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2005年2月

2005/02/28

龍樹、手のかかるヤツ

龍樹の話どうだった?

あと、まだまだおもしろい展開が続くけど、論文にするので失礼しますわ。
できたら読んでね。

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龍樹については、龍樹専門ではないので、
ほんとうは、えらそうに何か言える立場ではないことはわかっているけど、
どうしても、一言二言言いたくなってしまう。

なぜかと言えば、彼についてはとてもよくわかるからです。
完璧に読んだものは『方便心論』一冊。
あとは、つまみ食い。

しかも、『方便心論』が龍樹の作であることは、「まだ」学会で認められているわけではない。

だから、こんなことぜんぶウソだと思う人がいても仕方ないかなと思う。

でも、あえて、

『方便心論』は龍樹の作で、
ことばについての空思想は『方便心論』の「言失」という二つの規則にまとめられていて、
それによって、当時の学問世界に衝撃を与えた

といいたい。

なぜ、そういいたいかというと、
そう考えると、彼の哲学思想関係の著作とされるほとんどすべてがきれいに解明でき整合的に説明できるからです、今のところ。

わたしに確信があるのは、

龍樹の、『方便心論』作者の、と言ってもいいかもしれませんが、
言っていることが、みなよく理解できる

からだけではないのです。

じつは、龍樹のものでちゃんと読んでない部分についても、
みなよく理解できるからなのです。

変な言い方かもしれませんが、そうなのです。
『方便心論』の内容からすると、おそらく
「こういうことも言っただろう」とか
「このことはこう考えたはずだ」とか
想像することも多いのです。
そこで拾い読みしたり、あれこれ探ったりすると、今のところそれがぜんぶピタリとあたっているのです。

ということは、彼は論理的に一貫しているということです。
だから、哲学関係でいえば、どの作品が龍樹作かということは、ほんとうは、すぐわかることだとわたしは思います。

龍樹には、龍樹にしかない文脈というのがある。

それを語ることのできた人は、龍樹以後にはいまだ一人もいないから。

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しかし、なんで、わたしがここまで龍樹に身を入れなきゃいけないかと自分でも思う、トホホですわ、まったく。

だって、龍樹に敵対してたニヤーヤ学派の研究やってんですもん。ほんとはね。

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2005/02/26

戯論寂滅(けろんじゃくめつ)とヨンさまの深い関係

完全に仕事をぶっ飛ばして、論文に突入することにした管理人です。

だけど、何だか呪われてるみたいだ。
集中できそうになると、何かが起きる。

宅配も来る。
回覧板も来る。
ゴミ当番も来る。
新聞の集金も来る。
アンケート調査も来る。
牛乳配達の集金が来る。
そうこうすると電話が鳴る。
新規メアド取得に奔走する。
買い物も行かなくちゃならん。
ファックスまでがピィーっとなる。
ファックスはとうとう半壊れになる。
韓流ドラマのビデオ取りを頼まれる。
起きた順に顔を出す息子に食事を出す。

わぁ、きれいに並んだ!ピラミッドだぁい!(何やってんだ、「ことばで」遊ぶんじゃない!)

あ、それでね、こういうわけで、そんなにはかどってる訳じゃないけど(遊んでるのもあるぞ)、
でも、とにかく論文にかかれて比較的心穏やかな管理人でした。

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さて、龍樹の話をしたいわね。
みんなに話したくってうずうずしてたのよ。

前に、よそのサイトで、
「龍樹は言葉を超えろと言って、言葉を否定している」
という内容を読んだことがあるけど、

そうじゃない!

と言いたくて我慢するのにすごく苦労したわ。
でも、今までの研究からすると、そうみんなが考えても仕方ないと思う。

それに、じつは、まったくまちがっているわけでもない。
ことばが必要なくなる境地というのもあることはある。

でもね、龍樹は、こう言ったのよ。

戯論寂滅せよ!
「ことばで」遊ぶな!
「ことばで」戯れるな。
ことばでピラミッド作るな!
ことばの虚構世界を破壊せよ。
ことばに本体はなく空なのだから。

龍樹っ!あんただって、ミニのピラミッドになってるぅ!
管理人ばっかり、攻めないでほしわよ。
戯論寂滅(けろんじゃくめつ)っていうのは、ことばによって成り立つこの虚構の世界を破壊するということだけど、

じっさいに何したかっていうと、こう言ったのよ。

これから、ことばのいけない使い方をいいます。
これはやっちゃいけない規則です。
これからはこの規則をタブーとして守るように。

規則1
「意味が異なっていないのに、くり返し述べること」

規則2
「言葉が異なっていないのに、くり返し述べること」

へぇ、なにこれ?
じゃ、具体的にいいます。

規則1の例。
カウシカと言い、またデーヴェーンドラ シャクラと言い、またプランダラと言うようなものである。

カウシカも、デーヴェーンドラ シャクラも、プランダラも、みなインドラ神の名前です。
デーヴェーンドラ シャクラは、寅さんでおなじみの帝釈天のもとのことばよ。

ふうん、やっちゃいけないのね。
別にたいしたことなさそ。じゃ、二つめの規則は?

規則2
インドラと言い、また、インドラと言うようなものである。

ふうん、別にどうってことないんじゃない。くりかえしちゃいけないってことだけじゃん。
おんなじことばはくりかえしちゃダメなのね。
例えば、「ばかばか」、って言っちゃいけないのね。

それから、意味が同じことばも使っちゃいけないのもわかるわ。くどくなるからね。
「馬から落ちて、落馬しました」、って言うようなもんね。

別に変じゃないし!龍樹って常識人じゃん。
何でこれが戯論寂滅なの?

そうかな?ほんとうに?
規則1は、よく見てごらん。これは、言い換えてみるとわかるよ、じつはすごい規則なんだから。

「同じ意味は二度と再び述べられない。言われる言葉は常に新たな意味をもつ。」

え?

いつも別なこと言うことになるわけ?

そうね。そういうことになるわね。

ええ!?そんなことできないよ!何にも言えなくなっちゃうじゃん。
一度プランダラって言ったら、インドラを意味することは二度とできなくなるなんてぇ。
「ヨンさま」って言ったら、二度とヨンさまのことは言えないのね。
「ヨンさま」のお話も一回きりだなんて、さびしすぎる!
仕方ない!次はベッカムさまにするか(おい!)。
浮気者の人生を勧めてるわけねぇ。それも楽しいかも(オイ!管理人っ!)。

あ、失礼!じゃ、インドラをくりかえす方はどうなるのよ。これも浮気者じゃないの?

