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2004年12月

2004/12/31

来年に向けて(はやく書かなきゃ、あと1時間しかない)

穏やかな年の瀬…なのかな?
寒気が流れ込んで大荒れと予報がありました。
最近「大」の字がつくと、ほんとに「大」だったりするからな。
ほんとのほんとに「大」荒れなんだろうか。

とうとう死者が12万人を超えてしまったというニュースを聞いて、昨日書いた日記は、何の役にも立たたない意見だったかなと思い直しました。
人智を超えていたかもしれない、と思ったり。

ここ数日、一応家事にはまりこんでいたら、まったく頭が働かなくなりました。
もともとだろ、だって。

まあ、そうなんだけど、子育て時代を思い出すなぁ。
思い返せば、5-6年前でしかない。ほんとに頭使ってなかった。体使ってた。
でも、まぁ。人間何かは使うようにできているのね。

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さて、大晦日。貴重な時間だわ。
今年は、ずいぶん書き込みたいことがあったけど、なかなか自由に思い切って書き込めなかった。
言いたいこと言ってるように見えたって?
そうでもないのよぉ。ときどき穴掘って「王様の耳はロバの耳」って言いたくなる床屋の気持ちだったわよ。

かなり自主規制してたのよ。「ロゴスの穴」も、それであまり更新できなかったし。
論文のネタに引っかかっちゃうのが多くて、書くならとことん書くか、それともまったく書かないか、という状況だったのよ。それで、書かない方向に進んじゃったもんだから。
書いたら、論文のネタにできなくなっちゃうし。

ただ、これも来年は少し改善できると思うわ。だいぶ学会で発表してきているので、かなりいろいろ話せるようになってきたわ。

来年は、龍樹の「空」を少しわかりやすくお話しできると思う。
今年の論文も来年いくつか出ると思うので、そろそろ言いたいことを言っても、何を言おうとしてるかわかってもらえると思う。

ああ、やれやれだわ。やっと話せる、ってとこね。
思いっきりブッダや龍樹でお話ししたいわね、来年こそは。

それでは、みなさま、よいお年をお迎えください。
来年もよろしく。

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2004/12/30

大災害について

以下の感想は、29日に日付が変わった時に、書いておいたものです。
朝起きたらアップしようと思って気持ちよく寝たのでありました。ところが、29日は朝から「ココログ」につながらず、書き込めませんでした。そして、いま、30日に日付が変わった午前1時、もう寝るんですけど、寝る前に最後に試したらつながったので、急いでアップしときます。
今ひとつ、ぴりっとしない意見かもしれませんが、「伝承」とか「言い伝え」とか、あながち信用できないと捨て置くことはできないのではないかというメッセージです。というのは、現代の科学的な知識が、じゅうぶんうまくわたしたちには生かされているようには見えないからです。あるものは、何でも使いましょう、有効に。

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29日午前?時
寝る前に書いておこう。
今日の日記と言うには、あまりにも昨日だが、明日(といっても今日)は忙しいのでとりあえず書けるときに書いとかなくちゃ。

午前中は、正月用の仕込みをしながら、ときどきニュースを見てはおびえる。
さみだれ的に起きてくる子どもに、その都度ご飯を食べさせるのでめんどくさいぞ。
冷蔵庫の整理で残飯整理メニューだけどね。
片目でテレビのニュースを見ながら、片目で版画を彫る。
年賀状用のです。

海が異様に引いたら津波に決まってる!と思いながら、ビデオ映像に向かって「はやく逃げてよ」と叫ぶが、みんなけっこう悠然としている。津波を知っている人がいないのだろうか。
海の水が引く場合はある程度わかるだろうが、海が遠くで白波を立てて盛り上がってきているだけなら、気がつかなければ波におそわれるかもしれないと思う。
不可抗力ということもあるなぁ、と思う。

しみじみ教育ということを考えてしまう。
昔はその土地の長老の経験が生きていたが、昨今はそのような知識を求めることもなくなった。
現代的な専門家の知識が重要視されて、他は顧みられなくなった。
専門家の知識は、包括的なものである。それはそれでよいが、それらの知識は、人々に還元されていなくては役に立たない。
その土地で過去に起きた言い伝えでなくて、一般的な知識であっても、みんながそれをもっていればある程度予測できただろうと思う。

インドでは、古くから「伝承」とか「信頼すべき人の言葉」とかが、正しい認識の手段とされてきた。いまでは、現代の科学的知識を社会的常識とするから顧みられないかもしれないが、そういう伝承のひとつとして津波や地震の言い伝えなどがあったら、とも思う。
そういう話の方が、みんなよく覚えていて心に残るものだ。それに地震や津波の客観的な知識ではなく、具体的な対応の仕方や目に見える変化の様子を伝えるから有効だ。

もし「伝承」などを排除するなら、代わりの知識を学校などでわかりやすく教えていかなきゃと思う。

今回ほどの大災害になると、知識の有無で避けられる範囲のものではないのだろうが、それにしても、7万もの人が亡くなるということはなかったのでは…と思ってしまう。
何とも痛ましい。

ここまで、29日分。
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これは、30日分。いま考えてること。

それと、動物たちは今回の津波で死んでいないという点、じゅうぶん教訓になると思います。
どう教訓になるんだって?
「野生に帰れ」です。
極端かもしれないけど、いつも自然の変化に気をつけるように、意識を変えていくこと、これによって、いくらかは注意深くなれるのではないでしょうか。

地震予知のシステム強化や警報装置の設置など、対策を立てることも必要だけど、お金がかかる。すぐには無理だし、広範囲にわたる場合、個別に対応は無理だ。だから、わたしたちの感覚を磨いておこう。自然に注意深くなろう。都会に住んでいてもそれはできると思う。
それとそういう場合があるかもしれないと思うだけで、パニックにならずにすむと思う。

たぶんわたしたちにできることはそんなことくらいだ。だけど、それはあんがい有効だろうと思う。

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2004/12/28

大地震と大津波

12月26日、スマトラ島沖で大地震がおき、それによって大津波が発生。
いままでわかっただけでも2万3000人以上という数字の犠牲者を出しています。
地震の規模もマグニチュード9.0と最大規模。

8-9カ国にもわたる被害はこれまで経験したことがないと報道されていました。

もはやなんと言っていいかわからないので、事実のみ、ここに書いておきます。

とりあえず、これだけ。

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2004/12/26

ざつに雑感!

