついてる!

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いろんなことしながら、自分の研究のことを考えるものだから、
必ずどちらかおろそかになるのは…

やむを得ん。(おい)

論文書きながら龍樹のことを考え、
おべんとつくりながら龍樹のこと考え、
ジャージを洗濯機に放り込みながら龍樹のこと考え、
ほうきを振りまわしながら龍樹のこと考えてたら、

うん、とうとう、わかった!

ずう~~~っと考えてたんだけど、ブッダを一番よく理解したのは、やはり世界の中では龍樹だろうと思うのよ。
ブッダの理論と実践のすべてが、手に取るようにわかってた、と思う。

ブッダにぞっこんの龍樹なのに、だけど、ブッダと同じことしたわけじゃなくて、
むしろブッダがいけないと言ったことをあえてしているところがある。

例えば、他学派に論争を挑んでいる。
論理を隠したブッダに対して、論理全開で挑んでいる。

なぜだろう?
なんで、ブッダに言われたとおりにしなかったんだ!
部派の人たちみたいに。
(だけどね、実践はブッダの言うとおりだったけど、理論ははずしてるのが部派の人たちだとわたしも思う。ゴメンよ。)

って、思ってたけど、なるほど!そう言うことか!

ブッダに言われたことをそのままやってたら、じつは、ブッダの教えを実践できないのか。
龍樹がつかんだブッダの教え(理論)を広めるためには、
実践はブッダの勧める方法ではないちがう方法をとらなければならなかったのだった。

ブッダが勧めた実践方法は、自分の教えを守ると誓いを立てた弟子たち専用のものです。
つまり、阿羅漢への道のへのセッティングなわけ。

そして、ブッダは、自分自身は、と言えば、弟子ゲットのために(露骨にいっちゃうとネ)他の思想家や沙門たちと丁々発止の論戦を行っているのです。
見かけは、論争のようには見えないかもしれないが、じっさい、かなり巧みな方法で論理を背後に潜ませて、
討論を行っている。
問答を行っている。

「討論」といい、「問答」といい、それは「論争(ブッダの説明では無益の意味が含まれる)」という語とはちがうように用いられていますが、このちがいはかなり微妙です。

たしかにブッダの立てた「人々の幸せのため」という目的に適ったものを「討論」「問答」と呼ぶならば、
暇つぶしのため、名誉のため、金銭のための「論争」「論戦」とは一線を画すことになるだろう。

このような目的をもった「話し合い」や「でぃすかっちょん」を「討論」というのであれば、
弟子たちに「討論」をまかせることがなかったのもわかる。
弟子たちは、ブッダの教えの真髄を心底理解できていないのだから、「話し合い」のつもりでやっても、
悟りの役に立たない「論争」へと変化する、なんてことはすぐ起こりうる。
だから、ブッダは、
「止めなさい、それは、わたしが専門にやるからね」
といったんだと思う。

だって、さ、他の思想家たちのうちには、「ほとんどプロだぜ!論争の」って、輩がごろごろいるんだから。
かわいくって回転の鈍い弟子が言いくるめられることなんて、いかにもおこりそう。
まだ煩悩残ってるしね。

煩悩のない(これ必須)・論理を十分熟知した・自分の体系をもつブッダだからこそ、
他の思想家を「じつは論争しながら」、論争に見せかけずに論駁し、
自分の教えに引き入れることができたのである。

(これは自分のためではない、煩悩ないんだから。
「人々の幸せのため」だけどこれも押しつけてるわけではない。
そして、というか、だから、というか、人も自発的にブッダの教えに入門している。)

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
ブッダがいたときは、ブッダの役割はブッダがすればよかった。
龍樹のときは、もうブッダはいない。