規則2は、こうなる。

「同じことばが出てくるときには、たえず新たな意味をもつ」

ほお、同じことばは出ては来るんだ。
でも、その意味は前とはちがうのね。
じゃ、もう一度「ヨンさま」って言ったら、それは、ベッカムさまのことかもしれないのね。
じゃぁ、さ、浮気しても、浮気が気づかれない、っちゅう、そういう法則になるんじゃない。

ヨンさま、ヨンさま、ヨンさま。
二番目の「ヨンさま」はベッカムさまで、三番目の「ヨンさま」はイルハンさまのことでした、なんてことも起こるわけ!

信じらんないわ!
誰のこと言ってるかわかんないじゃん。

こんな規則、使えないわよ。
「ヨンさま」ひとすじの一途なわたしには無理だわ。
(いつからヨンさまひとすじになったんだ!)

いまからよ!いいのよ、何でも。
とにかく、ひとすじでも、ひとすじじゃなくても

無理!
ひどい!
ありえない!
ゆるせない!
とんでもない!
考えられない!
ことばが使えない!
言語世界が壊滅する!

あ、また、ミニピラミッド!
龍樹っ!これ、とってもひどい規則だわよ。

でも、不思議ね。こんな規則作ったら、龍樹だって、ことば使えなくなるんじゃない?
自分だけは例外、って言ったら許さないわ。
そうよね、みんな!

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
みなさん!これはほんとうに龍樹が言った規則です。
そして、この通りにことばを使いました。

どうなったでしょう?
考えてみてください。

たんに「ことばを超えろ」なんてのより、ずっとずっとすごいことがわかりますか。

まず、龍樹のこの規則によって、インドの文献研究の中で、龍樹のあたりだけが、文献学的な研究が不可能になりました。
なぜなら、文献学というのは、同じことばを比べたり、同じ意味のことばを探していったりする研究方法だからです。
「おなじことばの意味は同一である」という基本の考えに成り立つ研究方法だからです。

龍樹は、現代の文献学だけではなく、現代論理学にも爆弾投げています。
現代の分析哲学にも重要な示唆を与えています。
インドが言語論に強いのは、龍樹のこの戯論寂滅のきびしい批判に耐えたからです。

「ヨンさま」ひとすじでいけるかどうかの瀬戸際よ!
真剣に考えてよ!(まるっきり動機が不純!管理人てば)

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2005/02/24

すべての道は、ローマ、え、いや、論文に通ず

今年はホントに雪が多いです。
人に会うと

「イヤ、よく降りますねぇ」

というのが挨拶です。

とうとう、裏にある「101人乗ったらどうなるかわからない」物置が、すっぽり雪に埋もれてただの雪山と化してしまいました。さすがにこんなのはじめてだわ。
ところにより雪は2メートルはいったかな。

それで、まだまだ降りそう、ってのがこわい。
勘弁してよぉ。もう3月なんですけど。

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さて、また、
私事ではございますが、
あまりに調子よく日記を書いていたためか、

「イヤ、よく書きますねぇ」

と、人からあきれたように言われてしまいました。

ま、人に言われなくても、自分でもそう思ってたとこよ。
何か自棄(やけ)になっているかのように、日記書きまくっておりますが、
じつは自分ではなぜだかわかる。

はっきり言って、逃避モードになってるんですわ。論文から逃れようと。

このエネルギーが全部論文にまわれば、あっという間に出来上がるかもしれないのに。
やっぱ、攻めの姿勢が欠落してるのよね。

なので

心を入れかえよ。
よし!今から、論文のことしか考えないことにするわ。

そうよ!龍樹が繰り広げた驚きの批判!
現代論理学をも切ってしまうその切れ味するどい「空の論理」を何とかまとめることにするわ。

だんだん気分でてきたわ。

言葉は魔物だわ。使い方をよく知らないとね。
今度、その話書いてもいいわねぇ。
龍樹が何したか、教えてあげる!
すごいから。

論文と同時進行すれば、日記と論文と両方できるわけだしなあ。
うまく書けそうだったら、そうするわ。
でも、ダメかもしれないから、そうしたら、思いっきりずっこけてね。

久方ぶりに、「攻めの姿勢」がよみがえってきたじゃん。

あ、そうだ!『方便心論』の中の「似因」

一・七・二・一【隨言而為生過】(言葉にしたがうと誤りを生ずることになるもの)

が研究テーマだからね。予習しといてね。

るんるん!(単純思考だなぁ、管理人て)

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2005/02/22

老いる身でありながら老いより自由になる

日差しも春めいてまいりました今日この頃、みなさまいかがお過ごしですか。
お元気で何よりですわ。

え?管理人ですか?
いちおう生きてるんですけど…女工哀史の世界で…うう(オイ、泣くな)。

今日も今日とて、先週に続き補講に出かけて授業を二つ済ませ、帰ろうとしたら、
「あ、せんせ、試験問題ありがとございました、これ、さっそくですけど…」
っと、やり終えた答案プレゼントされちゃいました。

間髪入れず、って感じです。

「ど、ども、あのぉ、いつまでに?」
「来週でおねがいします。」

うう、きついのう。
昨日の「攻めの姿勢」も、むなしく響きますわ。
この答案で、どうやって遊べというの?
でも「遊べ」と言ったのは自分だったわね、ははは…力ないす。

でも、まだ、いくらかエネルギーが残っているらしく、論理学の授業しながら、まったく関係ない阿含経典の解釈を思いついたのは、感動モンだった。
けっこう目から鱗の発見だったんだけど、パワーがないので、驚くのも省略する。

みんなに話したいけど、これを話すためには前置きが延々といるので、これも省略する。

いつか、「お釈迦さんの言語論」というような題名の論文を書けたらいいと思うわ。
他にも、いろいろ、阿含経典の読み方では、新しい解釈をみつけているのよ。

いつか、お話しするわね。

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お釈迦さんの言行録である阿含経典には、そのときどき胸を打つ言葉がある。

どの言葉も胸を打つはずのすばらしい言葉なのだと思うけど、自分の能力がついていかないので、そのときそのとき、蛍のように、自分の琴線にふれた言葉だけを光っている言葉として拾い上げているように思うのであります。