横についてるカレンダー見ると、焦ってくるわねぇ。
今日入れてあと六日で今年も終わり。

でも、もう、気分的に負けてるわ。年賀状書かなきゃ。掃除しなきゃ。正月料理作らなきゃ。買い物いかなきゃ。薬とって来なきゃ。
なんて、そんなこと六日でできるかぁ。

なぜなら、これらの他にこのホームページをどうするかっていう、重大な問題がひかえておる。
今年は、元旦に決心したのよ。「来年」こそは、ホームページ整理整頓してグッドなものにするぞ、ってね(今年の計画を立てるもんだぞ、ふつう)。
だから、今年はこのままなし崩し的にいくわよ、っと、言い訳がましくはじめた記憶がある。

まずいわよ。
あと六日で、その「来年」よ。
仕方ないから、ここで先日のパラドックス持ちだして「来年は永遠に来ない」って言ってみるか。
それもねぇ、芸がないわね。やりたいけど。

だから、あらためて来年の計画を立て直すわ。そうすればいいのよ。

言うわよ。緊張してよ。

ホームページ整理するの止めるわ。
どうしようもなくなるまで、だらだら計画性なくいく、っていう、こういう計画にするわ。
これなら、実行できそう、ああ、よかった。いい計画が立って!

ほっとしたところで

ところで、学会誌『印度哲学仏教学』19号、出ましたね。
今回の論考「『方便心論』の作者について」は、反論が寄せられたため、やや戦闘モードになってますなぁ。
自分でもそう思うわ。
「もう、わかってよ」って感じですか。

この論文を書いた後に、『方便心論』作者を龍樹でなく小乗仏教徒とする宇井説否定の論拠を別に見つけたの。
それに基づけば、すぐわかっちゃうんだわ。小乗仏教徒が書いたものでないことが。
こんなにムキになって論じなくてもよかったかも。

でもね、龍樹だと、どうしてわたしって、こうもムキになるのかしら。
まったく自分でも不思議。

まさか、前世は龍樹の母だったりしてないだろね。やだよ、おまいさん。

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2004/12/24

「わたし改造」に成功しました

今年もまた、あっという間に過ぎて、もうちょっとで来年になってしまいますが…

って、言われて、ここでそくざに

「来年は永遠に来ない」

とか返せたら、あなたも筋金が入ってきたわねぇ、詭弁家として、フフ。
なかなかしぶいわねっ。

というより、こんなへなちょこパラドックス、かまってられっか、ってのが、本音ですか。
おみそれしやした。すんません。

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さて、今年はお正月のときから、わりに焦って論文書きしてたようにも思うけど、それも遠い昔だわ。

今年はね、じつは、けっこう悪い年で、そして、いい年だった。

あら、ここも若干矛盾してますか。

「矛盾」に「若干」という形容はないっ!
それに「悪い」と「いい」は、矛盾ではない。反対の関係。
それに「いい」が、ひらがなのままっ!

うるさいわねぇ!おだまり!話が進まんじゃん。

「悪い年」というのは…梶山先生が亡くなられたこと。わたしの大学時代の友人も亡くなってしまったこと。
「いい年」というのは…二人も亡くなったために、わたしの中で「ま、いっか」と思うことがふえたこと。(どういう意味?それにどうして「いい」ことなの?)

これは、詳しく説明すると、諸行無常を知ったってことだわ。
もう『方便心論』の論文も急がなくても「いい」ってわかったし、がんばりやさんの友達が亡くなったことで、がんばらなくても「いい」ってわかったのよ。だから「いい」年なのよ。

簡単に言えば「悟った」ってことよね。
そして、「悟る」ことは「いい」ことに決まってるわよ。
それゆえに、悟りの真理をしめす「いい」言葉、「ま、いっか」が生じたのだわ。

なんだか詭弁チックだな、ですって。
そんなことないわよ。
はからずも「わたし改造」に成功したと思うわ。

この真理のことば「ま、いっか」さえあれば、何でもできるような気がするわ。
最強のガンダム・スーツを手に入れたも同然よ。

永遠に来ない「来年」から、この「ま、いっか」の実践修行にはげむことにするわね。
「いい」年にするわよ、まぁ、見ててよ。

え?なに?どうでも「いい」年になりそうですね、ですって!

ったく、もう。でも、ま、いっか(ほほ、さっそく)。
余計なお世話かもしれないけど、あなたも、「いい」年でありますように、って言ってあげる。

ところで、さぁ、わたし、ほんとはこんな事書くつもりじゃなくて、「大変身したお釈迦さん理解」という題で、誰もが感動にむせぶすばらしい論考をしたためる予定だったのよ。
おかしいわねぇ。どこでくるったのかしら。

でも、

ま、いっか。

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2004/12/22

「欲しいもの」は「無いもの」よ

今までメールを調べるたびに、妖しいメールが山のように送りつけられてきてうんざりしていました。
広告のたぐいやクジみたいなものや妖しい系などなど。
開くまでもなく、どっから見ても妖しいので、「迷惑メール」というレッテルを貼ってポイポイ捨てていたのです。

まったく、もう!
こんなに次々来るなんて、迷惑至極!って思ってたのよ。
一日に何十件も来る。

それが、ここ数日、どうしたの?
すごく減ってる。来ないのよ。

え?
どうしたの?迷惑メールたち。
気になるのよ。何で来ないのよぉ?
わたしのどこが気にくわないのよ。
今まで捨ててたからなの?ひどいじゃない。来ないなんて。
めっちゃ、さびしいわよ。

おいっ!
まったく身勝手すぎるぞ。
来れば来るで文句言うし、こなけりゃこないで文句言うし。

しかし、人間の心理というのは、まことに微妙なものだのう。

仏教で言えば、これかな。
求めて得ざれば、苦である。求不得苦(ぐふとっく)。
いや、ちがうな、そんな簡単なものじゃない。

求めてなくても得られないとなると、苦なのである。

必ず無いものをねだるようにできているわけか…人間て、かな~り性格悪い動物だ。…え?なんすか?そんなに性格悪いの、管理人だけだって。いや、失礼しました。

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2004/12/21

論理学・反論理学

数日前から、論理学関係のシラバスを作りながら、悶々としておりました。そして、おります。

わたし、論理学って向いてないかも…

今さら言うな~ぁっ!

