2021/06/09

6/9 『スッタニパータ』考 覚え書き

『スッタニパータ』第4章「八偈品」は、スッタ(経)という分類に入っている。

九分教の「スッタ」とは、『大智度論』には、ブッダの直説だとのべられています。
他にも、いくつか同様のことを述べている論書もあります。

 

そもそも『スッタ・ニパータ』という名前が、経(スッタ)を集めたもの(ニパータ)なのだから、
これは、ブッダのことばそのものと見てもよいのではないか。

 

『スッタニパータ』を訳した中村元先生は、その成立を、いくつかの段階に分けています。

段階をふんで編纂された、「弟子たちの記録」とみていると思います。

(『ブッダのことば』岩波文庫、pp.434-435)


「如是我聞」という表現をもつ経典や、散文の部分が加わったものは、編纂が後代のものだという考え方です。

だから『スッタニパータ』の中にも、新古があるといわれるのでしょう。


しかし、本当にそうなのだろうか。


スッタが「直説」なら、『スッタニパータ』は、全体が、「ブッダの直説」とみてもよいのではないか。


では、「このようにわたしは聞きました(如是我聞)」とあるのは、どう考えるのか?

これは、ブッダが、これを「スッタとせよ」と言った、ということも考えられなくもない、ということなのです。


***


今までずっと『スッタニパータ』を何度も繰りかえし読んできて、思うことは、

ブッダの壮大な「世界救済計画」のことです。


梵天勧請を受け容れたブッダは、「はい、そうですか、ではわたしが救いましょう」と

安易に受け容れたのではない。

三度の勧請ののち、ようやく「OK」を出すのです。

 

それからが、とにかくめざましい活躍ぶりに見えます。

五人の比丘たちを教化しただけでなく

サンガを作り

外道の人々と対話し、

バラモンたちを教え、

沙門の群れと対峙しています。

また、ふつうの人々に語り、反発する人々に語り、

ヤクシャ(夜叉)など神々・悪魔たちにさえ語るのです。

 

彼らみなに与えた経(スッタ)が「八偈品」であることは、

わたしの中では、ほぼ間違いない。

カッチャーナは受けとり世間に出ていった。

サーリプッタはサンガをまとめた。

モーガラージャン・ピンギヤは、ブッダの崇拝者と成った。

 

『スッタニパータ』には、仏教が向かう、後々の発展が、

すべて詰まっている。

声聞・縁覚・菩薩の道が出そろい、

ブッダがその先を見通している。

 

これができるのは、弟子たちではない。

ブッダその人しかいない。

 

『スッタニパータ』は、このようにまとめて受持しなさい、と教えられた

 

ブッダの直説である

 

と、わたしは見ています。

 

 

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2021/06/08

6月は比較的好天

あっという間に6月。

1年の半ばにさしかかった。早いですね。

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野生化した花菖蒲。

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テッセンも野生化。雑草として咲いている。

たくましい。

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植えてるのに、野生化しているシバザクラ。

わきには、わすれな草が野草として陣取っている。

 

人間というのは、愚かなものだ。

自然の草木がどうなっていくのかも、分かっていない。

 

       ◇◇◇

 

いろいろ考えてはみるけれど、思うようには行かないので、

思わないことにしながら思ってみている。

何だか複雑ですね。

 

仏教で、縁起を学ぶけれど、よく考えたなあと思う。

原因をつぶせば、結果は生じない という原理を用いて、

自分の人生を組み立てていくのだから、すごいものだ。

 

無明を滅すれば、最終的に苦しみがなくなる、なんて、

「本当にどうやって分かったのか」と思うよね。

 

そして、その理論のとおりに苦しみをなくした人が、ブッダだ。

理論のとおりになることを証明するなら、それは真理だ。

 

どう考えてもすごいと思う。

昨日講義で、アーリアデーヴァの最期のエピソードをやったけれど、

いかに深い話か、話ながら察知した。

 