経典の中で、その言葉だけが特別光って見えるのは、たぶん、わたしの心がそれを求めてるんじゃないかな、っと思うのですわ。だって、ときどき光る言葉が変わるからね。

それで、今、耳に残って忘れられないもののうちの一つ、それをあげます。
「半(なかば)」という題の中の「善き友」という経典。

たびたび、ブッダが「善き友」について語るのを聞いて、アーナンダはその「善き友」という主題の重さをこの道の半ばにあたるものかと考えて、自分の意見を述べるのですが…、っという内容です。

アーナンダがお釈迦さんに次のようにいいました。
「大徳よ、よくよく考えてみると、われらが、善き友、善き仲間のなかにあることは、この道の半ばにもあたるように思われます」

ブッダは、それに答えて
「アーナンダよ、それはちがう。そう考えてはならない。アーナンダよ、それがこの道のすべてである」
というのです。
そして、さらに続けます。

「アーナンダよ、それは、このことによっても知ることができるではないか。

アーナンダよ、なんじらは、わたしを善き友とすることによって、
老いねばならぬ身でありながら、老いより自由になることができ、
死なねばならぬ人間でありながら、死より自由になることができるのである。

アーナンダよ、それを考えても、善き友をもち、善き仲間とともにあることがこの道のすべてであるとわかるではないか」
(訳は、増谷文雄先生『原初経典 阿含経』より。)


「老いねばならぬ身でありながら…」の一文が、いまんとこ頭にこびりついて離れていかないのですよ。
現代人の束縛の多い人生を考えると、

「老いる身でありながら老いより自由になる」
「死なねばならぬ人間でありながら、死より自由になる」

というフレーズ、いいすね。
やっと、元気でてきたぞっと。
んじゃっ!

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2005/02/21

人間、攻めの姿勢ですよ、攻めの。

カレー、あらため、カコクな管理人日記でございます。

どうして管理人には次々と仕事が降ってわくんでしょう。
ぜったい、天は暇を見逃さない。
必ず暇を埋めるように仕事を降らせるのです。

しかし、管理人というのは、天の采配などへっちゃらだい、という強い心を持って生きているので、どんなときにも遊べるのです。
このように、「天の配剤などぶっ飛ばす」という、わたくしの天に対する「不滅の信仰」により、今日まで天(神)のご加護ゼロで生きてまいりました。

まったくなぁ、いばることではないでしょ、管理人。

つまり、どんなときにも遊べるというのはどういうことかというと、まぁ、なんといいますか、天を相手に遊んじゃえばいいんですわ。
ま、天の裏をかいて、むりやり遊んじゃうんですわよ。
言い換えれば、天(神)をもてあそんじゃうわけ。

お、まずかったかな。天に聞こえたらやばいかも。

別の言い方すれば、降らせた仕事を魔法の杖のひとふりで遊びに変える!
これがコツ。

どんな仕事も、楽しめれば、それは遊び。
どんな遊びも、楽しくなければ、それは仕事。

やっぱ、それにはそれなりのテクがいる。
それが、上に書いた表題の「攻めの姿勢」なのです。
攻めてるときは、遊んでいるのよ、わかった!管理人!

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何で、こんなこと書いたかっていうと、ね、はぁ、試験問題も作ったし、答案つけたし、さぁ、やっと論文、って思ったんだけど、ハァ、もう書けない…忘れちゃってる上に、もう完全に精神が萎えとる、負けてる…だ、ダメかも、って気がしてるからよ!

思い出すんだ!
天に逆らってきた日々を!
攻めだ!攻めの姿勢だ!遊びの精神を思い出すんだ!管理人!(感嘆符多すぎ!)

腕白でもいい、たくましく育て、じゃなかった

でたらめでもいい、とにかく書け!

これが論文の精神よ!
(で、でも、でも、これなら、天をもてあそんでるんじゃなくて、世間をもてあそんでるんことに…)

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2005/02/20

ヨーガよもやまばなし

昨日は、降りしきる雪の中を出かけ、ヨーガのみなさんとのお話でした。
ああ、よかった!
受けたわ。
すごく注意深く話を進めたので、けっこううまいこといったような気がする。
(そのわりに漢訳経典の漢訳のやり方なんか話して大いに脱線したが…時間の半分は脱線してた…かも)

現代人が、欲望に振りまわされ、揺さぶられ、従わされている姿をあれこれ語ったのがよかったかな。
「好き勝手」にするのが自由だと思っている、例の現代の若者の話も混ぜ込みながら話したら、けっこう納得ものでした。
コマーシャリズムは消費を煽る。
(「欲しいときに買わないとなくなりますよ、支払いはあとでもいいんですから。」)

学校は「自由」という言葉を「好き勝手」の意味で使い、そう教える。
(「整列!自由に動き回るな!」「この時間は自由行動になります。」とかね。)

どうしても「好き勝手にする」というのが、自由意志を発動することだとなってしまうのは無理ないのかなぁ。

でもその結果…
我慢できない欲望。
欲望のままに行動。
さらに膨らむ欲望。
コントロールできない自分。
満足できない自分。
不幸な自分。

現代人はつらいのです。

なんて話を。
あとは、ヨーガの心の制御へと話がふられるのでありました。
そして、自己・身体・心の構造あれこれ。

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それと、わたし的に、あらたに進展があったのであった。
(やっぱ、シヴァ神にはお祈りするモンね。)

『ヨーガ・スートラ』は4-5世紀の作と言われていますが、
その前、そうねぇ、紀元前後あたりからその辺までヨーガの学派がどうであったか、
あまり知られてないように思うのよ。
いろいろ見ても、詳しい説明が載ってないしね。

そして、『ヨーガ・スートラ』っていうのは、4章から成り立っているんだけど、
それらの中身が部分部分バラバラで統一性ないので、
いろんな部分を寄せ集めて一つの教典としたと言われているの。

八支ヨーガの部分が一番古くてあとつぎはぎ…って感じです。いい加減ですみません。
サーンキヤ思想はモチ、下敷きにしてますが、仏教の影響も強い。

いったい誰がどんなことしてまとめたんでしょうか。
管理人の意見では、ヨーガをやってる人は実践には強いけど理論は得手ではないから、
いろんな説が出回って、哲学的に確立してきた頃に、いいとこ取りした感じはあると思う。
つぎはぎしてるのも、そのせい。

ま、ここまでは誰でも考えることだろうと思うんですが、
どうもこの『ヨーガ・スートラ』に一枚かんでいるのがニヤーヤ学派の思想じゃないかって気がするのよ。
ごく一部なんですけど。
このあたり、まだまだあやしいので何とも言えないんですけど、
もうちょっとシヴァ神にはお団子でもお供えしてみれば、
もっとなんかひらめくかも…って、なんじゃ、そりゃ。

ふうむ、何か見えそうな予感…だけど、予感だけか。
それでも突破口を見つけたので、そのうち何か言えるかも。
期待しないでね。

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さあて、今日は、もう今週なのね。(よく考えちゃダメよ、この文。)
パンクしっぱなしの日程は今週にずれ込むだけだった。
なので、今週もめちゃくちゃ忙しいだけだっ!

