2020/05/25

不思議なこと

テレワークだの、オンラインだのと、いろいろな状況が押し寄せて、

管理人も、悪戦苦闘している毎日です。

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少し慣れてきた「はず」のオンライン授業

 

テレビ会議システムを使って行うと、いろんなことが起こる!

わたしだけ。。かも

 

たぶん、わたしが何か変なことをやってるんだと思う。

自分のパソコンの画面を、みんなに見せる

「全画面表示」

というのがある。

これを使って、見せたいパワーポイントやスライドなどを提示して、

説明すると、授業ができる。

 

「全画面表示」という表示システムをクリックしようと

画面に出てきたものを見ると、

自分の画面に、全画面表示用の機能を書いた別の画面が

小さく立ち上がった画像として、自分の画面ごとでてくる。

それをクリックすると、

自分のパソコンのトップ画面がみんなにまる見えになるのだけれど、

クリックする前、

その画面では、鏡に映った画像を合わせ鏡で見ていくように、

その画面の中に次々といくつも小さな画像が開いていくのだ。

 

何を言っているかわかります?

 

それがイヤで、その画像はどうもクリックしにくい。

で、違うところを、あれこれクリックしてしまう。

 

たいていは、事前に練習するので、うまく行くことが多いけど、

でも、

どうかすると、見せたいものに行き着けないこともある。

あらまぁ。

 

学生さんはかわいそう。。

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ハスカップの黄色い花でも見てください。

 

    ◇◇◇

 

今日は、マイクが不調で、ハウリングがすごかった。

何が原因なのかを探る元気もありません。

 

明日も、違う授業があるし。

マイクの不調を調査しても、授業はできない。

 

あらかじめ講義を下準備し、計画的に構築しておかなくてはならない。

たとえ、予期せぬ異変が起ころうと、

 

こういう授業になるはずだった

 

というのを、自分の中で持っていなければっ!

って、思ってやってるのです。

 

もしかしたら、うまく行くかもしれないし。

 

毎日ふつうにやってた授業が、こんなに面倒なんて、

なんてことでしょうか。

手間がかかるのに、実質的には、中身は薄い。

普段の7割行けば、良い方です。

 

授業って、何だろう、

って、あらためて思って、だんだん分からなくなってる管理人です。

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オダマキが至る所に広がって、庭を占拠しはじめました。

 

オンライン授業というのは、

ギャンブルの要素があるな、って思う。

つながらなければ、始まらない。

 

最近思うことは、以前より

あらゆることが、なぜか

不確実になってきた、ということです。

どうなってるんだろうね。

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サクラソウが咲いたそう。

確実なことだってあるさ、と自分をなぐさめる日々。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2020/04/20

スピード感をもって(?) ん??

どうも、引っかかることばが最近多い。

 

政府関係者の人々が使うこんな表現

「スピード感をもって、対処したいと思います」

 

なんだ、これは?

けっこう、みんな使っている。

おかしいと思う感覚も麻痺したようだ。

 

「すぐに対処します」

と、どうして言えないのだろう。

 

すぐに対処しないが、「すぐに」やっているように見せかけたい、んだろうね。

どうしても、人間は嘘をつけないようにできているらしいね。

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       ◇◇◇

 

「時」について、尊者サミッディは、神にこのように言われました。

「比丘よ、若いあなたは出家しました。

若々しく、漆黒の髪をもち、吉祥な若さをもちながら、

(人生の)第一の時代に諸欲に遊び戯れることなく。

比丘よ、人が求める欲望の中で食べなさい(=享受しなさい)。

現に見られたことを捨てて、時を要することにしたがうことはありません」と。

 

若いんだから、もっと遊びなさいよ。

すぐに若さはなくなってしまうんだから。

修行なんて後でもいいから、さ。

 

こう、神さまは、サミッディ尊者に誘いをかけたけど

サミッディ尊者は、

時を要することを捨てて現に見られたことに従っているだけ、と答えるのです。

 

「友よ(神さまのこと)、時を要する諸欲は、苦しみが多く憂いも多く、

ここにある危難はいっそう多い、と尊師は言いました。

現に見られるこの法は、時の要らないもの、来て見るべきもの、

導くもの、智者たちが各自知るべきものなのです」

 

サミッディは答えます。

現に見られる法こそ、時の要らないもの。

諸欲を求めるのは、時を要する苦しみの多いもの。

 

神さまは、意味がよくわからず、ブッダのところまで行って尋ねるのです。

 

ブッダは、「時」に注目させるのではなく、

『今、やりなさい』と、「現に見られる法」を教えます。

つまり、「空」を説くのです。

 

ここだよ!空は!

