« なぜか越後屋気分 | トップページ | お釈迦さんは自由人 »

2004/12/16

『中論』の偈を著した龍樹が『廻諍論』を書かなかったら…

勉強しようと思うと、猛烈に眠くなる。

昨日は、お別れ会で知り合ったお母さんたちとランチ・パーティだったし。
あ、ランチだからね。誰ですか、ランチキなんて言ってる人。

哲学の本を薦めてきました。一応、手持ちの永井均氏『子どものための哲学』をプレゼントして、池田晶子氏の『14歳からの哲学』と『41歳からの哲学』を薦めてきました。
一緒にいた他のお母さんも「読んだら貸して」と言っていたので、ふふふ、そのうち哲学する主婦の集団ができるかも。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

それと、学会では、龍樹の作品について『ヴァイダルヤ・プラカラナ』と『廻諍論』とについて、龍樹の真作ではないという意見があることを知りました。

それを聞きながら、とつぜん、スマリアンの『決定不能の論理パズル』という本があるんですけど、それを読まなければいけないような気がしてきました。

何げに『廻諍論』とスマリアンなんだ?
およそ関係ないようにみえるけど、たぶん思考回路のどっかでつながってるんだろうと思う。
たぶん、この話は、証明問題とか論理パズルのようなものとして扱えるのかもしれない。
まだ、思いつかないけど。

だけど、その前になぞなぞふうにやってみると、こんなことになるのではないだろうか。
『中論』の偈を著した龍樹が、『廻諍論』を書かなかったら……どうなる?

まず、『廻諍論』が基づいている『方便心論』は書かなかったことになる。

『方便心論』を書かなかったら、ニヤーヤ学派と争うことがなくなるから
『ヴァイダルヤ・プラカラナ』は書かなかったことになる。

『ヴァイダルヤ・プラカラナ』『方便心論』『廻諍論』を書かなかったとしたら、
論理学の革新をなしえず、空の根拠を示すことができないから、『六十頌如理論』『空七十論』もどうなるかわからない。それらの作品も、『廻諍論』作者のもの、っということにもなるかもしれない。

これらの作品が、すべて『廻諍論』作者のものになれば、簡潔にそれらをまとめた部分をもつ『宝行王正論』も龍樹作とは言えなくなる。

そうなれば、中論頌のどこがほんとに龍樹のオリジナルということになるだろうか。

ちょっとある帰謬論法は、『方便心論』のまねっこだと言われるし、話題としては『方便心論』ですでにふれているものもあるから、それもまねっこしたな、と言われちゃう。
空について説いた部分は、『廻諍論』のまねっこという説も出てくる。

「まねっこしてもいいじゃん」ということにはならない。
龍樹の伝説がぜんぶまるまるウソになって、龍樹は、彼の前にいた無名の天才の業績を奪ったことになる。

どうして、そこまでひどく言われることになるかといえば、奪ったのが思想の断片ではなく「論理」ということになるからです。

だって、アリストテレスの論理学を基礎にして、なんらかのことを説いた男がいたとしたらなんと言われるだろうか。
ふつうの場合は、彼はアリストテレスの論理学を応用しただけと言われる。

論理の場合、他人の論理学を基盤にして何か言っても、何にもならない。
そんなこと、あなたでもわたしでも誰でもやってる。
論理学は、それを生みだした人が名を残すのであって、それを使った人ではない。
出来上がった論理は誰でも使えるんですから。


『廻諍論』が中論頌の作者龍樹の作品でなかったら…

龍樹にかわって脚光を浴びるのが『廻諍論』作者ということになるのじゃない?

|

« なぜか越後屋気分 | トップページ | お釈迦さんは自由人 »

コメント

三世に迷えば、
我が身にあっても、他人の生

> 人は死んでしまった後で、
  必ず、どんな人だったか、わかってしまう、

今生が、最後の生であれば、
永遠がそこに横たわっています
不死を得た人の生きざまは、
死んでもわかりません

次の生(来生)を持つ人には、
過去生は、生きていません(真理と知られていない)

