2021/05/03

21.05.03 の日記 時をめぐり時を超える

朝出かけてみたら、桜が満開だった。

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葉桜になって、ほとんど散ってるのもある。

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雨の桜、どうも晴れませんね。

コロナ感染は、とうとう日本全国で60万人を超えた。

常時、ふつうに気をつけて暮らさなくてはならない。

常時、ディヤーナ(禅定)にあるようなものだ。 

 

      ◇◇◇

 

昨日、『龍樹菩薩伝』をしみじみ眺めていた。

読むというより、眺めて、浸る、という感じ。

『中論頌』にも、浸ってた。

 

大乗の世界は、ブッダの悟りとともに開示された。

後にサンガに入る比丘たちや、孤高の比丘や、群れる沙門たちが、

競ってやって来て、ブッダの教えを受けたのだろう。

 

「八偈品」のブッダ、

「彼岸道品」のブッダ、

「蛇品」のブッダ

 

『スッタニパータ』に残された記録は、

そのまま歴史的な記録であり、

時を超えた記憶であり、

普遍の真理である。

 

「不審」からブッダの法に入る人もいれば

「信」からブッダの法に入る人もいる。

 

ブッダの法に深く入っていったものは、

思いがけなく大海の中に宮殿を見いだし、

その七宝の蔵で、さまざまな大乗の経典に出逢う。

わたしたちが「大正新脩大蔵経」を持っているようなものだ。

 

その中に浸って貪り読んだのが、蛇一匹、龍樹一匹。

 

『龍樹菩薩伝』は、

龍樹が単独でブッダの真理に気づいたことを示していると思う。

だから、大龍菩薩が憐れんで、大海の宮殿につれて行ったのだ。

 

ということは、

 

それまでは、単独では誰もブッダの法にたどりつけなかったのだ、

 

ということを示していることにならない?

どう思う? そう思うよね。

 

ここから得られる結論!

飛んでます! 飛んで飛んで、まわってまわって、わかること。

 

龍樹は、『スッタニパータ』から、

ブッダの法の「一切智」を得ているということだ。

 

なぜなら、わたしも、その道をどうやら行ってるようだから。

 

       ◇◇◇

 

そういう意味では、龍樹ってのは、ものすごく興味深い。。

もしかすると、仏法を壊すこともできたかもしれない。

もしかすると、デーヴァダッタも真っ青のすごいワルになっていたかもしれない。

望むと望まぬとにかかわらず。

 

龍樹本人は、ゴータマの法に帰依して、実践しただけなのだけど。

しかし

完璧にやり過ぎて、ゴータマの法を、乗り越える寸前まで行った、

ということだろうか。

 

それでも、龍樹は、大龍菩薩のおかげで、

ブッダの法の中になんとかおさまった。

 

ブッダの法におさまらないものは、どこにもない。

どんなものも、ブッダの法の中。

たとえ、龍樹のような、トンデモ龍であっても。

 

本人も『大智度論』に書いている。。わかったよ、書くなよ。。イヤ、書いてよ。。

 

ああ、どっちがよかったのか分からない。

こんなことを書いているから引用してみよう。

 

=================

どのようなものを第一義悉檀(最高の定説)と名づけるのか。

一切の法というもの、一切の論議や言論、さらに一切の正しい法や誤った法は、

それぞれに分析するとちりぢりに破壊されてしまうだろう。

諸仏や辟支仏や阿羅漢の行ずる真実の法は、破壊されることなくちりぢりになってしまうこともない。

上の三つの悉檀の中で解釈されないものは、みなこの中で理解される。(『大智度論』『大正蔵』25,60c-61a)

====================

 

ブッダの最高の語り「第一義悉檀」

この中に、あらゆる法がすっぽりと収まることを、

龍樹は自ら見つけて、自分もそこに入るのです。

 

一切智者として。。

 

何を言いたいか分からん、って。

わたしもだ。そのうちまとまるだろう。

従来とは全然違う龍樹が出現しそうな気配になってきた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2021/04/30

4月は去る(4/30)

講義が忙しくなって、

しばらく『中論頌』はお休みでした。

4月20日はこぶしが満開をすぎて、散り始めてた。

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でも、まずまずキレイ!

