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2005年1月

2005/01/31

「マニカナ」サイト期末試験の時間ですっ

おはようございます。みなさん。
今日も元気そうで何よりですね。
さて、「何より」なのにつけ込んで、とつぜんですが、抜き打ちテストをします。

えーっ!抜き打ちテストぉ~!とつぜんするなんて、ひどいぞぉ~!

ひどくありませんっ!「とつぜんですが」と、いいました。
ちゃんと、「とつぜんですが」と告知しているので、とつぜんではないのです。
かりに事実とつぜんだったとしても、「抜き打ちテスト」という性格上、とつぜんするのが「抜き打ちテスト」なので、正しいのです。きりりん!くいっ!(眼鏡を指で押し上げる効果音)

何かひどい詭弁だなぁ。すたこら退散するかな、ぼくちん、テストはチョー苦手。

あ、こらこら、そこのあなた、「戻る」をクリックしようとしましたね。いけないわよ。
テスト受けてちょ。
すぐ分かる問題だから、さ、逃げないでよぉ~、誰でも解けるように、問題やさしくなってんですから。

何か、こんどは、やけに懇願調だな。じゃ、ちょっと受けてみるか。

よかった。問題作った甲斐があったというものだわ。
それでは、今日の問題は、宗教と学問のちがいについて、聞きます。
選ぶ問題だから簡単よ。問題文を読んで答えてね。

【問題文】
「宗教」と「学問」は、もちろんちがいます。そのちがいはつぎのようなものです。

宗教は、( あ )をその本質にしています。だから、宗教者には( A )があるのです。
一方、
学問は、( い )をその本質にしています。だから、学者には( B )があるのです。

【問題1】
( あ )と( い )に入る言葉を、次の中から選んで、それぞれ答えなさい。

1. 信ずること  2.感ずること  3.行うこと  4.疑うこと

(あ)の答え(           )  (い)の答え(          )

【問題2】
( A )と( B )に入る言葉を、次の中から選んで、それぞれ答えなさい。

1.安楽   2.信仰   3.探求心   4.馬力   5.疑惑   6.超感覚  7.妄念   8.困惑

(A)の答え(           )  (B)の答え(          )

むずかしかったかな。
さて、みなさんの答えを見てみるかな。

★フム、
「宗教は、( 信ずること )をその本質にしています。だから、宗教者には、( 信仰 )があるのです」か、
どれどれ「学問」はどうかな。
「学問は、( 疑うこと )をその本質にしています。だから、学者には、( 探求心 )があるのです」

ふうん、よくできるじゃん。これは、センター試験用の正解ですね。

★じゃ、次の答え。
宗教は、( 疑うこと )をその本質にしています。だから、宗教者には( 疑惑 )があるのです。
一方、
学問は、( 信ずること )をその本質にしています。だから、学者には( 妄念 )があるのです。

ほぉ、よくできるじゃん。これは、地獄の閻魔大王用面接試験の正解ですね。

★じゃ、次はどんなかな。
宗教は、( 感ずること )をその本質にしています。だから、宗教者には( 超感覚 )があるのです。
一方、
学問は、( 行うこと )をその本質にしています。だから、学者には( 馬力 )があるのです。

ほお、これまた、めずらしい答えだ。これは、現代科学の試験問題の正解ですね。

★さて、次はどうかな。
宗教は、( 行うこと )をその本質にしています。だから、宗教者には( 安楽 )があるのです。
一方、
学問は、( 感ずること )をその本質にしています。だから、学者には( 困惑 )があるのです。

ほおお、これはぁ、またまた、おもしろい。信者と学生の立場に立った試験問題の正解ですね。
スポ-ツ生理学でも、この答えが出てきますね。ン?どういう発想じゃ!

最後がちょっと???になってしまいましたが、それなりに成り立ってるところがこわいすね。

みんなよくできるなぁ。
他にも答えがあったらおしえてね。
選択肢も自由に増やしてよい、という但し書きもつけておこうかな。

なかなか、試験て楽しいじゃん。全部正解だとね。

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2005/01/30

今日の話は長いよ!でも長いだけ

今年に入ってどうしたわけか、カウンタがいきおいよくまわってますね。
管理人の頭の中では一年でおよそ10000人という数をはじき出していたのですが、な、なんと一日に40人を超える日もあるという盛況ぶり。一年経たずに10000人を超えてしまうわ。

どうしよ。

って、どうもしなくてもいいんじゃない。
こういうもんは、管理人がどうこうするもんじゃないとおもうのよ。

でもねぇ、何となく、なんかしなけりゃいけないような気がするのよ。
お客様はおもてなしをせねば…っていうか、かもを逃しちゃ…お、まず。ほほほ。

って、何すりゃいいのよ。

皿回し。

って、そりゃ、アホです!

うーん、うーん、じゃ、まじめに、インド哲学よもやまばなし。

って、おもしろそ。

だけど、ネタない。

って、ないなら言わなくていいのっ!

うーん、うーん、インド哲人列伝。

って、おもしろそ。

だけど、出てくるの一人だけ。

って、言わなくてもそうだろうと思ってたわよ。

うーん、うーん、インド御伽草子。

って、おもしろそ。

だけど、あんまり読んだことない。

って、もう!
そういや、「インド論理学ABC」ってのはどうなったのよ。きれいさっぱり忘れられてるわよ。

あ、やば!じつはね、インド論理学ABCのネタは『ニヤーヤ・スートラ』とその註釈からとってたんだけど、読者にはむずかしすぎると思って…。

って、読者のせいにしないでよ。アンタが分からないだけじゃないの?

うーん、ばれたか。結局、ね、体系つかみきれてないのよね。断片的には、何とかなるんだけど。
思ったより、ずっと体系立ってるのよ。悩んでるのヨン。

でも、がんばるわ。一つ、読者を逃さないために(わはは、露骨に出たわね、本音が)分かったお話しするわ。
出血大サービスだからね。
知ってると、みんなに感動されちゃうから…ってことはないわね。

『ニヤーヤ・スートラ』の作者はね、前にも話したけどアクシャパーダって言うのよ。
アクシャが「目」、パーダが「足」。足目でっす。変な名前、っていっちゃいや~ん。
彼は、論理学の大家で、どんなところでも誤りを犯すことがなく、足に触れたものですらものごとを正しく見通したのよ。だから、こんな名前なのかしら。

彼は、また、ガウタマと言われている。でも、インドの学者たちは、仙人ガウタマが独自に述べた論理学上の規則、原則といったものを、アクシャパーダが受け継いでアレンジして作ったものだと考えてるのよね。
それから、もう一つ、仏教批判が見られるから、ブッダよりいくらか後の時代のものだとも書いてあるわ。

※S.S.Barlingay,A Modern Introduction to Indian Logic,New Delhi,1976(2nd Rivised and Enlarged Edition).
の第二版用の「序文」から。

仙人から受け継ぐというのはよくある話だわ。あるいは、その前に、様々な神から受け継いだという伝承を伝えることも多いのよ。ブッダよりいくらか後というのは、ほんとうはありえない話だわ。600年以上は後に出来たと思うわ。龍樹(紀元後150-250年)の頃だから。

で、何が言いたいかっていうとね、「インドの学者の説は、誤りだ」ってことじゃないの。
じつは、一理あるってことなのよ。
ほんと、インドの人が言うことは、侮れないわ。

ブッダのいくらか後と考えたのも、無理ないわ。それほど、この『ニヤーヤ・スートラ』には仏教の、いや、ブッダの思想の影響が濃いわ。批判的に受け継いでいるのよ。
さらに、仙人から受け継いだというのもわかるわ。人間業ではないくらい高度な論理学だからよ。
足で触れたものすら見通す、というのも、いい加減なことではないのよ。ほんとに論理で見通しているからだわ。

前々から思ってたけど、「ガウタマ」という名前。これは、立証は出来ないけど、何らかの意味で「ゴータマ・ブッダ」と関係してると思うのよ。龍樹に対して、アクシャパーダが「俺の論理学の方が、ブッダの論理学を受け継いでいるぞ、俺こそゴータマだ」と言ったのかもしれないと思ったりするけど、ここだけの話よ。立証できないんだから。

インドの思想って、知れば知るほど、インド人の言うことの方がいつも正しいって思わざるをえない。
表面的には、確かに、まちがっていることが明らかなこともある。
だけど、それは…なんというか、まちがっていても、どうってことないことよ。たんなる歴史の問題だわ。(お、大胆な発言です、いいのか、いいのかぁ)
哲学的に見れば、いつも正しい情報がその中にあるんだから、いいのっ。

以上が、特別大サービスのお話よ。
なに?どこがすごい話だ?言い伝えを述べただけじゃん、って?

