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2018年4月1日 - 2018年4月7日

2018/04/01

空性は熱いうちに語れ

みなさま、おひさです。

日記なのに、「みなさま」と始まるところが、
すでに、言い訳モードですねぇ。

言い訳の言葉も、いつものありふれたこのことばです。

「だって、忙しかったんだもん」、これに尽きます。

聞き飽きました、言い飽きました、という手垢のついたことばだけど、
やっぱり、「忙しかった、この三ヶ月」。

母が入院して退院しました。
自宅介護も新体制になりました。
妹夫妻が帰国して出国しました。
公開講座が始まって、五回完了しました。
論文を書いて、投稿して、校正も終えました。
大学全部終業して、成績つけました。
風邪ひいて、風邪抜けました。。もう、いいかな、これくらいで。


あっという間の、新学期前に、九州福岡にお邪魔して
講演をしてまいりました。

ついでに、お花見と観光と。
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福岡城跡(舞鶴公園)は、桜の名所。

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陸上競技場を臨む位置は、二の丸のあたりかも。


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こんなに、ザ・オハナミという体験は、生まれてはじめてです。

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たくさんの人で賑わっていました。


       ◇◇◇


お花見やら、観光やらで、
遊んでばかりいたのではないかと思われてしまうわ。

それでは本題の、公園、じゃなかった、講演のお話しを一つ。


失敗だらけのわたしですが、その度に反省もしているエライわたし。


次こそは、うまく話すぞ、って。


ですが、案の定、
今回もまた、「やっちまったな」と思います。
どうしても説明不足な感じが抜けません。

2018年3月29,30日それぞれ3時間ほど、計6時間の講演だったのに。
やっぱり時間が足りないぞ。

盛り込みすぎた?それとも、説明がへたくそ?
どっちも、ありだわね。

講題 「「空性」とは何か? ~『スッタニパータ』から『中論頌』へ~」

後は、ご紹介のサイトをご覧ください。


もやい(福岡県・佐賀県の真宗大谷派のサイト)


率直に言えば、講演それ自体は、とても楽しかったです。
話し手は「難有り」でも、聞き手がみなさん優れているので、
まずいところは、空じてくれました。


今回、「大乗非仏説を考える」という陰のテーマがありますので、
そこをねらいにして、お話ししました。

法(ダルマ)を見る

という、仏教的見方を打ち出しました。

仏教の開祖ゴータマ・シッダールタ氏は
変遷する歴史の中を生き抜いた一人物である、
という風に、を見ることもできますが、
それでは、なかなか仏教の思想がわかりません。

ただの偉人伝にしかならないように見えてしまいます。

しかし、

この歴史的人物の「法(ダルマ)」を探る、ということになりますと、
これは、別に「歴史的」である必要はありません。

法(ダルマ)は、本当に一切衆生を救えるのか?
法(ダルマ)は、普遍性をもつのだろうか?

を考えれば良いので、異なるものの見方(論理)を用いることになるのです。

「法を見るものは、仏を見る」のですから、そうなら、
ブッダ(仏)は 一切衆生を救える 「 一切智 」を
ほんとに持っているのかどうかを

調べればいいだけ。
簡単です。。。

簡単ですって、どこが、簡単なんだ??

一切智者が、他の者の「一切智者性」を調べるのは、
「簡単です」と言えるかもしれませんが、

一切智者でない者が、他の者の「一切智者性」を調べるのは、
難しいでしょう。

いや、そんなことはありません!

仏さまが一切智者であることは、わたしら凡夫にもわかるのです。
だって、「法」はみんなに開かれている。
「わかる人」と「わからない人」は、同じ地にいる。

つまり、地続きなんよ。
凡夫と聖者は、同じ地にいてつながっている。


聖者(の一部)が、 「一切智者」と呼ばれるのに対して、
わたしら凡夫は、 「一切智者でない者」
という呼び方で呼ばれるのです。

一切智者(ブッダ)のやり方をじっと見つめて、
そこからヒントを得るのです。

そのヒントが、法(ダルマ)なのです。
「法(ダルマ)」は、一切智者かどうかを調べる道具でもあるのです。

その上、ご褒美に
法(ダルマ)をマスターすれば、一切智者にもなれる、という特典も満載。


こうやってやって行きなさい、と、実は、お釈迦さまその人が語っているのです。

これぞ、般若波羅蜜(智慧の完成)の実践行なのです。


       ◇◇◇


で、ここからが、説明するのが難しい。

要するに、「全部自分で開発していきなさい」という道、
言いかえれば
「他人に頼るな、自分でやれ」という道。

「僕もそうしたのだから、君もそうしなさい」のルール。


わかりそうで、よく考えると混乱しそう。。でも、やっていけば何とかなる道でもある。

これを名づけて、何というか?

