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2004/12/07

「伝承」について、コホン!

生きていくのがやっとの管理人、鎖につながれた奴隷のように、毎日、日々の義務をはたすのであった。
気分は、バビロン捕囚の囚人だい。

って、言うわりには、楽しんでるようだって?
ちょっとばれてますか。
今までほんとに忙しかった。ようやく一段落してきた。

今日は、出かける仕事がないので、久しぶりに読みかけの

ウォルター・ワンゲリン『小説聖書』(旧約篇)上下、徳間文庫

を読んでしまいました。旧約聖書の中の父祖たちの話、モーセの十戒、イスラエルの建国、サウル、ダヴィデ、そして、アッシリアの圧政、預言者エレミヤと全部もれなく入ってる。あ、アダムとイヴもいたっけ。おもしろいです。

「火宅の人なんです、あちっ!」というタイトルのところで書いた本ですが、まちがってました。本の名前。
正確には、上のようなタイトルでした。
ヨーガの人に借りたのですが、通勤途中で読んで、すっかり心をうばわれてその日はへまばかりしていたので、「やばい」と思って自粛していたのでした。
やったへまの数は数知れず、とっても、ここには書けないわ…思い出すだけでも…出席簿を持って帰るわ、配るプリントまちがうわ…やっぱり、これ以上は書けない!

ま、過去は忘れよう。
いろいろ書くことはあるけれど、愚かな人間の所行を書きつづったこの本は、とても魅力的ですわ。
愛すべき人々だと思います。
風土と生活様式、人々の暮らし、欲と裏切り、真実と信仰、いや、何でもありでほんと魅せられる。
そして、イスラエルとパレスチナの紛争の現在を見ると、彼らは全く変わっていないようだ。

だけど、今、書くことはこのようなことではない。これにしぼりたい。

歴史と伝説。

聖書の中のことは、たぶんほとんどほんとのことだろうと思う。
「伝説」の中には、たくさんの真実が入っている。
伝説や言い伝えを史実ではないとして疑う人がいるけれど、むしろ、この中にこそ多くの真実があるような気がしてならない。

なぜなら、人の目による認識や記憶、これらを通さない事実というのはないのだから、このような事実とされるものが、多くの人の見たものであり記憶である方が、より共有された「事実」としての資格をえるのではないだろうか。

言い伝えられているということそのこと自体が、言い伝えを真実にしてきている。変な言い方だけど。
事実と信じることが、事実を真実にしている、とでも言ったらいいのか。
認識されたものである事実は、客観的なデータとは違った語り方をされてこそ意味がでる。と言ったらいいのか。
わかるかなぁ、この気持ち。

つまり、マスコミなどが伝えるニュースより、実際見てきた人々の言葉の方が信ずるにたるという場合もある。より信頼できると思うことは多い。歴史は、実際は権力によって作られる場合が多いからね。たぶんゆがんでいる。

なぜこんなことを言うかというと、インド哲学研究も、例えば、龍樹の伝記などについて、歴史的事実かどうか疑わしいという意見がすぐ出てきてしまうから。
竜宮城に行っただの、身体が見えなくなる薬を作り出しただの、ちょっとふつうじゃない文面が出てくるからかもしれないが、それに気をとられてはいけないと思う。
誇張や脚色の中にある真実を見つけることが、わたしたちにとって大事だ。

伝承というものは、「客観的事実」とされる史実に対する信仰の陰に隠れてわからないが、わたしたちに、じつは多くの真実を伝えてきていたんではなかろうか。と思う今日この頃。

だって、龍樹の伝記なんだけど、たしかに誇張されたりしてるけど、話がどう見ても作品とうまく符合してる…。

って、聖書からさりげなく龍樹にいくとこが、やっぱ、わたしだなぁ。
あ、さりげなくない?失礼しました。

しかし、今回、まじめじゃん。

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