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2018/07/22

暑いですね。アニメな世界とアメニな世界

猛暑続きで、日本列島が真っ赤に燃え上がっているようです。
ほんとに、お見舞い申しあげます。

「学校のネタ」というカテゴリーで閑話休題。


この前、「クレヨンしんちゃん」の動画を、学生と一緒に見ました。
「大人帝国の逆襲」という題だったような気がします。


大人が、子供の頃&青春時代(昭和の時代)に戻りたがって、
「子供化」するというお話しでした。

大阪万博の太陽の塔が出てきたり、昭和の風景が出てきたり、
登場人物の男性と女性が、ビートルズファッションとミニスカートだったり。


画像がノスタルジィをかきたてる夕焼け風景で、
昭和の時代が、かげろうやまぼろしのように再現されていました。

学生が
「せんせ、昭和の時代ってこんなだったんですか」
って言うから

わたし
「こんなだったよ、このまんまかな」
って言ったら

「へぇ~~~」
って、驚いてました。

「この頃、マンションじゃないんだ、セキュリティもないよね」
「駄菓子屋さん、ってあこがれる」

ふうん、そんなところに驚くんだ。
そういえば、登場人物の男性、どこかで見たことあると思ったら、ジョン・レノン風だった。

「せんせ、今頃気がついたんですか。
イエスタデイ・ワンスモア、って言ってたじゃないですか」

「あれぇ、ごめんよ、ようやく気がついた」


「せんせ、『クレヨンしんちゃん』って、子供向けだと思ってるけど、
けっこう “見せる” んですよ、これは、シリーズの中でも傑作かな」

っていうから

「小さい子供だけじゃなく、親もつい見てしまうよね」
って。

「子供の時は、これはこれでおもしろいし、
大きくなったら、また、違う内容だったって気づくんですよ。
子供でも案外わかるし、わかりやすいです」

なるほど、大人が感じる無常感、
それを子供もどこかに感じるのかな?

どこか、子供にも大人にも共通の通ずる部分がある、
ということかもしれないですね。


           ◇◇◇


この、「わかりやすいです」の一言に大きく反応したわたし。

わかりやすい、か。。。なるほど。。

では、もう一つ、違うアニメでもいってみよう。


           ◇◇◇


最近、学生と何回か観ているアニメ 「ブッダ」 について。

アニメと、経典の違い(いや、共通点かな)を実感しています。

手塚治虫原作の「ブッダ 赤い砂漠よ!美しく」(アニメ)を、学生と毎年見ます。

Photo_2

こんな絵柄です。
イケメンのゴータマくんです。

さてさて

何回か見たので、ようやくストーリーについていけるようになったわたし。
ところが、
学生は、1回しか見てないのに、けっこうストーリーについていけてる。

けっこうなアニメ評論家もいて、
手塚の作品はについて、あれこれ蘊蓄を披露してくれる。
また、声優やセル画などの細部にも気づいて評論したりするほどの子もいる。

でも、

中には、わたし並みに、アニメについていけない子もいる。
「残酷なシーンは見ていられなかったし、何が何だかわかりませんでした」
っていう子も。。 

だよねェ。。わたしもだよ。

何回か見て、気づいてきたのは、
制作者(手塚治虫?)は、実は 「 わかりやすく 」 作っているのだ、
ということです。


アニメの基本は、「 わかりやすい 」ことなのです。

(などと知ったかぶりで言っていいのだろうか)


でも、それだけだけだと、おもしろくない、エンターテイメントなんだし。。

ということで、

二つのストーリーを交互に組み合わせる、という手法になる!
のだ。。これで、正しい?

一つは、   ある奴隷の少年の物語
もう一つは、 ブッダの少年時代の物語

奴隷の少年の物語は、「手塚」オリジナルの物語。
ブッダのお話しは、「仏伝」「経典」から採ったもの。


わたしとしては、こんな理解になってしまう。


だから、一つ一つのストーリーは「わかりやすい」のです。
一つは
奴隷の少年が、カースト制度を超えて這い上がっていこうとする姿を描くもの。
だけど、
もう一つのストーリーが、謎なのです(わたしにとって)。
ゴータマの煩悶と出家。。

ここにまったくのメスが入れられていない(ようにみえる)ので、
ただのきれいな絵になっている(ようにみえるのよ)。。でも、違うのかな?