久方ぶりに感動した話だったんだけどな、管理人としては。
この感動を分かち合いたい、40人の来訪者のみなさんとともに
…よけいなお世話ですか…やっぱりね。

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2005/01/28

最後の授業、フランス(仏)・バンザイ、おっと仏教・バンザイ

アルフォンス・ドーデー作『最後の授業』のイメージで読んでみてちょ。

気にするほどではないかもしれないけど、哲学で仏教を最初から扱うのは、どうも遠慮しちゃう管理人です。

仏教は宗教だと思われてるだろうと思って、ちょっとやりにくいような気がします。
あら、もちろん、仏教は宗教なんですけど、だけど、哲学や思想の重要な部分も占めるので、管理人的には、仏教は哲学・思想・論理学なのです。

それで、哲学の授業でも小出しにして、我慢できなくなってしゃべっちゃうという感じで仏教についてはやってまいりました。

今日で最後だったから、思わず、力いっぱいしゃべっちゃったんですわ。
心の分析。心作用。アビダルマの世界少々。

自分の心を観察して、どんなときにどんな思いが生じたかを書かせて、それを分析したのよ。
いろいろ出ました。恐い経験、けんかしたとき、がんばったとき、悲しくなったとき、うれしくなったとき、ほのぼのしたとき、後悔したとき、恐い先生におこられたとき…。みんな正直にあれこれ、あれこれエピソードをあげてどんな気持ちがしたか書いてくれました。

ま、そんなたいした分析じゃないんだけど、どれどれっと、やってみましたよ。

喜怒哀楽の他にも、ねたみ、そねみ、おそれ、うらみ、嫉妬、高慢、わがまま、後悔、悔恨などなどいろいろあげまくり。
ほんと、仏教ってすごいわ。108もの煩悩を数え上げるその根性と分析能力と、そして、心の変化の多様性。
あきれちゃうほどですが、こうやって、わたしの思いつくかぎりの心の形容をあげて、

じゃーん、これらは、全部どこからともなく生じては、そして、また、消えていく。
自分で心の中の変化に気づいたら、意識したら、その心の変化は消滅していく。
そうでしょ、みんな!

だけど、一つだけちがうものがある。
そのどれともちがうの、それがが自由意志だぁ~!
自由意志は、消えていかない。成就するまで、じょうじゅ、いや、常時ある。どおだぁ~!
(ここは仏教にはない、わたしオリジナル、そして、『最後の授業』のシーンを思い浮かべるのよ。ドイツに併合されるフランスの悲劇を!)

帰りなさい。授業はおしまいです。(ちょっと、くさいすか)

っと、熱弁して授業を終えたのだった。へぇ~へぇ~、ぜぇ~ぜぇ~。

終わったら、学生さんたちがきて、仏教書を教えてください、僕のフィーリングにピッタリだって、うふっ。
けっこう、いろいろ紹介しておきました。
下宿人さまのが多かったす。すぐ出てくるのが、下宿人さまのだったモンで。

やっぱ、仏教は最初から出さないで、ちょこっちょこっと、ありがたそうに出すのが引きつけるコツかもね。
しかし、わたしも、あの無味乾燥風な味付けと思ってたアビダルマを、こんだけ楽しそうに語れるなんて、詐欺師の素質ありかしら。
それに、今回やけに芝居がかってるし。

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2005/01/27

中道

ざつに考えると、ボロがどんどん出てきて困っちゃいますね。(欲のお話です)

真理を探りたいのか、つじつま合わせをしたいだけなのか、わからなくなってくるのが、さらに困っちゃうところ。
でも、ここまできたら、欲の二つの分類で極めてみよう。

A「目に見える欲」とB「目に見えない欲」という分類は、変な分類に見えるかもしれないのですが、これで大丈夫だと自分でまだ思っているのは、やはり、その構造です。
何でも構造だな、それしかないのか、って?

まぁ、そうなんですよね。とりあえず構造が大事。何せ論理学やってるもんで。
なぜ、大丈夫かというと、この二つの分類で、全部を言い表せるからなんです。
どんな欲も、この二つのどちらかには収まることになっているので、何とかなるかと。
それに「目に見える」というのは、みんなの合意を得やすいということでもあるし。
その分類方法をめぐって紛糾しにくい「分類」というので、第1番目に採用されました。ぱちぱち。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

さて、それで、A主体の人の欲については、かなりクールに極めた(?)ような気がするので、B主体の人の欲について、これもクールに見つめたい。

Aの人の欲の考察に使われたのは、Bの人がよりどころとしている「人と人とは繋がりたい欲」でした。
これにもとづくと
「金持ち=意地悪」という構造が得られたわけですが、

「意地悪」というのは意地悪な表現なので、当然、Aの人はあんまり良い気持ちがしないのです。

それで、Aの人は反撃します。
当然です。
Bの人がよりどころとする「人と人は繋がりたい欲」、これは人間のサガではないとまず認めます。
「人は互いに繋がりたくない欲」というのも、同時にもっているのです。
こちらを本来と認めましょう。
そうなると、どうなる?

「ボランティア=余計なお世話」

という構造が出てきます。あるいは、「ボランティア=自己満足」でもいいかも。

これは、ねぇ、ピンときますわね。息子が、がっこの授業の一環でボランティア活動しに、とある施設に行って帰ってきたとき言った言葉。

「ボランティアってさ、結局、受け入れ先が、ボランティアなんだよな。能力ないとボランティアにならない。」(身に染み染み…)

人助けをしているつもりが、気がつくと自分がボランティアされてたということはよくあることです。
「繋がりたい欲」を追求するあまり、他人の生活に入り込んで、おじゃま虫になってしまうというのもありますね。

ふーーん、むずかしいなぁ。
結局、「繋がりたい」というのが、人間のサガではなく、「欲のなせる業」と認めると、Bの人はうまくいくのかもしれません。
Aの人が言うように、「繋がりたくない欲」というのも認めると、ボランティアはその本来の力を発揮するかもね。
こんな感じ。

自分がほんとうに役立つか冷静に見極め(Aの人の目線)ボランティアしたら(Bの人の目線)、さっさと帰る(Aの人の目線)。

人的貢献と国が言うとき、一番むずかしい局面は貢献そのものより、いつ帰るかってことだろうね。引き際の見極めがむずかしい。(ところどころ、ねねさま説を採用させていただきました。)

そんなとこから、大乗仏教の菩薩行の精神が出てくるかもしれませんね。
救うも救われるも空、っちゅうことですか。(ああ、何かちがうな、たぶんこの文ここにおくのはまちがい。だけど、どうまちがってるかわからないので、検討するために消さずに書いておきます。誰か、わかったら教えて。)

結論としては、欲に生きてるわたしたちは、いつでもAとBの釣り合いをとって綱渡りのようにして生きていかなければならないということがわかるのではないでしょうか。
それは、とってもむずかしいですが、AとBの二つの極端によらず、言い方を変えると、「繋がりたい欲」と「繋がりたくない欲」の二つによらず、「中道」を生きるということになっちゃうのでした。

…あれ、お釈迦さんや龍樹の言ってることとおんなじになっちゃった。

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2005/01/25

欲ばりは、人間のサガ

童話って、おもしろいですね。
これ、けっこうはまりそうだなぁ。

子どもの頃、おとぎ話や童話のたぐいをしこたま読んで育ったのだった。
だから、こんなよい子が育ったのですわね。

     ………

あ、わかりましたよ。その沈黙は止めて。
だから、こんなに思考が単純なんです。こう言えばいいのか…ぐす。

しかし、管理人が子どもだった頃、あまりに童話のたぐいを読み過ぎて、とうとうこんな考えに至ったのだった。

必ず出てくる人は、二種類しかない。
金持ちで意地悪なお兄さん(おじいさんとかおばあさんのときもある)。
貧乏で心優しい弟。

「金持ち+意地悪」と「貧乏+やさしい」はかならずセットになっていることに、かしこい管理人は気がついた。
いつも、これ。なぜ?なぜなのだろう?

