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2018年6月17日 - 2018年6月23日

2018/06/19

アルボムッレ・スマナサーラ著『スッタニパータ 第五章「彼岸道品」』サンガ

前の「日記」が4月ですね。

はや、二ヶ月以上が過ぎました。季刊雑誌みたいなってきた。。

でも、今回、頑張って日記を書きましょう!
『スッタニパータ』の解説本が出ました。

アルボムッレ・スマナサーラ
『スッタニパータ 第五章「彼岸道品」』サンガ、2018年

そのご紹介です。

Photo

帯をしっかと、確認せよ。


21世紀、私たちが初めて出会う『スッタニパータ』がここにある。

「ブッダのことば」を確実に理解する


力のこもった帯のことばですね。
帯の最下段には

歴史に残る講義録をまとめた全四巻シリーズ、第一巻!

とあります。
これは、読まないわけにはいくまいぞ、と思わせる、ことば群です。


では、読んでみましょう。
まずは「まえがき」から。
スマナサーラ長老さまの覚悟のほどが語られています。


=====
一流の学究者たちと、智慧の完成者たる
ブッダとの会話なので、
内容は一般人が興味を抱くものでもないし、
簡単に理解できるものでもありません。
そこで、とことん解説することに挑戦して、
我々一般人にも大物同士の対話を
理解できるようにしようではないかと、最終的に
解説者が敗北することは覚悟の上で試みました。
=====(p.4)

わかることは、スマ長老さまでも、難しい経典なのだ、ということです。

そもそも、仏教の難しさは、
一見すると難しく見えない、というところ、
ここに何かが潜んでいるようです。

私たちのような普通の読者ですと、

「彼岸道品一章を扱うのに、四巻もかかるんですか?」
という、疑問も出てきそうです。

「わたしも読んだけど、そんなに難しくなかったよ」という方もいるでしょう。

「長老さま、そんな内容なだなんて思いもよりません」と驚く人もいるでしょう。


しかし、


このような語りこそが、ブッダの語りでもあります。

どんな立場の人でも、どんな年齢の人でも、普通に読めて、
それぞれが理解できる内容をもっているのです。

言ってみれば、ブッダのことばは、無限の相をもっているかのようです。

高度な修行をする修行者にも、

学問研究に余念のない学者にも

生きていく上での指針にしたい一般の人々にも

どんな人でも読めて、それなりの答えを見いだせる

そんな経典の極致が、この「彼岸道品」であると言えるでしょう。


それを知った上で

長老さま なら、どう読むか?!!


そこのところを、全身全霊をこめて語っている書、ということになりましょう。

          ◇◇◇


ふむふむ。。ふむふむ。。なるほど。。そうか、そうきたか。。ふむ。。

いや。。ふむ。。そこは、それ。。そうなるか、うむ。。うむむ。。


何言ってるんだ、って?

読んでるなら、感想を述べなさい、って?


うーーーーーーーーーーーーーーーーーーーむーーーーー!


確かに読み方いろいろある中の、一つの読み方ではある、

と思います。

スマ長老さまのたいへんさもわかるし、
スマ長老さまの読みの鋭さを察知できるところもあります。
しかし、正直なところ、
どうして、そう読むのだろう、というところも、
たくさんあるのです。


全体量の、半分は「なるほど、なるほど、さすが!」と思い、
残りの半分は「なぜ、どうして、そうなるの???」と思い、
両者合わせると、

「そうか、長老さまの読みだなあ」

という気がしてきます。


長老さまの読みが、『スッタニパータ』の
唯一の読みではない
ということを、よく了解しているならば、

この読みを提供してくれたスマナサーラ長老の
深い智慧の解釈は、
仏教全体に大きく利益をもたらすだろうと思います。


そういう視点に立って、読まなきゃ、
なかなか読後感は書けないなぁ。。
などと、ごちゃごちゃ言ってます 


          ◇◇◇


ご紹介文としては、まず、こう言いましょう。

長老さまの読みは、

テーラワーダ仏教の特徴を、
はっきりと
打ち出す読みです。

厳しい実践行に裏付けられた、
明確な経典解釈の表明です。


そういう意味で、ありうる一つの解釈だと思います。


では、その特徴は、どこにあるのか?