もしかして、学生諸君はみんな、けっこう納得しているのかもしれない。
ゴータマは、人々の苦しみを見て何とかしようと出家した。。みたいに。

たぶん、お釈迦さまは人々のために出家した立派な人(?)なんだ。
コンセプトは、シンプルのはずだし。。

として、学生は納得しているのかもしれない、
(と、最近ようやく気づいてきました)


        ◇◇◇


ここから、とりとめなくつらつらと考察。


コンセプトは、シンプルに。
なぜなら、わかりやすくないとついていけないから。
しかし、
意外性はほしい。
なぜなら、わかりやすいだけだと飽きてしまうから。

だから、
シンプルなコンセプトのものをいくつか組み合わせることになる。


何となく、これまでわたしがつかんできた「 現代思想風景 」です。

だから、コンセプトをつかめる人には、
なんてことなく、「わかりやすい」「おもしろい」と言えるのです。

すでに、どこかに「答えを得ている・わかった」という感覚があるのでしょう。
現代という時代の流れをつかんでる、という感じもあるのかも。


でも、コンセプトがつかめないと、
何が何だかわからない、ただただ断片的に印象に残るのです。

今の時代には、ついていけないや、時代に遅れたかも。。
って、思うかもしれないですね。

以上は、世俗諦での、ものの見方の一例です。

わたしも、実は、ブッダの少年時代で、引っかかったので
自分自身としては、わかりにくかったです。
ブッダの時代が、仏教以外の決まり切った思想によって切り取られているなあ、って、ちょっと不満。


        ◇◇◇


では、ここから「経典」に考察を広げよう。
世俗諦から、勝義諦へと移行してみよう。

いってみれば、経典も、アニメと同じ手法なのかも。


コンセプトはシンプルに。
しかし、それは、組み合わさって現象している。


アニメよりももっと緊密につながり、また、細部のすみずみまでつながっている。


ゴータマの出家は、奴隷少年の下剋上物語と、もっと親密に連関しているよう。
同じ道の上にあるはずなのだ。

コンセプト1
一切皆苦

コンセプト2
諸行無常

コンセプト3
諸法無我


この三つが、一つの大きなコンセプトにまとめられることがわかると、
このアニメな世界は、勝義のアメニな世界になるのかもしれない。

アメニ? なに?

飴煮?

Photo(コトバンクから取りました)

並んでますね。
味もしみてる。

現象する風景に、コンセプトがしみてるの図。

これが仏教のアメニな世界なんだろね。


勝義諦では、「縁起」コンセプトが、シンプルに、
現象にしみこんで、どこを食べても飴煮なアメニ。。うまい!


こういう仏教コンセプトの行き渡る
アメニな世界は、一つには、マンダラがそうかもしれない。

イケメン・ブッダの代わりに、カラフル・ビューティな円満世界。

ブッダの目線、菩薩の目線が生きる世界。
Mandalafinal_m

世俗の世界
煩悩具足の 普通の人々は、
できるだけ 覚った人ブッダを
理想の姿、美しい姿で描こうとする

聖者の世界
悟りを得た聖者たちは、
縁起するこの世界に
清らかな理想郷を観ている

どちらにもあるのは、
もてる限りの力で
美しく描こう、荘厳しよう、という心。

アニメの世界とアメニの世界の共通点は、
これかな。

けっこうむりやりまとめたところで、

おしまい。


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コメント

>>> なるほど、大人が感じる無常感、

>> あなたが感じる 「無常」 に過ぎません
>> 大人は “ コウジョウ ” を 手にして
>> 世間に落ち着く

恒常 を  “ 基本に持つ ” から 
無常を違和感なく使えます
その基本が  あやふや 疑わしい

> 世俗の表現を使ってます。

意味不明です
わたしは 世俗にいて 世俗の言葉で語っています
世俗の表現を 世俗に於ける 聞き方 で聞く

子供は 無常 を 感じません
感じる時は 大人へ入っている 、、、、

子供は いつも 現実にいるから
夢と現実を (子供である限り) 区別できない

区別( “vI” )   すると 大人の “見” =  “識”
  =  “ vI ”  がそこにあり、
 あると 知 識   する  色の世界 

「 お前のオモチャより 俺の方がイイ 」

言い 方  の問題ではなく
      商量 揀択 の 世界に足を踏み入れている

オモチャに 良い悪い はない
イイ悪い に “ 悪い ” が ある

イイ方 が 悪い ( “イイ方” 次第で決まらない )
( どっち も ヨイ のであって   も    )
“ だったら ” 悪い方を取れば解決する 問題でもない

> 私自身が感じている、というより、考えて得た「考え」です。

考えは いくら突き詰めても
出発点が 無明に起きているから 行き着くところは 囲いの中

>> だから、まあ、ゆれています。ゆれているから、“ コウジョウ ” ではない。

恒常にいなければ 揺れているかどうかも分からない
その起点が 揺るぎないから 「 無明 」 にあると 諭されている

( 疑う目を持つから 大人の目になる )

>> 世間に落ち着いてはいない。
>> いつか世俗を超えようと思っている 大人たち

キテン が 聞かない・聞かれない 大人の  “わたし”