もう病膏肓にいたったらしく、どの論理学の教科書見ても、かならずどっか変だと思うようになっちゃった。
西洋の論理学って、はだにあわないのかも。
前から「おかしい、おかしい」と思いながら、しかし、自分をだましだましやってたんだけど、もう完全にごまかしが利かなくなってきつつある。

ほんとに正直にいうと、

西洋論理学って、どこかに必ずウソがある。
だから、
結局、現実の世界と折り合いがつけられない。
実際に、現実の世界に適用できてる論理って、ほんとないすよ。

前に帰納論理学の推論を試験に出したことがあった。

    これまで生まれてきた人はみんな死んでいった。
    だから、…

…を埋めて、帰納的推論の結論を導いてみましょう、っていう問題。
前提の文にも、問題があるが、それは、まあ、おおめに見てもらいましょう。結論は、いろんな教科書に載ってるし、一応、一般的な西洋論理学の知識にもとづいて教えてあるので、わかることになってる。

みんなの答え:
「これから生まれてくる人も死ぬ」
「わたしも死ぬ」
「わたしの母も死ぬ」
「どこにでもお墓がある」など。

「わたしの母」「どこにでもお墓がある」っちゅうのが奇抜でした。座布団1枚!
思わず出てきたんだろうな。
それはいいの。

これね、問題にもならないと思って出したのよ。みんなに点数とってもらおうと思ってさ。

「これから生まれてくる人も死ぬ」を見て、「うっ!」と思ったのだった。こっちの方がいい答えじゃん。
個別的な事柄を集めて一般化するのが帰納的推論といわれるが、この「これまで生まれてきた人は死んでいった」という前提から
「すべての人は死ぬ」を導くのは、そもそも構造的に相当の無理があるのではないだろうか、っていう気がし始めたら、もう帰納論理学は教えられなくなった。帰納論理学自体、考えてみなくちゃ、っていう気がするのよ。

演繹論理学でも同じ。
      すべての人は死ぬ
      ソクラテスは人である
    だから、ソクラテスは死ぬ

これだって、この推論の意味についてはずいぶん検討を重ねて、現代論理学では一番上の前提は「すべてのxにとって、xが人なら、xは死ぬ」という複合命題だなんて言われてる。一応、ま、むりやり納得してるけど、個体変項xが何かということについては、納得できてるわけじゃない。そもそも、推論が最初から正しいと決めておいて、その上で、この推論の意味を考えるという本末転倒を行っているんだけど、それについて文句をいう人はいまだに見たことがない。
まだ、他にもいろいろあげれば問題を感じるところはある。

論理の枠組みを知識として教え込むということは何を意味するのか?
理屈が現実にあっていないようなのに、むりに教え込むということは、これは「洗脳」なのではないだろうか?
ああ、まずっ!人類は、西洋論理学のウソを習ってる?!やばいすね。変なこと考えるのやめよ。

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さて、そこで、悩んだわたしは気分転換にサイトを検索して遊んでいました。manikanaでひいてみっか。
うわぁ、いっぱいあるぞ。大半うちです。
中に、掲示板のサイトがあって、わたしの論文をリンクしてくれて、これによって「龍樹が論理学を否定したことがわかります」みたいなことが書かれてあって腰がぬけました。

ちょ、ちょっと、お待ちくだされい!

なぜ、そのような、誤解を…ああ、『方便心論』を「反論理学の書」と書いているところから、そのように解釈したんですね。

「反論理学」って、正統派の論理学に対立する論理学という意味で「反」と言ったんだけど。
「反」は反対の「反」。でも、読んだ人は「反」は「矛盾」ということだと受け取ってしまって、論理学の完全な否定だと思ったみたいす。
よく読んでもらえばわかるんだけど…。

わかった!今度から、『方便心論』を「論理学書」にして、『ニヤーヤ・スートラ』を「反論理学書」にしておくことにきめたわ。
次の論文からだからね。

はぁ、めいっぱい疲れました。
西洋についても、東洋についても、とにかく「論理学」にいいだけふりまわされてる、哀れなわたしだった。
(なぜ、過去形かって?現在形だとつらすぎるって、ただそれだけの理由です。)

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2004/12/19

インドの哲学は癒し系?

日記書いてたのに、ちょっと他の用事が入ってそっちに気をとられていたら、全部消えてしまった。
アップ寸前だったのに、おしい!

もう一度、書くってのもね、って思うが、
でも、師走の暮れの喧噪を前に、しみじみもう一度書くか…締め切りの原稿放っておいて(こら)。

ま、暮れは何となくせわしないですね。
誰もが小走りに用を済ませようと、あせあせと動き回っています。

そこで、つい先日、ある人としたおしゃべりについて一言。
ストレス多く忙しい現代社会、ついつい目先のことにだけとらわれて、毎日毎日の暮らしに追われる。
これが現代人の生活です。
おしゃべりをした人には、かつて下宿人さまとの共著『ビックリ!インド人の頭の中』を差し上げたことがあります。

律儀なその人は、読んで丁寧にいろいろコメントをくれたのですが、いまだその本を読んでいて
「毎日あくせく目の前の事で精一杯だから、こういうインドの自由な思索の世界を知るとほんとにほっとするんですよ」と言ってくれました。

「空想の世界や思索の世界でこれほど自由に遊べるなんて」、っということで、西洋の哲学・思想とはまたちがったおもしろさもあるようです。
ほんとに素朴に、そして、限度なくいろいろ考えられるかぎり考えている、そんな姿勢が新鮮らしい。

さかんにほめてくれて、こちらもビックリ!
肩肘張らずに、読みたいところだけ、日頃の憂さを忘れて驚きながら読めるのがいいんですと。

ほお!そうなんすか?

