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2018/08/11

“輪廻する”

毎年、毎年、生きるということはくり返される。

草木や虫けら、生き物たち、

寿命の長いところでは、ガラパゴス島のゾウガメ。
何百年も生きるそうだ。

======
「尊師よ、何が老死なのですか、誰にとってこの老死があるのですか、
(=老死と この老死をもつものとは、同じなのですか)」
======(『サンユッタ・ニカーヤ』12.35)


わたしたち風にいうならば、
命があって生きていると思っているので、その場合、

「命と身体は同じなのですか」
「命と身体は異なるのですか」

といってもいいかもしれない。

神をもたない仏教では、この問いが、ブッダに向かって投げかけられる。

神をもつ宗教では、この問いは、神に向かって投げかけられるだろう。
答えてもらえるかどうかは別にして、
神が答えるべき問題だと考えられることだろう。

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       ◇◇◇


わたしたちの心の中には、どこか
「死んだら終わりなのだ」という風に思う「信念のようなもの」がある。

「信念」 なのでなく
「信念のようなもの」なのだ。

なぜなら、根拠がないからだ。
だから、「死んでみないと、どうなるかわからない」という。

ほんとうは、死んでしまえばわかりようがない、とも
心の隅で思いながら、
「わかりようがないのだから、どうでもいいや」とも思う。

「輪廻する」という人もいるけど、そんなこと、わかりようがないだろ、

だいじょぶだ(なんだ、これ?)、だから、輪廻するなんて嘘っぱちだ。。
するわけないだろ、迷信信じるのかよ、死んだらそれで終わりさ。。


って、思いながら、不安になる。
死んだらどうなるかわからないからだ。。やっぱり。。


で、怖くなる

夏の風物詩、幽霊におびえるのと同じように、

ずっと心に引っかかっている「死んだらどうなるの」という思いに
悩まされる、

死にたくない

死ぬことを考えるなんて縁起でもない
まだ、死なないんだから、忘れよう。。輪廻なんて、嘘さ。。

そうだ、今を “楽しく” 生きるんだ
享楽的な人生。。けっこうじゃないか。。それでいいよ、自分は。

花のある人生を生きるんだっ!
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        ◇◇◇


普通の人の気持ちを、綴ってみました。
どうでしょう、みなさま、こんなところじゃないでしょうか。

ちがうかしら。
たとえ、多少ちがっても、

「死んだらどうなるか、誰もわからないだろ」

と、強固に思いながら生きているのは、だいたい同じではないでしょうか。


わたし自身は、もう、こういう考えを捨てました。

「死んだらどうなるか、なんて、誰もいえないだろ」
という「強力な信念(のようなもの)」に、飽き飽きしたからです。 


キリスト教やイスラム教の

神さまが天国を用意してくれている

というのも、わたしにとっては、魅力のない話です。

神さま、神さま、
わたしが、そんな答えに満足するようなクリーチャーに見えますか。
創造主なんだったら、被造物の気持ちも分かってよ。

「おまえを試しているのだ」っていうのは無しよ。
そんな “(神さまの)言い訳” はわかっているのだから。

枯れて来たラベンダーみたいに、そんなの、虚しいのよっ!
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        ◇◇◇


そこで、考えるべきは何か?