 

ブッダは詩で語ります。

「語られるべきものを心に思う衆生たちは、

語られるべきものに依止している。

語られるべきものをあまねく了知せず、

(かれらは)死神の束縛に近づいていく」

 

神さまは、何のことかわかりません。むずかしいね、わたしたちにも。

 

説明してみるよ。

 

わたしたちは、衆生です。この神さまと同じです。

コロナ・ウィルス関連のことばに心を痛めて

そのことばかりを考えています。

コロナをあまねく知っていれば恐くはないのに、

知らないので、不安がつもり、逆にどんどん死に神に近づいていくのです。

 

ブッダは、神さまに説明します。

具体的にやることを言うのです。

 

ブッダは言います。

「『同じである』とか『勝れている』とか『劣っている』とか考える者は、

これによって争論することにもなりましょう。

これら三種の中で動揺しない人―かれには『同じである』も『勝れている』も

(『劣っている』も)ありません」

コロナの感染が起こって、差別が生まれてくる。

コロナ感染の恐れがある人を、露骨に遠ざけたりする。

医療関係の人たちですら、差別されてしまう。

中小企業の弱者の人々は、切り捨てられていく。

 

ブッダは、さらに言うんだよ。

悟った者について、説明してくれる。

「(悟ったかれは、)名称を捨て去って、天宮に到達することなく、

この世における名称と色かたちにおいて渇愛を断ちきった。

神々と人間たちは、この世でも、他の世でも、天界でも、あらゆる住処において、

結び目(=束縛)を断ちきって苦しみなく求めるもののないかれを、

探し続けているが、得られなかった。

もし、あなたが、識っているなら、告げてください、ヤッカ(この神さまを指す)よ」

 

神さまは、ピンときたね。

難しいことばに惑わされず、何をどうすればいいのか、つかんだんだ。

悟ったブッダを見て、悟った者の言うことを、悟った!

 

わかった神さまは、答えます!

 

「あらゆる世界において、ことばによっても、心によっても、身体によっても、

いかなる悪も行わないようにしよう。

諸々の欲望を捨てて、気づきをもち、正しく知って、

利益をともなわない苦しみにしたがわないようにしよう」

 

神さまと同じように、わたしたちも、わかるよね。

互いに差別せず、いろんな欲望をがまんして、

今、やるべきことを、ただちにやるのさ!

 

「スピード感もって」じゃなくて

「現に」見えていることに「ただちに」対処すべし!

悪をなすな、ただちになすべきことをなせ!

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『サンユッタ・ニカーヤ』1.2.10「サミッディ」を使いました。

cf.中村元訳『ブッダ 神々との対話』(岩波文庫)、pp.28-35.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2020/04/02

無畏(おそれなし)

最近時々見かけることば。

引っかかることばです。

 

それは、

「正しく恐れる」

 

たとえば、

「新型コロナウィルスについても、正しく恐れることが必要です」

 

「正しく」がついてもつかなくても、結局、「恐れよ」と

述べているのだ、と気づかねばならないのでは?

 

恐れるのは誰か?

「自分」である。

誰かが「恐れなさい」と勧めながら、

しかし

その責任は、「あなた自身にありますよ」と述べていることばである。

 

まず、「恐れる」ということ自体が苦しみの行いである。

さらに、

恐れた結果が、不幸な事態、苦しみの事態に陥っても、

その文を語った誰かは責任をとらない。

 

あなたは「正しく」ということを守らなかったからだ、と言い訳できるからである。

 

「正しく」については、曖昧である。

密集(場所)、密閉(空間)、密接(場面)を避けなさい、とはいわれるが、

それを守れば「正しく」なのかどうかは、よくわからない。

 

つまり、このことばどおりにすると必ず苦しみがやって来る、ことがわかるだけだ。

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      ◇◇◇

 

仏教の説く八正道は、正しい道を八つに分けて述べるものである。

「正しい」というのは、そんなに簡単ではない。

ブッダが説くのは「中道」ということだからだ。

 

両極端によらない道が、中道であり、正しい道とされる。

今の場合、「恐れること」と「恐れないこと」のどちらにもよらない立場ということになる。

 