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2005/02/19

涅槃寂静への道、ご案内します

いやはや、へとへとですわ。
試験つけてコメント書くのに今までかかってしまいました。
もう、頭がぁ…あたまがはたらきまへん。

なんというか、若駒がぴょんぴょん好き放題跳ね回ってるような文章読んでたら、ついていくのがしんどいわい。
好きなこと書いてくださいといったら、ホントにめいっぱい好きなこと書いてるんだもん。
考えることは楽しく、知ることは楽しい。こんなに楽しいなんて思わなかったと言ってるわ。
ホントに自由な思考は楽しいのよ。。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
仏教は、無我だの、非我だのと言われますが、そのような言葉にだまされて、仏教のもつダイナミックで自由な生き方という点にみんな気がついていないような気がする。

なんだ!とつぜん始まったな。

確かに涅槃を求める修行は、寂滅へと進む道なのでありますけれど、
その生き方は見ているとけっして消極的で主張のない人生ではない。
現代人の目から見ると、力いっぱい自由を求め自由を満喫している人生を送っている。

だいたい自分の肉体から自由である。
自分の身体なのに、身体の欲求にしたがわずに生きようとする。
つまり、体にわがまま言わせません。
食べたい、飲みたい、活動したい、などをの欲求を、「だめっ」っと叱ってぴしゃりと抑える。

だいたい自分の心から自由である。
自分の心なのに、心の動きにしたがわずに生きようとする。
つまり、心にわがまま言わせません。
うれしい、悲しい、いかりに楽しさ、みんな引っ込んでなさいと抑えてしまう。

「生きている」
この束縛からは逃れられまい。

イヤそんなことはない。
身体と心を抑え自由度をアップしていき
最後には「生きている」という束縛も脱してしまう。
究極の自由人だわね。

「すべてのものに汚染されず
一切を断つ者となり、渇愛が滅したとき解脱したのである。」

と、お釈迦さんが自分でいってんですから。

すべてに汚染されてないなんて、この現代の地球上じゃありえないわよ。
必ず大気汚染だの、水質汚染だのとうるさいしね、ってちょっと関係ないかしら。
さらには、一切のしがらみを断って、欲の頑固なヤツである渇愛もないんですよ。

あらゆるものから自由である、だってぇ?

そんな境地は、この世のどこにあるどんな状態なんだろう。
そして、そんなに自由でありたいのはなぜなんだろう。

そんな境地は、思考(=真理)の中にあって論理(知恵)に住しているとき得られるもの。
そんなに自由でありたいのは、喜びだから、楽しいから。

そうだったんじゃないかな。
つまり、この世の中では、それは哲学の中にある。
考える楽しみなのですよ。

言い換えれば

哲学の試験問題解く楽しみですね。

あれ?どこで、「涅槃寂静」が、「試験問題解くこと」になっちゃったんだ。
(あんがい本気の管理人の意見でしたっ)

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2005/02/17

今日の料理の時間です

今週末まで、あと三日。

今日の予定 ── 
1)感動することなく(命令!)試験をつける。
  全部にコメントつける(命令!)。
それをまとめて整理して「哲学の謎」のネタとする(限りなく夢に近い願望)。

2)用事で外出。ついでに買い物。走って帰る(体力作りも兼ねて一石三丁をねらう!何かいじましいぞ)。

3)ネタのアイディアが思い浮かぶように、シヴァ・ヴィシュヌ神に祈りをささげる。
  あ、ガネーシャ神にした方がよかったかな。学問の神様だし。
  あ、サラスヴァティー女神の方がよいかしら。文芸の神だし。(神様全部から総スカン食いそうな気も…)

ハァ、よかった。予定が立つだけでもう半分終わったようなもの。
充実した一日になりそうだわ。

昨日は、忙しいっていいながら、息子の中学校時代のおかあさん仲間との会合少々(重要会議!)
研究テーマ。「はやい!安い!うまい!おかずの徹底研究」とその発表。

おかず研究1)発表者:てきとーマダム。
1.キャベツをてきとーに切ってぼーるに入れる。(てきとーって?てきとーはてきとーよぉ。一口くらいであればどうでもいいんだわ。)
2.エバ○の塩だれをてきとーに入れる。(塩だれって?そういうのがあるんだわ。エ○ラでなきゃダメなの?あ、「うち」はそれだから。あれ、そういうモンなの。)
3.ごま油をてきとーに入れる。それと塩も少しぱらぱらっと。
4.混ぜる。
そのまま食卓に出して食べる。子どもがはまる。キャベツ一玉食べられます。料理名は?料理名ね、「キャベツの塩だれ」。そのまんまじゃ。

※この料理についてのコメント。何もこんなにキャベツの高い時期にしなくてもいいと思うけど…。

おかず研究2)発表者:律儀ママ。
1.しめさば半身を5ミリ幅に薄切り。大根を短冊に薄切りし、1%の塩をまぶす。三つ葉を3センチの長さに切りそろえる。ホントはゆず(細くきる)。なければ白髪ネギを少々。
2.全部まぜる。
そのまま食卓に出して食べる。大人がはまる。しめさばがどんなに少なくても「しめさばサラダ」と名づけられる。
あ、物足りない人はポン酢かけて。ホントはわさびドレッシングだったんだけど。

え?わさびドレッシングって何?