わかろうとしなければ、
それが、我が身にあります

わからないだけです 、、、、

投稿: 春間 則廣 | 2011/08/09 13:49

>「 偉そうに言っても、『行いを見ろ』 」
>という(そう言う自らの)モノの、行いは、
>見つめられていません

語ることばで、その人が知られる、ということですね。

「この人はどんな人だろう」という疑問がわき起こったとき、その人が自然に発する次のことばをじっと待ちます。

何かを語ることによって
必ず知られます。

もし、何も言わないとしても
言わないことによって
また必ず知られます。

人は死んでしまった後で、
必ず、どんな人だったか、わかってしまう、

ということを、最近発見しました。

だから、死は乗り越えておかねばならない、ということも言えるかなあ。。。

投稿: 管理人エム | 2011/08/09 09:32

わからないということ  は、
分かるということ    と、縁起します

少し、考察を深めると、
“わからない” は “わかる” ということに、縁起します
“いう” は、 “いわない” に、縁起します
“こと” は 「空性」 に縁っています
( コレがあるない の 「縁起」 が「空」です)

縁起することは、必ず(相互通行で)他をあらしめます !
シュミレートできることが すべて“真理”でなければ、
(その認識は)
遍に因っています !

(顕わされていることを、
二種の観察によって見ることができなければ
書かれている“こと=行”は、(無明に発する)名識でしかありません)

同じということは、
相互通行可能ということです

レベルが違う時には、
スエズのような仕組みを作って、
相互が同じであることを確認できます

頭の悪いものは、頭の良いものの、
頭の中の世界  には、アクセスしない
それを、頭が悪いとします 、、、、

人として、同じ であれば 、、、、
頭の良い者の行いに、(自分との)差別を作る
という、差異を、みつけることが出来ません
(差異がないことが、同じという意味です)

何故にそこに、
「自分の行動を見ろ」 問う言葉が起きるのか 、、、、

「 偉そうに言っても、『行いを見ろ』 」
という(そう言う自らの)モノの、行いは、
見つめられていません

自分を知らなければ、
そもそも、最初の一歩に、
差異を作ることができません

“お前” も “一人の人間”  である
という時の、 
( “お前”と対比させる )
“一人の人間” と “自分” とが、
同一レベルであるという、根拠がどこにもありません

元に戻ると、

善し悪しは、

善し悪し の どちらかを知ることによって生まれますが、
“ 縁起を知らずに、 「善哉」 という ”
そのような顛倒を避けるのは、
顛倒 していない  ときにだけ起きています

投稿: 春間 則廣 | 2011/08/08 07:09

はるまさま

へっ?同じっすか??相互にぃいい???
やだもーぅ、ひとつ足りないつくもがみさんで結構ですよぅうう。
ノーシスさんはひとりぼっちが嫌いだから感情表現がハデで。。。

前提の有無は相互に見落とされやすいケド(←びみょ~なので)、
有無の是非って互いに間違ってると問い正されやすいのかもですねぇ。

依る、因る、寄る、の「違い」で由るものが決まちゃうのかしらん。
そーいえば、因るに望がつくと「(お望みどおりの)困った者です…」になっちゃいますねぇ。

いやはや、とほほポジションっ、振りだしに戻りましたっ。
しゅたたっ!/~~

投稿: おちゃらけ | 2011/08/07 22:33

それはよい !

普通は、分かっていないことがわからない
> わっかんないのは、わっかりまーっすっ!
ってことは、ソクラテス(プラトン)と同じレベルです

投稿: 春間 則廣 | 2011/08/07 20:04

はるまさま、

わっかんないのは、わっかりまーっすっ!

投稿: おちゃらけ | 2011/08/07 19:14

おちゃらけさま

あなたが分かれば、わたしが分かっていることになる

あなたにその理解がなければ、わたしのこの理解などない

わかりませんか ?

投稿: 春間 則廣 | 2011/08/07 18:56

はるまさま

わっかりませーーんっ!

投稿: おちゃらけ | 2011/08/07 17:43

> アナタが幸せにならないかぎり、ワタシは幸せになれない。(↑賢治さんうろ覚え)

あなたが幸せになれば、
わたしは幸せになる


あなたに幸せがない時には、
わたしには、幸せはない

違いが分かりますか ?