龍樹が自分でブッダの役目を果たさなくては誰がやる。教え(法)が廃れちゃう。
理論はぜんぶ手に入れた。実践修行も積んだ。煩悩もない。

自分がブッダやらなきゃ、やる人いないじゃん。
こうして、大乗仏教は、ブッダをめざす菩薩の道へと進んでいくのでありました。

龍樹とブッダでは、やり方ちがうんじゃないの?とおっしゃるあなた。

たしかに、ちょっとちがうように見える。
ブッダの時代にはまだ、ブッダのすぐれた論理体系・理論体系は気づかれてはいない。

しかぁし、

部派時代になると、ブッダの理論は全体ではないが部分的には知られてきている。
ブッダと同じ手口が使えないのよ。

なるほどね、そういうわけで、論理をかなり表に出さざるをえなかったってわけか。

わたしの龍樹研究は、誤解の研究史なんですが、最近、ようやく龍樹の本心見えてきたかなと思います。
というのは、どんどん、龍樹に煩悩がないことがわかってきて、なぜどうしてそんなことやったか、ってことがわかってきたからです。

龍樹は、
部派の人たちや
バラモン教(最近使わないけど、訳あって採用)の人々をも
さらには、なんでもないふつうの人々をも
救おうとしたんだ、ってことがわかったからです。

いままで、部派や他学派を救おうとした点は意識しないわけではなかった。
だけど、わたしは、結果としては、
「龍樹のもくろみは失敗した・余計なお世話をしただけだ」
と思ってたけど、

ちがう、まちがってた!

「煩悩ぬき」で見れば、完全に成功してる!
ブッダの思想は龍樹以降、あらゆる学問に影響を及ぼしていることが認められるからです。
ブッダの教えと知られることなく。

えらいんだ!龍樹って!

ゴメンね。悪かったわ。
わが煩悩のシミを抜く、漂白作業もまだまだのようですわ。
(煩悩除菌剤、ってのありませんか?)

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2005/03/09

死後の世界は???

たぶん、こういうことだろう。

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「人間、死んだらどうなるか」という問題は、永遠の課題としてわたしたちの前にあるように思うけど、
この問題の考え方としては、

より効果的な(?)結論をねらうなら、

「死んだら、わたしはどこに行くんだろ?」

という問題としてではなく、

「死んだのち、いないわたしがどの程度生きられるか」

という問題としてとらえた方が、実際的なような気がする。
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

っと、ここまで一気に考えました。
ハァ、疲れた!文が長いから、いっぺんに考えると、たいへんよ。

どう考えたって、

「如来が死後存在するのか、存在しないのか、…」という問題に答えて、
「このことはわたしによって説かれないことである」といったお釈迦さんといっしょで、

「わたしが死んでも存在するのか」の答えは、わたしによっては説かれないことである。
だけど、考えられることは、わたしが死んだあとも、みんなは毎日楽しく暮らすだろ、ってことです。

ずるいわ、

ってんじゃなくて、もち、楽しく暮らしてほしいけど、
どうせなら
「死んでるわたしも、みんなといっしょに楽しく生きていたい」

そのためには、どうすればいいかというと、
死んでも死んでなくても、いつも普遍的になり立つような生き方をしておけば、
生死にかかわりなく、みんなといっしょにユートピアの世界で遊べるのではないか

という、

えらく実際的(?)な考えが浮かびました…(どこが?矛盾だらけだぞ、表現が!)
普遍的すぎて、みんなわたしが死んでることに気がつかないかもしれないが…(ありえないだろ!)
ま、それなら、それでいっか…(ありえないっちゅうに!)

うっ、うるさいわね。(  )内は無視して、それで、結論です。

普遍的な生き方をするために、わたしがしなければならないこと。

それは、

この日記を書くこと…(問題でかいわりには、やることが小さい!それに、自家撞着おこしてるぞ!)

うっ、いたいわね。(  )内を重視して、それで、再度結論です。

自分の日常を書くだけなら、自己完結してしまう。
普遍的かもしれないが、それは自己一人の世界での普遍性である。
これは、別名、「おもいっきり個別的」ともいわれる…まずいんでないかい。

んで、わたしがしなければならないこと。

それは、

この論文を書くこと…(なんだ、やっぱりそれか!ごたごたいわんでさっさとやれぇ~!)