これをお話しすると、テーラワーダ仏教の立ち位置や特徴が
はっきりしてくると思います。

そうだ、こういう客観的な視点がほしいですね。
長老さまの読みを客観的に見てみよう、
ということではじめましょ。


       ◇◇◇


ではでは、仕切り直して、
 【長老さまの読みの特徴】 
と思うところを挙げていきましょう。

☆☆(一)
まず、「序品」は省略されていること。
すぐさま、最初の学人(マーナヴァ)アジタが登場し質問すること。
アジタさんには「仙人」という呼び名が与えられていること。
マーナヴァの呼びかけを使うのをやめてるみたいね。

☆☆(二)
アジタら学人の質問やブッダの答えは、参考訳として
中村元訳『ブッダのことば』(岩波文庫)を、そのまま使用していること。

参考訳のわりには、目立つので、読者はそれに引っ張られてしまいそうになること。
長老さまの訳は、解説に埋もれるように見えて、太字のわりには目立たないこと。

☆☆(三)
アジタの問いは「世界、世間(ローカ)」について尋ねているのに、
長老さまは、「すべての生命」を意味するとして、「わたし」ということだとすること。


でた!これだな!
何が特徴かと言って、(三)ほど、大きな特徴はないのではないでしょうか。


======
Lokoは通常、世間と訳します。その世間とは何を指しているのでしょうか?
第一に、世間とは「すべての生命」のことです。
次に、世間とは「自分」である、と理解しなくてはいけないのです。
=======(p.17)

すでに、ここで、うーーーーーむぅぅ、となっています。
わからないではない、しかし、それでいいのでしょうか??

ここに解釈が入ります。

仏教においては、
「わたし(アッタン)」と「世間(ローカ)」とは、確かにセットで取りあげられることばではあります。

ですが、今、質問には「世間」とあるのであって、
決して「わたし」とは、述べていないのです。


いろいろ不安が渦巻きます。

世間を語ることは、自己を語ることだ、ということになれば、
アートマン(自己)の思想へと向かう要素もないわけではありません。

自己を語ることは、世間を語ることだ、という順序であれば、
まだ頷けますが、
逆ですからねぇ。。いいのでしょうか。


それに、長老さまは、このように語っています。
=======
スッタニパータの「彼岸道品」というのは、
ブッダが本格的に説法を始める前に、
ブッダがサンガ組織をつくる以前に、仙人たちと内緒で
おこなった対話を記録したものなのです。
それがあまりにも素晴らしい対話だったから
「残して勉強しなさい」ということになったのです。
=======(p.39)

この説明を受け入れるなら、
仙人たちは、そもそも仏教を知らないことになるでしょう?


仙人たちには、梵我一如のようなウパニシャッドで説かれるような思想があるかもしれません。
それはわかりませんので、もし、そうだとして、
そこで、「世間」と聞いたら「アッタン(自分)」を指すとしても、
何も問題はないのだ、と考えるとしましょう。

しかし、そうだとしても、アジタの問いの四つを書き換えてしまっているように見えてくるのです。

【長老さま訳】(アジタの問い)
========

「この世界は何によって覆われているのですか?」

「なぜ(世界の)本当の姿が見えてこないのですか?」

「(世界が見えないように)塗りつけられた汚れは何なのですか?」

「(この世界にとって)最大の恐怖とは何なのですか?」

========(pp.16-17)(パーリ語原文は略す)

この問いは、ブッダによって解釈し直されて、
膨大な人生哲学、命の哲学を語る偈として答えられているのだ、
と、長老さまは解釈していると、わたしは受けとめました。

アジタの問いは、長老さまによって、次のように書き換えられ
解釈しなおされています。

========

「私は誰ですか?」

「なぜ、それがわからないのですか?」

「何によって真理が隠されているのですか?」

「なぜ真理をわからなくてはいけないのですか?」

========(p.39)

ずいぶん違ってきちゃったように見えますね。
うーーむ

深い深い解釈であることは、
わたしのようなものでも、
それなりに気づいてくるのです。

その点は、敬って聞くところであるのです。


ただ一点だけ、疑問が出てきて仕方ないのです。


なぜ、「世間」を、「わたし」と読んでよいのか?