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遠くからみると、満開そのものに見える曇り空

今(30日)は、札幌は桜が咲いてるそうだけど、

今日は雨降りで、庭や家の前の水仙くらいしか見るものがない。

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チューリップがつぼみだ。

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庭も雑草化がはげしいな。

春芽吹くのは、雑草群。。

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家の前は、雑草と化した水仙とムスカリが美しい。

昔の住居が壊されて、庭の草花だけが取り残された。

けなげに雑草であるかのように咲いている。えらい!

 

咲くものは咲くままに咲いているのがいいね。

 

      ◇◇◇

 

あるがままを認めて、生きよう。

仏教とは、ふつうに生きることの中にあるものだ。

ふつうに生きることの中にあって、生き物を生かすものだ。

あらゆる生き物に生きる道があることを教えるのが、仏教だと思う。

特別な知識なのではなくて。

 

      ◇◇◇

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手前にある枝は何だろう?

水仙とムスカリに気をとられると、手前の枝のプチプチの芽がわからない。

手前に焦点を合わせると

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後ろの水仙はボケてしまう。

前に気をつけると後ろはおろそかになる。

後ろに気づくと前を忘れる。

 

でも、仏法が行きわたると、そのことに気づく。

え?

何に気づくって?

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何でも、一度に全部はわからないものだってね。

 

 

ところで、このプチプチだけど、

 

やっぱり知らない樹木だ。

咲いてから調べよう。

 

今日の考察を終わります。

数日、『中論頌』に集中していこう、っと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2021/04/08

4月8日 順調だ!

毎日日記を書いているような気がしています。

が、実際は、一週間に一度。。でも、すごい!

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家族がお花をもらってきたので、ぱちり。

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オダマキが朝露をもらってきたので、ぱちり。

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電車が煙突をじっと見たので、ぱちり。

1年ぶりの苫小牧。なつかしい。

苫小牧駅のトイレが綺麗に改装されてた!

すごーい。

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大学の上にひろがる青空は、いつも美しい。

風景も美しい。

いつも飛んでる白と黒のセキレイ(?)みたいな鳥がいないな。

変わらないようで、変わる日常。

バスが空いてる。三密はない。

 

    ◇◆◇

 

ちょっと前に見つけた。これは、なあに。

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もしかすると、カタクリ! パチリ!

 

4月に入って、また今学期も始まりますね。

また、半年、どうなっていくのかな。

 

ちょっと「ジャータカ」にも眼を向けたい。

智慧を開発する1年にしたいけど。。無理かな。

 

 

 

 

 

 

 

 

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2021/04/03

4月3日だ!新学期が始まるぞ!っと

クロッカスは、一昨日が一つ咲き、昨日は二つ咲いた。

本日のクロッカスです。三つ咲いてるかな、と思ったら、

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一気に出てきました。まだ朝早いので花も眠ってる。

 

    ◆◇◇◆

 

また新学期が始まって、あわただしくなってきます。

今年は、個人的に勉強しようと思って、龍樹に取り組みはじめたら、

講義の準備が間に合わない。

去年は、オンライン授業でたいへんだった。

今年は、対面授業(ふつうの授業のことね)も加わるけど、

状況を見ながらだろう。

このありさまでは、まだまだ、ふつうの授業は無理かもしれない、って思う。

 