たまには逆の組み合わせがあってもいいのではないか。
「金持ち+やさしい」と「貧乏+意地悪」、こういう話を作ったらどうだろう。
そして、子どもながら、おとぎ話に挑戦してみたのだった

さて、それはどうなったでしょう…

むかしむかし、金持ちでやさしいお兄さんと貧乏で意地悪な弟がいました。
優しいお兄さんは貧乏な弟がかわいそうだったのでお金をあげました。
意地悪な弟はお兄さんからお金をもらってじゃんじゃん使いました。
そして、「こんどは立派な家が欲しい」だの「こんどは召使いと馬車がほしい」だの言うのです。
お兄さんは断れずに弟に言われたとおりにしてやりました。
しばらくして見ると、貧乏でやさしいお兄さんと金持ちで意地悪な弟になっていましたとさ。おしまい。

あれ?
結局、「金持ち+意地悪」と「貧乏+やさしい」は離れられないのか。

Aのタイプの「目に見えるものを求める欲」の人は、どうしてもものに執着するから、他人とは距離を置かざるをえない。必然的に人からは意地悪く見えてしまう。

Bタイプの「目に見えないものを求める欲」の人は、他人と関わらないと求めるものは得られない。ものは、コミュニケーションの道具というか、それの媒介をする潤滑油みたいなもの。だから、お金は貯まらない。

ま、これは構造的なものなんですかね、現実はともかく。

さて、インドでは、これに輪廻転生と業(ごう)の思想が、この「金持ち+意地悪」と「貧乏+やさしい」という構造を破壊する新たな要素として加わるのであります。

良い行為をすれば、来世は良い家に生まれるのです。
悪い行為をしたものは、悪い境涯に落ちてしまうのです。

金持ちは必然的に意地悪だから、これまた必然的に悪い境涯に落ちることになり、貧乏人は必然的にやさしいから、これまた必然的に良い家柄に生まれることになっちょる。

うううん、輪廻転生すると、人間って、あんがい平等みたいすね。

ところが、これで「な~んだ、平等なんだ、よかった」と納得するわけではないのが、人間なのです。
どんなところにも欲の抜け道というのはある。やっぱり欲のかたまりなんだわね、人間て。

来世で悪い境涯だぁ、っと手をこまねいているわけにはいかん!
どんどん功徳を積んじゃえば、来世はやっぱりお金もちぃ!

こういうわけで、インドのお金持ちは寺院や貧乏な人々にお布施や施しを欠かさないのでした。

なんか、めちゃくちゃドライですよね。「優しい気持ち」なんてゼロでも、とにかくお布施をすれば、功徳を積むことになるので、ドライにお布施。ドライに施し。そして、もらう方も、結局自分の来世のためにやってるって知ってるから、ドライに受け取る。功徳積ませてやってるんだ、って感じですか。いやぁ、ほんとにドライだわ。
貯金をするように、善悪計算をするのがおもしろいなぁ。

どんな思想にも、欲の抜け道を見つけ出すところが、人間のすごいところです。
人間って、ほんと欲ばりだなぁ。

しかし、だからおもしろいかも。欲ばりバンザイ!

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2005/01/23

千夜一夜インディアン・ナイト物語

管理人の欲しいもの…でっかいママさんダンプ(雪かきスコップの巨大なもの)と雪捨て場。

夕べから、雪かき人生です。
雪の降り方が、マジに真剣!
雪かきして、やれやれとふり返ると、雪かき前と同じくらいの雪が積もっているという恐怖の雪かきスパイラル。

「欲」と戦う、管理人、掲示板の書き込み(1827-30)により、ねねさま理論を拝借、新たな段階にレベルアップをはかるのだった。

え?人の理論を使うなんて、ずうずうしい?
それに、「無欲の人」理論が宙に浮いてるぞ?

あら、ほんと。まずいわぁ~。何とかしなきゃ。
統一するために、新たな概念を導入して…っと。

え?なんか調子いいんじゃないか、って?

わはは、まぁ、かたいこと言いっこなしよ。
基本的にはそんなにずれてるわけでもないと思うのよ。
何せ、管理人も、欲の皮は突っぱってるからすぐわかるのよ。ほほほ。

それじゃ、「欲物語」の始まり、始まりぃ~

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
さて、このお話に必要な新たな概念は

A「目に見える欲」
B「目に見えない欲」です。

世の中の欲は、この二種類に分類されます。
あるところに二人の兄弟がいました。お兄さんは、デーヴァダッタ、弟は、ヤジュニャダッタといいました。

お兄さんは、目に見えるものが大好きで、目に見えるものは何でも欲しがる人でした。つまり、Aの人ね。美しい妻とかごちそうとか車とか豪邸とかブランド品とか宝石とか飛行機とか船とか島とか山とかプリンタインクとかママさんダンプとかフッ素加工のフライパンとかおろし金とかでした。

なんか最後の方、やけに著者の生活臭がただようなぁ、ですって?
そんなことないわよ。多趣味なのよ、デーヴァダッタは。

デーヴァダッタは、欲しいものを「全部」手に入れるために、ただ「ひとつ」のものを手に入れることにしました。それは、お金でした。で、お金を得るために、えげつなく何でもしました。それで、お金はどんどん貯まりました。(話が単純!)

そして、上に書いたもの全部リストアップして買いそろえましたが、なにかとてもむなしく足りないような気がしました。だって、みんなが、「あれ、あれが強突張りのデーヴァダッタだ!何でももってるくせに、何でも欲しがる」というからです。(これまでAのみ)
それを聞いて、彼は、さびしくなって、「目に見えるもの」がそんなに欲しくはなくなりました。かれに、はじめてちがう欲が芽生えてきたのです。「目に見えない欲」の登場です。(Bの登場)

「強突張り」と言われたくない、という欲求です。
じゃーん、デーヴァダッタは、先日話した「無欲の人」という称号が欲しい人にナッタノダッタ。

でも、でも、それってどうやったら、手に入るんだろ?目に見えないので、わかりません。
単純思考のデーヴァダッタは、「わかった!買えばいいんだ」と思いました。

それで、大災害にあった人たちを救う募金に、お金を寄付しました。
彼は、とてもお金の価値に関してはよく知っていたので、けちけちしませんでした。こういう見えないものは、値段を高めに見積もるのが損をしないコツなのです。だから、3億円なんてけちなお金ではなくて、300億円にしました。ちょっとふところは傷みましたが、効果は抜群。みんなが「デーヴァダッタは、すごい!無欲の人だ!」と尊敬するようになりました。
「尊敬」…良い響きだ、ハァ~、わたしの欲しいもの、目に見えない欲しいものはこれだった、とデーヴァダッタは豪華な高殿から美しい妻ラクシュミーとガンジス川を臨んでつぶやくのだった。

デーヴァダッタのAとBの欲は、こうやって完成したのです。

一方、弟のヤジュニャダッタは、兄さんとちがって、目に見えるものには執着しませんでした。目に見えるものは壊れていくことを知っていましたし、なくなったらどうしようといつも心配しているのもいやでした。

夢見る若者ヤジュニャダッタは、目に見えない欲の中では最高に価値があると言われる「愛」というものが欲しくてなりません。(B主体)
あるとき、彼は町で、チョーかわゆい、山姥(やまんば)ギャルのパールヴァティー(「山をもつもの」の意)に出会って一目で好きになりました。ゲットするなら、彼女の愛です。彼は、彼女に尽くしまくりました。アッシイ君をやったり、アッシイ君をやったり、アッシイ君をやったり…あれ?貢ぐ君は?