そう言われてみれば、前にヨーガでみんなにインドの話をしていたときにも言われたことがあった。
「毎日、すごく忙しくて、考える間もなく日々に仕事をしているから、こんなインド哲学の話を聞くと、心底ほっとします。」
やつれたヨーガの人を見て、「そうかぁ、わたしもいいことしてるんだ」って思ったのよ。
「ヨーガやって元気出してね」って言いそうになったけど、ヨーガを教えていて忙しくて疲れてんですから…なんと言えばよいものやら。

話もどすと、つまりは、インド哲学って、現実離れしてるってことね。

ふうん、『ビックリ!』書いてるときは考えもしなかった。
この本が、こんなに癒し系だなんて。

めちゃたいへんだった。わたしはね。けっこう絞り出した感じはある。
どんな思想、どんなトピックが、インドオリジナルだろうか、って、けっこう悩んだんだけど。
だから、「ああ、はやく書いて癒されたい」と思いながら、書いたのよ、じつは。

世の中わからないわねぇ。
変なこと書いてるかな、って思ったけど、そうでもなかったのかしらね。
あ、変すぎて変に見えないのか…。

しかし、おしゃべりしたその人が『ビックリ!…』でほめてくれたところはね、大半というか全部下宿人さまの書いたとこだったす…さびしい~。

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2004/12/17

お釈迦さんは自由人

今年最後の哲学の授業だった。

うーん、何、話そ?
自由意志について、やってたんだけど…
そうだ、最後だから、一回も話したことのないお釈迦さんの話でもしよう!

人類史上、もっとも自由意志を行使した男。
何ものにもじゃまされることなく、束縛されることなく、あらゆるものから解放されていた究極の自由人。
その人の名は?

おしゃかさ~ん

のお話をしました。
彼は、その哲学思想の中で、「自己」という言葉を肯定的に用いなかったにもかかわらず、わたしたちの目から見れば究極の自己を実現したのであった。
彼は否定的に「諸々の存在は自己ではない」と言っただけなのだが。

それではどうやれば、おしゃかさんのような自由人の生き方ができるでしょうか?
その秘策をば、とくべつにここに公開。

がっこでは「自己を大事に」とか「自己実現」とか「自己をもて」とか言われてきただろうけど、そんなんは、素人の説である。
それではかえって、自己を自由に解放するどころか自己にとらわれてしまうことが多いのである。
欲望のままに行為し、欲望に自己を埋没させて、それが自由意志の発現だと思っている人が多いのである。

えへん!

ほんとうに自由人をめざすなら、「自己」という言葉を使わないほうがいい。
そして、喜怒哀楽の心がさまざまに生じ滅するのを観察せよ!
じっと、欲望が生まれ、それが消滅するさまを観察して心にとどめなさい。
それだけで、あなたは心の悩みや苦しみから欲望から自由になってくる。
因果の理法を学ぶのよ!わかった!

欲望を抑えられるものだけが、欲望を実践できる。欲望に引きずられることなく、欲望を自由に操ってほんとうに求めるものを手に入れられるのよん。

いや、もうとまりまへん。
ストレス社会で、心が病んでいるあなた。悩みをかかえて薬に頼るあなた。欲求を満足させようと我を忘れるあなた。
そんなあなたの悩みに答える究極の教え、それがブッダの十二因縁、四諦、八正道なりぃ。
でも、これはむずかしいので略すわ。おい!肝心のものだろ?いいのよ!たいしたことないわよ!(おい!おい!)

ほんととまらんわよ。

それで、終わったら、学生さんが数人寄ってきて、「お釈迦さんのこと知りたいから本教えてください」とか聞かれたし、自由意志の話とかもっと聞きたがって、それで少々雑談してきました。

いやぁ、わたしって、話うまいのかしら?それとも、健全な若者をたぶらかしてる?
毎回、お釈迦さんの話したいなぁ、って思いながら、けっこうこらえてたもんだから、話し出したら止まらん。

そして、薦めた本は、下宿人さまの『ブッダが考えたこと─これが最初の仏教だ』でした。

ああ、すっきりした。これで今年も言いたいこと言いまくって終わりました。
来年もよろしくね、諸君!

え?もういい?

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2004/12/16

『中論』の偈を著した龍樹が『廻諍論』を書かなかったら…

勉強しようと思うと、猛烈に眠くなる。

昨日は、お別れ会で知り合ったお母さんたちとランチ・パーティだったし。
あ、ランチだからね。誰ですか、ランチキなんて言ってる人。

哲学の本を薦めてきました。一応、手持ちの永井均氏『子どものための哲学』をプレゼントして、池田晶子氏の『14歳からの哲学』と『41歳からの哲学』を薦めてきました。
一緒にいた他のお母さんも「読んだら貸して」と言っていたので、ふふふ、そのうち哲学する主婦の集団ができるかも。

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それと、学会では、龍樹の作品について『ヴァイダルヤ・プラカラナ』と『廻諍論』とについて、龍樹の真作ではないという意見があることを知りました。

それを聞きながら、とつぜん、スマリアンの『決定不能の論理パズル』という本があるんですけど、それを読まなければいけないような気がしてきました。

何げに『廻諍論』とスマリアンなんだ?
およそ関係ないようにみえるけど、たぶん思考回路のどっかでつながってるんだろうと思う。
たぶん、この話は、証明問題とか論理パズルのようなものとして扱えるのかもしれない。
まだ、思いつかないけど。

だけど、その前になぞなぞふうにやってみると、こんなことになるのではないだろうか。
『中論』の偈を著した龍樹が、『廻諍論』を書かなかったら……どうなる?

まず、『廻諍論』が基づいている『方便心論』は書かなかったことになる。

『方便心論』を書かなかったら、ニヤーヤ学派と争うことがなくなるから
『ヴァイダルヤ・プラカラナ』は書かなかったことになる。

『ヴァイダルヤ・プラカラナ』『方便心論』『廻諍論』を書かなかったとしたら、
論理学の革新をなしえず、空の根拠を示すことができないから、『六十頌如理論』『空七十論』もどうなるかわからない。それらの作品も、『廻諍論』作者のもの、っということにもなるかもしれない。

これらの作品が、すべて『廻諍論』作者のものになれば、簡潔にそれらをまとめた部分をもつ『宝行王正論』も龍樹作とは言えなくなる。

そうなれば、中論頌のどこがほんとに龍樹のオリジナルということになるだろうか。

ちょっとある帰謬論法は、『方便心論』のまねっこだと言われるし、話題としては『方便心論』ですでにふれているものもあるから、それもまねっこしたな、と言われちゃう。
空について説いた部分は、『廻諍論』のまねっこという説も出てくる。

「まねっこしてもいいじゃん」ということにはならない。
龍樹の伝説がぜんぶまるまるウソになって、龍樹は、彼の前にいた無名の天才の業績を奪ったことになる。

どうして、そこまでひどく言われることになるかといえば、奪ったのが思想の断片ではなく「論理」ということになるからです。

だって、アリストテレスの論理学を基礎にして、なんらかのことを説いた男がいたとしたらなんと言われるだろうか。
ふつうの場合は、彼はアリストテレスの論理学を応用しただけと言われる。

論理の場合、他人の論理学を基盤にして何か言っても、何にもならない。
そんなこと、あなたでもわたしでも誰でもやってる。
論理学は、それを生みだした人が名を残すのであって、それを使った人ではない。
出来上がった論理は誰でも使えるんですから。


『廻諍論』が中論頌の作者龍樹の作品でなかったら…

龍樹にかわって脚光を浴びるのが『廻諍論』作者ということになるのじゃない?