ああ、それね、うちは嫌いだから、覚えなくていいのよ(あれ、そういうモンなの)。

※この料理についてのコメント。何もこんな大根の高い時期にしなくてもいいと思うけど…。

いずれの料理(?)も、作った人の一家の好みというか主観が多く入っております。
文献学的には、レシピの存在は認められないが、しかし、実証的には十分料理としてなりたちうるであろう

(やってみるわ。わたしも今晩やってみる。など)

という結論に達し、散会。

女の人同士と話すと話がチョー・はやい!のは、すごくいいんだけど、チョー・アバウト!になるのが…あ、いや、これまた、いいす。(チョー・アバウトな管理人に言われたくないよね。)

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2005/02/16

忙しい?はて、そうだっけ、っと言えたらなぁ

よく考えたら、今週はめちゃめちゃ忙しいことがわかりました。
(のんきだなぁ、もう半分すぎてるぞ。)

ホントは、完全にパンクしてる。
(はやくそれを言いなさい。)

あまりにパンクしすぎていると、焦る気にすらならないという、妙に静謐な奇妙な空気がわたしの周りを流れているのでありました。
(それにしても、そういってる場合じゃないと思うよ!少し焦れば?)

論文、間に合わないしなぁ。
哲学の試験つけて感動してるのはいいんだけど、そのまま感動し続けているので、さっぱり進まないし。コメントつけて返すようにすると時間がまだまだいるけど、17日必着だし。
試験問題も作らなきゃダメだし。
さらに仕込まなきゃダメなネタもあるけど、どこから仕込んだものか。ヨーガのお話ですけど。
それと、出かける用事が三つ。
息子は、期限までのカウントダウンをはじめて脅すしなぁ。

やっぱり間に合わない。ぜったい。
(いばって言わない、管理人!)

ああ、どうしよ、オロオロ。書いてるうちに焦ってきたわ。
そうだ!こういうときこそ、哲学を使うのよ。気を落ち着けるために。
大森荘蔵の『時は流れず』でも読んだ方がいいかな。
(読まない方がいい!よけい時間がなくなるだけ!焦ってきたのはいい兆候だ!さっさとやらんか!)

(  )の中の声って、けっこうキツイわね。わたしの分身のくせに、思いやりってものがないわね。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
時間がないときに限っていろいろ書きたい。
ホントは、今、ここで書きたいことは、時間と論理について、ブッダと龍樹の密着ぶりについて、『ニヤーヤ・スートラ』のお釈迦さんべったりについて、あと弁証法と論理学とについて、他いろいろ。
だけど、全部書くわけにいかないわ。
だから、少し予告編を。

ここのうちのほんの一部ですが、ブッダと龍樹の深い関係と時間と論理の関係とについて、何とか本にまとめました。つまり、言い換えれば、お釈迦さんの論理学についての本です。今年の秋以降に出る予定です。
しばらく先ですが、宣伝してもよいとのことなのでお知らせを。

それまで、おとなしくしてるのつらいですわ。おしゃべりのわたしが…ふぅ~。
(ほれ、感慨にふけらない!日記すませて、さっさとおはじめっ!)

ふぇ~ん。それじゃ、しぶしぶはじめるか。

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2005/02/15

世界で一番つまんない科目哲学は、楽しい

哲学の試験の採点してるけど、今年は、いやぁ、本気で言いたい!

君たちすごい!

10ヶ月前は、イロハも書けない高校出たての子どもだった。
はっきり言って、文章なんて5行も続けて書ければ、えらいとほめるくらいのそんな程度だったのに。
今だから言うけど、およそ哲学に縁のなさそうな、もしかしてダメかも、っとわたしですら思うような子もいたのよ。

「自由に生きる」ということについて
ちゃんと章にわけて
(1)自由意志と本能・外的要因について
(2)free fromとlibertyについて
(3)どう生きるべきかについて
順序よく考察し、自分の生き方を(1)(2)を基にして導いているその力量は半端じゃない。
この章にわけるというやり方も自分で考えて、キーワードも自分で導き出して、そして、まとめ上げていて、その上一番えらいのは、ちゃんと自分の生き方を決めてることだ。つまり、これは、この子はここに書いたとおりに生きるということを意味してる。哲学の試験だから考えたのではなく、自分で生きていく方法を自分の意志の力で導いているということですよ。自由に生きてるよ!

二十歳前の女の子です。
この子も、とっても哲学に縁のなさそうな子だったのに。見かけで判断できないわ。
ドンだけ考えたんだろう。
授業でやったことが効果的に使われていて何ヶ月も考えていたことがわかる。
すげぇ!

他にもいいのがいっぱいある。
思わずうなるようなのが多い。
まだ読んでないけど、試験の用紙3枚綴りにして出した子もいる。

毎年、何人か目を見張るようなのを書く子が必ずいるけど、今年はそれが多いのは収穫だ。

とにかく、けっこうみんな、考えることが楽しいってことは実感してくれたようだ。
答案読むと、それがよくわかる。
実際、授業が楽しかったって書いてくれた子も多いし。
もう終わっちゃうのに、質問や疑問を書いてくる子もいて、別れがたいわね。さびしいわ。

そちらが楽しければ、こちらも楽しいのよ。
採点が楽しいって、ほんと、いいことだわ。
読んでて脳髄がしびれるようだわ。

世界で一番つまんない科目、それは哲学。
あってもなくてもいいような、一番役立たずの学問、それは哲学。
誰も見向きもしない、どうでもいい科目。それはぜったい哲学。

それがこんなに楽しいなんて。

世の中って、意外なものよね。

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2005/02/14

本は、セットッ!で買いなさい

全集ものは、必ずばらして買う本屋泣かせの管理人でございます。
つまり、セットで買ったことのないのです。
なぜそうするかというと、お金がないのと読まない巻があるのが悔しいのと実際はバラバラに刊行されるからです。

これは、そうしようという信念があるわけではなくて、必然的にそうなってしまうのです。
自分でも思いますが、こういうところに主婦根性が出るのって、ホントまずい!