むやみと密集・密閉・密接を恐れて、一人離れること。

密集・密閉・密接に「恐れなし」とばかりに、わざと三密状態へと向かって行動すること。

 

どちらも極端である。

苦しみのないところに向かうのは、

この「恐れる」ということばが消えてなくなるときである。

人々を煩わす「コロナ感染の心配」が消えてなくなるときである。

社会の活動が戻って安全に暮らして行けるようになるときである。

 

そうなるために、八正道の「正見(正しいものの見方)」がある。

因果をあるがままに見つめて、

自分の意思で智慧を用いて、選択しよう。

 

あなたの行動は、最終的に、あなた自身が考えて決めよう。

そのために「正見」がある、「正思」「正語」「正業」「正命」

「正精進」「正念」「正定」の八つがある。

 

どんな結果になろうとも、自分で納得して自分で行動したことには、

安心があるだろう。

 

それを、「無畏(畏れなし)」と呼ぶのではないだろうか。

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季節はずれに降った雪。

桜のようにも見えるかな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2020/03/21

日常は日の常

2月12日は、雪祭りが終わった次の日だった。

大通りを通りかかると雪像を壊しているところだった。

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形あるものは壊れる。

形あるものは壊せる。

 

2月28日だった。

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形あるものは、融ける。

形あるものを融かす春。

 

3月21日だった。

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形あるものは、まだらに融ける。

形あるものは、しまになる。

形あるものは、安らぎの涅槃。。

 

目に見えない新型コロナウィルスに脅かされるのは、

賢い人間だから?   

賢いはずの人間だから、いろいろ悩んで苦しむんだね。

 

「世界的に苦しむ」図式が、広がって、世界は病んでいる。

仏教が求められている。。とりわけ、仏教の智慧が。

 

 

 

 

 

 

 

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2020/02/08

何とすでに2月か。。今年も終わった感が。。

「あっ!」と思ったら、

もう二月ですか。

何なんだ、この忙しさ。

 

1月4日に、論文を書いてた記憶がある。

1月6日に、講義に行った。

証拠はこれ!Dsc02693

電車に乗って、苫小牧に向かってる。

雪がないなあ、って思って写真を撮った。

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一応うっすら、申し訳程度に雪がある。

それから月日は流れ

2月4日、まとまった雪が降った。

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いつもなら、少ないと思うけど、

それでもまっ白になったので、安心したわ。

雪が多いと、文句をいい。

雪が少ないと、また文句を言う。

ほんっと、人間って、わがままなものね。

「人間」って、書いてるけど、

文句を言ったのわたしです。

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ごめんよ、雪景色。

 

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2020/01/06

新年おめでとう

もう六日。

あっという間のお正月ですね。

 

これから、大学に講義に行くところ。

お正月にやろうと思っていたことの

わずかもできませんでした。

 

お正月にやろうと思う仕事を持ってくるのは

甘かったかな。

 

いろんなところで

「ブッダの公式」がウケている

手応えを感じています。

 

使える!

 

って、思ってます。

 

西洋論理の真理表を抱えている人にも、

「ブッダの公式」なら使えます。

煩悩をもっている人たち(ほぼ全部の人々)に

語ってこそ、

仏教は意味をもつのだな、って。

 

煩悩をなくす教えは、煩悩の中にこそ、

おかなければならない。

 

なるほど。がっこにいこっと。

 

 

 

 

 

 

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2019/12/30

悟ること(誤らないこと・揺れないこと) 

お気楽掲示板に、次のように書きました。

 

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Re: ご参考までに  管理人エム 2019/12/01(Sun) 20:47 No.55781

言葉の誤謬は、それがすべてです。その人のすべてです。
理解できたとき、会得できたとき、あるがままに語ってミスがありません。
口から出て来るのは智慧の言葉なのです。

仏陀は、どんな場合にもあやまつことがありませんでした。

言葉というのは、行いなのです。

行いを尋ねているのですから、もし、真剣に追求していれば、

おのずと何かが口をついて出てくるでしょう。

それを待っているのです。

 

=======

「智慧」ということについて、

わたしは、ずっとこう思ってきたのです。

なぜなら、ずっとわたしは、ことばの誤謬をおかしつづけて、

今日にいたっているからです。

 

       ◇◇◇

 