なんか、話が空回りするんですけど。ずっと、アッシイ君ばかりだと永遠にアッシイ君だぞ。
愛を得たいなら、別の手段も使いなさい。
そこでコンビニバイトで貯めたお金で「指輪」を買って、「僕は一生、君をアッシイします(アイシッますのつもり、き、きんちょー)、結婚してください」と言いました。

ギャルのパールヴァティーは、ヤジュニャダッタを好きでしたが、さらに指輪とアッシイが加わると文句なしだったので結婚しました。

しかし、ヤジュニャダッタは幸せではありませんでした。彼女は「デパートでお買い物するからアッシイしてよ」とか「コンサートに行くからアッシイして」とか言って、当然のようにこき使うのです。
目に見えない「愛」というものを手に入れるのに、指輪と勤労奉仕という目に見えるものを手段としたのはまずかったのか。

ヤジュニャダッタは自分の愛が冷めていくのを感じていました。自分は一体何が欲しかったのだろうと思いました。
山姥となったパールヴァティーは(あれ、ギャルが取れてるぅ)、ヤジュニャダッタの変容に、さすがにわがままばかりでまずかったと心から反省しました。
彼女は、腐っても元ギャルなのです。山の娘パールヴァティーなのです。元は純情なのです。「やばい」と思った彼女は、ヤジュニャダッタに○丸デパートで買ったカシミアのセーターをプレゼントしながら、心をこめてこう言いました。

「いつもアッシイしてくれてありがとう、ほんとは感謝してたのよ」

ヤジュニャダッタの心ははればれしました。(Bの完成)
セーターは「目に見える欲」の象徴のようですが、じつは愛の証しなのです。彼は生涯ぼろぼろになるまでこれを着ていました。(二度と買ってもらえなかったから、っていうのもあったのかもしれませんが、何せ愛の証しだかんね。)
(Aもプラス)

ヤジュニャダッタのAとBの欲は、こうして完成しました。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
デーヴァダッタの場合は、あくまでもA(目に見える欲)が主体ですね。Bを満足させるにもその手段はAを用いている。

ヤジュニャダッタの場合は、B(目に見えない欲)が主体で、Aはあくまで補助ですね。Aは手段にすぎません。このAの要素がのさばってくるとヤジュニャダッタはつらくなるわけか。

それにしても、見え見えの話だなぁ。
現実はこんなにうまくいくんですかねぇ。

※デーヴァダッタの妻にはヴィシュヌ神の妻ラクシュミーを、ヤジュニャダッタの妻にはシヴァ神の妻パールヴァティーをお借りしました。謹んでここに御礼申し上げます。

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2005/01/21

問題いろいろ

なかなかにハードな一日でした。

どうもいろいろ問題多いしなぁ。
授業でかみあわないなぁと思っていたら、やっぱりおかしい。

「自由意志」の話。
いまの若い子は、例えば「ダイエットで誘惑に負けてお菓子を食べる」というのが、自由意志だと思っている風がある。食べたいから食べる。自由じゃん。ってことか。
ダイエットしようと思った自由意志が、お菓子の誘惑に負けたのではなく、「やっぱり食べたいからお菓子を食べよ」という自由意志に変わったのだという。
また、例えば、授業中居眠りをする。「眠たいから寝る」、これが自由意志だという。

そうか、だから、地下鉄でお化粧したり食事をしたりするのか。

欲求と自由意志との区別がつかない。
そして、「~したい」となると、その衝動はなかなか抑えられないと思っているようだ。

まだ数は多くはないけど、何人かの若い子の感覚器官や心の作用は、このように非常にもろく弱く、そして、鈍い。

何となく、心配になりますわ。人生、これで大丈夫なんだろうかと。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

と、心配したところで、さて、昨日の問題。

無駄を省いた欲の中には、「矛盾」が結晶してる。

そもそも「欲」というのは、待ったなし、という特徴がある。
だから合理的に無駄を省いて、「すぐ欲しい」となる。瞬間的なのだ。
それから「欲」は、自分が「欲だ」といわれるのが嫌いだ。
「欲以外のなんか」と言われたい。
例えば、「お金が欲しいのではない、正当に報酬を受け取りたいのだ」とか。
だから、「欲なのに欲でない」という特徴をもつ。
これも、待ったなしに、同時にいえるから「矛盾」なのだ。

ふう~ん、あんがい、言えてるんじゃない。

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2005/01/20

欲も極めれば「悟り」の境地

昨日は、ふっふっふ、朝飯前のたった五分で悟りの境地至った、超能力者、管理人でございます。
社会の真相を鋭く探り、真実を見つめる、炎のランナー、管理人。

炎のランナー、ってのは?
人生を疾駆しとるからですわ。ゴールは近い!ん?

超能力者ってのは?
朝に日記を書くからですわ、その日の分のヤツ。ん?

悟りの境地ってのは?
この社会を動かす原動力が、人間の欲と節約であることを知ったからですわ。

節約ってのはいらないんじゃ?

何言ってんすか!
無駄を省くというこの合理精神が欲と結びつくとき、その欲は、もっとも輝きを放って最高の欲にアウフヘーベンするのよ。

「アウフヘーベンする」って?

「不純物ゼロになる」ということよ。
つまりね、「愛の結晶」と同様に、欲の結晶というものができるのだわ。

愛の結晶というのは、子どもですが、欲の結晶というのは?

それは、ボランティアで謝金よ。

ボランティア(自発的な善意=無欲)という称号つきで謝金(欲の対象)をゲットするからよ。
つまり、その人がもっとも欲しい究極のもの、それを、節約という思考経済の原理によって手に入れるからよ。

何だかわけわからんすね。
とりあえず、じゃ、もっとも欲しい究極のものとは?

いやぁね、そんなことわかるでしょ、欲におぼれた人がもっともほしがるものよ、あててご覧なさいよ。

え?なんだろ?でっかいダイヤモンドじゃないよね?

何言ってんのよ。
答えはもう言ってるのよ。
「無欲の人」という評判よ。
ほんとだったらぜったい得られないのよ。
ほんとは「欲の人」なんだからさ。
そして、だからこそ、得られないからこそ、欲しいのよ。
のどから手が出るほど欲しいその評判とともに、謝金という実利も逃さないのが、無駄を省く節約精神のなせる技よ。

ほお。すごいすね。

そうよ!すばらしいわ。どうせなら、ここまで極めたいわっ!
ここから、ひとつの真理が得られるのよ。
欲するままに生きてるあなたのための、欲の立場を極めた「悟り」の境地をしめす言葉よ。
ロール・オーバー・ゴータマよ。いい?よく聞くのよ。

はいっ!おねがいしますっ!(わくわく、しんり。しんりぃ)

よろしい、伝授してつかわすぞ、このHPの読者限定でな。
しんりは~

無駄を省くと、結晶ができる!※

どうじゃっ!すんばらしい!真理の上を行く真理じゃ。

???
わくわくして損しちゃった。どこがすばらしいんだ?!
ま、でも、ただで「真理の上を行く真理」をゲットしようなんて、「真理の上を行く真理」の上をいく究極を超える「欲」を出したのがいけなかったかな…真理超えちゃったもんね。

※ 欲にまかせて行動し、しかも、無駄を省くと、あるものが結晶しますが、それは何でしょう?
二字の漢字で答えましょう。(答えは明日)

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2005/01/19

論理か欲か…論理も欲も…ですか?