お釈迦さまは『スッタニパータ』の中で語っている。

======
933. (第十四経第19偈)
この法を知って、比丘は常に考察しながら
気づきをもって学習していきなさい。
(煩悩の)消尽を「寂静である」と知って、
ゴータマの教えの中で怠らないようにしなさい。
======

「自分でやるんだもん」の教えは、「ゴータマの教え」というんだ、って。
そこで、龍樹は、こう言いました。


一切の見解を捨て去るために、憐れみをもって、
 正しい法(サッダルマ)を説いたゴータマに
わたしは帰命する。
                   (『中論頌』27.30末尾「帰敬偈」)


龍樹は、直接、お釈迦さまの直説『スッタニパータ』「八偈品」の中から、
お釈迦さまの説いたことば(=法)を受けとって
その通りに実践したのです。

「他に依らず、自分でやりなさい」と述べているのだから、
言われたとおりに、お釈迦さまの説いたことば(=他)によらず、
自分で確かめ確かめして「ゴータマの法」を実践していったのです。

え?何か、引っかかる、って?
わけわからんようになってきた、ですって?

お釈迦さまの法を守ったのか、守らないのか、よくわからんなあ、
ですって。

では、もう一つ、お釈迦さまの直説を。

=====
934. (第14経第20偈)
かれは、実に打ち勝った者であって、
(他によって)打ち勝たれた者なのではありません。
(他から)伝え聞いたのではなく、
みずから直証した法を見たのです。

それ故に、かの尊師の教えにおいて、怠ることなく、
常に礼拝しつつ、したがい学んでいきなさい、
と、尊師は語りました。
=====

この「他から伝え聞いたのではなく、みずから直証して知ること」を
何と言うか?

これを、お釈迦さまは「尊師の教え」と言うのです。
自分で学習しなくちゃだめだ、の道。

だから、龍樹は、最初の帰敬偈で、その通りにやったのです。

======
滅することなく、生ずることなく、
(死後)断滅することなく、常住ではなく、
同一ではなく、異なることなく、
来るのでもなく、去るのでもなく、
戯論を断滅する、吉祥なる、
縁起を教示した等覚者(サンブッダ)、かれを、
語り手の中の最高のもの(ヴァラ)としてわたしは敬礼する。
                 (『中論頌』1.1-1.2冒頭「帰敬偈」)
======

八不中道は、龍樹が、経典の中から自分で
直証したものなんだわね。

『中論頌』では、「尊師」は「等覚者」となっているね。
「等覚者(=尊師)」から、諸仏の覚りが示されて、大乗への道が花開きます。

不生不滅などと簡潔に言われる八不中道は、
実践すると、寂滅へと通じていく。

縁起を駆使して、わたっていく、寂滅の言語世界。
戯論断滅していくさまを、龍樹は、直証したんだね。

この道を一心に往来するのが菩薩であって、
言語で語ることを恐れない者たちです。

かれらはやがて到達する寂静の世界を夢見ながら
喧噪の議論の中にどっぷりつかって、
しかも
喧噪の議論に溺れないのです。

智慧の桜を開花させ
そして
言語世界の寂滅へと桜吹雪が誘うのです。

やがて、智慧の桜が散り終えると、
智慧の活躍も静まって、
すべてを満足する涅槃の安らぎがやってくるのです。
涅槃寂静。

桜散る。。無学の者たちよ、おめでとう。


世俗の世界では、
悪い意味の、この「桜散る」は、

ブッダの教えでは良い意味、覚りへの道を示している。

無学は、もう学ぶ必要のなくなった者だからね。


    ◇◇◇


すべてが寂滅して、語ることばもなくなって、
見解がきれいにちり終えた状態

これが、「空性」ということだと、龍樹は語っているのです。

「何も無い」ってこと?
なに?空性って?

と思ったあなた。

そうではありません。

「何も無い」は、見解じゃ~あ~りませんか。
「何かある」とも、「何も無い」とも、思うことなく、いられる状態が、
「空性」なのです。

む、むずいにゃ。

そ、そうなのです。
むずいのです。

じゃ、何も考えない、ってこと?

それとも違います。

なぜなら、ことばの世界を通っていくからです。
ことばが行き交う世界を生きていきながら、
見解がないのです。

ことばがあるけど、そこに、「ある」という意識をもたず、
また、「何も考えない」という風にもならない、
そんな、ええ~い、どうすりゃいいの、という道を行くのが、

「空性」なんだってさ。


     ◇◇◇


そのため、「わたし」「わたしのもの」という思いを持たないようにすると、
うまく「空性」にいたることが出来る、といわれているのです。

「ええ~い、この桜吹雪が、眼に入らねぇ~か」

って、啖呵を切っているとき、

自分の利益を考えて、このことばを出すなら

「空ではない」 が、

自分の利益も、自分のものという意識もなく、ことばを出すなら、

「空である」可能性が出てきます。


空性は、ことばを使う道なのです。


自分のことばで自分の考えを述べながら
しかも、自己にこだわらないような人には、
この「空性」がそなわっていくのです。

それを学ぶ者には、この「空性」は、尊師の教えであり、ゴータマの教えになるのです。
最後は、見解もなく、静かに沈黙して終われるなら、満足だよね。

表題どおり
「空性」を熱いうちに語ってみたけど、
やっぱり、イマイチねぇ。

どうしても、すべてに配慮した語りにはならないわね。

桜でダメなら、つばきにするかな。
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やっぱり、最後は、空性の中に滅するのが、いいかな、ドボンとね。
ということで、海です。
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志賀島から、福岡市の方角を臨む。能古島が見えます。


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