仏教の世界を体験してから、

「なぜ、ブッダは、まちがわないのか」

これをテーマにして研究してきた、といっても過言ではないのです。

それは、「揺れたくない。判断を誤りたくない」と思い続け、

自分でも、「語ることばは常に真実でありたい」と願ってきたからです。

 

       ◇◇◇

 

で、28日、最後の「朝日カルチャーセンター」の講義に行ってきました。

『スッタニパータ』「彼岸道品」を読んでいるのですが、

“誤りをおかさない”、そして、常に“揺れない”でいるブッダに出合いました。

まずは、質問したティッサ・メッテイヤ学人のことばから。

 

=====

1040「この世界において、誰が満足した者なのですか。

誰に、諸々の動揺することがらがないのですか。

だれが、両極端を知って、中間においてよく考慮して染まらないのですか。

誰を、偉大な人と語るのですか。だれが、この世で、愛着(縫い子、sibbanī)を超えたのですか」

と、ティッサ・メッティヤ尊者は言いました。

=====

 

これに対して、“揺れない” ブッダが答えます。

=====

1041「諸欲の中で清浄行をもち、渇愛を離れて、常に気づいており、

考量して寂静となっている比丘、かれには、諸々の動揺する事柄がありません。

1042 かれは、両極端を知って、真ん中においてよく考慮して、染まることがありません。

かれを「偉大な人」とわたしは言うのです。

かれは、この世において愛着(縫い子、シッバニー)を超えました。」

=====

 

「両極端」とは、苦楽や善悪のような相対的な判断のことで、

人は、その判断の中で、どうしても揺れてしまうのです。

ここには、仏教の「中道」が説かれている、と見てもよいし、

ただ、ウパニシャッドに説かれるバラモン教の思想を否定している、と見てもよいでしょう。

あら、これは揺れてるわけじゃないですねん。

 

この世で「愛着(縫い子)を超える」のうち、

縫い子(縫う女とも訳される)は、刺繍を縫う縫い子のことで、

古くなった縫い取りを取りはらい、新しい縫い取りを施す縫い子の技を指しています。

 

新しい縫い取りをそこに施すことは、新しい身体を得ることの喩えです。

だから、アートマンが古い身体を捨てて、(縫い子が新しい刺繍を施すように)

新しい身体を得ることを指しているのです。

輪廻を語っているのです。

『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』には次のようにあります。

 

====

刺繍の縫い子が、刺繍の一つの断片(ユニット)を取って、他のいっそう新しい、より美しい形を作り出すように、同じように、アートマンはこの身体を捨てて、無明をおいやり、より新しくより美しい形を作り出すのである。祖霊の、あるいは、ガンダルヴァの、あるいは、神霊の、あるいは、プラジャーパティの、ブラフマーの、他の生き物たちの(姿形を)。(『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』4.4.4)
====

 

ブッダは、1042で、こう言っています。

「両極端を知って、

真ん中においてよく考慮して、

染まることがありません」

 

「両極端」は、あれかこれかと迷う選択肢のうちの、二つの限界点を指しています。

それを「如来所説経」でやってみるよ。http://manikana.la.coocan.jp/canon/tathagata.html

 

そこ(両極端)を見て考慮してみると、

「3 それは、愛欲において欲楽の生活に耽溺することであり、下劣で卑しく、

凡夫に属するものであって、聖ならざるものであって、利益のないものである。 

そして(もう一つは)、苦行を実践することであり、苦しみであり、

聖ならざるものであって、利益のないものである。」

と出てきます。

真ん中を考慮すると、「中道」です。

どちらにもよらない、染まらない道が見つかります。

それが、具体的には、「八正道」ということになるのです。

 

揺れないブッダの、揺れない答があります。

しかし、考えてみると、

これは、ティッサ・メッテイヤ学人に語っていて、

かれは、仏教の教えなど、まったく知らないのです。

だから、かれが聞いているのは、『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』に

合わせて語ってくれるブッダのことばなのです。

聞いてる本人も、そこを意識してたずねてもいるのです。

 

ところが、なんとなんと! ブッダは、自分の弟子たちにも

ティッサ・メッテイッヤに語った教えと、寸分違わぬように見える教えを語るのです。

それが「如来所説経」です。有名な、苦楽二辺の中道が語られるのです。

だから、スマ長老は、『スッタニパータ 第五章「彼岸道品」』の中で、

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「縫う女(sibbani)」という文学的な表現で、渇愛を示している(p.133)

と、説明するのです。

 

それぞれ立場の異なる、

バラモン教のティッサ・メッテイヤ学人と上座部スマナサーラ長老に対して

ブッダは、一つの答を与えていて、そこでしっかりとおさまっているのです。

 

ティッサ・メッテイヤ学人は、満足し、

スマナサーラ長老も、この章の終わりで

「渇愛が消えたら、満足に達しているのです」(pp.133-134)

と、満足の色を浮かべて答えているのです。

つまり、輪廻からの解脱を語っている、と説明しているのです。

 

       ◇◇◇

 

なんなんだろうか、いったい!

