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2019/06/16

彼岸への道

朝日カルチャーセンターで、お話をしています。

今までずっと『スッタニパータ』を読んできました。

読み始める前はずっとためらってきたけど、

勇気を出して、「読もう!」と決めて、

みなさんとコツコツ読んできています。

すでに有名な中村先生の『ブッダのことば』がある。

多くの日本人は、この書で親しんでいるだろう。

Photo

何と2013年からぼつぼつと読んで、

第4章(八偈品)まで来た時、

わたしの本が出ていたので、これも参考にしました。

Photo_1

だけど、たいして使わなかったかもしれません。

そして、

今!

ついに第五章(彼岸道品)にやって来た。

「序偈」を読み終わりました。

途方にくれるわ。。どうしよう。

だいたいスマナサーラ長老さまのご本

『スッタニパータ 第五章「彼岸道品」』

Photo_2

これには、4人分の解説しか載っていません。

 

     ◇◇◇

 

それに、スマナサーラ長老の解説は、

わたしには使えません。

上座部の立場が鮮明に出ているので、

「うーん。。」と思ってしまう。

 

     ◇◇◇

 

つまり、ここに出てくる16人の学人(マーナヴァ)たちは、

バラモン教の立場の者たちなのです。

まだ、仏教の「ブ」の字も知らないのです。

かれらは、バラモンであるバーヴァリンの命をうけて、

等覚者であるブッダのもとへと派遣される者たちなのです。

 

合い言葉は、そう、 サンブッダ(等覚者)

このことばに救われているバーヴァリンがいる。。

何としても、甘蔗王の末裔、釈迦族の出身である等覚者にあわねばなるまいて。

 

「行け、学人たちよ、その最高の二足の者に会い、教えを受けなさい」

 

ここは、どう考えても、ウパニシャッド的な世界だろう。

 

かれらは、ブッダの教えを知らないのだから。

ただ、様々な哲学的議論にさらされている思想家たちの群がある。

そこで、論議し検討し、語りあう討論の世界がある。

 

世の中の一般の人々に分かってもらう前に、

超えるべきハードルがある。

ここでは、学人(マーナヴァ)と呼ばれているが、

それらの中のトップクラスは、沙門(サマナ)と言われていただろう。

かれらと語りあわねばならない。

 

はっきり言えば、

命がけで!

 

命がけであるのは、ウパニシャッドの中にも出てくる。

「頭が落ちる」という言い方で。

 

本当に命がなくなるのかどうかは、どうでもいい。

議論に負けて、智を明らかにできないならば、それは、「哲人の死」であるから。

 

本当の死よりもおそろしい。

真理を競う者たちが、輩出したのが、ウパニシャッド的な世界なのです。

 

       ◇◇◇

 

そういうわけだから、ウパニシャッドを読んでいるのです。

 

いやはや、トンデモない世界だ。

我々は、おしゃかさん、などと簡単に呼んで、気楽に見ているけど、

トンデモないことだと読んだ瞬間から分かる。

 

ブッダは、当時最高の哲学学説を持っていたヤージュニャヴァルキヤに、

はっきりと対抗している。

 

こわいよ、こわい。

身の毛がよだつ議論です。

ブッダは、等覚者だ。。

 

永遠のアートマンを、

説得力をもって語るヤージュニャヴァルキヤに

はっきりとアンチテーゼを伝えている。

にも関わらず

自分は、見解をもたない。

つまり、落ちるはずの「頭」を持たないのだ。

そのことを察知したバーヴァリンが、躍り上がったのも、

分かるでしょう。

 

995

かのバーヴァリンは、喜んで躍り上がり、信受が生じて

かの神霊に尋ねました。

「どこの村に、あるいは町に、あるいはどこの地方に、

世界の主はいるのでしょう。そこへ行って、等覚者であり、

最高の二足の方(人間)にわたしたちは礼拝したいのです」

 

「序偈」に説かれたこれらのいきさつは、

後から付け足したものだとか言われることがあります。

何で、そういう、どうでも良いことを言うのだろう??