      ◇◇◇

 

アーリアデーヴァは、龍樹の弟子と言われる人物で、

『百論』『四百論』など著したとされる。

この人は、論客だったので、論破した外道のお弟子に殺されてしまう。

その最期のエピソードを『付法蔵因縁伝』で読んだ。

刀で切られて五臓が体外に出たアーリアデーヴァは、

斬った外道の弟子に、「わたしの鉢と衣をもって逃げよ」と言う。

自分の弟子たちで迷いにある者たちは、かたきだとばかりに追いかけてくるだろう。

おまえは、まだ、迷いの中にあって、身体を愛しく思っているのだから、

それなら、山に逃げてのがれなさい、と教えるのである。

そして、自分の弟子たちには、追いかけてはならない、と言う。

 

     ◇◇◇

 

色やかたちは、空である。「われ」も「わがもの」もない。

殺すということも殺されるということもない。

誰が味方で誰が敵となりえよう。

おまえたちは無知に覆われ悪い行為の種をまいている。

外道の弟子が殺した、という結果は、わたしが昔行った行為の結果なのだ

 

こう語って、亡くなったのだとか。

「空」思想によって、説明していますね。

 

アーリヤデーヴァには、不幸な結果ですが、

わたしが印象に残るのは、空を使っていることです。

色かたち(色)に対する愛着は、空によって振り払われている。

 

「われ」「わがもの」に関して空である、というのが、ブッダの教えなのだけど、

それの具体的実践は、みずからの身体(色)の執着をもたないことによって、

アーリアデーヴァは、弟子たちに示しているのだ。

 

ヒンドゥー教の聖典『バガヴァッドギーター』では、殺す者もなく殺される者もない、という言い方で

アートマンの不滅をうたい、

バガヴァット(クリシュナ神)は、アルジュナに「行為のヨーガ」を勧めて、戦うように促す

のだけれど、

仏教では、バガヴァット(尊師ブッダ)は、殺す者もなく殺される者もない、として

「空」「アナートマン(無我)」を教える。

そして、みずからの身体にこだわらない態度を勧める。

 

自己をよりどころとして生きる生き方を徹底すると、こうなっていくんだなあ、と思う。

 

「自分の身が愛しいなら山に逃げよ」と、

自分を斬った外道の弟子を思いやったアーリヤデーヴァ。

 

仏教のものの見方は、どこまでも清らかです。

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2021/05/31

5/31 牡丹のいのちは

牡丹花は咲き定まりて静かなり花の占めたる位置の確かさ

という短歌を読んだことがある。

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牡丹花は咲き定まらず、風におおゆれ。

雨をたっぷり吸い込んで花が重たいので、

枝が広がってさがってきた。

折れるかと心配。

牡丹は低木に整えるわけがわかったわ。

花びらが色あせて、かつ、茶色に変色してきた。

 

     ◇◇◇

 

花の命は短くて… とはよく言ったもの。

人の命も短くて… 苦しいことばかりかな?

だが、芽は出てくる。

生じたものは滅するきまり。

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澱みに浮かぶうたかたは、かつきえかつむすびて

とどまりたるためしなし。。か。

 

昔の人は、えらかった。

うたかたを語る時、輪廻と解脱の両方を

見据えているかのよう。

 

今日も、大地は輪廻している

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2021/05/27

5/27 日記だけは順調に時を刻む

ボタンがまっさかり。

数日の命だな。28個の花が咲いた。

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どんどん伸びるので、上を伐採したら、

下から生えてきて花が咲きました。

ボタンは丈を低めにするみたいです。

よそのおうちの庭を見ながら、研究してます。

 

      ◇◇◇

 

公開講座の題材を練っています。

コロナがおさまってることを願いつつ、

考えてみよう。

今年は、昨年のような「オンライン一筋」観がない。

そのせいなのか、

コロナ蔓延はおさまらず、危機感は増して、やりにくい。

 