どう考えたらよいの??!!

 

はるか2500年前のバラモンのティッサメッテイヤを満足させ、

現代に生きる上座部の智慧者スマナサーラ長老を満足させ、

そして、それを見ているわたしを、大満足させる ブッダさまさま

 

おがみます

おせちをお供えします

おもちもお供えします

御神酒はやめます

 

今年も1年、智慧で救ってくれて、ありがとね!

 

来年は、“揺れない” わたしになりたいわ。

智慧のおすそ分け、ってないのかな。。

 

お、しゃしん写真

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ふんわり雪をかぶったナナカマド(朝カル教室の帰り道)

 

みなさま、良いお年を!

 

 

 

 

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2019/12/02

覚ること

記事を書いていたら、消えました。

「覚ること」というタイトルだったのにぃ…

消えたよ。

 

何か、未来を象徴するかのようですが、気にしないぞ…

気にするもんかぁ。

 

って、書けば書くほど気にしていることが、ばれちゃうわ。

 

          ◇◇◇

 

悪魔とお釈迦さんが対話しているところでした。

『大般涅槃経』には、こうあります。

悪魔は、さかんに、お釈迦さんにこう言います。

「尊師よ、今、涅槃にお入りください。善逝よ、涅槃にお入りください。

尊師にとって般涅槃の時は、今です、尊師よ、尊師はかつてこのようなことばを述べました。―― 

『パーピマンよ、わたしの比丘たち、声聞たちが、聡明であり、訓練され、畏れなく、(1)

多くを聞いて、

法を保ち、法にしたがった法を具えて、正しく得て行じ、法に随って歩むものであり、(2)

自らまたは師によるものを獲得したのち、

告げて(ācikkhanti)教示して(desenti)分からせて(paññapenti)、(3)

設定して(paṭṭhapenti)開いて(vivaranti)分析して(vibhajanti)明らかにし(uttānīkaronti)、(4)

起こった異論を、法をともなうことによって、よく説き伏せて、敗北させて、(5)

奇蹟に満ちた法を説示しない限りは、わたしは、涅槃には入らないだろう』と。」

 

         ◇◇◇

 

じつは、この悪魔の言葉の中にある

お釈迦さんの教授法に目を奪われていたのです。

すごい方法だ。誰でも、この通りにやれば、お釈迦さんになれる、ブッダになれる。

覚れるのです。

(1)(2)は、学習の初期で、教えを習うという段階。

(3)(4)は、会得したものを他に教える段階。

(5)は、ほんとうに得ているという応用の段階。相手を敗北させる、ってあるね。

相手を説得して、うなずかせてこそ、真実であると示せるわけだね。

「奇蹟に満ちた法を説示する」は、おまけみたいなもの。

ここまで来たら、ほんとにすごい。

 

覚りに向かう法というのは、ここまですごいんだぞ、

と示しているようでもあり、

これだけ完璧に行えば、あなたも覚るよ、

と言っているようでもあり、

勉強でも何でも、わたし(お釈迦さん)はこうやったんだよ、

と言ってるようでもあり、

行うことの手本を示しているようでもあります。

 

究極の学習指導要領だわ。

 

あたりまえすぎるが故に、奇蹟なのです。

ブッダの教えがすごいのは、あたりまえすぎるからなのだ。

 

いつも、そのあたりまえさに気づいて、

驚愕するのです。

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この本では、pp.72-74に載っています。

 

学校に行こう。。

今日は、『大般涅槃経』の勉強をするのです。

 

 

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2019/11/29

突然ですが、冬が来た。

確か、昨日日記を書いた。

出かけたときは、ピーカンのお天気だった。

ところが、地下鉄を降りて、さっぽろ駅に着いたら、

何と猛吹雪。

吹雪を見せろ、ですって。

ショックで、撮り忘れました。

で、今朝の写真です。

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雪の量はたいしたことはありませんが、雪は雪です。

遠くの山も白くなっている。

 