オンラインによって、学ぶスタイルが変わりましたね。

だけど、本当は何も変わっていない。

ブッダの頃から、学習の仕方は何も変わらない。

学習のやり方を学びたいなら、仏典を読むとよい。

『スッタニパータ』「船経」がよい。

わたしは、これで勉強の仕方を学んだ。短いからあげてみよう。


316 人が、誰かから法を聞いて知るならば、神がインドラ神を敬うように、その人を敬うべきである。
博学(多聞)のその人は、敬われると、きよらかな心をもって法を顕わにする。

317 かしこい者が、注意深く、これを(自分の)目的となして、法にしたがって法を実践していきながら、このような人に親しんで怠ることがないならば、智慧のある、分別のある、卓越した者となる。

318 小心者で愚かな者、さらには意義の理解に至らぬ者で、妬む者につかえるならば、実にこの世においては法を明らかにすることなく、疑いを超えることなく死に至る。

319 例えば、人が、満々と水をたたえた激しい流れの河に入って、水に運ばれ、流れにそってただ行くだけならば、どうして、その人が他を渡らせることができるだろうか。

320 同じように、法を明らかにすることなく、博学(多聞)の人々の説いている意味に耳を傾けることなく、みずからも識ることなく、疑いを超え出ることがないならば、どうして、その人が他を確信させることができるだろうか。

321 たとえば、頑丈な船に乗って、(その船が)櫂と舵をそなえていて、その人が(操船の)やり方を知る熟達した思慮深い者であるならば、その場合、それでもって多くの他の人々を渡すだろう。

322 同じように、ヴェーダに通じ(=明らかな知恵があり)、みずから修習する者であれば、悟りを得つつ、(話しに)耳を傾ける、喩えをもつ他の人々を確信させるだろう。

323 それ故に、智慧のある、博識(多聞)の者で、善き人に親しみなさい。ものごとを知って、実践していくならば、法を識ったものとなって、安楽に到達するだろう。

 

どんな場合でも、これは役に立つアドバイスだと思う。

ブッダは、菩薩時代ず~~っとこういう風に学んできた。

だから、ブッダになれたのだ。これは論理学の勉強の仕方だ。

法に従って法を実践するところ、これは習ったことを応用するやり方だね。

ほんとうに、賢い人は、みなこうしている。

他人の話を聞かずに自分の考えにしがみつくと学ぶことができない。

賢い人ほど謙虚なのです。

謙虚だから賢くなるし、賢いから謙虚でもある。

 

仏教では「おごりをはらいなさい」とか「高慢であってはいけない」とか言うけど、

それは学習効果を阻害するからでもある。

 

ブッダは、いつも正しいことを正しく伝えてくれる。

わたしたちの常識に乖離した話をしないのです。

 

学ぶコツは、これしかないと思う。

謙虚であること、ただ一つだけ。

 

龍樹を見ても、ブッダを見ても、だれを見ても、

本当に謙虚だ。。それが分かると真似ができるのかもしれないな。

 

だれでも賢くなる方法を、みんなに伝授っ!!

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少し伸びた? 緑が濃くなったかな?

 

 

 

 

 

 

 

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2021/04/02

4月2日の日記 今日も晴れ

昨日一輪クロッカスが咲きました。

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今日はその横にもう一輪クロッカスが咲きました。

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暖かい陽気に誘われ、チューリップもぐんぐん育ってきている。

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スノードロップも少しずつ大きくなっている。。かな?

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ボタンも、新芽が出ている。

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4月に入ったばかりなのに、春すぎる展開。

 

   ◇◇◇

 

昨日は、『中論頌』第6章に、ようやく決着をつけました。

何か、すがすがしいです。

龍樹がここまでブッダの教えに深く入っているとは!