ブッダの覚りに集中してみようかな、って、思ってる。

覚りが生じた時、

大地はどうなっていたのだろう。

ボタンは咲いて、スズランも咲いて、雑草が風に揺れていたのかな。。

ムチャリンダ竜王は、ブッダの禅定を雨から守るべく

頭上をみずからの鎌首で覆っていた。

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wikから拝借しました。

 

雨や風にさらされないように、守るムチャリンダ竜王。

ブッダのこの上ない悟り。

それを表す仏像。

 

ブッダの頃から雨風は吹いていて、

大地は豊かだったことが分かる。

ブッダの覚りが無上で正しい覚りであることが分かる。

2600年経っていても、ブッダを頼りにする

わたしたちがいる。それもわかる。

 

大地は輪廻している。。

 

 

 

 

 

 

 

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2021/05/24

5/24 スズランとボタンが咲いた

今日は、コーヒーとパン。

「そうだと思った」、って。

毎日、書いてると、バレますね。

 

庭にキツネの足跡がある。

キツネの通り道になっている。

ボタンがキレイだ。

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一瞬のことだけど、咲くときは咲くね。

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スズランが次第に、オオイヌフグリに圧倒されている。

(オオイヌフグリじゃなくて、わすれな草だった。

家のまわりに雑草化しつつ咲いているので、そのままにしている。)

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雑草だけどキレイだから野放しにしている。

スズランは、花が小さくなって衰退気味です。

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芝桜も白が咲いた。

自然界も栄枯盛衰がはげしい世の中だ。

 

      ◇◇◇

 

最近、日記が書けているのはうれしい。

世間から見捨てられてきているからかもしれない。。

いいのか悪いのか?

コロナウィルスが主役になってきているせいかな。

人の世はままならないね。

 

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2021/05/23

5/23は、くすぶる日曜日。

朝起きたら、パンがあった。でも、

コーヒーを入れて、昨日の残りのホットケーキを食べた。

雨模様の日曜日。

雨にぬれつつ、ボタンは咲いた!

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このためだけに、日記を書こう。

 

     ◇◇◇

 

北海道は緊急事態宣言が出て、街中は

人通りが少なくなったとニュースにあった。

イスラエルとパレスチナは停戦した、とニュースにあった。

疫病と戦争。

人々を苦しめるものは、変わらない。

 

いなくなったと思われていた

アミメニシキヘビが屋根裏で見つかったとニュースにあった。

生き物と命。

人々とホッとさせるものは、安全・安心である。

 

善いことも悪いことも、

こうして見ると

人間が作っている。

      ***

この世において、実に、恨みによって、

諸々の恨みが止むことはない。

どんなときにも、恨みのないことによって止むのである。

これは、永遠の真理(ダンマ)である。

『ダンマパダ』第1章第5偈

      ***

 

生きていることを望むなら、

知恵によってかしこくなるべしね。

 

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2021/05/22

5.22は土曜日。

朝起きると、パンがなかった。

コーヒーを入れて、ホットケーキを作ったら、5枚焼けた。

小麦粉と米は、生きる糧。

命がつながれば、よしとしよう、という生活になってきた。

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サクラソウが咲いた。

 

     ◇◇◇

オダマキは、白の中に一つだけ紫がある。

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ボタンが咲きそうだ。

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草木は活動的で、わたしの思いとはうらはらに

どこにでも生活の場を広げていく。

人間が、何でもできると思うのは、本当に間違っている。

何もできないと思うのも、それも違うけど。

 

     ◇◇◇

 

できるのでもなく、できないのでもない、ということ見つめてみると

ブッダの生き方が見えてくる。

いつでも中道をよく知って、それに合わせて生きると、

生きやすい。

 

今も昔も、なんも変わらんね。

世界は、ブッダの教えの通りにあるのじゃない?