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2004/12/14

なぜか越後屋気分

はぁ、たちまちありふれた日常にもどっちまいました。
帰ったら、「おーい、みやげがかあちゃん連れて帰ってきたぞ」と言われちゃったい。

食べかけの生八つ橋と赤福(伊勢名物のあんころ餅)が、京都に行った唯四の証拠となりましたが、それも食べちゃえば、京都に行ったのは夢になると思います。はやく食べて夢にした方がよいかも。

なぜ、唯四?だって、まだ神戸のたこ焼きと豚まんのおみやげが冷凍庫にあるんだもん。

しかし、それにしても、アクセス件数が増えてるような気がするなぁ。
これも夢だろうか。それとも、学会効果?

ま、まずいわ。どんどん悪事がばれると…(悪事って、そこまで自分で言うか)
みなみなさま、ご内密にぃ。(越後屋、そちも悪よのう、って、なぜ、このせりふが脳裏に!)

それでなくても、「ホームページ見てます」と言ってくださった方が、何人かいらしたので、
もう、そのたびに冷や汗が、たらっと、越後屋気分でした。(悪いことはしてないしてない、ぶるるっ)

冷や汗出るくらいならホームページたためば?とも思うが
そういってもねぇ、生活習慣の中に組み込まれちゃっているので、

ないと困るし。(わたし的には)
しかし
あるとまずいし。(現実的には)

まったくハムレットだわ。

「あなたの論文もってないので読めないのですが」と言われて、
「ホームページに載ってます」と恥ずかしくて言えないわたしは、何やってんでしょ!
そのために作ったんじゃ…。

まったくハムスターだわ。

しかし、考えてみると、このように反省する良心的な(?)越後屋のわたしに比べて(よく言うよ)、
他にホームページやってる人々って、けっこうずうずうしいのねぇ。
ぜんぜん悪事に手を染めてるっていう自覚に乏しいわよね。

まったくオイスターよね。

そんな、人のことはいいから、良心的なふりしながら結局一番ずうずうしいおまえが、反省しなさい!
あ、ばれたか!

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2004/12/13

京都一人旅

もしかして飛行機に乗ったのが10年ぶりだったりするかも。

この前京都に行ったのが、つい先ほど…13年前。ううむ。
北海道以外の学会に参加したのも、13年ぶりということです。

浦島太郎みたいなもんですね。
学会でも、ほんと浦島太郎だったので、お顔と名前を一致させるのに全エネルギーを集中しました。
だから、他のことは何も覚えていない…たぶんその方がいいにちがいない。

どっちかというと、浦島太郎ではなく、首引っ込めてるカメの方をやってればよかったかもしれませんが、運良く記憶がない。
何はともあれ、とにかく、わたしにとっては、とても有意義でありがたい学会だったのでふかく感謝しております。

さて、ところで浦島太郎としては、久しぶりの京都でビックリしっぱなし。
一日しかないのに、学会前にしっかり観光もして、南禅寺に行ってまいりました。

行く道すがら「何有荘(かいうそう)」というところがあって、庭園を公開していました。
1000円という入園料に、みなさんびびって入る人がほとんどいませんでしたが、「山上の草堂から見える眺望が雄大」という文字が目に入ったわたしは、主婦の身分も忘れて1000円はたいて入り、一目散に山の上をめざしました。

おい!庭園見なさい!

あれ!もう着いちゃった。どこどこ!眺望って?
あ、思ったより、低かったです。
たぶん北海道感覚なんだわね、わたし。「雄大」という観念に若干のずれがありました。ははは。
でも、眺めはそれなり。お庭も可愛くてステキ。とても手が込んでいてきれいです。
ほんと、京都だわ…繊細。泳いでる鯉も、とっても上品よ。とても鯉とは思えない。

次に南禅寺に行き、三門の拝観ができることがわかり、これまた、まよわず拝観する。
急な階段を上って上からながめてとても満足する。

それから本堂を経て、水路閣(明治時代にローマの水道を模して作られた)も見て、南禅寺を拝観する段になって何となく入ろうかどうしようかまよう。平面だしなぁ、二次元だわ。
でも、入って拝見する。平地とはいえ、渡り廊下はとても気に入る。

しかし、ここには住めないっ!と思う。ふすまに描かれた狩野永徳・探幽の虎の絵が怖すぎる。
生きてる!虎が。何せ、三方がふすまですからね。
もし、この部屋に泊まって朝起きたとしたら、どのふすまを見ても虎と目があって心臓がかくじつに止まる。
虎の檻に入っているのと一緒です。

じゅうぶん怖い思いをしたためか、次の間においてある寒山拾得の像も気のせいか怖い。
青ざめて南禅寺を出る。

さて、次の日は、時間もないので京都駅探検に出かける。
南側に泊まっていたのでぐるっと回って、駅正面に出て、これまたビックリ仰天する。

駅が、ない!
っていうか、宇宙ステーションみたいな建築物があって、中に宇宙人が…いるわけないです。
巨大な建物の中は、右手に空に向かって、えんえん天国への階段が幅広く続いているので、もちろん、即行、登りはじめる。脇にエスカレーター完備です。
入場料金がいらないのはラッキーだと思う。
上に行くにしたがい、人の数は減っていく。
つまり、どんどん「物好き度」がアップするにつれて、人々はあまりの試練に耐えかね脱落していくのであった。

11階まで階段が続き、とうとう頂上の小広場についてガラス越しにまわりの景色をながめる。
たいへん満足する。
ここにいるのは、極めつけの「物好き」ということになるわけか。
京都に来てよかった!!っと心底思うのであった。

以上の体験から、わたしはみずからの知られざる一面に気づきました。
一人で旅行しなかったらわからなかった、たぶん。

○○と煙は高いところが好きだと言いますが…わたしって、いったい
…あ、もち、「煙」のほうだっ!