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

わかったわよっ!(  )の声は、人ごとすぎるわよ。
論文の内容ができるだけ普遍的であるように書けば書くほど、それだけわたしも長生きできると、
けなげに思っただけじゃん。

なすべきことをなし終えたお釈迦さんじゃありませんが、
なすべきことをなし終えませんと、ごたくも並べられないわ。
(  )の声って、ほんとにうるさい!

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2005/03/08

にんじん、ジャガイモ、レンコン、タケノコ

やっぱり、甘かったわ。
論文には悩まされるわ…まだ終わってなかったのよ。

…仕上げは、おかあぁさん!
(わかる?テレビの「おかあさんといっしょ」の歯磨きのシーンで最後に言うせりふだっちゃ。
ここから、歌にあわせておかあさんが子どもの歯を磨いてやるのだ。
この巧みな技により、歯磨きいやがる子どもも喜んで磨かせる。)

論文にも、これがあるとは思わなんだ。
論文も歯磨きして、体裁を磨け、っという指示がある。

だれか、「は・み・が・きっ!じょうずかなぁ~♪」って、歌ってくれんかの?

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このように論文磨きに集中しなけりゃいかんので、おべんとのおかずがめちゃくちゃワン・パターンになる。
あるもの使って作るから、仕方ないかも。
子どもが覗いて

「緑黄色野菜、ってのが全くないネ」

かあちゃんも、そう思ってましたよ。
だけど、これににんじんを入れたら、ジャガイモ、にんじん、レンコン、タケノコ、って、似たものどおしが勢ぞろいしちゃうだろ。

サヤエンドウが緑なんだから、いいじゃん。
ミニトマトは赤だし。
卵焼きは黄色だ。
ノリの佃煮で黒っと。
体裁さえ整っていれば、おべんとの中身なんて、なんだっていいのよ!

だから、ね、

体裁さえ整っていれば、ろんぶんの中身なんて、なんだっていいのよ!

って、いう気も…してき…

ちゃ…

いかん!いかん!

さぁ、やるかな!論文歯磨き。

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2005/03/06

本気で悟りたい?てやんでぇ、べらぼうめぃ!

最近、自分の才能に気がついてきてる管理人です。
「ロゴスの穴」を書いたり、また、日記みたいなものをつけたりしてきて、思うんですけど、

わたしって、

考察が巧みだと思うわ………とくに、インチキくさいとき。

書き始めてるときは、結論は自分でもわからないことがしばしば。
書いてるうちにどんどん勝手に筆が進んで、結局何となくおさまる

……というペテン師も真っ青の仕上がりぶり。

まずいわねぇ。

一方、本気出して書くときは、筆が進まないのよ。
ぎくしゃく、ちぐはぐ、行きつ戻りつ

わたしって、

考察下手だと思わざるをえない………とくに、確信してるとき。

書こうと思っても、言葉が出てこない、言葉じゃ言い足りない。
ああもどかしい、結局、一言もいえず沈黙するのみ。

……お願い、わかって、わたしの気持ち。

これじゃぁねぇ。

従って、確信とペテンのあいだの「中道」を行くことになる。
って、これまた、まずい。
自分でも、ウソかホントかわからんもん。

で、何が言いたいかと言いますと
昨日の、「主婦」と「沙門」の話、軽く考えたのに(インチキくさいぞ、我ながら)
案外あたってるかなって気が今ごろしてくる(確信できそ、我ながら)

まずっ!ウソかホントかわからんくなっちゃったっ。どうしよ。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