先日、プラシーボ効果に絡んで「治験」のお話をしましたが、インターネットで検索してたら、いろんな角度からいろんな情報や意見が得られました。
医療の立場からの問題点や、患者サイドの意見、法律上の問題、倫理上の問題などなど。
現実とは、かくも複雑に展開するものか…っと、ながめてましたら、ひとつぜんぜん雰囲気のちがったページがありました。

ボランティアで謝金をもらおう!

という、るンるンメッセージでした。
ここで管理人、突如、悟りの境地に至ったのであります。

あ、これだぁ!真理は。

たてまえでは、確かにいろいろむずかしい問題はあるけど、結局この制度を支えているのは、

善意のボランティア(で謝金)なのだ!
そして、善意のボランティア(で謝金)はなくなることはない…( )がなくならないかぎり。

わたしって、けっこうかしこいかも。
次のような、真実をつかむ至ったからです。

わりと複雑に見えてごちゃごちゃした問題が次々生じているときは、論理的にきれいに解決できないからだ。
しかし、問題が無秩序のまま放置されるなら人間社会は成り立たない。
だから、問題は早急に解決されねばならない。
一連の事柄を貫く理念や論理が見つかっていないが、しかし、早急に問題を解決せねばならないとき、
論理の代わりになって秩序を導く「理念もどき」といいましょうか、そういうものが必要である。

論理に代わるその代用品、「理念もどき」になりうる唯一のものは…それは、人間の「欲」である。

論理をベクトルとして生きるか、欲をベクトルとして生きるか、人間どっちかですね。

論理がなければ欲がある。(これはたしかだ)
論理があれば、欲は…あるの、ないの?

論理があって欲がない場合、悟りの境地だわね、きっと。
論理があって、欲がある場合、迷いの世界、つまりわたしたちの世界だわよ。
あるときは、論理を優先し、あるときは、欲におぼれる…仕方ないすかね。

朝から哲学しちゃったわ。
ほんとはぜんぜんちがうこと書こうとしてたんだけど…治験に参加して謝金をもらい節約する有能な主婦の話だったんだけどなぁ…どこでどうまちがったんだか…

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2005/01/17

誘惑の甘い罠はどこにでもある

とつぜんですが、仕事ですっつ、パートⅡでした。
先週は、えらくつらいなぁと思いましたが、今日は慣れたらしく、楽勝。

15日、ココログ不調。ぜんぜん中に入れなくて書き込みできない。
16日、管理人多忙。中に入れたが暇がなくて書き込みできない。

17日、今、順調に書き込んでるところ。あ、読んでるからわかりますね。

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さて、久しぶりに本屋に寄る。
なんと中公文庫に梶山・瓜生津訳『大乗仏典 龍樹論集』14が入ったことをキャッチ。
ううむ、すばらしい!
少々文庫にしては高価だが、貴重なものだから仕方ないかなぁ…。

と、思いながら、やっぱり高いので書棚にもどす。ありゃ。

仏教関係のものをやるようになって、研究や翻訳がたくさんあるので、ずいぶん楽だなぁと思う。
索引などもそろっているし、ほんとに便利だと思う。ありがたいすよ。
龍樹のものでも、ふつうなら簡単に読めないものが、すぐれた訳で読むことができる。

なんて幸せなんだ。

…っと、思うが、また一方で、これは甘い罠だとも思う。

原典と格闘しないと読んだ感じがしてこないし、やっぱり、読んだことにはならない。
サンスクリット語やパーリ語やチベット語や漢訳、ヒンディー、おせんにキャラメル。
どんな言語でも、結局自分でやらなきゃダメだわ。

そうだから、へたに訳があるとよくないのよね。しかもすぐれた訳なら、なおさら。

矛盾だよなぁ。

翻訳に引かれてそこにある問題に気づかなかったり、まれに誤訳があっても翻訳の読みを鵜呑みにして気づかないこともある。
一度先入見をもつと、それを訂正するのは至難の業だ。

その危険性を考えると、はじめから翻訳を見てしまうのは避けるべきだと自分でも思うのよ。
でもあるとつい便利だからぱらぱら見てしまうし。

ああ、ほんとにハムレットの心境よね。

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2005/01/14

医学と論理

とつぜんですが、仕事ですっ。っという感じに始まりました。

朝7時に家を出て4時前に帰宅。
その間、座れたのは汽車と地下鉄、あとベンチ。
ほぼ8時間近く立ってた計算になるのか。

休み明けで身体がなまっているので、きつ~。
鍛えなきゃダメだわ。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

看護師さんに教えている論理学は、最近どんどん変容してきている。
もはや、論理学とは呼べないのではなかろうか。

いや、そんなことはない。
西洋哲学からどんどん遠ざかっていることは確かだけど。
これは「ブッダが説いた論理学だから」と言いながら、因果律の見つけ方を伝授する。

やっぱ、これだわ、因果関係。まず、看護師さんたちに必要なのは、これよ。
医学の基礎におかれるのは、因果関係よ。

インドの医学の考え方には、因果関係が基礎にしっかりあって、それを補完するように演繹的な論理学が存在している…ような気がする。
インド論理学の構造(主にニヤーヤ学派)がだいたいわかってきた…ような気がする。
何か、看護師さんに教えながら、自分で教わっている…ような気がする。

看護師さんに論理学教えられて、ほんとにありがたい。
この「られ」は、受動と可能の両方の意味があるわね。
教えることができて、さらにわたしも教えてもらえてラッキーだわ。

なんか新たに開眼しそうな予感がしてきているのよ、論理学の分野でね。

いままでは西洋論理学は絶対的なものだと思ってきたけど、どんどん自分に西洋論理学批判の芽が育ってきているのはおもしろいことだと思う。
まじめに考えると西洋論理学は、けっこうおかしい。
なんて、こんなせりふ、去年なら絶対言えなかったなぁ。

西洋論理学は、西洋医学の役に立っているのだろうか。
西洋論理学は、科学の役に立っているのだろうか。

どうもあやしい。論理実証主義が出てきたのも、ある意味、必然だと思う。
印象では、論理学が使える領域を模索してたんじゃないかと思う。どうかな。
で、結局、西洋論理学は現実には使えない論理学だ。
これは、はっきり言って大丈夫だろう。だって、自分でさんざん使おうと苦労してダメだったんだから。

ここで、はっきり言えることは、これに対して

インドの論理学は、じっさいにインドの医学の基礎を固めているということだ。

ふーむ、もう少し勉強しなくちゃな。どのように基礎固めをしているかはっきり話せるところまで。
西洋論理学よりインド論理学の方が、この点では出来がいい…ような気がする。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

以上の文章から「…ような気がする」という部分を取り除くようにがんばるわ。

ところで、プラシーボ効果って知ってる?
薬理効果のない偽薬をプラシーボとかプラセボとか言うんだけど、これを患者に投与して「痛みに効きますよ」とか言うと、ほんとに効いてしまうのをプラシーボ効果と言うんだそうです。プラセボは、乳糖とかデンプンとか生理的食塩水とかです。これで効いたら、いいよね。

ところで、新薬の治験には、このプラセボを用いるグループを入れて新薬と偽薬で治験を行うのだそうだけど、そこにはどんな論理があると思うか、って、学生諸君に聞いてみた。
つまり、実験の中に、なぜ「偽薬を投与する」という条件を入れなければならないのか、とテストで聞いたんだけど、どんな答えが返ってきたかな。
言ってる意味最後までわかんない子もいたみたいだから、どうかなぁ。

むずかしいね。

新薬がほんとに薬理効果があるのかどうかを調べるためには、新薬そっくりの偽薬を使うグループを入れて、しかもお医者さんにも新薬か偽薬かわからないようにして(二重盲検法というんだそうで)、実験する。偽薬で治療効果がどのくらい出るかを参考にして、新薬の薬理効果を計るんだろうね。
偽薬が効いて、新薬を上回ったりしたら問題外だわね。
新薬が効果を発揮し、偽薬の効果があまりないというようなデータでも得られれば、新薬許可になるのでしょうか?

