« 空性は熱いうちに語れ | トップページ

2018/06/19

アルボムッレ・スマナサーラ著『スッタニパータ 第五章「彼岸道品」』サンガ

前の「日記」が4月ですね。

はや、二ヶ月以上が過ぎました。季刊雑誌みたいなってきた。。

でも、今回、頑張って日記を書きましょう!
『スッタニパータ』の解説本が出ました。

アルボムッレ・スマナサーラ
『スッタニパータ 第五章「彼岸道品」』サンガ、2018年

そのご紹介です。

Photo

帯をしっかと、確認せよ。


21世紀、私たちが初めて出会う『スッタニパータ』がここにある。

「ブッダのことば」を確実に理解する


力のこもった帯のことばですね。
帯の最下段には

歴史に残る講義録をまとめた全四巻シリーズ、第一巻!

とあります。
これは、読まないわけにはいくまいぞ、と思わせる、ことば群です。


では、読んでみましょう。
まずは「まえがき」から。
スマナサーラ長老さまの覚悟のほどが語られています。


=====
一流の学究者たちと、智慧の完成者たる
ブッダとの会話なので、
内容は一般人が興味を抱くものでもないし、
簡単に理解できるものでもありません。
そこで、とことん解説することに挑戦して、
我々一般人にも大物同士の対話を
理解できるようにしようではないかと、最終的に
解説者が敗北することは覚悟の上で試みました。
=====(p.4)

わかることは、スマ長老さまでも、難しい経典なのだ、ということです。

そもそも、仏教の難しさは、
一見すると難しく見えない、というところ、
ここに何かが潜んでいるようです。

私たちのような普通の読者ですと、

「彼岸道品一章を扱うのに、四巻もかかるんですか?」
という、疑問も出てきそうです。

「わたしも読んだけど、そんなに難しくなかったよ」という方もいるでしょう。

「長老さま、そんな内容なだなんて思いもよりません」と驚く人もいるでしょう。


しかし、


このような語りこそが、ブッダの語りでもあります。

どんな立場の人でも、どんな年齢の人でも、普通に読めて、
それぞれが理解できる内容をもっているのです。

言ってみれば、ブッダのことばは、無限の相をもっているかのようです。

高度な修行をする修行者にも、

学問研究に余念のない学者にも

生きていく上での指針にしたい一般の人々にも

どんな人でも読めて、それなりの答えを見いだせる

そんな経典の極致が、この「彼岸道品」であると言えるでしょう。


それを知った上で

長老さま なら、どう読むか?!!


そこのところを、全身全霊をこめて語っている書、ということになりましょう。

          ◇◇◇


ふむふむ。。ふむふむ。。なるほど。。そうか、そうきたか。。ふむ。。

いや。。ふむ。。そこは、それ。。そうなるか、うむ。。うむむ。。


何言ってるんだ、って?

読んでるなら、感想を述べなさい、って?


うーーーーーーーーーーーーーーーーーーーむーーーーー!


確かに読み方いろいろある中の、一つの読み方ではある、

と思います。

スマ長老さまのたいへんさもわかるし、
スマ長老さまの読みの鋭さを察知できるところもあります。
しかし、正直なところ、
どうして、そう読むのだろう、というところも、
たくさんあるのです。


全体量の、半分は「なるほど、なるほど、さすが!」と思い、
残りの半分は「なぜ、どうして、そうなるの???」と思い、
両者合わせると、

「そうか、長老さまの読みだなあ」

という気がしてきます。


長老さまの読みが、『スッタニパータ』の
唯一の読みではない
ということを、よく了解しているならば、

この読みを提供してくれたスマナサーラ長老の
深い智慧の解釈は、
仏教全体に大きく利益をもたらすだろうと思います。


そういう視点に立って、読まなきゃ、
なかなか読後感は書けないなぁ。。
などと、ごちゃごちゃ言ってます 


          ◇◇◇


ご紹介文としては、まず、こう言いましょう。

長老さまの読みは、

テーラワーダ仏教の特徴を、
はっきりと
打ち出す読みです。

厳しい実践行に裏付けられた、
明確な経典解釈の表明です。


そういう意味で、ありうる一つの解釈だと思います。


では、その特徴は、どこにあるのか?