 

こうして生きるから、過去世があり、どこにでもウィルスがいて、

疫病があって、人々が難儀をしながら生き抜いてきたんだね。

 

思ったことを、思いつくまま、思った通りの順序で書いてみたら、

こんなになりました。

いいのか悪いのか分かりません。

 

これでも日記なのか?

 

 

 

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2021/05/12

5.12の日記 今日はまだ始まってない?

朝は、4時にコーヒーを飲んでパンを食べた。

日記も書こう。

1日終わってから、日記を書くべきかもしれないけど、

そうすると永久に日記が書けない。

思いついた時が、書くとき!

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ハスカップの花が咲いた。実がなるのかな?

うちの庭には、白い花がまず咲くことになっているらしく、

白い花ばかり目立ちます。

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なでしこの系統かな?      

ユキヤナギも同じく白い。

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水仙も。            

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チューリップも白。

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          ◇◇◇

 

思いついた、今日の考察。

いつも思うことではあるけれど、書いてみよう。

 

思想と瞑想は、別のものだと思っている人がいるけれど、
インドにおいては、それはあたっていない。

ヨーガ(瞑想)のない理論はなく、理論のないヨーガ(瞑想)はない。

現代人には異質かもしれないが、伝統的にインドではそうなっている。

なぜかといえば、

思想と瞑想は、行いとして一つにまとめられるからだろう。

だから、「知ることは、そうなることだ」というのだろう。

 

理論は、瞑想がただことばになっただけである。

たとえば、
瞑想の境地を「不立文字(文字では立てられない)」というのも、

ことばで表したものとも言えるからだ。

 

ことばと瞑想が一つになると、

それは、その語る人の生き方にもなる。

 

だから、インドの思想を知ると

「今」を実感するのだと思う。

思想が流れ込んで、そこに浸るのは瞑想であり、

人生だからである。

 

だから、わたしたちは、ウパニシャッドがわかり、

ブッダの教えが分かり、インドの哲学が分かるのである。

 

こういう状態になることを、

「現前する」というのだろうね。

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ひなぎく(?)は、うすむらさき。

どんなところにも例外はある。

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2021/05/03

21.05.03 の日記 時をめぐり時を超える

朝出かけてみたら、桜が満開だった。

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葉桜になって、ほとんど散ってるのもある。

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雨の桜、どうも晴れませんね。

コロナ感染は、とうとう日本全国で60万人を超えた。

常時、ふつうに気をつけて暮らさなくてはならない。

常時、ディヤーナ(禅定)にあるようなものだ。 

 

      ◇◇◇

 

昨日、『龍樹菩薩伝』をしみじみ眺めていた。

読むというより、眺めて、浸る、という感じ。

『中論頌』にも、浸ってた。

 

大乗の世界は、ブッダの悟りとともに開示された。

後にサンガに入る比丘たちや、孤高の比丘や、群れる沙門たちが、

競ってやって来て、ブッダの教えを受けたのだろう。

 

「八偈品」のブッダ、

「彼岸道品」のブッダ、

「蛇品」のブッダ

 

『スッタニパータ』に残された記録は、

そのまま歴史的な記録であり、

時を超えた記憶であり、

普遍の真理である。

 

「不審」からブッダの法に入る人もいれば

「信」からブッダの法に入る人もいる。

 

ブッダの法に深く入っていったものは、

思いがけなく大海の中に宮殿を見いだし、

その七宝の蔵で、さまざまな大乗の経典に出逢う。

わたしたちが「大正新脩大蔵経」を持っているようなものだ。

 

その中に浸って貪り読んだのが、蛇一匹、龍樹一匹。

 

『龍樹菩薩伝』は、

龍樹が単独でブッダの真理に気づいたことを示していると思う。

だから、大龍菩薩が憐れんで、大海の宮殿につれて行ったのだ。

 

ということは、

 

それまでは、単独では誰もブッダの法にたどりつけなかったのだ、

 

ということを示していることにならない?