 

感動のあまり、日記に書こうと思ったけど、

「混み合ってます」の表示が出て、ブログにいけなかったのです。

 

第6章というのは、10偈しかない短い章です。

そんなに難しいとも思えないかもしれません。

龍樹を読んだ人なら、「いかにも龍樹パターン」だ、って思うでしょう。

 

もう、似たような、ことばをもてあそぶような展開で、

だいたい龍樹でなかったら、だれがこんなもんを珍重するのか、って

感じが、正直なところだろうと思います。

 

正直なところ、わたしもちょっとそんな気がしました。

 

でも、わたしは、龍樹をやって長いのです。。

嫌というほど、痛い眼を見ているのです。

こういう場所ほど、危ない、って知ってるのだ。

 

    ◇◇◇

 

やっぱりね。いました! 龍が!

大龍(=ブッダ)がいた!

ブッダが奥底に隠れていて、

龍樹に教えをしっかりと伝授していました。

よくまあ、これほどのものを受け取ったなあ、って感じですが、

それでも、わたしの分かったことは、ほんの序の口。。

 

壮大だなあ、雄大だなあ、

 

『付法蔵因縁伝』の中で、龍樹は門番の神に

「おまえは如来に比べたら、月や太陽の光と蛍の光を比べるようなものだ」

などといわれている。

蛍の光でも、光ってることは大事だよ。

もし、龍樹がでなかったら、大乗はない。

つまらない出来損ないの教えばかりになってしまう。

 

おそらく、龍樹は、自分で蛍を選択したのだろう。

ブッダの光に導く道しるべになったのだろう。

確実に、ブッダに通ずる蛍の光は、仏道を照らしている。

 

ついたり消えたりする蛍の光は、わたしたちの煩悩がそうしている。

時々光って明るく照らす、気を緩めると闇が覆う。

本当は、月や太陽の光に等しい光をもちながら、

あえて、蛍の光を、選んだ龍樹

 

いいなあ、消えるものはほんとにいい。。

 

 

 

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2021/03/30

3月30日 の 日記

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雪がすっかり融けました。早い!

年々雪解けが早くなる。

昔、雪がすっかり融けるのは4月の終わりからか5月上旬だったけど、

今では、3月の終わりには雪が融けている。

寂しくもあり、うれしくもある。

 

   ◇◇◇

 

ところで、3月で、

わたしが講義をしていた朝日カルチャーセンターが

終わってしまいました。

コロナ禍の影響を、もろに受けたのだと思います。

最後4回ほどは、原始仏典の知識を元に、道元の「現成公案」を読みました。

「現成公案」は、自分では制覇したような気がします。

 

平成の三四郎といわれた柔道の古賀稔彦と

同じ年で亡くなった道元。53才だった。

あれ、書き方、逆かな、道元と同じ年でなくなったのが、古賀稔彦氏。

寂しくもあり、寂しくもある。

 

   ◇◇◇

 

古賀氏も道元も、弟子たちを育てましたね。

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こんな小さな芽がたちまち立派な草本に育っていくのね。

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クロッカスの芽も出てきて、やっぱり春だなあ。

 

     ◇◇◇

 

朝カルの教室に、どうして、みんな来てくれたのか分からない。

でも、ひとりの人が、

「何か、ホッとするんです、楽しみでした」とおっしゃっていた。

 

そうなのか。。わたしは、いつも、“失敗した”感が強くて

「ああ言えばよかったなあ、こう言えばよかったかも」

と、反省ばかりしていたのに、意外なこともあるものです。

世の中は、よく分からないものです。

 

よくわからないので、適当に、思うがままに生きています。

道元が述べているように、

 

「人もし仏道を修証するに、得一法通一法なり、遇一行修一行なり。

これにところあり、みち通達せるによりて、

しらるるきはのしるからざるは、このしることの、

仏法の究尽と同生し同参するゑにしかあるなり」(「現成公案」)

 

(人の、仏道を修め証する方法には、一法を得て一法に通ずることがあり、

一つの行に出逢って一つの行を修めることがある。

ここに生きるところがあり、道に通達してくると、

知られていく限界があまりはっきりしていないようであるが、

それは、このように知っていくことが

仏法のきわまりと同じく生じて同じく進んでいくから、

こうなっているのである。)

 