     ◇◇◇

 

昨日は、「ジャータカ」の話をしようと思って、時間切れで、

学校に行ったのだったっけ。

 

実は、「ジャータカ」というのは、とても複雑な構成になっています。

世間で、子ども向けに「ジャータカ物語」なんて題名で出ているようなお話は、

大抵、抜粋になっていたり、略されていたりするのです。

また、お話の都合上、言い換えや書き換え等、いろいろなされていることもあります。

 

ですが、「お釈迦さんもの」と、私が勝手に名づけた「ジャータカ」のお話は、

なかなかとらえどころがなく、けっこう難しいのです。

それは、学生たちと読んでいて、わかってきたことなのです。

 

大抵お話は、三部構成になっています。

現在のできごとが、「序」のような形で語られます。

たとえば、弟子たちが法談していると、お釈迦さまが通りかかって話に加わる、というように。

そして、そこでの話題に関連して、お釈迦さまが、

「それは、過去にもあった」と言って、過去世のお話をするのです。

この物語が、「本体」ということになります。

そして、最後に、「結び」のようにして

「その時(過去世の時)の誰々は、(今の)何某であった」という形で、

現在のお話と過去世のお話が、結びつけられるのです。

 

「序」「本体」「結び」の三つが、そろっているのが「ジャータカ」の構成なのですが、

もちろん、「過去世物語」だけでも、十分面白いので、

そこだけ訳されていたりすることも多くあります。

そして、子ども向けの童話のように仕立てられて、今日伝わっていたりします。

「イソップ童話」等にも似たようなお話があります。

日本でも、『今昔物語』の中に「ジャータカ」由来の話が入っています。

 

詳しいことは、まだ言えないけど、実際のところ、

ブッダの影響は、世界中に及んでいるのではないか、ということを考えています。

 

法(ダンマ)がどう伝わっていったか、ということですね。

 

いわゆる、巷で言う「物語文学」というジャンルを認めて、それを考えても、

輪廻を前提にしないと、話がつながらないだろな、って思います。

 

西洋に伝わったりするときは、過去世、未来世、現在世という分類を取らないだろうけど、

その中に、教訓を読み取ったりするとすれば、

輪廻ということは、どこかで影のようにまとわりつくことになるのではないか。

 

はっきりとした思想の形ではなくて、民間信仰のようにして、

人々の心に入っていったのは、善悪の教えです。

 

それは、遠く、お釈迦さんから来ているのかもしれないな、って思ってます。

 

まとまらないけど、日記だから、ね。備忘録としておこっと。

お、写真写真。。最後に写真を載せなくちゃ。

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ただの雪です。

 

 

 

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2019/11/28

四季をめぐる…日記が…

なんて、情けないタイトルだろうか。

すでに8月に更新したブログは、沈黙のまま、

冬を迎えました。でも、撮った画像があるので、

秋も、瞬間を切り取っておきましょう。

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その頃は、こんなに美しかった。Dsc02683

こんな時もあった。

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    ◇◇◇

 

雪になったり、雨になったりして、季節は過ぎて、

まだ、根雪にはなりません。

おや、何だ?

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道に落ちてる怪しい仮面。

思わず、カメラを出してパチリ。

 

何か言ってる?

 

世間に染まらず、こんな顔して行きなさい。

 

はいはい、了解しましたよ。

世間を空と観て、染まらずに行けば「死王は見ない」と、

お釈迦さんも言ってたなあ。

 

    ◇◇◇

 

最近、「ジャータカ」に関心があります。

パーリ仏典の中にも「ジャータカ」としてまとめられていお話が、

およそ550話弱あります。

これらは、物語文学などと言われたり、説話文学とか、過去世物語とか、菩薩物語とか、

色んなことが言われたりしているけど、

仏陀が説いたとは、どうも思われていないようだ。

 

私は、これらの「ジャータカ」は、ブッダがほぼ語ったものと見ています。

そう読まなければ、意味をなさないのではないかと思っています。

ブッダは、あらゆる物語文学の「親」と言ってもいいのではないか、

って、ちょっと思っています。

 

いま、「思っていること」でした。

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夕陽が落ちた大通りの噴水。

季節は、秋だった、この頃は。

 

 

 

 

 

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