あとで、「ちっ!買っておけばよかった」とか言いながら、3巻だけとか、5巻と7巻とか、ない巻を買いそろえる羽目になることも…。

「あ、それ4巻だけはもってる」とか言うと、みんなに「どうしてそんな変な買い方するんだ」と言われる。
「だって、それしかそこになかったんだもん」と言いわけしながら、「ホントは全部あっても買えないや」と思うのであった。
それは、喩えていえば次のような例でわかることです。
ほうれん草と小松菜と春菊と三つ葉と青梗菜と高菜とターツァイがあるからといって、「あ、そろってる、セットで買お」ということは、かしこい主婦なら、しないのです。
かしこくなくても、しないか、ははは。

ま、そんなわけで、わたしが買った本はバラバラなのがあたりまえ、という状態でした。
お、過去形。

気がつきましたか。
ふふふ、そうなのです。

生まれて初めて(?)セットで本を買ったのです。

この長い前ふりは、ひとえに、この偉大な事実を伝えるためのまくらことば。
いやぁ。いいもんですね。セットで買うって。あとで買い足さなくていいし。
最初から全部そろってるんだもん。

増谷文雄『阿含経典』全6巻。

神田の古本屋さんから、この全集が1セット失われました。
宅配で届いた全集見つめてしみじみ。
セットはいい!増谷文雄先生の格調高い訳はセットで読まなきゃ、ね。

買いたかったみなさん、ごめんね。
4巻までそろったのはありますが、全6巻はめずらしいんですよ、とお店の若いお兄さん。

うん、そうよね。知ってるわ。意外とみんな主婦根性なのね。
全巻買う人って、あんまりいないのよ。4巻くらいで財力・気力・記憶力が尽きるのね。
でも、セットで買ったわたしは、主婦根性もそろそろ抜けてきたかも…ふふ。

セット、セットって、うるさい!管理人!

はは、ゴメン遊ばせ。気に障ったかしら、もう言わないわ、セットって。

さぁ、ところで、せっかくセットで買ったんだから、元を取らなくちゃね。(言ってる!)
この本代の元を取るためには、いったい論文いくつ書けば…

管理人!ぜんぜん主婦根性、抜けてないっ!

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2005/02/12

言葉ってヤツは…

言葉はむずかしいですね。でも、おもしろいですね。

掲示板1854の「テスト」のように、言われてはじめて「そうなのね」と気づくこともありますし、うすうす「どうかな、まずいかも」と思いながら使って、やっぱりまずいと言うこともあります。

まずいと思ったら使うなぁ、っという声もあるかと思いますが、でも、ほんとにまずいか、まずくないかわからないので、やっぱり使って反応みたい!ってこともあるのですよ。なにせ危ない言葉は魅惑的でもありますし。

それでも、ある種の価値を含む語や、多義の表現や、「今だけはやり」というような特殊な言い方は、誤解を招くと思って避けることはあります。また、意識的に使うこともあるけどね。
それだけでなくて、何でもない日常の表現でも文脈の中で問題をはらんできたりもしますから、あなどれないですね。
例えば、どこかの首相の言った「人生いろいろ」とかね。

"How are you?"
"I'm fine, thank you. And you?"

と暗記して、必ずワンパターンに"I'm fine, thank you."と答えていたら、とうとう相手が笑って"Really?"と聞いてきたという話もありました。「仏の顔も三度」ってのは、ちょっとちがうか。

このように、どんな気の利いたせりふも、二度目に聞くともうまぬけて聞こえます。
逆に、タブー視される毒のある差別的な言葉も、うまく用いて自分の主張を引き立たせる役目をさせることもできます。

言葉には決まった用法はない。

こう言ったのは龍樹です。
龍樹の言葉で言うと「言葉に本体はなく空である」となりますね。

二度同じ川に足を入れることはできない

といったのはヘラクレイトスですが、これを龍樹が言うと

二度同じ言葉を同じ意味で使うことはできない
(『方便心論』「言失」で説かれる規則)

となります。「そうしちゃいけない」という強いきまりとして読むこともできますが、「どうせそうなっちゃうんだから」という事実として読むこともできるでしょう。

ほんとうは、よくよく考えると一度述べた言葉は二度と再びまったく同じ意味で用いられることはない、常に文脈を変え、意味を変え、新たなものが生まれてくる、と、確かに、確かに、言えるかと。

だから、「正しい敬語を使いましょう」キャンペーンがいつも失敗するのは自然の摂理なのです。おや、まちがったかな。いつも成功するのは自然の摂理なのです、といっても同じかな。
だって、「正しい」ってのが、みんな何だかわからないからです。
述べられた言葉はいつでも正しい、といえば、人はいつでも正しい敬語を使っていることになる。
敬語入っていない場合ですか?
それならますます確実に正しいです。

お客様にはこういう風に言いなさい。
例えば、「いらっしゃいませ。お待たせしました。ご注文は何にいたしましょうか。」と。

そこで誰でもマニュアルどおりに言いますが、マニュアルどおりに言っているのに誰も正しい敬語だとは思わない。

だから
店員「毎度ありがとうございます。」
客「初めて来たんだけど。」
なんて、返されちゃう。

店員「お待たせしました。」
客「はい、お待ちしました。」
うーん、イヤミね。

店員「ご注文はおきまりでしょうか。」
客「はい、とっくにね。」

ここから、わかる、龍樹の言ってることが正しいってことが。
だから、あえて「正しい言葉遣い」を決めようとすれば

くりかえされる言葉は、いつでも正しくない。

と言わなければならない。ということは、マニュアルは廃止されることになってしまうのです。

つまり、「正しい敬語推進」キャンペーンの最大の敵は、正しい敬語推進委員会の出版する『正しい敬語を使いこなそう』という、用例を収めたマニュアル本だったりするのです。

お後がよろしいようで!

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2005/02/11

古本屋さん

大雪が降った翌日東京に出かけ、吹雪いてる真っ最中に帰ってきたゆきだおれ(?)の管理人です。

若い頃、水道橋からお茶の水にかけての古書店を一軒一軒しらみつぶしにまわって、神保町1丁目あたりで力尽きて死にかけた記憶のある管理人は、今回はとびとびにまわって、何とかうまくいったかな。少し古本屋さんの数も減ってるかも?

インターネットがあるのに、と言われてしまいそうですが、本の情報はコンピュータの中に収まりきれまいということで、この目でチェック!

なんてことより、とにかく
本屋さん、とくに古本屋さんというのは、魔法の世界の入り口なのです。

言ってみれば、人間の妄想や妄念を四角くしたものが「本」と名づけられているのです。
本屋さんの中には、妄想が重なり折りたたまれて積み重なって売られているのです。

うーん、そう思えばけっこう妖しい世界ですね。だから、人を惹きつけるんですね。

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2005/02/07

お出かけ前に一考察

宗教者と学者の問題、ここまで人気が出るとは!
なぜ?

みんな、あんがいテスト好きなのかしら。
これからは、全部テスト形式にしてみるのもおもしろいかも…ね。

あれ?ところで、東京行くんじゃなかったの?