これをお話しすると、テーラワーダ仏教の立ち位置や特徴が
はっきりしてくると思います。

そうだ、こういう客観的な視点がほしいですね。
長老さまの読みを客観的に見てみよう、
ということではじめましょ。


       ◇◇◇


ではでは、仕切り直して、
 【長老さまの読みの特徴】 
と思うところを挙げていきましょう。

☆☆(一)
まず、「序品」は省略されていること。
すぐさま、最初の学人(マーナヴァ)アジタが登場し質問すること。
アジタさんには「仙人」という呼び名が与えられていること。
マーナヴァの呼びかけを使うのをやめてるみたいね。

☆☆(二)
アジタら学人の質問やブッダの答えは、参考訳として
中村元訳『ブッダのことば』(岩波文庫)を、そのまま使用していること。

参考訳のわりには、目立つので、読者はそれに引っ張られてしまいそうになること。
長老さまの訳は、解説に埋もれるように見えて、太字のわりには目立たないこと。

☆☆(三)
アジタの問いは「世界、世間(ローカ)」について尋ねているのに、
長老さまは、「すべての生命」を意味するとして、「わたし」ということだとすること。


でた!これだな!
何が特徴かと言って、(三)ほど、大きな特徴はないのではないでしょうか。


======
Lokoは通常、世間と訳します。その世間とは何を指しているのでしょうか?
第一に、世間とは「すべての生命」のことです。
次に、世間とは「自分」である、と理解しなくてはいけないのです。
=======(p.17)

すでに、ここで、うーーーーーむぅぅ、となっています。
わからないではない、しかし、それでいいのでしょうか??

ここに解釈が入ります。

仏教においては、
「わたし(アッタン)」と「世間(ローカ)」とは、確かにセットで取りあげられることばではあります。

ですが、今、質問には「世間」とあるのであって、
決して「わたし」とは、述べていないのです。


いろいろ不安が渦巻きます。

世間を語ることは、自己を語ることだ、ということになれば、
アートマン(自己)の思想へと向かう要素もないわけではありません。

自己を語ることは、世間を語ることだ、という順序であれば、
まだ頷けますが、
逆ですからねぇ。。いいのでしょうか。


それに、長老さまは、このように語っています。
=======
スッタニパータの「彼岸道品」というのは、
ブッダが本格的に説法を始める前に、
ブッダがサンガ組織をつくる以前に、仙人たちと内緒で
おこなった対話を記録したものなのです。
それがあまりにも素晴らしい対話だったから
「残して勉強しなさい」ということになったのです。
=======(p.39)

この説明を受け入れるなら、
仙人たちは、そもそも仏教を知らないことになるでしょう?


仙人たちには、梵我一如のようなウパニシャッドで説かれるような思想があるかもしれません。
それはわかりませんので、もし、そうだとして、
そこで、「世間」と聞いたら「アッタン(自分)」を指すとしても、
何も問題はないのだ、と考えるとしましょう。

しかし、そうだとしても、アジタの問いの四つを書き換えてしまっているように見えてくるのです。

【長老さま訳】(アジタの問い)
========

「この世界は何によって覆われているのですか?」

「なぜ(世界の)本当の姿が見えてこないのですか?」

「(世界が見えないように)塗りつけられた汚れは何なのですか?」

「(この世界にとって)最大の恐怖とは何なのですか?」

========(pp.16-17)(パーリ語原文は略す)

この問いは、ブッダによって解釈し直されて、
膨大な人生哲学、命の哲学を語る偈として答えられているのだ、
と、長老さまは解釈していると、わたしは受けとめました。

アジタの問いは、長老さまによって、次のように書き換えられ
解釈しなおされています。

========

「私は誰ですか?」

「なぜ、それがわからないのですか?」

「何によって真理が隠されているのですか?」

「なぜ真理をわからなくてはいけないのですか?」

========(p.39)

ずいぶん違ってきちゃったように見えますね。
うーーむ

深い深い解釈であることは、
わたしのようなものでも、
それなりに気づいてくるのです。

その点は、敬って聞くところであるのです。


ただ一点だけ、疑問が出てきて仕方ないのです。


なぜ、「世間」を、「わたし」と読んでよいのか?


なぜ、そうすることが、(当時)ごく当たり前に行われたと思うのか??


     ◇◇◇


よお~~~~し、わたしも、仏教研究者のはしくれ、
今は、全面的に、長老さまにしたがうことにしましょう。

おっしゃる通りだと、むりやり頷くことにしましょうぉぉーーーー

で、

ここから、何が見えるか?