どう思う? そう思うよね。

 

ここから得られる結論!

飛んでます! 飛んで飛んで、まわってまわって、わかること。

 

龍樹は、『スッタニパータ』から、

ブッダの法の「一切智」を得ているということだ。

 

なぜなら、わたしも、その道をどうやら行ってるようだから。

 

       ◇◇◇

 

そういう意味では、龍樹ってのは、ものすごく興味深い。。

もしかすると、仏法を壊すこともできたかもしれない。

もしかすると、デーヴァダッタも真っ青のすごいワルになっていたかもしれない。

望むと望まぬとにかかわらず。

 

龍樹本人は、ゴータマの法に帰依して、実践しただけなのだけど。

しかし

完璧にやり過ぎて、ゴータマの法を、乗り越える寸前まで行った、

ということだろうか。

 

それでも、龍樹は、大龍菩薩のおかげで、

ブッダの法の中になんとかおさまった。

 

ブッダの法におさまらないものは、どこにもない。

どんなものも、ブッダの法の中。

たとえ、龍樹のような、トンデモ龍であっても。

 

本人も『大智度論』に書いている。。わかったよ、書くなよ。。イヤ、書いてよ。。

 

ああ、どっちがよかったのか分からない。

こんなことを書いているから引用してみよう。

 

=================

どのようなものを第一義悉檀(最高の定説)と名づけるのか。

一切の法というもの、一切の論議や言論、さらに一切の正しい法や誤った法は、

それぞれに分析するとちりぢりに破壊されてしまうだろう。

諸仏や辟支仏や阿羅漢の行ずる真実の法は、破壊されることなくちりぢりになってしまうこともない。

上の三つの悉檀の中で解釈されないものは、みなこの中で理解される。(『大智度論』『大正蔵』25,60c-61a)

====================

 

ブッダの最高の語り「第一義悉檀」

この中に、あらゆる法がすっぽりと収まることを、

龍樹は自ら見つけて、自分もそこに入るのです。

 

一切智者として。。

 

何を言いたいか分からん、って。

わたしもだ。そのうちまとまるだろう。

従来とは全然違う龍樹が出現しそうな気配になってきた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2021/04/30

4月は去る(4/30)

講義が忙しくなって、

しばらく『中論頌』はお休みでした。

4月20日はこぶしが満開をすぎて、散り始めてた。

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でも、まずまずキレイ!

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遠くからみると、満開そのものに見える曇り空

今(30日)は、札幌は桜が咲いてるそうだけど、

今日は雨降りで、庭や家の前の水仙くらいしか見るものがない。

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チューリップがつぼみだ。

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庭も雑草化がはげしいな。

春芽吹くのは、雑草群。。

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家の前は、雑草と化した水仙とムスカリが美しい。

昔の住居が壊されて、庭の草花だけが取り残された。

けなげに雑草であるかのように咲いている。えらい!

 

咲くものは咲くままに咲いているのがいいね。

 

      ◇◇◇

 

あるがままを認めて、生きよう。

仏教とは、ふつうに生きることの中にあるものだ。

ふつうに生きることの中にあって、生き物を生かすものだ。

あらゆる生き物に生きる道があることを教えるのが、仏教だと思う。

特別な知識なのではなくて。

 

      ◇◇◇

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手前にある枝は何だろう?

水仙とムスカリに気をとられると、手前の枝のプチプチの芽がわからない。

手前に焦点を合わせると

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後ろの水仙はボケてしまう。

前に気をつけると後ろはおろそかになる。

後ろに気づくと前を忘れる。

 

でも、仏法が行きわたると、そのことに気づく。

え?

何に気づくって?

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何でも、一度に全部はわからないものだってね。

 

 

ところで、このプチプチだけど、

 

やっぱり知らない樹木だ。

咲いてから調べよう。

 

今日の考察を終わります。

数日、『中論頌』に集中していこう、っと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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