あ、そうなんだけど、行く前にちょっと考察。
宗教と学問  そのちがいとは?

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
学問は宗教とはちがう方法論で成り立っていると言われるがほんとうにそうなんだろうか?
最近、どうもこの点に疑問を感じて仕方ありません。

学問は、あくまでも客観的で実証的と認められなければなりません。
「主観的」と判断されるのは、学問にとってはいいことではありません。

しかし、何書いてあるかを知るためには、主観に頼るしかないわけで、本気で知りたいと思ったら、主観をフル回転(主観て回転するのかな?)させなければなりません。
とくに宗教的な特別の作品については、ミイラ取りがミイラになることをおそれては、その作品にせまりえないと思うようになりました。

たくさんの研究を読むと、その研究対象から多くの成果を引き出しているすぐれた研究は、必ず研究者が自己の存在をかけて取り組んでいます。最初はどうかわかりませんが、結局、自己の主体性にもとづいて研究していくとどんどん信じていくことになるのです。

ということがわかってきて、まずいぞと。

いちおう、表向きは(学問やってるので)仏教徒ではないといいながら、龍樹やってるときはほんとはまるっきりその思想に共鳴してるんですわ。つまり、どんどん信じてくる。そして、信じてくればくるほどわかってくる。わかりたいから、もっと真剣に信じようとする。

ということは、宗教者になってるんだろうか?
そうなると、西洋的な学問の定義では、もう学問にならないのかな?

知りたいから主観を活用する。
主観を活用すると学問にならない。
学問にならないと「知った」とはいわれない。
矛盾だなぁ。

だから、ね、思うんだけど、客観的で実証的っていうことは、学問研究にとって、そもそも、ほんとうに、ほんとうに成り立つのだろうか?それによって、一体何がわかるんでしょうか。

大いに疑問が渦巻いているのでありました。現在進行形でございます。
それじゃ、とりあえず、疑問のまま出かけよ。

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2005/02/06

お知らせ

今日は、午前中、雪祭りでにぎわう街中で、高校時代の古い友人に会いました。
十何年ぶりの再会。
しかしながら、同じ年頃の子どもがいるので、妙にシンクロナイズドしています。

よし、ここで一度会っておけば、後十何年会うことがなくても、これでもたせることができるわ、大丈夫、っという変な計算が働いてしまう。
言ってみれば、一点豪華主義的再会、またの名を「ワンポイント再会」。

しかし、もうちょっとましなこと考えたい!

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
さて、とつぜんですが、明日から10日まで、ちょっと出かけます。
更新できませんが、かまわず書き込みなど遊んでいってくださいませ。
帰ってきましたら、お返事などなどさせていただきますので、よろしく。

どこに行くのかって?
花の都東京です。

何かおもしろいネタでも仕入れてこれたらいいなぁと思いますが。
それより、飛行機飛ぶか心配した方がいいかもね。大雪だっ!

それじゃ。

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2005/02/04

病は、気から?どこから?

昨日は、風邪!
今年に入って、もう二度目です。軟弱ものめ!
まったく意味なく風邪引くのは止めようと思っているのであるが、思ったからといって止まないのがやま(な)い。

まったく落ちもおちんわ、風邪のせいで。

しかし、ここは念力で何とかなるのではないかと思う。

昨日は、ほんと、瞬く間に脳みそがただのみそと化して、何一つ出てきませんでした。
調子がいいと喜んでいたけど、結局、一日遅れでゼロになっただけだった。
やっぱりなぁ。世の中うまいこと行かないことがわかったのですが、だからといって手をこまねいているわけにはいかん。
世の中に逆らって生きるのが、管理人の持って生まれた性分なのだ(え?そうだっけ)。
今日からそういう性分になったのだった…??

そこで、念力の登場です。

むりやり、考察するから、見とれよ!風邪のヤツめ!
何か、まちがった方向に進んでる気もするが、いいのだ!このまま風邪の考察に突入。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
古代インド、それは『ヴェーダ』が編纂されていた頃、とっても昔。いつだかわからん。

とにかく大昔。
病、とくに、流行病(はやりやまい)は、破壊の神ルドラ神のしわざだった。
彼は、吉祥なる側面を表すときはシヴァ神と呼ばれたが、いつもは、暴風の神々群神マルトをともなって、怒りの神として暴れまくるのだった。

そうなると
人々は「悪鬼が来る」といって、子どもを外に出さないようにして家の戸をぴたりと閉めた。
体を清めてルドラ神に捧げものをして、ひたすら祈りをささげて、怒りがおさまるのを待つのである。

病気が回復するのもルドラ神のおかげ。「千の治療薬をもつもの」といわれている。治療薬を得るために人々はまたルドラ神に祈るのである。


さて、現代。
病、とくに、流行病(インフルエンザ)は、渡り鳥や家畜のしわざだった。
それらは、吉祥なる側面を示すときは季節の風物詩として喜ばれたが、いつもは、季節風とともにやってきて、そこらにウイルスをまき散らすのである。

そうなると
人々は「ウイルスに感染する」といって、子どもを外に出さないようにして家の戸をぴたりと閉める。
手洗いやうがいを欠かさず自らに滋養物というささげものをして、ひたすらじっとテレビ・ビデオを友として、怒りがおさまるのを待つのである。

病気が回復するのは抗生物質のおかげ。「千の効果を持つ薬」といわれている(かな?)治療薬をえるために人々はまた医学に祈るのである。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
『ヴェーダ』の中でも、呪術的な要素の強い『アタルヴァ・ヴェーダ』は、また、医学・薬学の源になったとも言われたりする。

人々の用いる言葉はちがっていても、やってることは変わんないです。

うがい、手洗い、人混みをさけるが予防、罹ったらあったかくして栄養をとり安静にする。効果的な薬をもらってくる。
最後の手段としてお祓いしてもらったりするのも、おんなじだわね。

現代医学が、人間の心理的側面を治療に生かそうとすると、どんどん古代医学に近づいていくってこと、あり?
どう思って?みなさん。

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2005/02/02

簡便『中道』実践法

昨日は、あんなこと(どんなこと?)書いたから、今日はきっと調子ががっくり落ちて、また、ゼロ感覚に戻っているかな、って、ビクビクしてたけど、まだそうでもないみたいだ。

よかった!