つまりですよ、もし、そうだとすれば、

仙人たちの大半は、アートマンとブラフマンの合一(梵我一如)を目指す
人々だった、ということになる。

たとえば、ヤージュニャヴァルキヤのような、ウッダーラカのような、
そういう哲人たちの思想を学んだ人々だということになる。

当時の人々(仙人たち)は、「世間」ということを述べても、
それは「わたし」ということを意味している、と受けとめたということになるので、
ブッダは、仙人たちに合わせて、そう語ったということになります。

だから、アジタが、1038偈(1044偈)で

「この世には真理を究め明らめた人々もあり、
学びつつある人々もあり、凡夫もおります。
お尋ねしますが、聖者は、
どうかかれらのふるまいを語ってください。わが友よ」【中村訳】

と問うた時も、

一般の人々(凡夫)のことは省略して、
修行完成者と修行中の人々がどう生活するのかを答えて、
アジタに合わせているのだ、と解釈しています。(pp.81-82)


了解しましたよ。長老さま。


では、わたしの読後感をまとめます。


長老さまの『スッタニパータ』「彼岸道品」の読みは、

仙人たち(学人たち)が、いわゆるアートマン論に
詳しい思想をもった行の進んだ行者である、

と見て

それに合わせて解釈したものだ、と理解しました。


ここが、部派の特徴ですね。
あくまでも「わたし」ということを確保して語る、というところ。

無我に行くとはいえ、
「自己をよりどころとせよ」という立場は忘れない。
そういう教えを守って、解釈していると思います。


      ◇◇◇


ここから、また、もう少し考察。

長老さまの解釈が、すぐれた専門家としての、一つの解釈を示すとすれば、

『スッタニパータ』は、他にも解釈や読みが、当然あるだろう。

なぜなら、長老さまの解釈も、一つの立場(専門の修行者)としての解釈、ということになるから。


であるから、

アジタらバラモンの行者たちが、もし、違う思想をもっていれば、

また、『スッタニパータ』は違う読みができそうだ、ということになる。。


「世間」はあくまで「世間」であると見るとどうなるか?

という観点を入れるなら、
また、テーラワーダ仏教とは異なる道も模索しうるなあ、と


遠い目で、遠い空を見上げている わたしです。


空(そら)よ、空、そらそら、そらみてみよう。
なに、なに
ふふふ、
Dsc02456s

そらじゃなくって、「くう」って読むんじゃないか、って。


よし、スマ長老さまのようなすぐれた「彼岸道品」の解釈にはならないかもしれないが、
学人たちの特徴をまた違うものとしてとらえて
もう一つの眼で語ってみよう。。。そのうちだけど。


あ、そうだ!忘れてた!

次巻の出版に関してお願いがあります。
(二)として出した特徴について。

中村先生の訳を、参考訳として出すなら、

並列させて、

長老さま独自の訳も、目立つように挙げてほしい。

参考訳が、スマ長老さまの訳のように見えてしまい、
たとえ、中村先生訳を批判しているとしても、
そこがわかりにくいです。

たとえば、中村訳を字体を小さくして、
長老さまの訳を、大きくするとか、とにかく、
長老さまの訳だけでも読めるようにしてあるとうれしいわ。

お願いね。


|

« 空性は熱いうちに語れ | トップページ

コメント

世間が“わたし”であれば
    ( 知ることによって そこに知ることが起きている )
              コギトエルゴスム
       ( わたしという存在は 知ることによって 構成されている )
        ( わたしは “知ることそのもの” である 、、、、 )
     (  構成要素を知ることが 存在を知ることとなる  )
    ( 知ること = コギト によってしか 全てを知ることが出来なければ )
    (  全てが 世間に  顕われ出て 表わされることをそこにおいて 知る   ) 

    ( 知ることに よって そこに 知ること が起きている と 知る )
    ( わたし とは “知ること” であり  つつ  “知ることそのもの” である  )
今 は 永遠の時 全てである

「  自己を知る者は 法を知る  」


“内”緒の話が あるときに語られようと
(記録という 名称を介してはいるけれど、今に聞かれ)
今( “外” ) に 語られていることになる

内外を言う立場は 内外の境目に その住処を持つ


******************
       長老さまの解釈が、すぐれた専門家としての、一つの解釈を示すとすれば
      『スッタニパータ』は、他にも解釈や読みが、当然あるだろう。
******************       

  883
      或る人々 が「 真理 で ある、 真実 で ある」 と 言う ところ の その( 見解) を ば、
      他 の 人々 が「 虚偽 で ある、 虚妄 で ある」 と 言う。
      この よう に かれ ら は 異 っ た 執 見 を いだい て 論争 を する。
      何故 に 諸々 の〈 道 の 人〉 は 同一 の 事 を 語ら ない ので あろ う か?
884 
      真理 は 一つ で あっ て、 第二 の もの は 存在 し ない。
      その( 真理) を 知っ た 人 は、 争う こと が ない。
      かれ ら は めいめい 異 っ た 真理 を ほめ た たえ て いる。

                 中村 元. ブッダのことば-スッタニパータ (岩波文庫) (Kindle).