後から付け足そうが、最初に書かれようが、

何が起こったかを知った人が書いた、ということが大事なのだから。

つまりは、議論の中身が何たるかを知っている、ということなのだから。

 

「八偈品」と並んで「彼岸道品」は、

ブッダが、あらゆる見解を乗りこえた(=彼岸にわたった)ことを

示す章なのです。

 

分かろうと分かるまいと、「八偈品」と「彼岸道品」は、

ブッダの一切智を、ありのままに示している。

 

どんな生き物も、たとえ神々のごときものであっても、

この書は破壊されない

そんな本なのです、

 

もし、破壊できると思うなら、やってみるとよいでしょう。

わたしは、やってみました。

 

『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』4.4.23

=============

(ジャナカ王に対して語るヤージュニャヴァルキヤのことば)

「このことは、讃歌に説かれている。――

この、常住であるバラモンの威力は、
行いによって増減することはない。
かれ自身(アートマン)に関して足跡をたどって知ったのちは、
かれは悪しき行いによってもけがされることはない。

これ故に、このように知るものは、寂静となり、調御し、無関心となり、
忍耐して、定に入ったのち、アートマンの中でアートマンを見る。

一切をアートマンであると見る。
罪苦がかれ(アートマン)を超えることはない。
一切が、罪苦を超えるのである。

罪苦がかれを焼くことはない。
一切が罪苦を焼くのである

バラモンは、悪を離れ、汚れを離れ、疑いを離れたものとなる。
これが、バラモン界である、最高の王よ。
あなたはここに到達したのです」、とヤージュニャヴァルキヤは言った。

(ジャナカ王)「このわたしは、尊者に対してヴィデーハ国を差し上げます。わたしともども献上品として」

==========

ジャナカ王を心酔させたヤージュニャヴァルキヤのことばです。

 

分かりにくいかもしれませんが、

使われていることばやその内容は、

ブッダもまた逐一説いているのです。

仏教をよく知る人は、

ヤージュニャヴァルキヤも、

仏教と似たようなことばを使っていたのだなあと思うかもしれません。

そうではないのです。

ヤージュニャヴァルキヤのことばを食うブッダがいるのです。

 

ブッダは、ヤージュニャヴァルキヤの用いることばを使って、

かれの思想を無力化して、自ら、法を打ち立てているのです。

しかし、

そのことは、ちょっと見ただけでは分かりません。

そして、ブッダの「法」というのも、

ヤージュニャヴァルキヤの法(見解)を無力化した瞬間に

消えてなくなっているからです。

なぜなら、使われていることばはみんな

ヤージュニャヴァルキヤの語ったものだからです。

 

ただ、はっきりとわかるのは、

ヤージュニャヴァルキヤが説いた「アートマン(我)」という語、

これを否定して「アナートマン(無我)」と、ブッダは説いた、

ということだけが、ただ残っています。

でも、

それも、ありのままに見る、ということを用いるなら、

誰も、文句は言えないでしょう。

心臓の内部にあって光明であるアートマンなんて、

誰が見るの?

誰でも見えるのなら文句は言えないけど、

ろくに見えないからこそ秘義(ウパニシャッド)になっているのです。

 

哲学上、究極の議論を乗りこえてブッダはいる、ということ。

このために、ブッダの法は、仏教という宗教になったのだなあと思うのです。

宗教を食う宗教として、仏教がある。

だから、誰も、どんな教えによっても傷つけられず、恐れることはない。

ブッダの教えによってすらも!

バンザイ!ありがとね、ブッダさまさま

 

      ◇◇◇

 

あまりのことに、ことばがもはや続きません。

 

分かっても分からなくても、

「何かすごい」と言っているようだ、

と分かってもらえれば、良しということで。

 

庭に、ズッキーニの花が咲いた。

すごい。。大きい。

Dsc02643

 

追伸:

言い忘れたけど、龍樹というのは、この「彼岸道品」と

確実につながっている人です。

等覚者の系譜につながり、そして、お釈迦さまの教えによるので

「正等覚者」

を目指す人だからです。

概論書など、世間で言われる龍樹の解釈は、

何かどれもおかしい。。一番、ブッダとつながっているのに。

 

ブッダとかけ離れたように言われる、ことが多い。

だけど、ナーガ(龍)の系統なんだよね、

ナーガとは?