どんな基準なんだろね。それに、やっぱり知りたい、どんな論理がそこにはあるんだろうか。

行き当たりばったり風に見つけ出した方法ってこと、あるかしら?
患者さんの心理的な影響力を入れないで薬理効果だけ客観的に抜き出すというのも、ありかしら?

わかんないす。

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2005/01/13

整理整とんとんとん…おっとっと

こう、なんというか、だれてる日を過ごして、日々の雑事を片づけていると、整理整頓してきりっと目的をもった清く正しく美しい人生を送らなくてはならないような気がいつもしてくる。

そういう自分を見ると、「わたしって、ほんとうに清い性格なのね」って思う。

だれ?そこで吹きだした人!

わかったわよ!正直に言うわよ。
思うだけで、実際やってることはその逆よ。

ほんと整理整頓できないタイプだわ。ったく、何で、いつも本が雪崩れてるんだろ。
いろんなファイルだの、雑誌だの抜き刷りだのが山積みになってて、なんで、いっつも下から引っぱり出さなきゃならないんだろ。
たまには上に乗っかっててもいいと思うの。
必ず探しているものの中の一番最後に求めるものがあるというこの絶対的な原則はなに?

ほんと歌のせりふじゃないけど、「さがしものは何ですか」の世界だわね。さがしもの人生よ。

「探す」

なぜさがすか?わすれているからよ。なぜわすれているか?…う、言いたくないけど、記憶力がゼロだからだわ。
覚えていれば探さないわ。探すものは、忘れないようにと書いておいたものよ。あるいは書いてあるものよ。

なぜ書いたか?忘れるからだわ。
何だか循環してきたわね。

でも、書いたことを覚えていれば探せるわね。書いたことすら忘れてしまうようなら、もう探さないわ。

ところが、何を書いたかわからないけど、もしかして、忘れないようにとなにか書いたかもしれないと思うから探してみる、という「探す」があるのよ。

これこそもう究極の「探す」だわね。

すばらしいわ……?

つまり、何を探しているか、それを探すために、探しものをするという、自己完結型の「探す」こそ

真に「探す」といえるのでは……ない!そんなわけないでしょ!

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まじめに考えると、人生とはかくの如きものかと…

人生の意義を探す、それすなわち人生→自己完結→自己矛盾→パラドックス(でた!久しぶり)

ということは、人生って、なくてもいいのかな?

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2005/01/11

惰眠をむさぼるとろくなことを考えないの巻

昨日は、熱っぽくだらだら寝たり起きたりしてしまう。

家族は、当てにならないとわかるとテキパキ自分でし始める。げんきんなやつだ。
夫もテキパキポカリ○ウェットとバナナを買ってきて、わたしの枕元にお供えする。

まだ、はやい、死んでないっちゅうに。

そして、わたしはポカ○スエットで水分補給をしながら、まったく愛情表現に欠けると思うのだった。
わたしもげんきんかな。ははは。

することがないので、ぼうっと寝ながら思索にふける。
愛情表現で思い出したので、愛について考える。なかなかグーな話題だわ。

ブッダと龍樹には、愛をささやく能力があるだろうか、っという超難問に挑む!
なんだ、また、ブッダと龍樹か、ですって。
いいじゃない、いろんな可能性に挑戦しないと学問とは言えないわ。

そういう問題に取り組むと学問じゃなくなるような…って、ま、気にしない、気にしない。

さて、真剣!
ブッダは、ね、これは、経典の随所で背が高くてすらっとしてて姿形がよく気品があってたいそう美しいというようなほめ言葉が見られるから、単純に言うと、かっこよかったのね。
アジャータシャトル王が、沙門の群れの中にひときわ気品のある姿を認めて、あれは誰だとたずねるくだりがあったと思う。うろ覚えだけど。

そして、説法がとても上手。相手の説いた詩でも何でも、それを受け取って、ちょっと変えて返歌するようなことをよく行ってる。粋でおしゃれな詩人だわ。あんがいでしょ。みんなを感動させることしょっちゅうだから。
また、理論肌でもある。論争を挑む者には、情け容赦ない論理の矢で論敵を射るのよ。かっこええ!

だから、これらの考察により、
ブッダは、その気になれば、つまり、煩悩さえあれば、愛をささやいて、ヨンさまクラスには軽くなれたと思うわ。
惜しいわ。あ、間違えた。

すぐれたお方だわ。(とってつけたふう)

さて、一方、龍樹!あんたよ。
わたし、心の中では、けっこうマジにほめ言葉ないか伝記や因縁譚を探ってるのよ。
かっこいいの「か」の字でもないかなって、探してるのに、これがひとつも見つからないのはどういうことなの?
え?いったんさいよ。

だいたい隠れ蓑の術を使って王宮に忍び込むなんて、なさけない伝説からして、もてないタイプということは歴然としてるわ。
「君の瞳に乾杯」なんて気の利いたせりふ絶対出てこないわよね。

「瞳がとらえたものは幻である。この世には男もなく女もない」てなこと言って、嫌われそう。
「女性の身体は糞尿の器である」てなこと言って、ひっぱたかれそう。

だから、これらの考察により、
龍樹は、その気になっても、つまり、煩悩がいくらあっても、出家のみちしかなかったってことになる…よかったね…なのか?

すぐれたお方だわ(とってもとってつけたふう)

ああ、疲れた。こんなこと考えてたら、もっと熱でそう。

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2005/01/09

他人の痛みはとくに痛いのよ!

昨日今日とかなり冷えてます。
寒い中、遠くの郵便局に出かけたら、どうも風邪を引いたようだわ。
頭が働かない、体が動かない、やる気が出ないの3「ない」状態です。

そこで、柔道の嘉納杯を見る。
井上康生選手のやる気パワーをもらいたい。
が、見てると右肩を痛めたようで、何度も気にして顔をしかめたり肩を回したりしている。

痛いの痛いの飛んでけぇ~っと言ってみるが、わたしが言っても飛んでかない。
あたりまえだ。

結局、痛めた右肩を押して内股で一本とって優勝しました。ぱちぱち!ブラボー!
しかし、痛いぞ。

優勝インタビューで

「プチッという音がしたんですよね」

という井上選手の言葉をきいて、わたしは優勝の感激が肩の痛みに全部変換。

それで、気持ちが萎えて、やる気パワーなんかゼロになっちまう。

他人の痛みはわからない、他人の痛みを感じることはできないというのが、哲学のテーマになることが多いけど、そんなことない。

他人の痛みも痛いですぅ。
井上選手の肩の痛みは、あの会場のみんな感じてると思うよ。
わたひだって、いたひ、ひぃ、ひぃ~。
ほらね、痛いのよっ!

頭が働かない、体が動かない、やる気が出ないだけだったのに、これに

肩が痛い

がふえちゃって、4「ない」状態になっちゃった。だめだこりゃ。寝ようかな。

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2005/01/07

お釈迦さんとダイエット

またぞろ忙しくなってきましたよ。
北海道は、冬休みというのがあって、大体1月半ばから下旬まで休みが続くことになって、おる。
この「おる」という文末の表現は、増谷文雄流の言い方です。
『原初経典 阿含経』読んだら、移っちゃった。

さて、いつもなら、まだぐだぐだと正月気分を引きずって「おら」ねばならんのだが、こどもが部活でがっこに行ってしまうので、もう5日からふつうの生活に戻ってしまって「おる」。すっかりはまる。

だから、内地(ないち)感覚です。(注 「内地」とは、北海道以外の日本のこと。管理人の辞書による。)
せわしない感じですね。仕方ないす。

さて、下のお話は、札幌のF・E・ヨガライフ協会で毎月発行している新聞「未来」(2005年1月5日発行)に寄稿しましたものです。
著作権とかどうなってるかわからないけど、自分で書いたもんだからいいかな。

このダイエットのお話は、印象に残っていて、いつか書きたいなと思っていたのですが、ちょうどヨガ協会の人から依頼があったので、ほいほい書いてしまいました。
短く書かなければならなかったので、こんなになっちゃった。

さらに、このお話は増谷先生も印象に残っていたようで『原初経典 阿含経』の中にも二度ばかり登場するお話です。先生の訳の方がいい訳だなぁ!しまった。もっとはやく気づいていれば、先生の訳を拝借したのになぁ、くやしっ!