さて、そこで、たまに本気出してみますか。
行きつ戻りつしちゃうかな。どきどき。

ゴータマ・ブッダが悟りを開いたとき、こんな思いが生じたのであった。

「苦労してやっと証得したものをなぜまた人に説かねばならぬのか
貪りと怒りとに焼かれる人々にはこの法を悟ることは容易ではない
これは世のつねの流れにさからい、深甚、微妙、精細にして知りがたく
欲望の激情にまみれたるもの、暗闇に覆われしものには悟りがたい」
(増谷文雄『阿含経典』第六巻より)

何もしたくないと思って、法を説こうという気持ちが出てこなかったわけですが、
この時、ブッダのもとに梵天が現れて法を説くように頼むのです。

ブッダの人生の重大局面なのです。

悟りの境地についたのだから、彼はもはや悩みもなく平安の中に住するのみ。
何も望まず、何も欲せず、そのままごろんとしていれば、静かに消滅するのである。
もはや輪廻の束縛もなく、迷いの人生もない。

だから、このまま…

と、思う一方、

梵天に請われて、世界を見ると、世には苦しみもがいている人々がたくさんいて、
よい人もいれば悪い人もいる。教えやすいのもいるし、教えにくいのもいる。

どうしよ。教え…説いちゃうか…

ブッダは、自らの意志で、一つを選び取ったのだった。

人々に教えを説こう。

完全に、後戻り人生ですよ、これは。
ようやく牢獄から逃れた人が自ら牢獄の中に戻っていくようなものだ。
もはや悩みをもたない人間が、悩み苦しみのまっただ中に入っていくのですから。

それから45年間、教えを説き続けて亡くなった。
この間、彼には煩悩があったのではないか、とか、悩み苦しみもあったのではないか、とか、言う人もいる。

だって、生きて乞食(こつじき)遊行しながら、弟子に教えを説き、人々に説法する中には、
やっぱりつらいことや苦しいことや楽しいことやうれしいことがいっぱいあったんだろうと誰でも思うからです。

飢えや寒さや病気や怪我。こんなものにも苦しめられることがあったんではないだろうか。
人々が意地悪く辛い仕打ちをすることも、逆に、たいそうもてなし、こぞって教えを受けようとすることもあったろう。

そのときどき、何も感じないということはありえない。
いくらブッダと言えども、生きているかぎりは。
人々の気持ちや周囲の出来事に無関心では適切に心を打つような法を説くことなど無理だからだ。

そうあなたが主張するなら、そうかもしれない。
たしかにブッダは弟子たちや人々のことは気遣って暮らしただろうから。
そして、ブッダは人々の悩み苦しみを知って、それをよく理解できたのだから。

でも、こう言えたとしても、やはり覚者であり悟った人だと思わざるをえない。

それは、

45年間も同じように乞食し遊行し雨期に定住しという生活を続けて
一度も、35歳の時に立てた「教えを説く」という決定を

後悔

したことがない、
という一点に尽きるのです。
ただの一度も迷ったこともない。
「やっぱりあの時止めりゃよかった」というせりふが残っているということはない。

老い朽ち果てて、古い車が革ひもの助けでやっと動いていくように、
自分の身体も革ひもの助けでもっているありさまでも、

「わたしは出家してから五〇年余となった。
正理と法の領域のみを歩んできた
これ以外に沙門なるものは存在しない」

と、語ったのである。

ああ、もう、何を言っても関係ない、って感じですよ。
「一度決めたことはとことんやりなさい」を実行できちゃう男。
しかも、世俗の欲望一切振り切る人生を全うできる男。

思いっきり、自由人の人生送れていうことないぜ!
これで、悟れてなきゃ、いったい誰が悟れるってんだ、べらぼうめぇ!
めでてぇよ、お釈迦さんよぉ。

ちくしょう!しあわせものぉ~。

以上、考察を終わります。m(_ _)m

やっぱ、本気出すと、考察べたねぇ、チキショ!(ゴメン遊ばせ)