522 世間の中で、いかなる罪悪も作ることなく、一切の結縛と束縛を捨てて、あらゆる処で執着することがなく、解脱している者、このような者が、真実に<龍(ナーガ)>と言われます。

『スッタニパータ』の中でサビヤに、ブッダが語っている。

 

龍樹のように、正しくブッダのことばを伝えると

世間では、皆、「それは違う、ブッダのことばではない」

と言われるようだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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コメント

> 分かろうと分かるまいと、「八偈品」と「彼岸道品」は、
> ブッダの一切智を、ありのままに示している。

そのように分かったという 表現です

> どんな生き物も、たとえ神々のごときものであっても、
> この書は破壊されない
> そんな本なのです、

本ではないが、 「 本(当) 」 を 本( 「 品 」 )に 表そうとしている
そうして、 本( 書本 )の 体裁を持つ

> もし、破壊できると思うなら、やってみるとよいでしょう。
> わたしは、やってみました。

何者 も モノ の如く 思想を破壊すること は できない
もし出来るのなら、破壊する思想を 破壊できるから

思想は 破壊することによって成り立つのではなく
“ 構築する ” こと  によって 起き上がる  → 「 構築された仏教思想 」

龍樹は 破壊しない 
既に無いモノ  を  破壊することは 出来ない

***********

『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』4.4.23

=============

(ジャナカ王に対して語るヤージュニャヴァルキヤのことば)

「このことは、讃歌に説かれている。――

この、常住であるバラモンの威力は、
行いによって増減することはない。
かれ自身(アートマン)に関して足跡をたどって知ったのちは、
かれは悪しき行いによってもけがされることはない。

これ故に、このように知るものは、寂静となり、調御し、無関心となり、
忍耐して、定に入ったのち、アートマンの中でアートマンを見る。

一切をアートマンであると見る。
罪苦がかれ(アートマン)を超えることはない。
一切が、罪苦を超えるのである。

罪苦がかれを焼くことはない。
一切が罪苦を焼くのである

バラモンは、悪を離れ、汚れを離れ、疑いを離れたものとなる。
これが、バラモン界である、最高の王よ。
あなたはここに到達したのです」、とヤージュニャヴァルキヤは言った。

(ジャナカ王)「このわたしは、尊者に対してヴィデーハ国を差し上げます。わたしともども献上品として」

==========

ジャナカ王を心酔させたヤージュニャヴァルキヤのことばです。

************

>分かりにくいかもしれませんが、
>使われていることばやその内容は、
>ブッダもまた逐一説いているのです。

> 仏教をよく知る人は、

仏教 という 教え  である限り 、 知る という言葉は、 使われ
使うからといって 誤りがあるとは言えぬ
どう 聞くか  という話です →  「 如是我聞 」

> ヤージュニャヴァルキヤも、
> 仏教と似たようなことばを使っていたのだなあと思うかもしれません。
> そうではないのです。

同じ言葉です
   しかし
ヤージュニャヴァルキヤ が 「わたし」 と 言うとき、
それは 言っている ヤージュニャヴァルキヤ を差します
   しかるに
ブッダが説くときには 「 わたし 」 は 常に “あなた” をも指します
ヤージュニャヴァルキヤ が 「 あなた 」 と言うとき
ヤージュニャヴァルキヤ は “ 他 ” を 特定します
   しかるに
ブッダ が 説くときには それは いつも 自分を照らしています