って、いうことが、そのまま自分にも顕れているのだと思います。

なんとなく、はっきりしないようだが、そう思って進むと、

それなりに自然と進む道ができてきて、そこを歩んでいる、って感じ。

 

    ◇◇◇

 

道元は、大好きですね。

日本人だし、それに、このように「全部分かる」とは言わないから。

今引用したところと、その次の一文が、一番好きだな。

 

「得処かならず自己の知見となりて、

慮知にしられんずるとならふことなかれ。

証究すみやかに現成すといへども、

密有かならずしも見成にあらず。見成これ何必(かひつ)なり。」(「現成公案」)

 

(得たところがかならず自分の知見となって、

考えれば分かってくるという風に習ってはいけない。

証明し究めることがすぐに現れるとしても、

密かな有りどころはかならずしも見てとれるというわけではない。

また、見てとることが必ずしも必要というわけではない。)

 

頭で分かる理論上のことは、はっきり現れるとしても、

どのように生きていくのかという「密有」に関わる部分は、

はっきり見てとれるわけではない。

どう生きるか?!

ブッダのように生きることもありうるし、凡夫のように生きることも起こりうる。

生きる道は、それぞれが選びとりまた選びとられていく「密かな生き方」なのだ、

というところに、

道元の、ブッダにも頼らない、大乗の精神が生きているように思うのです。

 

いいなあ、道元!

 

コロナ禍だろうと何だろうと、生きる道にみずから責任をもてよ、って言ってるな。

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みずからの責任で、おがってるフキノトウ。

春がいっぱい!

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2021/03/17

3月は去る

二月は逃げる、三月は去る、でしたっけね。

雪は融ける、春は来る、の図。

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定点観測ですね。

毎年、雪解けが早くなってる。

今年も、何か、終わったなあ、って感もしてきます。

2021年で東日本大震災からはや、10年。

嘘でしょ、っていうくらい早い。

おそらく、わたしたちは、辛抱する時代に入るんだと思ってます。

原発廃炉の問題を抱えて、人智が試されますね。

 

    ◇◇◇

 

仏法も試される時代になってきそう。

「人類は進歩発展する」という幻想のもとに、進んできたけど、

最近、その幻想が効かなくなってきました。

わたしの中では、まったく、そんな幻想は消えています。

学ばないと、どんどんアホになるぞ、って、心が言っています。

 

仏法も、どんどんわからなくなるぞ、って、心が警報を鳴らし始めました。

仏法アラートかな?

 

先日、「龍樹は言語を解体しましたよね」という意見を聞いて、

ハッとしました。

「いや、解体しただけじゃないんです」と言いたかったけれど、

話せば長くなると思って、黙ってしまいました。

 

実は、龍樹は、言語を構築もしているのです。

『中論頌』は第5章まできました。

ブッダが、言語を構築したように、龍樹も言語を構築しています。

むか~し、ナヴィヤ・ニヤーヤというインドの論理学派の研究をしていました。

 

それを、宮元先生と一緒に

『インド新論理学派の知識論 『マニカナ』の和訳と註解』(山喜房仏書林)

として出版したのです。

そこで、自分が解明したと思った言語論を解説したのだけれど、

なんと!なんと!

その解釈! 龍樹から来ている、ということに、

先日、気づきました。

 

それは、現代風に言えば、対象言語とメタ言語を用いて、語る言語の構造なのだけれど、

龍樹の『中論頌』を批判的に吸収したニヤーヤの学徒たちが、全部、

構築していたのだぁぁぁぁぁぁぁ、って気づいて、

腰が抜けそうでした。

 

いやはや、どおりで、ニヤーヤ学派も捨てがたいと思いましたよ。

イーシュヴァラ(主宰神)を信ずるニヤーヤ学派は、因果を支える神を唱えるのです。

その神というのは、決して、かれらは誰か言わないけど、

ブッダのことを指しているのじゃないか、って気がしてなりません。

 