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お釈迦さんとダイエット
                          
 あけましておめでとうございます。今年もヨーガとともにインド哲学もよろしくお願いいたします。
 「一年の計は元旦にあり」と言われますが、今年こそはダイエットしようと思われている方に、こんなお話はいかがでしょう。東南アジアに伝わる古い仏教聖典(『サンユッタ・ニカーヤ』)の中にあったダイエットのお話です。

 コーサラ国のパセーナディ王は、一ドーナの量のご飯を食べるのがならいだったそうです。一ドーナとは、あまりよくはわからないのですが、およそ七ポンド、つまり三キログラムくらいのようです。カレーと混ぜて食べていたのかもしれません。それにしてもすごい量ですね。だから、王様は食べ終わってから、大きなため息をついたのでした。苦しかったんですね。そのとき、お釈迦さんは、ため息をついたのを知って王様に次のように言いました。

 「常に心を落ち着けて食べ物をえても食事の(ほどほどの)量を知っていれば、苦痛の感覚は弱く、ゆっくりと消えていき、寿命を保つのである」

 そこで、王様はスダッサという若いバラモンにこの詩偈を習って暗記するように言いつけました。そして、食事のたびにこの詩偈を唱えるように言ったのです。そして、詩偈を聞いては、徐々に食事の量を減らし、最後は一ナーリカーにまで減らしたと言います。これは細い管につめられる量でとても少量を意味しています。王様は、すっきりした身体をなでながら「尊師は、二つの利益を与えてくださった。現世の利(このスリムなボディ)と来世の利とである」と言ったそうです。お釈迦さんはむずかしいお話をするだけではなくて、こんな悩みも解決してくれていたんですね。
 今年こそは、わたしも、ダイエット、三日坊主になりませんように。

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それにしても、インドの人は山ほど食べますよね。
むか~し、インドで汽車に乗ったとき、昼ご飯を頼んだら、ターリという、お盆にカレー数種類とスープとチャパティとご飯とあと塩、レモン、ヨーグルトなどを盛ったものがでました。
チャパティは、ぺちゃんこの無発酵のパンです。それ2枚とご飯(けっこうどっさり)を食べると、お腹がいっぱいになり、どっちかというとはち切れそうになりますが、同席していたインドの人は、さらに2枚チャパティをプラスして、それからご飯を同じ分量おかわりしてました。すごい!

ごはんとチャパティはお代わり自由だったので、日本人の実力を見せようと、内心、インドの人に対抗意識を燃やしておかわりをねらって食べましたが、完食したら、もう苦しくて死にそうだった。パセーナディ王よりひどいありさまだわよ。
小食の日本人なら、チャパティ2枚でも、十分かもね。

だから、ごはん3キロと聞いても、軽くうなずける。
ちなみに、お釈迦さんはスリムなのよ。経典のどこかに書いてあったわ。

さて、ところで、
「お釈迦さんとダイエット」に書いた最後のせりふ、いかにもとってつけたふうで真剣みがありませんなぁ、われながら。
これじゃとってもやせられないや。

え?三日坊主になってるだろ。ってんですか?

残念でした。なってません!失礼なっ!

だって、…だって、まだ、はじめてないもの…

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2005/01/05

一応、おとぎ話のつもりなんすが…

この日記の頭に日付がはいることがわかりましたので、日付を入れます。

「バックナンバー」って、どうやってみるんだろ、っといろいろ探りを入れてる最中です。
あ、「バックナンバー」っていうとこ、クリックするのか~。

少し使いこなそうと考えてますが、使いこなせそうもないような。
ダメだったら、「ロゴスの穴」に逆戻りしちゃうなんてことは、いくら管理人でも避けたいかも。
なさけないすね。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

さて、今日はね、仕事してるから、飽きちゃったのよ。
何で「仕事してるから」と「から」がつくかというとね、仕事すると自動的に飽きちゃうように管理人には制御装置が付いてるからなのでした。

飽きちゃったので、ひとあそび。

それでね、いっつも、このつまんない日記読んでもらってる、読者の皆様方に、新春のお年玉をプレゼント。
おとしだま…落としだまし…おとしばなし…おとぎばなし(ほお、やっと、たどりついたわい)をプレゼント。

は~い、始まり、始まり!

カニシカ王のお話をします。カニシカ王はおよそ二世紀の人。月支国の王様です。人並みはずれて勇ましく、志は雄々しく、向かうところ敵なし、征服すべき国があればこれを征服しました。

といえば、聞こえはよいが、つまりは

たくさんの人々を殺し、その数三億余人にも登りました。さすがに、王様、将来の罪は重いことを知り、心におそれを生じたのでした。そこで、懺悔を行い、布施を施し、戒を保って、僧房を建ててたくさんの僧侶を供養し、功徳を積むのに一生懸命でした。

そのとき家臣たちはこんなことを言いました。
「あんなに多くの罪をなして無軌道に人を殺害したのに、いま福をなしたとしても、もう行った罪咎には何の益にもならないだろう」と。

時に、王様はそれを聞いて次のように言いました。
「大釜に水を入れ七日七晩熱し続け湯をたぎらせ。」

王様はそれから指輪をひとつ釜に投げ入れ
「この指輪を釜から取れ」と命じました。

臣下は
「とても指輪は取れません。どうかわたしを死罪にしてください。」
といいました。

王様
「それなら、何かうまい方法でとることができるか」

臣下
「下の火を止めて、上からは冷たい水を注ぎ入れれば、やけどせずに取り出せます」

王様は、そこで、答えて言いました。
「わたしが最初に悪をなしたのは熱した大釜のようなものだ。しかし、いまは、後悔して懺悔をしたくさんの善をおこjない悪行を行ってはいないのだから、どうして罪が滅しないことがあるだろうか。地獄にいくことはなく、人間界、天界も得られるだろう。」

臣下はみな感動して喜びましたとさ。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

『雑宝蔵経』巻第7の94から、アレンジしてお届けです。
何か、虫がいいお話ですね。いかにもインド人の考えそうな善悪の損得勘定が、ドライでステキ。
これは「よい子のための仏教」ではなくて、「悪い子のための仏教」って感じでしょうか。

このあたり、大乗仏教華やかなりし頃だと思いますが、けっこう、話が陰惨なのよ。
戦争や飢饉などがひどかったらしく、時代的には暗いんです。だから、『雑宝蔵経』読むと、ううっと暗くなります。
人殺しや強盗や、他にもいろいろ近親相姦っぽい話まであったりして、おとぎ話とは言えないんですけど。

歴史とも伝承ともおとぎ話ともつかない因縁譚が、インドインドしてますね。
けっこう、こういう話の中にほんとのことが隠れていたりすると思うんだわ。
インドだと何でもありだし。

この時代あたりの経典などなどを見ていくと、なんとなく現代も似てるかな、なんて思ったりしてね…

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2005/01/04

忘れものには気をつけて

1月4日(火)
この「ココログ」って、どうも信用おけないわねぇ。
1月に入っているのに、左のカレンダー昨年の12月のままだったりして、直すのに悪戦苦闘しちゃったわ。
いろんなとこ、やみくもにクリックしまくったら直ったんだけど。
どうして直ったのかしら。わかんないわねぇ、ははは。
それに、「ココログ」に書き込もうとしたり、読もうとしたりすると、入れないこともよくあるし…宣伝文句ほどよくないわよ、みんな。