> ヤージュニャヴァルキヤのことばを食うブッダがいるのです。

食われてしまって、 仏陀の 五蘊となる ヤージュニャヴァルキヤ  が いる

> ブッダは、ヤージュニャヴァルキヤの用いることばを使って、
> かれの思想を無力化して、自ら、法を打ち立てているのです。

ヤージュニャヴァルキヤ の 言葉は、
ヤージュニャヴァルキヤ の モノである  と限定されています
モノであるから、 五蘊にある

ブッダ は 五蘊を食して 何と化しているかを
食さなければ 、、、、

> しかし、
> そのことは、ちょっと見ただけでは分かりません。

ちょっと  を グリムプス  と言います ( チラッと 見ることです )

> そして、ブッダの「法」というのも、
> ヤージュニャヴァルキヤの法(見解)を無力化した瞬間に
> 消えてなくなっているからです。

" Within You Without You "  Gerge Harrison

We were talking about the space between us all
And the people who hide themselves behind a wall of illusion
Never glimpse the truth,then it's far too late,when they pass away

***********  

  I glimpse the world then when it has passed away

> なぜなら、使われていることばはみんな
> ヤージュニャヴァルキヤの語ったものだからです。

言葉は 私有できないから、 誰それの言葉 と 言うことはできない

( 私有できるという前提で ) 私有するときには、
常に、   自分の言葉 と     なっていて
それは  私有地 = 自我   から 出でることはできない

わたしを 自己に 用いる者は  “ 常に ”  私有地 に 住処を持つ

そういうことを 「 恒常 」 といい 自我 の すみか です
( それは 決して 「 永遠 」 という 恒常にはない
      →      永遠 とある    輪廻 にある  )

> ただ、はっきりとわかるのは、
> ヤージュニャヴァルキヤが説いた「アートマン(我)」という語、
> これを否定して「アナートマン(無我)」と、ブッダは説いた、
> ということだけが、ただ残っています。

言葉だけが 残っています
行ないに出会う者は ブッダに出会っている
“ a ” ということを ブッダ は 説かない
すべてを 肯定するから、 否定されるモノがなく、 肯定することもない

“ a ”  とは  アートマン という 不確かな概念 の その対象たる
世界 ( ≠  「 世間 」 ) の 肯定です

ヤージュニャヴァルキヤ は 「 無明 」 に 起きている

> でも、
> それも、ありのままに見る、ということを用いるなら、
> 誰も、文句は言えないでしょう。

タターガタ は 成就者にある
ありのままに見るということは、 そこにあるモノを そこにある  ように 見る

しかし、 誰でも そこにあるモノを そこにあるように見ている

ただ、 論理を用いると  ありてあるがまま  は
     あらせられて、  あらせる がごとく  見える

>心臓の内部にあって光明であるアートマンなんて、
>誰が見るの?
>誰でも見えるのなら文句は言えないけど、
>ろくに見えないからこそ秘義(ウパニシャッド)になっているのです。

秘義(ウパニシャッド)  は 「 秘密 」 です
理趣経 にある 秘密  です

得難き真理  だから 秘密 です
誰に でも   開かれているけれど  ( 閉じているかのごとき )
誰   でも   その扉を開けて、 その扉を 消失させるわけではない

> 哲学上、究極の議論を乗りこえてブッダはいる、ということ。

「 真理 」 は 論じられることではない
ただ  テキテキ と 受け入れ
どのように受け入れているかを
あるがまま  に 受けいれ  あるがまま と 一つとなることです

しかし あるがまま  は   あまたにある

あまた の 頭 は 裂けて 一つの頭 となる

> このために、ブッダの法は、仏教という宗教になったのだなあと思うのです。
> 宗教を食う宗教として、仏教がある。

仏教は “ 教 ” ではあるが、
国語辞典にある 「 宗教 」 の 「 教 」 ではない

> だから、誰も、どんな教えによっても傷つけられず、恐れることはない。
> ブッダの教えによってすらも!

宗教    は   立てる処  に  起きている
仏 “教”  は  「 縁起 」  に  起きる


投稿:  春間 則廣  | 2019/06/17 08:36

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