こういう 「死んだら、どうなるの?」という 問題を
解決することでは、ないでしょうか。

それも、神にたよらず、自分で。


こうして、結論を得た人が、ブッダだと思います。

死ぬことを厭いながら、人は死んでいく。

なぜ死ぬのだろ?
なぜって、生まれてきたからさ。
生まれなければ死ぬこともない、これは、事実でしょ。

だったら、「生まれないこと」を求めるしかないだろう。
でも、もう生まれちゃった。。嫌でも、死ぬしかない。。

こうして
死ぬことを厭いながら、人は死んでいく

人は、みなそうだ。そうなんだから仕方ない。。。
でも。。でも、ほんとは人のことはどうでもいい。

問題は、自分が死ぬことなんだから。
人の死はいっぱいあっても、自分の死はオンリーワン、ワン。

なぜ自分は死ぬのだろ?
なぜって、お母さんが自分を産んでくれたから、
生まれちゃったんだよ。
生まれたら死んでいくだろ。。
じゃ、お母さんを恨むか。。

っていうのもなぁ。。

ありがとう、お母さん、生んでくれて、って言いたくなる。

死んでいくのに、死にたくない、ってことが、
実は一番、問題なのかもしれない。

なぜ、死にたくないかといえば、
「死んだらどうなるか、誰もわからない」って思っているからだ。

ああ、なんかぐるぐるしてきたなあ。頭が、混乱してきた。。
考えるのやめよ、怖くなってきた。。


       ◇◇◇


だいたい、こんなでしょうか。

このような思いにとらわれることを
仏教では、 「輪廻」 と呼ぶのです。

なぜって?

ぐるぐる回っているでしょう。

思いは巡って、果てしないでしょう。

こういう考えにとらわれている者たちは、苦しいでしょう?
ちがう?

今だけ、1回こっきり、生まれてきたんだから、って考えたとしても、
「ぐるぐる思い」にとらわれて、「死ぬのが怖い」とか思っちゃう。。

「なんで、今、この1回だけ、自分は生まれてきてるんだ」って思うと、
悩ましい。

1回だけ生まれてきても、何度も生まれてきても、
死ぬのが怖いことには、変わりがない。

だから、なんですよ、
ブッダが生死を乗りこえようとしたのは、(とわたしは思うな)。


気持ちが定まれば、死は怖いものではない
自分自身がどうなるかを知れば、何も畏れることはない。

神さまにすがらなくても、
自分で納得できる。

「死とはなんぞや」に対する答が得られる。


この問題に命をかけても、いいでしょう?
どうせ、することないんだし、ね。
知りたい人にとっては、安心がある。

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       ◇◇◇


======(『サンユッタ・ニカーヤ』12.35)

尊師は(次のように)言いました。

適切な質問ではない、
「何が老死なのですか、誰にとってこの老死があるのですか
(=老死と、この老死をもつものとは、同じなのですか)」と、
比丘たちよ、言うならば、

あるいは、

「老死と、この老死をもつものとは異なっている」と、
比丘たちよ、いうならば、

両者は一つであって、ただ表現が種々であるだけである。

「命と身体とは同じである」という見解によっているとき、
比丘たちよ、清浄行に住していることはない。

「命と身体とは異なっている」という見解によっているとき、
比丘たちよ、清浄行に住していることはない。

これら二つの極端に近づかず、中道によって、如来は説くのである。
生によって老死があると。

======

難しいね、尊師のことば。

命あっての物種だ、というけど、
この命のあるこの身体、って気持ちがしても、
それは表現がいろいろにあるだけ。

自分の命だ、
自分の身体だ、

だから
命と身体は一つだ、
いや、
命は命、身体は身体で、二つは分かれてばらばらになる

死んでも命がありますように。。何、言ってんだろ。。


こういう風に考えていると

ぐるぐる回るよ

って、ブッダは言ってる。


生まれてくるから、死んでいくんだ


これは、その通りでしょう。
これを見つめるなら


生まれてこなければ、死んでいかない


という理屈に、納得できるでしょう。


今の生が、この1回こっきりの生なのかどうか、わからないのだったら、

これから、また再び生まれることがない、という道筋を
検討しておくのも悪くないでしょう。
どうですか?

ぐるぐる回って、悩むのも嫌でしょう?