なぜ、そうすることが、(当時)ごく当たり前に行われたと思うのか??


     ◇◇◇


よお~~~~し、わたしも、仏教研究者のはしくれ、
今は、全面的に、長老さまにしたがうことにしましょう。

おっしゃる通りだと、むりやり頷くことにしましょうぉぉーーーー

で、

ここから、何が見えるか?


つまりですよ、もし、そうだとすれば、

仙人たちの大半は、アートマンとブラフマンの合一(梵我一如)を目指す
人々だった、ということになる。

たとえば、ヤージュニャヴァルキヤのような、ウッダーラカのような、
そういう哲人たちの思想を学んだ人々だということになる。

当時の人々(仙人たち)は、「世間」ということを述べても、
それは「わたし」ということを意味している、と受けとめたということになるので、
ブッダは、仙人たちに合わせて、そう語ったということになります。

だから、アジタが、1038偈(1044偈)で

「この世には真理を究め明らめた人々もあり、
学びつつある人々もあり、凡夫もおります。
お尋ねしますが、聖者は、
どうかかれらのふるまいを語ってください。わが友よ」【中村訳】

と問うた時も、

一般の人々(凡夫)のことは省略して、
修行完成者と修行中の人々がどう生活するのかを答えて、
アジタに合わせているのだ、と解釈しています。(pp.81-82)


了解しましたよ。長老さま。


では、わたしの読後感をまとめます。


長老さまの『スッタニパータ』「彼岸道品」の読みは、

仙人たち(学人たち)が、いわゆるアートマン論に
詳しい思想をもった行の進んだ行者である、

と見て

それに合わせて解釈したものだ、と理解しました。


ここが、部派の特徴ですね。
あくまでも「わたし」ということを確保して語る、というところ。

無我に行くとはいえ、
「自己をよりどころとせよ」という立場は忘れない。
そういう教えを守って、解釈していると思います。


      ◇◇◇


ここから、また、もう少し考察。

長老さまの解釈が、すぐれた専門家としての、一つの解釈を示すとすれば、

『スッタニパータ』は、他にも解釈や読みが、当然あるだろう。

なぜなら、長老さまの解釈も、一つの立場(専門の修行者)としての解釈、ということになるから。


であるから、

アジタらバラモンの行者たちが、もし、違う思想をもっていれば、

また、『スッタニパータ』は違う読みができそうだ、ということになる。。


「世間」はあくまで「世間」であると見るとどうなるか?

という観点を入れるなら、
また、テーラワーダ仏教とは異なる道も模索しうるなあ、と


遠い目で、遠い空を見上げている わたしです。


空(そら)よ、空、そらそら、そらみてみよう。
なに、なに
ふふふ、
Dsc02456s

そらじゃなくって、「くう」って読むんじゃないか、って。


よし、スマ長老さまのようなすぐれた「彼岸道品」の解釈にはならないかもしれないが、
学人たちの特徴をまた違うものとしてとらえて
もう一つの眼で語ってみよう。。。そのうちだけど。


あ、そうだ!忘れてた!

次巻の出版に関してお願いがあります。
(二)として出した特徴について。

中村先生の訳を、参考訳として出すなら、

並列させて、

長老さま独自の訳も、目立つように挙げてほしい。

参考訳が、スマ長老さまの訳のように見えてしまい、
たとえ、中村先生訳を批判しているとしても、
そこがわかりにくいです。

たとえば、中村訳を字体を小さくして、
長老さまの訳を、大きくするとか、とにかく、
長老さまの訳だけでも読めるようにしてあるとうれしいわ。

お願いね。


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