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2019/01/29

輪廻はいつでもあらたな旅立ち

地震の時書き込んで途絶えていたブログ。。

なんてこった!
一ヶ月に一度は、日記(?)を書こうと
 “堅く” 心に決めたはずなのに。


すでに、2019年に入ってしまいました。
しかも、一ヶ月過ぎようとしています。

何が一ヶ月だぁ。。光陰矢の如し


         ◇◇◇


母が亡くなって、介護の対象を失ってしまいました。

まさか、ある日突然介護しなくてよくなるとは,
知ってはいましたが、
夢にも思っていませんでした。


その時から、いつも忘れ物している気分です。
早く帰らなきゃ、あ、そうだった、母の世話はいらないんだった。

あれまあ、死んでることを忘れてる。


人間というのは、なかなかやっかいなものですね。

だから、考えてみるのです。


    ◇1 死は思想である


「生」と「死」というのは、事実ではなく、思想なのだ。
事実なら、むしろ簡単です。

身体が壊れて、その日からその人が活動しなくなること。
この世の中で起こることは、そんなことです。

でも、それを、「死」という事実と、納得しきれる人が、どれだけいるだろう。

なぜなら、「死」ということを考えるのは、
生きてるわたしのような者が、考えることだからだ。

母の死を考えるわたし。

「死んでる」のが事実なら、それは母に起こっているが、
「死んでる」ことを考えているのは、わたしです。

  
    ◇2 死そのものは、母とは別に起こっている


母の死は、母はもはや考えることはできない。
母の死は、わたしが考えることである。

そうだから、自分の死も、
死ぬ前から、「自分の死」として考えることができる。

こうして見ると、


    ◇3 死は、事実ではない、思想である


こう言ってよいだろう。

では、事実でないなら「死」は何だろう


    ◇4 死は、行(意思)である


ちょっと意外ですか?
これは、しばし、考えて、
わたしの出した結論です。

お供えの花でも見て、ちょっと気を静めよ、っと。
Dsc02501s


『ダンマパダ』に次のようにあります。

47.花を摘み集めるのに心奪われている人を、
死は、連れ去っていく。
あたかも、眠っている村を大洪水が連れ去っていくように。

48.花を摘み集めるのに心奪われている人を、
まだ欲望が満たされないうちに、死神は征圧する。


「死」ということが大事なのは、
自分の死だからだ。

母の死は、わたしが悲しむだけだ。
でも、わたしが心配しているのは、

母が、花を積み集めていて死に押し流されたかどうか、ということだ。
死に神が、さらっていったかどうか、ということだ。

たぶん、多くの人は、そこを心配している。
なぜなら、会話が、みな、こんな感じだからだ。


「穏やかに眠るような死だったですよ」
「それは、良かったですね」


「死」に押し流されずに、
「死」に先んじて、
心を整えられるなら、
人は、皆、「よい死に方」だった、という。


つまりです!
その人が、「死」というものを迎える前に、
「死」というものを受け入れて、納得したか、
ということを、案じているのです。

それが、「死」の意味なのでしょう。

だから

   ◇ 死は思想である
   ◇ 死は行(意思)である

のです。

「行(意思)」というのは、次の理由によります。

悟ってないわれわれは、
自分に自分の身に起こることを納得させることが
大事だからです。


死に押し流される前に、自分で「死」に納得する


これがうまくいった(ようだった)ら、

良い死だった、と

自分を納得させるのです。

      ◇◇◇

欲の花に気を奪われる人を、死が制圧するのだから、
身体が壊れる前に
いそいで、死について考えておかねばならない。


    ◇5 死は、乗りこえるべき心の問題である


他人の死を見て、

死を受け入れて死んでいった人の死を「良い死」というように、

自分の死も

死を受け入れて死んでいくなら、まあ、いいんじゃないか、と思う。


死は、実は、生きる意味なのだ。


自分の一生にまずまず満足できるなら
死ぬ時に、すでに行(意思)が定まることになるので
怖いものはない。

生きる意味が収束した時が、
「死」ということで受け入れるから、
死は何の問題も残さない。


死神がさらっていくのは、この世に心を残した人である。
夢中で花を摘んでいる人である。
Dsc02500s

行(意思)をコントロール出来そうなら、

「死」というのは、穏やかな、安らぎの思想である。

         ◇◇◇

何かうまくまとまったかな。
これで良いのだろうか。。。どう思う ?

