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2005/02/22

老いる身でありながら老いより自由になる

日差しも春めいてまいりました今日この頃、みなさまいかがお過ごしですか。
お元気で何よりですわ。

え?管理人ですか?
いちおう生きてるんですけど…女工哀史の世界で…うう(オイ、泣くな)。

今日も今日とて、先週に続き補講に出かけて授業を二つ済ませ、帰ろうとしたら、
「あ、せんせ、試験問題ありがとございました、これ、さっそくですけど…」
っと、やり終えた答案プレゼントされちゃいました。

間髪入れず、って感じです。

「ど、ども、あのぉ、いつまでに?」
「来週でおねがいします。」

うう、きついのう。
昨日の「攻めの姿勢」も、むなしく響きますわ。
この答案で、どうやって遊べというの?
でも「遊べ」と言ったのは自分だったわね、ははは…力ないす。

でも、まだ、いくらかエネルギーが残っているらしく、論理学の授業しながら、まったく関係ない阿含経典の解釈を思いついたのは、感動モンだった。
けっこう目から鱗の発見だったんだけど、パワーがないので、驚くのも省略する。

みんなに話したいけど、これを話すためには前置きが延々といるので、これも省略する。

いつか、「お釈迦さんの言語論」というような題名の論文を書けたらいいと思うわ。
他にも、いろいろ、阿含経典の読み方では、新しい解釈をみつけているのよ。

いつか、お話しするわね。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
お釈迦さんの言行録である阿含経典には、そのときどき胸を打つ言葉がある。

どの言葉も胸を打つはずのすばらしい言葉なのだと思うけど、自分の能力がついていかないので、そのときそのとき、蛍のように、自分の琴線にふれた言葉だけを光っている言葉として拾い上げているように思うのであります。

経典の中で、その言葉だけが特別光って見えるのは、たぶん、わたしの心がそれを求めてるんじゃないかな、っと思うのですわ。だって、ときどき光る言葉が変わるからね。

それで、今、耳に残って忘れられないもののうちの一つ、それをあげます。
「半(なかば)」という題の中の「善き友」という経典。

たびたび、ブッダが「善き友」について語るのを聞いて、アーナンダはその「善き友」という主題の重さをこの道の半ばにあたるものかと考えて、自分の意見を述べるのですが…、っという内容です。

アーナンダがお釈迦さんに次のようにいいました。
「大徳よ、よくよく考えてみると、われらが、善き友、善き仲間のなかにあることは、この道の半ばにもあたるように思われます」

ブッダは、それに答えて
「アーナンダよ、それはちがう。そう考えてはならない。アーナンダよ、それがこの道のすべてである」
というのです。
そして、さらに続けます。

「アーナンダよ、それは、このことによっても知ることができるではないか。

アーナンダよ、なんじらは、わたしを善き友とすることによって、
老いねばならぬ身でありながら、老いより自由になることができ、
死なねばならぬ人間でありながら、死より自由になることができるのである。

アーナンダよ、それを考えても、善き友をもち、善き仲間とともにあることがこの道のすべてであるとわかるではないか」
(訳は、増谷文雄先生『原初経典 阿含経』より。)


「老いねばならぬ身でありながら…」の一文が、いまんとこ頭にこびりついて離れていかないのですよ。
現代人の束縛の多い人生を考えると、

「老いる身でありながら老いより自由になる」
「死なねばならぬ人間でありながら、死より自由になる」

というフレーズ、いいすね。
やっと、元気でてきたぞっと。
んじゃっ!

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