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2004/12/09

毎日書くのが日記なの

たいしたものだわ、わたしって。
毎日よ!わかる?今週の日記、休まずつけてるのよ。
感動だわね。

だけど、あしたから学会のためいないので、2~3日休みます、がくっ!
こうして、あっさり、日記は途絶えるのだった。
あした、授業もあるし、なかなか忙しいわね。ハードなスケジュールだわ。
まちがってうちに帰ってきちゃわないようにしなくちゃな。心配だわ。空港に行くんだぞっと。

それと、関係ないけど、『方便心論』の和訳、少し手を入れて改訂しました。
一応全体目は通して検討してあるけど、これは、まだまだ読むとこあるので、読んでは改訂し読んでは改訂しして、完成作品をめざします。

一応、全体像はつかんだとはいえ、まだまだ楽しめると思う、『方便心論』。
なんて、のんびり『方便心論』ながめてる暇はなかったわ。

あと、予習しなくちゃならないし、いろいろあるから、今日はこの辺で。

あ、それと、昨日の削除できなかった件、わかったわ。
別窓が開いていて、そこでOKをクリックするんだったのに、他のファイルの後ろに隠れて見つからなかったのでした。
ぜんぜん知らなかった。電源切ろうとして、ようやく変な窓があるのに気づいたのでした。
いつ隠れたのかしらね。おかしいわね、ぶつぶつ…。

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2004/12/08

しまった!アップされちゃった!

タイトルを考えながら、クリックしてたら、そのまんまアップされちまいました。

ま、まだ何も書いてないよ!っていうか、まだ、書くこと考えてないのにぃ。
それにどうやっても、削除できないぞ。
削除ボタン押しっぱなしにしてるのに、びくともしないわん。

こりゃぁ、困った。このまま、何か書くしかない!
焦ると何も思いつかない!パニックに弱いこと、バレバレね。

仕方ない。昨日の『小説聖書』の続きでも書いてごまかすしか手はないわ。
といってもなぁ。
そうだ!みんな、モーセの十戒でも見てよ!

思い出したわ。わたし見てびっくりしちゃった。
ビックリしたわけはあとで書くわ。
まずは十戒だから、厳かに聞くように。

1.あなた方はわたしの他に神々をもってはならない。
2.偶像を作ってあがめ、礼拝してはならない。
3.あなた方の神、主の名をみだりにとなえてはならない。
4.安息日をおぼえよ。そして、それを聖別すること。
5.あなた方の父母をうやまいなさい。
6.殺してはならない。
7.不義をおかしてはならない。
8.盗んではならない。
9.隣人に対して嘘の証言をしてはならない。
10.隣人の家をうらやみ、隣人の妻を密かに欲してはならない─隣人の妻、しもべ、家畜、その持ち物すべてを。

わたし、ね、聖書の中の神様って、ほんとにえらい神様だと思うわ。
自分の要求は少ないし、それに、どん項目もよく考えれば、信仰してようとしていまいと、守るべき道徳・倫理ばかりじゃない?
お釈迦さんの言ったこととおんなじこと言ってるもの。6~10はおおよそ五戒にあたるわ。
2と3は、なぜこんなこと言ったのかしら、って考えると、結局神様自身のためではないわね。
人々が、神の名の下に好き勝手をしないようにするためじゃないかと思うわ。

それにちゃんと安息日ももうけてくれているし、ありがたい神様だわ。
結局、神自身の希望は1だけよ。こんなに控えめなんて、信じられない。

それなのに、人間はこの掟を破り続けて今日に至る、って感じでしょ。

だけど、逆に人間の側から言えば、この6~10の五つの戒は、守るのが相当むずかしい戒律とも言えるわね。
無理難題を要求していると言ってもいいかもしれない。

満足に守れてる人ほんとうに少ないもの。

モーセの十戒にしても、お釈迦さんの説いた五戒にしても、正しいことは誰にでもすぐわかって言うまでもないのに、それなのに命令や規則として残しておかなければならないなんて、ほんと不思議な動物よね、人間て。

頭や身体でわかるのに、実行不能だものね。

よかった!ここまで何とか埋まったわ。よし、アップだわ。ほっ!

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2004/12/07

「伝承」について、コホン!

生きていくのがやっとの管理人、鎖につながれた奴隷のように、毎日、日々の義務をはたすのであった。
気分は、バビロン捕囚の囚人だい。

って、言うわりには、楽しんでるようだって?
ちょっとばれてますか。
今までほんとに忙しかった。ようやく一段落してきた。

今日は、出かける仕事がないので、久しぶりに読みかけの

ウォルター・ワンゲリン『小説聖書』(旧約篇)上下、徳間文庫

を読んでしまいました。旧約聖書の中の父祖たちの話、モーセの十戒、イスラエルの建国、サウル、ダヴィデ、そして、アッシリアの圧政、預言者エレミヤと全部もれなく入ってる。あ、アダムとイヴもいたっけ。おもしろいです。

「火宅の人なんです、あちっ!」というタイトルのところで書いた本ですが、まちがってました。本の名前。
正確には、上のようなタイトルでした。
ヨーガの人に借りたのですが、通勤途中で読んで、すっかり心をうばわれてその日はへまばかりしていたので、「やばい」と思って自粛していたのでした。
やったへまの数は数知れず、とっても、ここには書けないわ…思い出すだけでも…出席簿を持って帰るわ、配るプリントまちがうわ…やっぱり、これ以上は書けない!