投稿: 春間 則廣 | 2011/08/07 15:54

エムセンセ

> すでに「見る目」によって、ある種の価値を含んでいるかもしれない

ソレキタっ、価値の書き替えに挑戦~!

 『マニカナ掲示板』の管理人が『龍樹と語れ!』の作者エム先生でなかったら…
 エム先生にかわって脚光を浴びるのが『はい論破ww』した論者ということになるのじゃない?

書き込む「とき」、「ここがどこ」だか「わかってて」書き込みしますですよね?んなところに勝負を持ち込んでくるくる反転するのって、ぜんぜんスリル満点でも楽しくもないですよぅ。(ジ・レンマしか生まれないんですもん)

つーわけで、
> 「まねっこしてもいいじゃん」ということにはならない。
> ……
> 論理の場合、他人の論理学を基盤にして何か言っても、何にもならない。

ひえぇえええ!なーんにもならん!!となっ?!
なのでぇ、相互関係は「だいたい同じ」っぽい感じなんですぅ。因果が相互に「真・似っこして」応報しちゃうみたいな。

「オマエにわかんないのが、オレにはわからん!」とIQ150の人が応えて報して言う時、「IQが150あってもわからんのはわからんのか?」とオバカな私でもわかるんですが。。。「言わないこと」&「言えないこと」、不可知というある種の価値が見えんのかしらん、と。

『<(空性による論証が起こるとき)非難をする人は>&<「証明すべきものに等しいもの」が生じているだけ>(道場より引用)』だとしたら、証明すべきことがらを証明しない(しえない)まま、「アナタが知らないものはワタシも知らない」って「同じところを」ぐるぐる報して復している「(だいたいその)ように聞こえます」です。なんか、あんまり説教(教育)の効果がなさそげなかんじですぅ(←これ、はみだし学徒な私の価値観によってます)。「ヒトを導く者(教師)」は中道を説明(分析)したり、説いたり(論証)するのも重要ですが、「その前に」偏らないという中道という「道(&方向)」を忘れちゃ(知らなきゃ)ヤバイですぅ~と思うんですけど。この両者は間合い(拍子)が違う(噛み合わない)のでしょか?

===
論証の中で反駁を行うとき、空性を持ち出して語る人は、何ものをも反駁できていないのであって、ただ証明すべきものに等しいものが生じているだけである。
論証の中で非難を行うとき、空性を持ち出して語る人は、何ものも非難できていないのであって、ただ証明すべきものに等しいものが生じているだけである。(道場よりエム先生訳)
====
ミミいたっ・・・!

で、伝統仏教徒な観る者が根底に置く「ある種の価値」ってのが「善い行い」ですよね。でもぉ、それって同じ志=共通の価値を持つサンガ(協道社会)のバックアップがあってこそだよなぁ~、と属さない私はとりあえずイジケてみたりして。お宝が足りないよぉ~となんとなく騒いでみたりして。知り合いのオメデタに「はいっ!次に続くのは老病死ですっ」なんて言ったらドン引き確定ですしぃ、「言う時機をわきまえろーー!」と怒られること必須だもの。(←善人はどんな場合でもイキナリなことを言わないと思いますが)

なのでぇ~、
空<も>イキナリ出てこないんじゃないかしらん。まず最初に「見るときに対象に依るある種の価値(姿とか相とか徴とかことば)」を取る(あらわれる=表白)んじゃなかなぁ、と思うんですけどぉ~。<その>「対象を取る」のと「対象に執らわれる」のではぜんぜん方向が違ってきますねぇ。無常にはある種の重さ・質量(生滅)が垣間見えるけど、空は(是非を)「問わない(前提としない)」という「ある種の」否(&)定が入ってくる感じです。はぁ~、むずかし。。。つーかぁ、やっぱこれ、人知を超えてますっ。

実際は?事実は?
徹学のハハ、強し。母屋、強し。管理人、強し!!