すべての人々の苦しみを滅することを意図したブッダ。

ことばの行いについて苦しみをなくそうとした龍樹。

 

時代を超えて、必要とされる聖者たち。

ブッダの教えを受持した者たちは、人数は少ないかもしれないが、

現代においても有効に働いている、世界中の生き物のために。

 

『ジャータカ』というのは、ただの教訓説話ではなくて、

仏法の展開図なのだと思います。

 

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雪かき道具も、そろそろいらなくなるかな。

 

ブッダがいらなくなる日がくると。。いいのかな、わるいのかな。

煩悩があると、迷いますねえ。。 迷うなよぉぉ

 

 

 

 

 

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2021/02/25

2021年2月25日の日記

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バラでも見てください。

 

春が近づいてきましたが、あいかわらず外は雪です。

今年は雪が少なかった。

昨年は、同じ時期、まだ雪祭りの余波が残っていて

観光客の人たちが少しいました。

 

今年は、全体静かです。

近所のスーパーが、賑わっています。

みんな、行くとこないんだなあ、って、思います。

 

      ❐❐❐

 

龍樹が、だんだん生き生きして来ました。

調子出てきたぜい、って感じです。

龍樹さえあれば、ご飯はいらない。。いや、

ご飯さえあれば、龍樹をおかずに食べられる。

 

だいぶ、見えてきた感じだ。

しかし、まだ三章が終わっただけ。

一つの偈に、本一冊分の内容が詰まってる。

その詰まり具合を見ていると、「ああ、これ龍樹だ」って思う。

どの一偈も見過ごせない。。

はやく進もうとすると、足もとがすぐにすくわれて流される。

暴流を超え渡ったブッダと龍樹

暴流に押し流されてる あわれなわたし。 足場もながされたよぉ。

龍樹のヒゲに藁のかわりにすがりついてる あわれなわたし。

流されるか。。それとも。。ヒゲが助けてくれるか。ぎりぎりだ。

 

        ❐❐❐

 

ところで

わたしは、何を書いているんだろう、って思いながら書いてます。

書きながら、龍樹『中論頌』に対する注釈書なんだなあ、って思ってる

なぜなら、概説書ではない。

それに、翻訳書ともちがう。

わたしがどう読んだか、という解釈を示す書になっているからです。

こういう書き方しかないんでしょう。

だれもが、こうしてきたのだろう、と思います。

註釈を書いている人は、皆、自ら自分の読みで勝負している。せざるをえない。

どんな人も、こうするしかない、のが『中論頌』なのだと思います。

 

       ❐❐❐

 

いやはや、恐ろしい本ですね。

『中論頌』は、かたちをかえたブッダの教えです。

ブッダが天使(?)なら、龍樹は、悪魔のおもむきがあるなあ。

でも、まったく同じ教えが説かれてるだけなんだけど。

ブッダを天使にする方が変かしらね。

 

それにしても、精神的には、とても穏やかです。

龍樹があれば、幸せな日々。。 バラが眼にしみるな

 

よし!今日は、第4章だっ!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2021/01/28

一月二八日 の 日記(まんまだわ)

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何と、掛けたカレンダーも、このページが終わろうとしている。

はやいなあ。

コメントが、さっさと更新しろ、って言っている、トホホ

実は、管理人はショックなのです。

なぜかというと、仕事が今年もあるのだ。

 

別に仕事が嫌いなわけじゃないけど、

はやく龍樹をべんきょしたい。

なんとしても、はかばに行く前には決着つけたい。

はかばかしくないのが、ショックなのです。

 

下を向くな、上を向け、管理人。

そうだ、空でも見るか?!