凡夫が、死について書くと、この程度かもね。

ぜ~んぜん
 生死 を乗りこえてないですね。


やっぱり、おしゃかさんの言葉ですか。
じゃ、いってみよう。

46.
この身体を泡沫のようであると知って、
まぼろしの性質(法)であることをよく悟っている者は、
花で飾った悪魔の矢を断ち切って、
死王の見られないところに、いくがよい。

53.
花の集まりから、たくさんの花環が作られるように、
同じように、
生まれては死ぬことによって、多くの善いことがなされねばならない。


善いことしなさい、って。

生まれては死ぬことを続けることで、
善いことが積み重なっていかねばならないんだ。


ありがたい おことば


ほら、おまえたち!おまえたちもだよっ!
Dsc02503s
にゃ~~にぃ

うるさいにゃ~~
Dsc02504s
ぼくたち、いま、ねはんだも~んにゃ


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コメント

路傍の石さま

おひさしぶりです。
お元気でしたか。

こちらはいろいろありましたが、何とか生きてます。
お見舞い頂いて、ありがとうございます。

投稿: 管理人エム | 2019/03/15 08:02

お久しぶりです。
震災の件、色々お疲れ様でした。
時間が過ぎすぎているので何とも申し上げようもないのですが、ご無事で何よりでした。
御母堂様の事、謹んで心よりご冥福をお祈りさせて頂きます。

投稿: 路傍の石 | 2019/03/13 04:46

難しい話よりも猫。

投稿: 苺箭毒蛙 | 2019/02/18 20:52

> 「生」と「死」というのは、事実ではなく、思想なのだ。

そうではあるけれど、
「 死 」 に 人はとらわれることがないけれど
「 生 」 に とらわれている
生にとらわれるから、 死を思う

生は 思想ではなく  タタター と あると  “思う”

> 事実なら、むしろ簡単です。

タタター と ある


> 身体が壊れて、その日からその人が活動しなくなること。
> この世の中で起こることは、そんなことです。

体は 壊れない
心が 壊れる

人は 手一本、足一本でも その生を全うできる

> でも、それを、「死」という事実と、納得しきれる人が、どれだけいるだろう。

肉体は 滅びることはないけれど
心は いくらでも滅びゆく
肉体を失ったと 心は “サワグ” けれど
失おうとする心が 失う肉体を 決めている( 求めて手にする )

> なぜなら、「死」ということを考えるのは、
> 生きてるわたしのような者が、考えることだからだ。


そう考えることが、 生きている証かどうかを
考えはしない
“ 生きる ”     という 意味が 規定されない限り
“ 生きている ”   という 意味も  意味をなさない

赤の領域で 赤を語るべきなのに
青の領域で 赤を語る
( それは 同じ一つの中のことではあるが、
       領域を決めなければ   赤も青もない    )

赤いということと 青いということが
一つの生の中にあるからと言って、 ゴッチャマゼ にしたら
ゴッチャコッチャ  になるけれど、
そういうことに気づかないことを 「 無明 」 と 呼ぶ


> 母の死を考えるわたし。
> 「死んでる」のが事実なら、それは母に起こっているが、
> 「死んでる」ことを考えているのは、わたしです。

「 死んでること 」 は 考えに起きていることではなく
あなたの起きている   「 生 」 の こと   です
  


> 母の死は、母はもはや考えることはできない。

母の領域だから、 あなたは立ち入ることができない

> 母の死は、わたしが考えることである。

母の死  ではなく  あなたにある 「 死 」 

> そうだから、自分の死も、
> 死ぬ前から、「自分の死」として考えることができる。

“ 死ぬ前 ”   ということ  は 存在しない
“ 死 ” が そもそも 存在してはいないのに 、、、、
( どいう風に規定するか によってのみ、 「 死 」 は 存在の領域に住むことができる )

>      ◇3 死は、事実ではない、思想である
    こう言ってよいだろう。
    では、事実でないなら「死」は何だろう
       ◇4 死は、行(意思)である
    ちょっと意外ですか?
    これは、しばし、考えて、
    わたしの出した結論です。              < 

「 無明 」 に 「 行 」 が 起きると 知るなら
それは 意志( = ナーマ ) の領域です

ルーパ に 起きる の( とする ) なら 「 無明 」 の 領域です

いづれにしても  連れて 起きる 思考を抜いて
それらは 語れない

(  「修行」  も  「 精進 」 も  「 行 」  です  )


投稿:  春間 則廣  | 2019/01/30 09:03

やっとのことで、更新、行進。

苺屋さまからは猫写真にクレームがぁ。

猫の写真は、カメラの充電が足りなくなってしまった。

動画は、撮ったことないので、パス!

春間さまは文章にケチつけてるしなぁ。


休場明けでようやく出てきたお相撲さんみたいだわ。ボロボロだっ!

投稿: 管理人エム | 2019/01/29 17:15

お花の写真はきれいなのに、
猫の写真はやる気がない・・・

投稿: 苺箭毒蛙 | 2019/01/29 14:32

前から言っているでしょう !

この世に、死んだ人も、死んだことがある人も、
存在しません

しかし 「 死 」 は あるのです


どいうふうにあるか は 生き様 による


投稿:  春間 則廣 | 2019/01/29 13:06

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