ま、過去は忘れよう。
いろいろ書くことはあるけれど、愚かな人間の所行を書きつづったこの本は、とても魅力的ですわ。
愛すべき人々だと思います。
風土と生活様式、人々の暮らし、欲と裏切り、真実と信仰、いや、何でもありでほんと魅せられる。
そして、イスラエルとパレスチナの紛争の現在を見ると、彼らは全く変わっていないようだ。

だけど、今、書くことはこのようなことではない。これにしぼりたい。

歴史と伝説。

聖書の中のことは、たぶんほとんどほんとのことだろうと思う。
「伝説」の中には、たくさんの真実が入っている。
伝説や言い伝えを史実ではないとして疑う人がいるけれど、むしろ、この中にこそ多くの真実があるような気がしてならない。

なぜなら、人の目による認識や記憶、これらを通さない事実というのはないのだから、このような事実とされるものが、多くの人の見たものであり記憶である方が、より共有された「事実」としての資格をえるのではないだろうか。

言い伝えられているということそのこと自体が、言い伝えを真実にしてきている。変な言い方だけど。
事実と信じることが、事実を真実にしている、とでも言ったらいいのか。
認識されたものである事実は、客観的なデータとは違った語り方をされてこそ意味がでる。と言ったらいいのか。
わかるかなぁ、この気持ち。

つまり、マスコミなどが伝えるニュースより、実際見てきた人々の言葉の方が信ずるにたるという場合もある。より信頼できると思うことは多い。歴史は、実際は権力によって作られる場合が多いからね。たぶんゆがんでいる。

なぜこんなことを言うかというと、インド哲学研究も、例えば、龍樹の伝記などについて、歴史的事実かどうか疑わしいという意見がすぐ出てきてしまうから。
竜宮城に行っただの、身体が見えなくなる薬を作り出しただの、ちょっとふつうじゃない文面が出てくるからかもしれないが、それに気をとられてはいけないと思う。
誇張や脚色の中にある真実を見つけることが、わたしたちにとって大事だ。

伝承というものは、「客観的事実」とされる史実に対する信仰の陰に隠れてわからないが、わたしたちに、じつは多くの真実を伝えてきていたんではなかろうか。と思う今日この頃。

だって、龍樹の伝記なんだけど、たしかに誇張されたりしてるけど、話がどう見ても作品とうまく符合してる…。

って、聖書からさりげなく龍樹にいくとこが、やっぱ、わたしだなぁ。
あ、さりげなくない?失礼しました。

しかし、今回、まじめじゃん。

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2004/12/06

毒を盛るなら、気をつけて!

4時半起きです。眠いす。

降りましたわ、雪。
関東は暴風が吹き荒れてたいへんだったですね。しかも真夏のような気温で。

さて、と、今日は論理学、っと。
哲学やって、龍樹やって、サーンキヤ・ヨーガやって…
毎日日替わり弁当みたいに違うことやるんで、切り替えがむずかしいすよ。

たいてい前の余韻を引きずるから、なかなか割り切って予習できないのが、難点なのよ。

論理学も、ねぇ、まずいのよ、いろいろ。看護師さんと論理学って、ときどきとっても合わないの。

合わないのは、おまえの教え方が悪いせいだ。
そんな変な問題出したら、看護師さんの看護だましいに火がつくに決まってんだろ!
そんなにおいしい問題! だすなっつうの。

ふぇ~ん、ごめんなさい!ごめんなさい!

だってぇ、気がつかなかったんだものぉ、許してよぉ。
そんなに文句言うんなら、みんなにも問題出しちゃうから。

『天才スマリアンのパラドックス人生』からとった問題よぉ。ぐすっ。

問題
3人の男a,b,cがサハラ砂漠を横断していた。ある夜、彼らはテントを張った。aはcを憎んでおり、cの水筒の水に毒を入れて彼を殺害することにした。これとはまた別にbもcを殺害しようとしていた。彼は、cの水筒に毒が入っていることを知らずに、cの水筒に穴を開けた。水筒の水はゆっくり流れていった。この結果、cは砂漠で脱水症状になり数日後に亡くなった。さて、aとbとどちらが殺人者だろうか。論理的に説明してみよう。殺人者とする方の名前をあげ、しっかりと理由を述べてほしい。

みんなどんな答えをくれたと思う。

一応、ね、論理学の問題だからね。
作った人は、aとbのどちらが殺人者とするべきか、大いに悩んでもらおうって魂胆だっちゅうことはわかるのよ。
aは殺害の意志も行為もはっきりしている。しかし、運悪くbより先に事をなしたが故に、bにすっかりじゃまされた形になってしまっている。
bは、aほど殺意はない。度のすぎた悪ふざけと解釈できないこともない。しかし、直接,cを死に追いやった。
さあ、どうするどうする?誰が殺人者?

って、問題なのにさ、みなさんの反応はいかに?

ある学生は:
ゆっくり漏れていったのだから、cは水を少しは飲めたのではないか。そのため、毒も回って脱水症状に加えて重い症状が出て数日後に亡くなった。

また、ある学生は:
cは水を少しは飲めた。おそらくその毒は遅効性のものだったのではないか。脱水だけなら、他の人の水をもらったり奪ったりできるのではないか。ゆっくり効いて次第に体力を奪ったのではないか。

また、ある学生は:
その毒は、脱水症状をもたらすような毒だったのではないか。だから、脱水で死んだようにみえるのでは?

また、ある学生は:
脱水になっているのに、助けないというのはおかしい。一緒に行動していたら水を分けたりするのではないか。
そうなら、毒の効き目もあって脱水になり死んでいったというのならわかる。

論理の問題なんだってば。
お願い、ゆるしてください。勘弁してよ。ごめんなさい、もうしません。こんな問題二度と出すもんかぁ~。

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2004/12/05

サーンキャ思想説明できます

今週ほんとにハードだったなぁ。
金曜日は睡眠2時間だったから、起こっていることが夢のようだった。

昨日は、ヨーガのみなさまに古典ヨーガの思想的基盤といわれるサーンキヤ哲学について講義をした。

わっはっは。うまくいったのよ、これが。

今までは、過去に2度くらいチャレンジして、ま、それなりはわかってもらえるけど、どうもピンときたような感じではなかった。

わたしは、ヨーガはほんとにちょっとしかやったことない。
だから、ヨーガは頭から入ってる。つまり、文献から。

一方、

ヨーガのみなさんは、文献かじったことがほとんどない。
だから、ヨーガは体から入っている。つまり、実践から。

このように互いに欠陥のあるものどおしが、体験ベースの理論を知ろうってんだからどうしても無理がでる。

だから、この場合サーンキヤの説明の中にある、目の見えない人と足の悪い人の喩えを応用してそのようなイメージでやったら、うまくいったわ。

サーンキヤは二元論です。ちょっと変わってる。

プルシャ(精神的原理)とプラクリティ(第一質料因)
むずかしいわね。言葉が。

プルシャはアートマン、「自己」なの。それは、ただ「見る」だけの者。
あなたの中に一つ。わたしの中に一つ。みんなに一つずつ。だから、みんな「自分が見てる」って思うのだわ。
でも「思ってる」って部分は、「自己」じゃない。自己は見るだけ。つまり、ただ「主体」というだけ。もち、姿形はないからね。

プラクリティは、残ったもの全部、さっきの「思ってる」もここ。変化する精神世界と肉体の世界全部。
ま、身体と心と周囲の環境全部のこと。

変な分類だ、だって?