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いつもとかわらん。

「そら」と読まずに、「くう」とみて

龍樹に思いを馳せよう。。何か詠嘆調です。

 

       ◇◇◇

 

龍樹については、ほんとにいろんなことが言われてる。

多くの学者や注釈家がさまざまに語っている。

 

龍樹は、部派などが陥った実在論を否定したのだ。

否定の論理を駆使して、仏教の中の反対派や非仏教徒たちと争ったのだ。

般若経典の入門書として『中論』は著されたのだ。

プラサンガといわれる破邪の論法で批判したのだ。

 

別に反対はしない。そういう側面も認められる。

だけど、わたしの意図ではない。

 

わたしが伝えたいこと、

それは、龍樹がブッダの唯一無二(言いすぎだけど)の理解者で

ブッダの註釈者だということです。

 

龍樹を読むと、そのまま、一切損なうことなく、

ブッダの教えにいける。

寸分違わぬ等身大の教えに到着できる、ということ。

 

つまりだ!

 

龍樹だけ勉強しても、ブッダを学んだことになる、ということ。

 

ここを、叫びたい!

空に向かって。

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ああ、ちょっとスッキリした!

 

大乗が、立派な仏教になるのは、龍樹を祖と仰いでいるからです。

大乗が生き残るためには、

ブッダの権化が龍樹であることを示さなくてはならない。

 

ことばをもって、

寂滅の道を説け!

寂滅の道を、

ことばによって示せ!

 

龍樹は、ブッダの法である。

ブッダの法は、龍樹になった。

 

だいぶスッキリ。

そういうことを示すべく、

今年も頑張ればよい、と分かって、

下でも見ますか。。あれ?

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こんなところに丸まってる。

クウ、クウ。。やすらぐ猫たち。

悩みなし!

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2020/12/31

道元(1年が終わる)

数年、大つごもりは、すごくあわただしく過ごしてきました。

今年も変わらないけど、

気持がちがう。

気持が弛緩してしまっている。

出来事だけがあわただしい。

 

     ◆◆◆

 

コロナの1年でしたね。

明日からコロナ2年目といわれるのかな。

足下を見つめて、灯りをともさなくちゃね。

朝日カルチャーセンターで、4回だけ

『正法眼蔵』の「現成公案」を読んでいます。

この時だけ、気持と出来事が一致して進んでいる。

 

「現成公案」は、道元が33才か34才の頃に書いたものです。

仏教のエッセンスが、行き渡っている。

どこをとっても仏教、というところを、道元みずからが

自然の中に題材を求めて描ききっています。

ゴータマ・ブッダがいて、龍樹がいる。

縁起があり空がある。

道元の一切智が光っている。

 

     ◆◆◆

 

誤ることのない縁起の世界は、禅定からやって来ます。

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道元に寄せる信頼は、ブッダに寄せる信頼と同じです。

決して誤ることのない ものの見方 があります。

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写真にうつるそれぞれのちがいは、

このようにあきらかです。

草は棄嫌におふるのみなり。。雪の中にも残ってる。

 

そして、それだけではない。

ことばがあります。

ことばは智慧を表すのです。

ここでも、かれは、決してミスを犯さない。

流れることばは、流れの中に真実の音を響かせます。

「法」ということばが、道元の中では、

あきらかに!「ことば」という意味をもっている。

 

    ◆◆◆

 

龍樹の使い方と同じです。

眼横鼻直(がんのうびちょく)

これでつかんだ、道元の仏法。

 

目は横についていて、鼻は縦まっすぐ。

目は、諸仏の正等覚を指す。

鼻は、祖師の阿羅漢を指す。

こうやって、道元(曹洞宗)は、ブッダの法を伝えてきたのです。

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縦と横とで、縁起の網がはり巡らされる。

これだから、ミスを犯すことがないのです。

真実が語られているとき、誤りはなく、

ことばは意味をもってせまってきます。

人の心に訴え、惹きつけ、捉えて放さないことばとなります。

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来年は、そういうことばを探していこう、っと。

 

コロナで遅れたけれど、来年こそは、龍樹!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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