******************

* 当然ある * か どうかは 当然 という名称を どう解釈するかによって決まる 

一つの立場(専門の修行者)としての解釈、ということになる
    のなら
専門 という意味 (=名称) を 確定しなければならない

専門家も 飯を食う
詩を説いて得たモノを 食うてはならない 、、、、
( 食わなければ 専門家である 、、、、 )


 * 『スッタニパータ』は違う読みができそうだ  *

違う  と  同じ   は  “同じ”顛倒の 道 に 建つ
     ( この構文が それ自体   正しさを表わしている → 縁起を示している )
     ( 世間とは  全体であり   全体は 知ることによって構成されている   )  


   ** スマ長老さまのようなすぐれた「彼岸道品」の解釈にはならないかもしれないが、     **    

優れている と 優れてはいない 頭で 優れている を 解釈する
( 自ら打ち立てた優れた(という)解釈 だから 優れた解釈 の 恩恵に 服する )

     どっちも優れていなかったら どのように “優れた” は  打ち立てられる 


優れてはいない頭でも “割れることなく”  優れたこと を  俯瞰 できる 、、、、
 

( 俯瞰する立場がある
    と 言う見解をもって 
      あなたは 立場を確立し 批判・揀択する )



投稿:  春間 則廣  | 2018/07/17 07:57

*************

帯をしっかと、確認せよ。

21世紀、私たちが初めて出会う『スッタニパータ』がここにある。
「ブッダのことば」を確実に理解する

力のこもった帯のことばですね。
帯の最下段には
歴史に残る講義録をまとめた全四巻シリーズ、第一巻!
とあります。
これは、読まないわけにはいくまいぞ、と思わせる、ことば群です。

*************


どのような出会いであっても
宇宙開闢(があるとして) 以来の 初出の出来事
一期一会 です
一期一会と知る者には 一会が トーワ に 入る

「ブッダのことば」を確実に理解する
  者 が ブッダです ( これは確実です )
( 是非はこの際おいておいて )
理解した者が 理解させるために 理解を披露するが
正しい理解は 顛倒の車に 乗る
( ひっくり返って 車を運び 人は置き去り 、、、、 )

( 講義録だから 対象は 受講者 )

これは 相当 気を付けて 臨まなければ 、、、、

とても良い反面教師になるのは 定まっていること

帯を締めて
丹田 に 気(息)を集中して
   精進をもって
 我が身( 阿頼耶識である五蘊 ) を 眺める


投稿:  春間 則廣  | 2018/07/03 13:16

あ、ごめん

リップサービスも、思いつかなくて。

わたしには、ゆれる(?)長老さまの気持ちが、素直に出ている本のように思いますが。

こうなったら、正直に言うと、「長老さま、わたしに向かって語って!」
宣伝するから。

余計だめだな、こりゃぁ。。

投稿: 管理人エム | 2018/06/29 07:37

先生、サンガから出ている本ですから
もうちょっとリップサービスお願いします。なんちゃって~(*´∀`*)

投稿: えび天サンバ | 2018/06/28 02:35

深さ  というものは 「縁起」 です

浅・薄 があって “深” を知る
立って居る地から 掘り下げるとき
 深さ ・ 掘ったところまでの厚み(薄い) を知る


> テーラワーダのふところの深さというのが、でてきません。


テーラワーダ というようなものは 存在していません
ないモノに 「縁起」 は 起きません
( ただ “ある” ということは起きます )


スマナサーラ の 理解 理解に挑む心意気(知力) = 行 というものは
縁起を超えて 存在しますが
その 知力に対する 知=あなたの商量 は  「 縁起 」 により 起きます
( ただし 存在を 云々すれば  「 縁起 」 が起きる )

この 存在と  「 縁起 」 による存在が
コギト の 顛倒です

パーリ仏典が いかに正しかろうとも
“読む”者が 正しくなければ 間違って “聞きます”
( 読む と 聞く  とを 対比させたのには理由があります ) 
( 理由を “聞かず” = 読み取らず に  読み “を” 進める 、、、、  )


