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2017/08/14

『十二門論』と『中論』と『廻諍論』

あっという間に、お盆です。
今日も一日、のんきなダンくん、
大好きな新聞のベッドでのんびりお昼寝。
Dsc02310s
ん、なにか?

いや、なんでもないす。

新聞束ねて、廃品回収に出したい。。。

ああ、あきらめます。お休みください。
Dsc02311s
そのとおりダン!よろしい!

などと、戯れる余裕も出てきた今日この頃。
ここ数日、5月頃に予定していた

『十二門論』と『中論』の間柄を調べるために
文献調査を開始しています。

時間が、飛ぶように過ぎて、
日記を書く度に、グチっていましたが、
今回はグチりません。

ごきげんです。

なぜなら、すでに五月頃の予定なのに、
時の移るのが早すぎて、
昨日のことのよう。

『十二門論』を読んでも、昨日読んでた気分で読めます。
悪いことだけじゃないっすね  wink

      ◇◇◇

『十二門論』が龍樹作ではないだろうという疑義を提出しているのは、

安井広済氏の
 「十二門論は果たして龍樹の著作か
   ―十二門論「観性門」の偈頌を中心として― 」

という論文です。

前々から、若干疑問を感じつつも、
自分ではなかなか研究できずに
そのままでした。

今回、腰を据えて、言われたことを検討してみようと
思い立ち、それを実行しています。

『十二門論』には、空に至るために十二の門が開かれています。

その第八番目に、「観性門」という章があります。


そこには、ただ一つ、
おそらく『中論』13-3ではなかろうかという偈頌が
引用されているのです。

その偈頌をめぐっての問題提起です。

安井氏の語るところは、こうです。
簡潔に要点をまとめますと


『十二門論』「観性門」の偈頌は、

青目、安慧の読みでは
<龍樹の主張する偈頌>と読めるが

月称、「無畏註」、仏護、清弁は
<反対論者の主張する偈頌>と読んでいる


「観性門」の偈頌が、『中論』13-3であるとすれば、
青目・安慧と
月称・仏護・清弁と
まったく解釈を違えているのも、混乱が甚だしい。

十二門論が確実に龍樹の著作として存在し、
観性門の偈頌が龍樹の説として権威があったのであれば
このような甚だしい混乱は起こらないはずである。


このように考える時
『十二門論』の伝承の不確かさを思わざるをえない。

     ◇◇◇

わたしには、安井氏の主張は、モヤモヤとして
あまり説得力があるようにみえません。

要点だけを抜き出すと、
憶測の上に憶測が重ねられている様が
よりはっきりするように思います。

混乱の原因をただ十二門論に負わせているだけのように見えるのです。

つまり

どうして、注釈家の意見が異なっていてはいけないのでしょうか?
二つの解釈が成り立っていて、両方ともにおかしくなければ、
それでよいのだ、
と、なぜならないのでしょう?

それより、何より、もっと大きな疑問があります。


わたしの疑問は以下のとおりです。

「観性門」の偈頌と同じとされる『中論』13-3それ自体は、
どのように解釈されるべきなのでしょうか?

もし、【青目・安慧】と【月称・仏護ら】との二つの解釈を許すのであれば、
『中論』13-3には何が説かれているのでしょうか?

それから、
『十二門論』「観性門」には、何がどのように説かれているのでしょうか?


こうなってくると、もっとはっきりさせたいものが出てきますよね。


そもそも、『中論』には何が説かれているのでしょう。
そもそも、『十二門論』には何が説かれているのでしょう。

この問題に答えずに、なぜ、著者問題だけが浮上するのでしょう???

       ◇◇◇

何だか、「龍樹」 という名前に、踊らされているのでは、
という気がしてきます。

説かれたものが、一貫した内容であれば、

『中論』から『十二門論』にも行くでしょう。

『十二門論』から『中論』への理解もあるでしょう。


「空性」というのが、自性を欠いているのだ、ということであれば、
ブッダや龍樹は、その自性を欠いたものを、

いったいぜんたい

どうやって、この世に示そうとしたのでしょうか?


キーワードは、二つ

★★ 自性を欠いている( ニフスヴァバーヴァ )  ★★

☆☆ 無自性( アスヴァバーヴァ ) ☆☆


これらのことばは、どう違う? どう同じ?


さあさあ、謎は深まるばかりですね。
おもしろくなってきました。。


      ◇◇◇


あと、
『十二門論』での問題点は、

1) 鳩摩羅什の訳であること
2) 論法の用語がたまにちらっと出てくること 

です。

いろんなことが見え始めてきました。

あと、
日記のタイトルにあるように

3)『廻諍論』が、この「観性門」にも関わってくる

ような気がします。


それと、ちらっと見たところ
安慧の注釈は、もっとよく精査する必要があるような気がするな。

青目と同じ視点なのか、ちゃんと調べなくちゃ
何とも言えないような気がしてきます。

安井氏は、月称、「無畏註」、清弁、仏護の解釈は、
あげているのに、
安慧はあげていません。


        ◇◇◇


龍樹だからこそ、
権威によらず
内容によって
理解すべきだ、という気がしてなりません。


何とか、夏休み中に、論文にまとめて、
サイトにアップしたいです。

都会で見つけたバッタ
Dsc02306s

ビルの階段のふち
Dsc02309s
夏の思い出 

『十二門論』を、精査して、夏休みの宿題を仕上げよう、っと。
がんばるぞ!  


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