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2005/03/05

主婦(シュフ)と沙門(シャモン)の考察

とりあえず一段落しました。予想外に苦しい論文でした。

2月は、我ながら、かなりもだえてましたわねぇ。
みなさまにもいろいろご迷惑をおかけしました。

一応終わってみると、どうやって一ヶ月過ごしたのか記憶がないわ。

論文って、書いてるときは、じつはもう勉強してないのよ。
勉強したことを使ってそれをもとにしてあれこれ書くからね。

だから、こんなに長くかかると、変な言い方だけど、勉強不足になってしまう。
はやく仕上げて、あの本読もう、とか、この本読もう、とか、やりたいことがいっぱい出てきて、
だんだん論文書いてるうちにフラストレーションがたまってきたりするから、こまるわね。

ま、論文はほどほどが一番よ。
といいつつ、今年は、あと二つは書く予定です…あれまぁ。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

さて、以上書いたら、気がゆるんできて、眠くて寝てしまいました。
@@@の線の上は昨日です。

昨日書く予定だったのは、おととい書いた「インド哲学はミスがない」ということについての考察だったのだが…
今日になってみたら「主婦」について、考察してみっかな…って気もしたので、こっちにしてみよう。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

古代インド。
「沙門(シュラマナ)」は、インドでは一般に出家修行者を示すことばです。出家して修行していれば、誰でも沙門と言われる。
主に男性だが、女性の場合ですか、…わからない。いたんですか?仏教だと比丘尼(びくに、乞食する女の人)といわれる。
だから、お釈迦さんも沙門だし、ニガンタ・ナータプッタ(ジャイナ教の開祖)も沙門である。
有名無名の人がたくさん沙門になったのだった。

さて、時は現代21世紀。
「主婦(シュフ)」は、日本では一般に在家居住者を示すことばです。ハウスにいてそれをキープしていれば、誰でも主婦といわれる。
主に女性だが、男性の場合「主夫(おもにおっと)」といわれる、なんだか変?
だから、……具体例が出てこない!有名人は主婦になれないようだわ。
有名人をぬかした無名の人が主婦になったのだった。

「沙門」と「主婦(夫)」、この二つの言葉は、対立する概念です。
まず時代がちがう。性別がちがう。家との関係がちがう。

前の二つはわかるとして、最後を説明すると、家から出て行く方が「沙門」で、家に入っていくのが「主婦」なのです。

互いにきれいに別れて対立しているが、両者をつなぐ一つ重要な要素がある。
共通点といってもよいでしょう(まぬけた文です)。

それは

けっこうルーズでいい加減な分類

という点です。
この一点によって、両者は深く深く結びつき、とても親密な関係にあるのです。

とにかく家から出て行けば、誰でも「沙門」になれる。ゴータマは王子様だった。
とにかく家に入れば、誰でも「主婦」になれる。清子さまはお姫様だった。

この例でわかるように、こんなに似ている分類はそうない、っと思う。
つまり、出入り自由なわけ。家からの出入りも自由なのと同じように、この分類からの出入りも自由だというのがいいところ。

出家から家に戻る。
家キープを止めて、そこから出ていく。

要するにですよ、とつぜんですが、
この分類に含まれる人というのは、ほんとうは「あやしい」集団だ、というのが、本論の趣旨なのです。
なに言いたいか、わかんね、ってんですか?

誰でも出入り自由だから、他の分類に入らない人は、みんなこの中に入りたがるということです。
つまり、本気で修行してるのか、暇したいからそこにいるのか、よくわからないような人がごろごろしてるのが「沙門」なわけですが、

一方

本気でハウスキーピングしてるのか、暇したいからそこに居るのか、よくわからないような人がごろごろしてるのが「主婦」なわけです。

出会ってみると、よくわかる。多才なチョーおもしろ集団の雰囲気があるのです。
だから、よく知り合うまで、互いに手の内かくして探りを入れあうのも、なかなかスリリング。
え?繪を描くの?個展開くってぇ!?
え?バンドやってんの?
え?通訳してたの?
え?エアロビクスの先生だってぇ!
え?ほかに洋裁の仕事もしてるの?