なぜかというとね、「簡便『中道』実践法」ってのを発明したからよ。
じつは『中道』は、実践方法を説明する言葉なんだけど。ほほほ。
循環論法みたいだけど、ま、それだけ実践がむずかし、ってことでもあるわけよね。
まだ、あいかわらず、冴えてますわ、管理人。

さて、その「実践法」だけどね、おしえて欲しい?
わたしも試しにやってみてるけど、なかなかいいわよ。
よし!みんなにもただでおしえちゃうわ。

とくにお坊さんのたまご(お坊さんがすでにたまごかな、ブッダの?また、阿羅漢の?)の人は、必見ものよん。

日々修行に励むお坊さんのみなさん、修行はたいへんですよね。
「中道」の実践はむずかしい、って思ってるでしょ。

でも、大丈夫!どんなに不信心でも大丈夫な方法を発明したわ。
不信心っていうか、無信心の代表者、管理人がお試し中です。

お試し期間は、返品可能だから、やってみる?

中道は、極端に寄ったらダメなのよ。
それさえ守れば、中道なんだから、この理屈を実践に行かせばいいだけ。

まず、何でもいいから一つのことをしたら

「ま、いっか」というのよ。大きな声でね。

で、「ま、いっか」という気分浸透したところで、
もう一つ、別なことをするの。
それをしたらね、次に

「なぁ~んちゃって」って、いうのよ。これも、大きな声で。

必ずこれをくりかえしていれば、ぜったい極端に寄ることはないから、中道、実践できるって寸法よ。
どう?管理人の必殺技。感心した?

……

感心してるようね。わかるわ。その表情で。
え?なに?あきれてものが言えないだけだって。失礼ね。

それに、その方法、ほんとうの中道かどうかわからないって?
そんなことにこだわっちゃダメよ。

ま、いっか!っていうのよ。そこで、まず。
わたしだって、ちょっと、そんな気がしたのよ、このすばらしい方法を発明したときにね。
でもね、これじゃいけないって、すぐわかったわ。そこで、すかさず実践したのよ。

「ま、いっか」、ってね。

なに?

なおさら信用おけない?っていうの。
あなたも、ねばるわねぇ。よし、わかったわよ。
あなたがほんとの中道を実践できてるかどうか、確かめる方法もついでに伝授しちゃうわ。
これならいいでしょ。解答付きの問題集みたいなもんだから、ね。

それは、ね、この方法でやってみて、自分の中に苦しみが生まれてこなければ正しい方法なのよ。
だってさ、中道は、とにかく「苦しみの滅」への実践方法なんだもん。

な、なるほどぉ。インチキかと思ってたけど、一理あるって。

でしょ?でしょ?
だから、さ、やってみんさいよ。だまされたと思ってさ。

そ、そうだなぁ。つらい修行が簡単そうになってラッキーだから、試してみるだけ試してみっか、な?
ほんとに苦しみがなくなったら、うれちいもんね。
よし!だまされたと思って、やってみるZooo!

その調子だぁ!がんばってね
………なぁ~んちゃって!

う?

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2005/02/01

べんきょのコツおしえます

そういえば、

よく考えたら、

HPを訪れてくれるみなさんに抜き打ちテストするって、けっこう失礼だったかしら。
その前の日には読者サービスするようなことを言っておきながら、その実、まるっきり読者にサービスさせてるサイトだったわね。

ごめんね。

謝って済むのがうれしいわ。(え、すんでない、はは)
まぁ、あなたも100点だったんだから、許してよね。二度とないかもしれないし(…は、なおまずい)。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
さて、今日の話題は…

学問の進展ぶりと日記の進展ぶりの連動性に関する比例法則

いかにもインチキくさい題名だわね。適当ぶりがしのばれるわ。
でも、ここ数日、わたしのべんきょ、ちょっと大きな進展をみてるのよ。もち、龍樹がらみで。

そろそろ本腰入れて、『中論頌』という、大乗仏教中観派の不落のとりでに、侵入を試みようとしているんだけど、入り口うろうろしてるだけで、施しものが、いっぱい、落ちてるの。
龍樹という大木の下で、龍の木の実を拾いまくってる感じ。
龍樹という木の実だから、当然、とげとげで「まずそ」だけど。収穫ありぃなのよ。

多くの研究者がみんな苦労してるのもよくよくわかった。
ろくにこちらは研究してないわたしが、なんかいうのも気が引けるけど、龍樹を研究している人にぜひぜひ『方便心論』をお勧めするわ。
すごく『中論頌』の理解を助けると思う…『方便心論』それ自体、けっこう、つらいかもしれないけど。

さて、このように、進展著しいとき、なぜか日記に書くこといっぱい出てくるのよね。
明日あさっての分も書いちゃおうかな、って思うくらい、いろいろ、いろいろ沸いてくるんですわ。
沸いて出ることは、研究に直接絡んでいるわけでないし、さまざまな事柄なんだけど、不思議だなぁと思ってね。

逆に、まるっきり進展してないとき、これはまた、つらい!
ゼロ。何にもない。
ぜんぜん何にもしてないし、何も起こらなかったような気がするときもある。
これもまた不思議!
何もないということもありえないのだが……思索…する姿を思い描くべし(考える人みたいな感じ)

ま、とりとめなく続けると、

何かがわかる直前というのが、こういうゼロ感覚がほんとの空っぽ状態から膨らんできつつある感じで、そして、いっぱいになって出てくるぞっていう、予感がひしひしとしてくるとき。
「うう、ううう」っと、待ってると、不意にそれはやってきて、「あ、なんだ、これだ、前からここにあったじゃん」って感じでわかる。

それから先よ、どんどんいろんなものが出てくるのは。
次々、もういらないっちゅうに、っていうぐらいいろいろ出てくる。自分の中から、そして、いろんなものの中から。

そういうとき、べんきょすればいいの。何見ても、何でもわかるし、何読んでも手に取るようだ。
手に取るような感覚のときは、本物だなって思うわ。でも、こういう感覚はすぐなくなるから、焦るわね。

本物じゃないときもわかるのよ。どっか、わからない感じが残ってるもの。
すごく嫌な感じ。まぁ、奥歯に物がはさまって取れない感じに近い。
こうやって、「すっきり感覚」をメジャーにして、自分で確かめながら、進んでいくのね。

ふう!こういうこと書くつもりだったんだっけ。
ま、いっかな。わたしも「すっきり」したし。

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