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2017年7月9日 - 2017年7月15日

2017/07/15

仏教の行いは中道なり、ってか

すっかり記憶が飛んでいますが、いつのまにか7月。
写真もないのですが、一番最近のものを。
Dsc02287s
5月の頃には、龍樹のことを考えるゆとりがあったけど、
その後は、もう、何も考えずに、
ここまで来てしまいました。

どうして年々忙しくなるのだろう。

同じ一科目でも、確実に手間が増えている。
教えることは、
少なくなってくるのに、
手間だけは、何倍にもなって
すごく時間を食うようになってきました。

たぶん、学校のスタイルが変わって、
知識を授ける、というのではなしに
教育を施す、という方に変わったからだろう。

半年の講義も終わりに近づいているけど、
気分としては、
いつも、一歩進んで、二歩さがる、みたいな講義です。

やればやるほど
はっきり言って、さがっていく。

後退していく講義
やっぱり
前進したいわたし

葛藤がある

で、いいや、まあ、仕方ないかな
って思ってます。
その理由は以下の通りです。


      ◇◇◇


最近気づいたことがあります。


“八正道” です。


生きる上の基本の考え方になる
と気づいたのです。


ブッダが弟子たちに示した修行の方法は、

八正道でした。

そして、かれは、

八正道というのは、


中道だ、


と述べたのです。

その通りなのだ。
「中道」 
二者のうち、いずれの極端にも寄らない道

これが中道です。

どんなことでも、そうなのだ。

見いだした両極端の中で
中道を取っていくと、
確実に、一本、道ができるのです。

ゆらぐことはない不動の道で
易行道
なのです。

そこを行けばいいのだ!

ま、だから、講義も同じで、
教師の力と学生の力の中道なのでしょう。
きれいな中道が得られないので
葛藤が起こるのかもね。。

修行がたらんな

     ◇◇◇


さて、さて、中道で、もう少し。

親鸞聖人は、非僧非俗という中道を見つけました。
また、自力と他力の中道も見いだしました。

定散自力の称名は
果遂ちかひに帰してこそ
おしえざれども自然に
真如の門に転入する
(『浄土和讃』)

定心や散心で、自力によって称名を唱えていても
第二十願によって、阿弥陀仏の「果遂の誓い」に至るので、
おのずと阿弥陀仏の他力へと転入していく

「果遂の誓い」とは、

第二十願にあるように、
衆生が、自力の努力をもって、
徳の本を植えて一心に廻向しながら、浄土に生まれようと願う、
その願いが達成されなければ、正覚を取らない、
という弥陀の誓いのことです。

自力でいろいろ称名を唱えてがんばる衆生であっても、
救います、という弥陀の誓いが、効いて、
自然と、衆生は真如の門に入っていって、救われるのです。


自分と阿弥陀仏とのコラボレーション

もはや自分の力でもなく、
阿弥陀仏の直接の力でもない(=他力の廻向)、
そんなところに到達しますね。


「中道」


これがなければ、仏教ではない!

といっても、いいのでしょうね。

「他力本願」というだけでも、
きっと「中道」の要素が入っています。
なぜなら、誓願は、控え目な「否定形」の因果だからです。

~しないならば、決して、わたしは正覚を取らない

という形で説かれる、奥ゆかしい「縁起」が
阿弥陀仏の本願他力と呼ばれているのです。

阿弥陀仏が、積極的に衆生に関わろうとするのではない

衆生のはたらきかけもあってはじめて阿弥陀仏は姿を見せてくれるのです。


だけど、また、衆生の側からしても、


絶対的な神の世界を持つ人とは、
どこか違うのです。
「神に祈る」という行いとは、やっぱり、違うのです。
ストレートに祈りが神に通じることを願う、
それが「祈り」ということでもありましょう。

念仏は、「祈り」ではない、「信の自己表明」でもない、

やっぱり「中道」

だから

なんでもない、念仏は念仏、
だから、念仏するのです。


こうなると、仏教だなあ、って気がしてきますね。

まあ、こんなことを考えているんだけど、
うまくまとまらないですね。
そのうち、もう少し、すっきりしてくるだろうと、思っているところ。

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春に咲いたうちのチューリップ。

咲き始めは、ただの黄色で、だんだん上から赤い色が降りてきて
すっかり赤くなっていく不思議なチューリップ

自力の黄色が
だんだん
他力の赤に染められて、極楽浄土に向かいます。

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