だから、最初に日付書き込むことにしたわ。

昨日は、よく勉強したわ。日記書く暇なかった。
『瑜伽師地論』関係の文献やテキスト調べて、読んで、定方晟氏の『カニシカ王と菩薩たち』を完読して、捜し物してたら増谷文雄氏の『原初経典 阿含経』を見つけたのよ。知らなかった、この本もってたの、もう、ばかだわ、わたし。
それで、思わず、これも読んでしまい、感動!
お正月そうそう、ほんとにいいものを読んだわ。すごい先生だと思う。
「来たれ見よ(アヒパッシカ)」という言葉について、勉強する。ここは、前からよくわからなかったからありがたかった。感謝感謝。

それで、サンドイッチ作って、冷凍ご飯で炒飯いためて、戸棚整理して、去年の暮れに買った紅茶見つけたと思ったけど、それは、もう一昨年のまちがいだったことに気づいて、みんなでむりやり古い紅茶を飲んだのだった。
わけわからない試供品のお茶は、わたしの脅しもきかず、みんないやがったので、仕方なく捨てる。

買った本も忘れて読んでないんだから、買った食料品だって、ほんと忘れるわよ。

感動したついでに『ブッダのことば』や『神々との対話』など岩波文庫の原始仏典をあれこれ拾い読みし、『廻諍論』読みながら、自分の論文読んで、自分で書いたことすっかり忘れていることに気づいて復習する。
ああ、勉強になる、自分の論文て。
こう言っちゃ何だけど、わたしの知らないことがいっぱい書いてあるわ(おい、だいじょぶ?!)。

それから、冷凍庫に忘れかけの去年の肉でカレー作って、忘れ物はするまいぞ、っと心に誓う「かしこい主婦、兼、かしこい研究者」だった。

ったく、なあ、どこが「かしこい」じゃ。

おめでたい物忘れ人生を送ってるだけだわ。

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2005/01/02

なぞとはなんぞや?

正月だ!っと思っていましたが、何だか昨日から仕事をし始めてしまいました。
数え上げると、やるべきことが3つ4つすぐ思いついてしまうので、どうしてもやらねばならないような脅迫観念におそわれてしまうのよ。貧乏性だわ。

脅迫されつつ、とにかく学会誌『印度学仏教学研究』がきたので、それをぼつぼつと読んで、頭が混乱する。
いろいろ読んだからかもしれない。とても頭が疲れる。

じつは、ここのところ、本の読み方を忘れてる。
『方便心論』を読んで以来、です。

この本は究極の「なぞなぞ本」だった。
そのまま読んだだけでは、絶対わからないようにできていた。

詳しく書くと10倍くらいにふくれあがる内容を、コンパクトに詰めに詰めて読者に謎解きをさせながら、自力で解明させる本だった。目次だけ与えて、自分で本一冊書きなさい、って言ってるような本だった。
本それ自体が迷路になってるような、そんな本は初めてだったから、とんでもなく混乱しながら、ありとあらゆるところから知恵を借り、そして自分のわずかな知恵をしぼって進んでいったのだった。

最終的には、この本を解読できたと思うのだけれど、ゴールにたどり着いて思ったことがある。

「なぞなぞ本」には、じつは、なぞはない!

もし『方便心論』を書いた人の中に、何かわからない部分やなぞの部分があれば、このような壮大な謎解き本は書けなかっただろう。自分がわからないことを相手にわからせることなどできはしないからだ。

だから、「なぞなぞ」の本は、あんがい安心して取り組める。その中には、じつは、なぞなどないのだから。

ということはだよ、ここから本題。

真理に直結する本は、言い換えれば、真理を伝える本は、みな、謎解き本の体裁をとるということだ。

え?どうしてそうなるの?って。
だって、その中になぞの部分はないんだから、全部わかったことだらけでできているから。
わかったことだらけでできているのに、ふつうの人が読んでよくわからないなら、本の問題ではなくて、その人の中になぞがあることになる。でしょ?
その人は、自分の中にある無知と格闘してなぞを解いて理解しなければならない訳なのです。
だから、真理の本は謎解き本なの。

仏教の経典は、はっきり言って謎解き本である。
大乗の仏典も、ブッダの直説ではない、などと言われたりして軽んぜられたりすることもあるけれど、これらの経典がやはり経典として信じられているのは、この中に謎解きの要素が濃厚に入っているからだと思う。
おそらく聖書も謎解き本にちがいない。

パラドックスを扱った本はどうだろう。
答えがついていれば、答えしだいでは真理の本かもしれない。
また、数学の問題を扱った本も、答えしだいでは真理の本だろう。

さて、また一方、この世のほとんどの本は謎解き本ではない。
ふつうの場合、とても読みやすくて、すらすら読めちゃうようにできている。
読めちゃうけど、読み終わったあとに、何かわかるかというとたいていはちがう。
とても大きななぞが口を開けて待っている。

「すらすら本」は、じつはなぞ書き本なのだ。
わたしたちが読んでるほとんどすべての本が、「すらすら本」で最後に深淵が待ち受ける。
だけど、すらすらにだまされて読み進み、結論をほのめかして終わったりするのはより深い内容を含んでいるからなのだと思ったりするのである。
「すらすら本」は、あんがい、「やさしい○○」なんていう名前のついた仏典解説書だったりすることもあるかも…ゴメン。
また、はっきり「すらすらわかる○○○」なんて本も、題名に「すらすら」がついているので謎書き本だとわかるわね。
そういうもん?

「なぞなぞ本」は謎解き本。
「すらすら本」は謎書き本。

あんがい当たってない?どう?ね、どう?

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2005/01/01

学問分野について

新年おめでとうございます。

ほんとうにおめでたいかどうかは別にして、今年は少しでもおめでたくしたいものですね。

さて、管理人の今年の目標は、大きく出まして、学問の間にある垣根を取っ払ったり、あるいは、そこまでいかない場合でも垣根を刈り込んで低くしていきたいというのが望みです。

★西洋と東洋。
同じ哲学・論理学という範疇のものなら、話し合えるはず。

★インドにおける仏教以外の諸派と仏教
同じインドなら、同一の土俵で対立の構図も見えるはず。

★部派の仏教と大乗仏教など
同じ仏教なら、共通の話し合う基盤があるはず。

いろんなことを知りたいと思うと、学問の研究分野の間にある壁がじゃまになって、あんまり見通しよくないのが気にかかります。垣根越しに覗くのでは、よく見えないもの。

それで、これまで意識的に壁を取り払うように取り払うようにしてきました。

その結果、管理人の中では、もう、インドの論理学と西洋の論理学の間に壁はありません。
両者は、論理という共通の知の中で、けんかしたり、仲良く寄り添ったりしている。
どっちがすぐれていて、どっちが劣っているという考えもありません。
あ、でも、インド論理学の方が構造が微妙です。(ま、すぐれているって言ってもええかな、鼻がぴくぴく…こら、うそつきぃ!)

仏教以外のダルシャナ(哲学)文献読むのと仏教の文献読むのとでも、あんまり意識がなくなりました。
用語や表現も共通しているものが、結構あります。
漢訳とサンスクリットの区別もつかなくなりました。(あ、そりゃ、ちょっと管理人の語学に問題がぁ。)

それに、もともと、部派と大乗に関しては微細に区別できるほど詳しく知ってる訳じゃないので、仏教でひとまとめです。(何じゃそりゃぁ。管理人の欠陥というだけのはなしじゃ。)

このように、わたしの意識の中では壁は取り払われ、国境を自由にパスポートなしで行き来できるように、学問分野をまたいで行き来しています。(たんに識別できないだけじゃないのか、という意見は無視。)

無視して続けますと、最近学問研究の守備範囲がどうも前にも増して狭くなってきているような気がしてなりません。
研究者同士の意見交換というのも、少ないような気がするけど、そうでもないのだろうか。(わたしがかまってもらえないだけか、う。)
窮屈ですわ。もう少し自由度アップしていけばいろんな研究が刺激を受けて進展するだろうと思うのです。

視野は広く、研究は緻密に

理想ですねぇ。
え、視野は微細だが、研究はおおざっぱ?

ま、それもいいですか……よくない!よくないっちゅうのに!

まったく、もう、新年そうそうしまらない目標でした。

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