比較の問題にすぎませんが
スマナサーラ は 頭は悪くない

悪くないモノに 教えるのは 本当に “別” の 手間がかかる
( 善人は 善人であるから 自分に存在しない悪を知る由にない )

できない 知る知力に恵まれていないと知る
 “ 悪人 ” は
容易に 教えに触れることが適い
写しながら 写すことへの 難しさを
(自らにある)写されたことによって みる

そうして それが 自らから離れて
 教える者 に
見せるモノ=教え として 「 回向 」 していく 、、、、
( 教育とは 自らが “そこに” 教えられて 起きる事です )

「 回向 」 の この還元性を 見逃すと
教えから 離れていく 、、、、
「 回向 」 によって 「 回向 」 が 起きてくる
( 回向という 名称は )
 「 縁起 」  の 理にあるけれども
 「 縁起 」  = 仏道  に
  対して    “ 豊険より跳出せる ”


投稿:  春間 則廣  | 2018/06/27 07:16

pocketさま 

よくわかりませんが、もしかすると本の焦点が定まっていないのかもしれません。

長老さまは、わたしに「あまり言いたくないんですよ」とおっしゃってました。優れた学人たちの質問に、議論が深すぎて表しきれないと思っていたような感じを受けました。

でも、本ではQ&Aもついてて、誰かが質問してスマ長老さまが答えているんですが、それが、この本の焦点をぼやけさせているようにも思いました。
その質問によって、この本をただのテーラワーダの修行本にしてしまっています。
正直、がっかりです。。Q&Aはほとんど読んでませんが。
テーラワーダのふところの深さというのが、でてきません。

たぶん、中村訳を使っているのも、どんな訳でもいいんだよ、ということだろうと思うのですが、ですが、それなら視野を広くしてQ&Aより、チョーハイレベル行者対応の長老さまのことばをそのまんま載せた方が良かったかも。どんなに難しくても。

どんな読者(素人)でも、真理はやっぱりわかるのではないか、って思います。

投稿: 管理人エム | 2018/06/27 04:14

うーん、いっちゃあ何だけど買わなくても良さそうな本ですね。エム先生は献本で全巻そろうのでしょうけど。。。

投稿: pocket | 2018/06/26 23:01

>   全てのモノ は 人の為になるべく 置かれています
   どのような解釈であろうと、 それを解釈する者の解釈が
   道に沿えば 解釈(商量)は 真理の姿そのものです   <

真理( 仏道 念仏 ) は
 は 解釈を 離れて存在します( 「 もとより豊検より跳出せる 」 )
「 念仏者 は 無碍の 一道 」 であり 真理そのものです

>>> そういう視点に立って、読まなきゃ、     
     なかなか読後感は書けないなぁ。。
     などと、ごちゃごちゃ言ってます が <<<

観点 は 世間(ローカ・loka-dhaatu) に  位置します
(  「 縁起 」 にあること  は  「 縁起 」  で 表わすしかない )
けれど

中論頌 も  「 縁起 」 に沿って 述べられています
( 「 空 」 を もって  「 縁起 」  を 表わす )

自らの 観点
スマナサーラ の観点
どちらも 真理ではありません( 世間に位置して 観点を置く )

“自ら” を 置くから   「 縁起 」  に 入り 真理に背く
( “背” とは  肉体にある羽根 です )
( 北 とは 逆方向に背くことです )  語源辞典 157p
( 同方向に並ぶのが “比” です )

翻って
“ 他 ” だけを置き 「 他力 」 を 知るとき
自我は起きません
( 親鸞は そこを明らかにしている )
“ 他利 ” に おいては 足りないモノがない
( 他利 には 自利 が 存在できないのです )
( 自己を見つめる自己は  他己 です )
( 唯識 は そこに ヨーガ を 見出す )