こんなにいろいろあるんだから、さりげなく
「いや、ちょっとインド哲学なんだけど」と言えればなぁ…

「哲学」までなら、みんなそれでも受け付けてくれる。
これにちょっと「インド」とつくだけじゃん、なんで、そんなに引くかなぁ。

ありゃ、最後はグチになってしまいましたが、
この「インド哲学」という響きには、「主婦」に対立する「沙門」という敵対概念のにおいがあるのかも、と思ったり。
沙門と主婦、思想的には、この二つはぜったい敵対する!
ブッダも純粋の主婦には冷たかったのだった。
純粋の主婦も出家にはつめたかったのだった。


ま、そんなわけで、まとめますと、

「沙門」に「主婦」、対立しながらも、二つはこのように社会に認知されてきている。
(時代的には、前者は古代に認知、後者は現代に認知で、差はあるけど)

が、しかし、イデアの中から生まれたこれらの分類は、現実との折り合いが悪い。
(沙門の方は理想を求めることからわかるとして、主婦もイデア?そうです。今では「家」は人々の安住の場としてのイデアになっている。そして、それを守るのが「主婦」だからね。)

だから、先ほどの「出入り自由」とあいまって、どうしてもこの分類は内実が不明になり、全然関係ないさまざまな人々が入ってくるのであった(わたしも含む)。

つまり、これらの分類は、
現実にあわない人々を救いとる、「お助け」分類なのです。

そこで、最終結論!

いい加減な分類って

ホント!

…いいもんですわねぇ。

※やっぱ本音に落ち着いただけだわ。(考察はなんのため!涙)
それにしても、「主婦」の考察により、いまだ知られざる「沙門」の実態が浮かび上がるとは…やっぱり、「あやしい」集団だったのか…

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2005/03/03

仏教、キリスト教、インド哲学教

人間というのは、どんどん変化するものですが、わたしも人間なのでどんどん変化します。
最近、本気で

「インド哲学はすばらしいのではないか」

と思うようになって、その思い止みがたく、通奏低音のように常時鳴り響くありさまです。
昔は、

「西洋哲学だけがすばらしいのではなく、インド哲学だっていいところがあるさ」

っていう思いでしたが、今はそんなもんじゃない。

「西洋哲学って、けっこう欠陥が多いのね、それに比べてインド哲学は深いしミスがない」

この「インド哲学はミスがない」という点については、軽く考えてはいけないと思いますよ、ほんと。

学派の根本教典が、スートラ(短い文句で書かれたものを集めた)の形で作られているというのは、あんがい大きい。それは変化せずに、伝えられていくからです。つまり、そこには「真理」が入っているということです。

なぜそう言えるかといえば、それは、インドの人が求めているのが、そのものずばり「真理」だからだと思います。
究極の目標が「解脱」であるということからもわかります。
「真理」を知らなきゃ「解脱」できないですもん。

「解脱」なんて非科学的だ、とばかにする人もいるかもしれない。
そういう人に対しては、インド哲学は何も言わない。黙っている。
なぜかといえば、説明するのがとてもたいへんで、わかる人にしかわからないからです。

「解脱」そのものが本当かウソかということばかりに気をとられているなら、いつまで経っても堂々巡りだろう。
インドの人がすぐれているのは

「真理」を求めたら、最後は「解脱」にいたると考えた、その「論理性」にある。

ここに気がつかないなら、現代哲学はインド哲学を超えられない。
この「解脱システム」は、今まで考えられた「幸せになるための理論」のうちで最高の部類に入ると思う。
「輪廻転生」も、そのシステムの中の重要な要素なのです。

わたしたち現代人は、自分たちがそう思っているより、圧倒的に愚か者なのです。

ほんとうにそう思う。だから、現代には、悩みや苦しみが多いんだと思う。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
これって、布教かな?

お、時間がない、行かなきゃ。
なんか、中途半端だけど、ごめん。

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