「誰にとって老死があるのですか」と考えるから、
混乱するんだよ。
「自分にとって」、「他人にとって」、と考えなければ、

生があるとき死がある
生がないとき死がない

これで納得できるでしょう。


科学の目をもつあなたなら、わかるはず。

「生がないとき死はない」理屈が。


ここを見つめて生きるとき

「不生」を心において生きることになる

「不生」を知れば「不死」も知る

「不死」を心において生きることになる


生死を乗りこえた人々は、仏教には、
たくさんいるのです。

そうでない人たちを、
「輪廻している」と呼んでいるのです。
迷っているからです。

こうやって、世間はぐるぐる、ぐるぐるするのであります。
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この花、天人菊っていうらしい。特攻花ともいうのだそうだけど、そのなぞは検索してみて。


ブッダは、「来世」の話をしているようで、実は、していない。

今生きているあなたに、今、納得を与えるために答えている。


難しいね、“輪廻する”のも、しないのも。


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コメント

>  神をもたない仏教では、この問いが、ブッダに向かって投げかけられる。

持っていない  と  手の内をみれば
空ですか

持っている と 思っても 空  と

どう ありよう( 空性 ) は 違いますか ?

> 神をもつ宗教では、この問いは、神に向かって投げかけられるだろう。

神を持つ 宗教 が  あると
疑問を挟まずに しておきましょう

その場合 その神  は あなたの 何ですか ?

その説明、その論理 で
持つ者、持つとする者 の どちらかでも
論理的に 納得させられますか ?

( 納得した者が いた として も 、 納得しない者も います )
( どちらを 正解とするかは  納得にある 、、、、 )

( それだけの理由であると  あなたは納得できますか ? )
( この理由を ここに 置くことが あなたの納得にありますか ? )
( この理由が  何 と ・ 容易には見つけがたい 何  とを指すかは
   あなたに明確ですか ? )

ま 、
しょせん 日記に対する書き込みにすぎない  から
   命を懸けて 検討するまでもないこと    と
( 命を懸けた 人生の日々の選択の中で )  される

納得してしまった こと は 再度検討しても
納得から 外れ 出   ない 、、、、 ( 出るようなら 納得とは言えない )

百円を手に握っている と知って  (のちに)
  必要なにぎりは
千円 であったと知っても 
百円の理解には なんら影響を及ぼさないが
往々にして 百円では それに対して 不足であると 嘆きかける 、、、、
( 前に意味不明である時、これに意味不明となる )

これが
神の存在と どう関わるかは
無明に於いては  分かり難きことではあるが
無明に於いてでさえ 分かる理屈を用いて 綴っている

分からないのは “ 単なる = 自性にある ”
   わたし の        責任


投稿:  春間 則廣  | 2018/08/13 12:47

全ての  “ 語(言葉)  ” は 名称(仮の姿)である

それが ブッダ によって 使われていても
聞く者の “言葉”

漢字よみでは
「誤」 と 語 と 吾 とは 同じ(音)である
( 交差 錯綜 すること する語 を ゴ とする )

わたしも あなたも
自分のことを 「 わたし 」 という
わたし  とは  あなた  の 意味です
( あなた とは わたし の 意味です )

この事は いくら 立ち位置を変えても 必ず成立する

*********

「 生 」 に 戻ってみよう

あなたの 「生」 とは  何ですか ?
仏陀の 「生」 と 同じであれば
ブッダの言葉は 素直 に 入ってくる
「 死 」 も同じである

仏陀 には 「生」 はあるが 「不死」 としての 「死」 しかない

仏陀 にとっては 「死」 と 「不死」 は 同一のことの 違う音
仏陀が生きるように 仏陀の生がある
あなたが 生きることに  あなたの生がある 

あなたにある  あなたの生に 死がある
仏陀の生に  永遠がある

あなたの生と 仏陀の生とが 全く違うモノであるとできれば
そこに齟齬があろうと 自然な事

似て非なるモノに 正当性を与える時
その正当性は 非ではない者に 不当な判断を投げつける


世間は 動いているけれど
グルグル 廻っているのではなく
輪廻しているのでもない
あなたの世間は あなたについて回る 、、、、

わたしには 関係がない と 言う とき

仏陀に たしなめられる 、、、、
( やっぱり わたしも 廻ってしまう 、、、、 )


投稿:  春間 則廣  | 2018/08/11 19:15

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