成就者だけが ヨーガ に ある

上座の ヨーガ は ヨーガではない

> だから、成就者であってもなくても、どうでもいいんじゃないか、って思うんですよね。

思うのは 自己に属します
どうでもいいなら
真理を求める理由はない

求めて見出すのが 真理    ではない
真理に “たまたま” であって 真理( 古城に続く「道」 )  と知る

真理 とは   掌中の チンターマニ
    襟元の  宝珠   です


投稿:  春間 則廣  | 2018/06/21 07:53

春間さま

おはようございます。

>あなたの 読む  長老さまの読み  です

おっしゃる通りです。
ですが、とてもおもしろいと思います。

当時の人々が、今によみがえりますね。
「彼岸道品」の問答が、この現代に顕れた感があります。

経典の中の人々が起ち上がって歩き出すような、そんな感じもしてきます。

すなわち、こんな風に掘り下げる人がいないと、経典は顕わにならない、ということでもあるかと。

だから、成就者であってもなくても、どうでもいいんじゃないか、って思うんですよね。

ウパニシャッドが、どう知られていたのかもけっこう見えるなあ、って思っています。

投稿: 管理人エム | 2018/06/21 05:16

> このような語りこそが、ブッダの語りでもあります。
どんな立場の人でも、どんな年齢の人でも、普通に読めて、
それぞれが理解できる内容をもっているのです。
言ってみれば、ブッダのことばは、無限の相をもっているかのようです。
高度な修行をする修行者にも、
学問研究に余念のない学者にも
生きていく上での指針にしたい一般の人々にも
どんな人でも読めて、それなりの答えを見いだせる
そんな経典の極致が、この「彼岸道品」であると言えるでしょう。 <

規定するのは
自由裁量 の  世界に属します
裁量 を     サイデスカ  と  読む(聞く)だけです

それなりの読み方 が
 ブッダ の 語ること であれば
真実は 語る他(人)ごと に 存在します

Sn.883・884
  或 る 人々 が「 真理 で ある、 真実 で ある」 と 言う ところ の その( 見解) を ば、 他 の 人々 が「 虚偽 で ある、 虚妄 で ある」 と 言う。 この よう に かれ ら は 異 っ た 執 見 を いだい て 論争 を する。 何故 に 諸々 の〈 道 の 人〉 は 同一 の 事 を 語ら ない ので あろ う か?
  真理 は 一つ で あっ て、 第二 の もの は 存在 し ない。 その( 真理) を 知っ た 人 は、 争う こと が ない*。 かれ ら は めいめい 異 っ た 真理 を ほめ た たえ て いる。 それ 故に 諸々 の〈 道 の 人〉 は 同一 の 事 を 語ら ない ので ある。

  或 る 人々 が「 真理 で ある、 真実 で ある」 と 言う ところ の その( 見解) を ば、 他 の 人々 が「 虚偽 で ある、 虚妄 で ある」 と 言う。 この よう に かれ ら は 異 っ た 執 見 を いだい て 論争 を する。 何故 に 諸々 の〈 道 の 人〉 は 同一 の 事 を 語ら ない ので あろ う か? 八八 四   真理 は 一つ で あっ て、 第二 の もの は 存在 し ない。 その( 真理) を 知っ た 人 は、 争う こと が ない*。 かれ ら は めいめい 異 っ た 真理 を ほめ た たえ て いる。 それ 故に 諸々 の〈 道 の 人〉 は 同一 の 事 を 語ら ない ので ある。
        岩波書店. Kindle 版.中村 元. ブッダのことば-スッタニパータ (6013)

> 「そうか、長老さまの読みだなあ」

あなたの 読む  長老さまの読み  です

> という気がしてきます。

すべて 気のせいです

> 長老さまの読みが、『スッタニパータ』の
    唯一の読みではない
    ということを、よく了解しているならば、

唯一の読みを 理解して 他 の 読み が
そこに初めて起きます
自らの読みを 唯一とする時
長老さまの読み が 他の読み として 起きます

> この読みを提供してくれたスマナサーラ長老の    
    深い智慧の解釈は、
     仏教全体に大きく利益をもたらすだろうと思います。

そこには 智慧 はありません
智慧は 成就者の 元にあるものです

翻って、 全てのモノ は 人の為になるべく 置かれています
どのような解釈であろうと、 それを解釈する者の解釈が
道に沿えば 解釈(商量)は 真理の姿そのものです

> そういう視点に立って、読まなきゃ、     
     なかなか読後感は書けないなぁ。。
     などと、ごちゃごちゃ言ってます が

言うのは 自己の世界からのモノです
自他不二  で あれば
 他利    の 世界で
タリ ない  ことなど 何もなくなります


スマナサーラ は 成就者 ではない !


投稿:  春間 則廣  | 2018/06/20 12:24

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/58200/66842628

この記事へのトラックバック一覧です: アルボムッレ・スマナサーラ著『スッタニパータ 第五章「彼岸道品」』サンガ:

« 空性は熱いうちに語れ | トップページ