>> こんな目で見てしまうな。。仏教だなあ。

仏教を見る目 は 仏教の外にある

内なる目で見ると
世間が 展開されていると分かる


投稿:  春間 則廣  | 2018/08/02 10:48

>あなたが感じる 「無常」 に過ぎません
大人は “ コウジョウ ” を 手にして
世間に落ち着く

世俗の表現を使ってます。
私自身が感じている、というより、考えて得た「考え」です。

だから、まあ、ゆれています。ゆれているから、“ コウジョウ ” ではない。

世間に落ち着いてはいない。

いつか世俗を超えようと思っている 大人たち

こんな目で見てしまうな。。仏教だなあ。


投稿: 管理人エム | 2018/08/02 06:44

> 「子供の時は、これはこれでおもしろいし、
> 大きくなったら、また、違う内容だったって気づくんですよ。

大きな子供

同じことなのに
違う内容を読み取る
( 気付いて いるのは 大人か子供か
   それも  無明にあることか → 無明は 認識に起きる → 大小を問わず )

>  「子供でも案外わかるし、わかりやすいです」

子供子供と 子供の見方
大人になると 分かることかな ?

> なるほど、大人が感じる無常感、

あなたが感じる 「無常」 に過ぎません
大人は “ コウジョウ ” を 手にして
世間に落ち着く

> それを子供もどこかに感じるのかな?

人である 限り だれでも 感じます
感じようを 名称化するときに 無明を 重ねて働らかせる

> どこか、子供にも大人にも共通の通ずる部分がある、
   ということかもしれないですね。

そうかもしれないけれど、そうでないかも知れない

どちらを 顧みるかで 慚ることが起きる

大人も子供も 人としての存在 ( でしかありえない )
共通する部分を 顛倒すると
大人の見識 知識人の見識 が 顔を見せる


投稿:  春間 則廣  | 2018/08/01 08:38

> 煩悩具足の 普通の人々は

煩悩を具足しなくとも
具足する者 は
具足する こと(知恵)で 状況を 量る(揀択する)


普通かどうかを  普通の人が
普通ではないことを商量して
普通に何の気おくれもなく 推量して
事実の如く断定する

そこにおいては
普通ではない人も
普通の判断で 位置を決められている


何が どのように 煩悩かを 知る者を
ブッダ と呼ぶ

具足する  知識で
 煩悩 を  囲い込むことが出来ますか ?

囲いをつくろうと
囲いの外に 煩悩は 行き渡る

たとえば 一から千までが 煩悩 として
265 までで 煩悩と呼べますか
266(適時に理法に触れる時) に そこまでを否定する モノ が 起きている と(して)
265 までで 分かりますか ?

と(して)  いて することが
 知っている と 為されて されていること

> 美しい姿で描こうとする

美醜は 煩悩です
もし “ 煩悩 ではない ” と言うなら
美醜は煩悩ではなくとも
( そうではない と )言っていることが 煩悩 となる

美醜は 煩悩である  という時

それ(そう言うこと)が 煩悩なら 美醜は 煩悩ではなく
煩悩である ということを 逆から補強する
( ここが ワカルカナ ? )

生きている という  事実は 如実(仏法)であり
             おしなべて
    美醜の    もとより 豊険を跳出せる


投稿:  春間 則廣  | 2018/07/23 17:52

> 仏教に コンセプト  は ない

「概念」ということばより、概念化してないので、これを使ってみました。

コンセプトというのは、わたしの中では仮説という意味が含まれているような感じです。

コンセプトには、ヴィカルパ(分別)という要素が入っている、といえます。

その時生じて、終わると滅するもの。

「わかりやすい」には、思考の習慣があるから、という理由がつくように思います。
だから、「わかりやすい」と「やすい(易い)」がつくのでしょうね。

投稿: 管理人エム | 2018/07/23 09:14

いかに認識が甘いかを 思い知るときもあるでしょう 、、、、

> この、「わかりやすいです」の一言に大きく反応したわたし。
> わかりやすい、か。。。なるほど。。

分かりやすい        反応である
何が  わかりやすい   かは
分かられた者には     分かり難い 、、、、

なるほど  に 
  コウベ  を 垂れる  否 ・ ホー(ソー) カナ ? 、、、、、
ホー ですか ホーですか 、、、、

ま わたしの反応は テキスト に 落とされた後で
机上において起きたことだから 、、、、

ジョウキ ヲ  イッスル  、、、、

>  こういう仏教コンセプトの行き渡る

仏教に コンセプト  は ない

> アメニな世界は、一つには、マンダラがそうかもしれない。

曼荼羅 は マンダラ であっても マンダラ ではない
( 曼荼羅  は  名称でもなく 形態でもない
  名色を離れること  が    曼荼羅である )

本質 という コンセプト は 存在しない
 
一つの世界が 総てを顕わしていることを
曼荼羅 という


投稿:  春間 則廣  | 2018/07/22 19:58

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