失礼しちゃうわ!これでいいの。みんながまちがってるのよ。
だって、こうすると何もかも説明できる。理性ある人も理性のかけらのない人も、赤ちゃんも死にかけの人も、キレてる人もキレのいい人も。
「目の見えない人と足の悪い人」の喩えによってうまく説明できる!るん!

「足の悪い人」はプルシャ、でもね、目は見えるの。
「目の悪い人は」はプラクリティ、でもね、足は丈夫。

目の悪い足の良い人は、足の悪い目の良い人を負ぶって、進むの。そうすると目的地に行ける。
何でも二つ合わせて、一つになるものは、一つになってるときをうまく説明できなきゃだめよ。

人それぞれの部分や変化する部分は、みんなプラクリティの中で説明できる、心も身体もね。
プルシャはみな「見る者」として共通。だから、どんな生き物も同じ生き物だなって、連帯できる。たくさんあるけど、一つと一緒やね。

現代では人気がなくなってきたけど、心と体に分ける二元論は、例えば、馬と車のようなもの。
あわせると馬車になるけど、馬は暴走するし、車はそれだけじゃ何にもしないし。
御者もいなけりゃ、馬車に乗る人もいない。何か足りないわよ。
これだけだと、まるで、押さえのきかない現代人…おっと、まずいわ。失礼、失礼。

こんな風だから、サーンキャ方式で行くと、
プルシャはわたし。見ることはできるけど動けない。
ヨーガのみなさんはプラクリティ。動けるけど見ることができない。
だから、わたしがヨーガの目になって、みんなに「こっちだぞ」って言ったら、みんながどんどん進んでくれて、わたしも目的地に行けたのだった。

いいわね!こういう説明。
しかし、現実見ると、鍛えられてない肉体はわたしだけってのが、ねぇ、異様にさびしい、っす。

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2004/12/02

龍樹!君の誤解を解くときが来た

そろそろ正体を明かすときが来たようだ。

わたしは龍樹。
2~3世紀、わたしはインドの哲学を破壊した。
いや、破壊したというのは正しくない。
もともとがれきだったのだから。
新たに築き上げたと言った方がいい。

空の思想を人々に教えたのだ。
それは、ブッダ直伝の教えだった。
が、しかし、現代にいたって、今や空の思想は、ほんとに「空(からっぽ)」になっちゃった。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

お、おい!とつぜん口調を変えないでよ。
せっかくかっこよかったのに。
ううん、まじめに徹しきれないのが欠点なのよ、わたしの。

ま、とにかく龍樹に話をもどすわ。
しかし、まるっきり、龍樹は誤解だらけだわ。
因果関係や論理的関係を否定したように言われるし、ことばを否定して「ことばを超えろ」と言ったとか言われるし、もうさんざん。

こりゃぁ、しょうがないわね。
因果関係を示し、論理的関係をはっきり定義し、ことばのもつはたらきを分析したのが、龍樹なんだけど。

現代論理学を超える論理学者であり、言語哲学者であり、ブッダの阿含経典の注釈者である。
虚無論者ではない。
彼が虚無論者なら、ブッダもまた虚無論者といわれなければならない。

まぁ、こういうことを明らかにしていくのが、わたしの仕事になってきたと思うわ。

そして、その初仕事として
龍樹の空の真相の一端を今度の学会で発表できそうだとお伝えするわ。(12月11日京都です。)
題名は「ニヤーヤ学派の言語論」ですが。あってないわね、題名と内容と。ははは。

いやはや、発表原稿書いててびっくりしたわ。
ぜんぜん見えていなかった真相が新たにわかって驚愕したわよ。

りゅうじゅ!あんた、頭良すぎ。
天才なんて生やさしいもんじゃないかもしれない。

そして、わたしの目は節穴。
それにしても、真相見えてなかったら……どうなっていたのかしら、発表だけど…けっこう綱渡りの人生だわね…し~ん。

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2004/12/01

世界でもっとも謙虚な男

はぁ、疲れました。
二日続けて仕事にいくと疲れますわ。

頭が論文頭なもんだから、いちいち授業頭にするのがたいへん。
しかぁし、無駄に授業をしないのがえらいとこなの。
授業しながら、今度は新しい授業のネタも一緒に考える、っというなかなか器用なことをする。
だって、もうゆったり予習する暇ないんだもん。

その上、来年の論理学の講義の内容もアイディアを考える。

えらいぞ!我が人生に無駄はない!

そして、テキパキっ!帰りの汽車で論文の見直す…あれ…みなお……寝てたわ。もう、駅に着いちゃった。
テキパキ生きているようで、抜けてるわね。

さて、どうせテキパキしてないんだったら、いっそゆったり、この前読んでた『天才スマリアンのパラドックス人生』でももう一度読んでなごむことにしましょ。

スマリアンのジョークの話の中で、これ読んだとき、あ、って思ったのよ。

こんな話。

世界で最も謙虚な男のジョークです。
彼は、いつも次のように手紙に署名した──「謙虚な男より」
さて、ある日学生が教授にたずねた。「この男が自分の手紙にこんな署名をすること自体、彼が謙虚だという事実に矛盾するのではないでしょうか?」
教授「君はわかってないね。彼は謙虚なのだ!本当の謙虚さが魂に入り込むと、もはや彼はそれを美徳とは考えないようになるんだよ!」

この「謙虚な男」っていう人の代わりに、お釈迦さんをおいてみたくなる!

そんな話。

世界で最ももの知りなお釈迦さんの話です。
お釈迦さんは謙虚さゼロで言った──「わたしは一切を知る者である」
さて、ある日学生が教授にたずねた。「お釈迦さんがこんな風に一切を知ると言うことは、そのこと自体みんなは知りえないのだから、彼は物わかり悪いのではないでしょうか?」
教授「君はわかってないね。彼は一切智者なのだ!本当の知恵が脳に入り込むと、もはや彼は何を知っているかなど考えないようになるんだよ!」

いまいち?どう?おもしろくなかった?

むずかしいなぁ。この謙虚な男とお釈迦さんどっかすごく似てるんだけど。
もっとうまく落ちがつけられないのは、それが何だかわからないからかな。

眠くてさ。一切無知者なりぃ。

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