実際は?事実は?
家の作者な私の涙目変わらず、じゃぁなぃっすか?!(つくもがみさんとなりでニコニコ)
うぇーん(;Д;)

アナタが幸せにならないかぎり、ワタシは幸せになれない。
(↑賢治さんうろ覚え)

投稿: おちゃらけ | 2011/08/07 15:28

間違った、“ 気 ” の使い方からは、
間違った “ 果 ” が生まれます

正しい “果” の見方を知れば、
間違った “気” が見えます
( 正しい “果” を見ます )

 病  は “ 気 ” から

正しい行いを知れば、
そこに、
正しい “ 果 ” が、生まれます

投稿: 春間 則廣 | 2011/08/07 07:52

おちゃらけさま おひさっ!

悩めるおちゃらけさま、シラキリさま、ん?

「そのまんま扱う」ってのは、むずかしいですね。
どうしてもすぐ価値が入っちゃいやすいです。

価値を入れないようにしようしようと、意識しすぎると、かえって、その意識から逃れられなくなってしまう、というジレンマ。

「そのまんま」っていうのが、すでに「見る目」によって、ある種の価値を含んでいるかもしれない、などとも考えてしまう今日この頃。

「そのまんま」悩んでるだけだったりする?

投稿: 管理人エム | 2011/08/07 07:14

昔々なう!
温故知新アゲアゲに便乗しておひさしぶりっす。

ってか、いやはやとほほ。やるべきことやってないっつーかできてないつーか。。。涙目エブリディなんですけどぉ~~。

なので、HNをおちゃらけからシラキリさんにして当て字を科白のさかさまの白科さんとかにしたりしてみよーかと。ってのはシナはセオリツヒメが背負うツミトガのトガという科(=分類)でもあるし、「サイエンス(ってことはアリストテレス的アナライズ)」のうんまい訳語は「科学」ですしぃ。とか言っても「白科」を「シラキリ」って「他人に読ませる」のは「自分の詠み」に無理がありますよねぇ。だって拍(間合い)が違うんだもの。こういうのが(余計な)「曰く+つき」ってのかしら。あぁ、涙目アゲイン。


んなどーでもいいことしか浮かばないから黙ってる方を四捨五入で選択中~なんですケド、
とかいーつつ、とかいいながら、とかいっておきながら、おしゃべりなんっすけどぉおおお。

たとえば、たとえばのたとえばですけどぉ、三宝印と四法印が出てくるとき、
 三は四の前だぁ!ってのと、
 四は三の後だぁ!ってのと、
 三から四に移行したってのと、
 四から三に還元できるってのと、
 三と四は違います、ってのと
 三と四は同じです、ってのと
 三にプラス一足しても四になりません、ってのと
 四から一引いても三になりません、ってのと
 三でも四でもどっちでもいいっす、ってのと、
 それぞれの相はそれぞれの時機があります、ってのと、
 ってか、もぅ数を数だけで数えるのはやめましょーよぉ、などなど、

もぅ、いろいろな「様・相」をなしてくるみたいで、ゼイゼイ。
これらの依って立つところが(相互に)異ったまま(異なっていることを放置したままor見過ごして)、(己の)歩を進めるとどーゆーことになるか?ってのは、この掲示板を見聞して学びましたでござりまする。その経験則でいうと<相互関係>ってのは<だいたい同じ>結果になりがちっぽいのかなぁ、と。

異なったことを異なったまんま「そのまんま扱う」、いわゆる「ありのまま」にみるのってむずかしぃっす。「同じだ、違うんだ、こっちが正しい、それって間違ってる、そうじゃない未分化だ」という見方(主張)を「持つ(執る)と」、「そのような見方から」離れられなくなりそな気配。。。

「他とか多の違い」を「自と他の違いに重ね見て」あーだこーだつーより、まんま見ようとうーんうーーんって依り眼になってます。だって、捨てるにはごちゃごちゃな状態より一つにまとめた方が片付けの手間が省けてお得なんですものぉ~。

傍らに立つ百に一つ足りない”つくもがみさん”がなんかいいたそうだけど、シカトしてこっそりぽちっ!

んでは!

投稿: おちゃらけ | 2011/08/06 18:10

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« なぜか越後屋気分 | トップページ | お釈迦さんは自由人 »