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2017/02/26

空(から)の手で故郷に還る お話

Dsc02185s
★のある木です。

★ 昨日、「コーカーリヤ経」(『スッタニパータ』)を、
朝日カルチャーセンターで読みました。

★ それより前に、カンニング騒ぎのあった試験の採点を、
やり終えました。

★ 看護学校で、善悪と因果について勉強しました。


最近の出来事三つ、それぞれ別々ですが、
みな、一つのことにつながっていくように、わたしには見えます。

Dsc02177s

この空模様のように、全部入っているのに、
一つの空(そら)であるようなものかな。


★の三つに共通なのは、なんだろな?

      煩悩 かな

★1)コーカーリヤは、お釈迦さまに、
サーリプッタ尊者とモッガラーナ尊者の悪口を訴えて、
戒められても、意見を変えませんでした。

悪い心のまま、吹き出物ができて、亡くなり、
その後、紅蓮地獄に行きました。。うっ!


★2)試験の採点に不服な人が、
照会制度を通じて、不満を述べてきました。
丁寧に、ダメなところを教えてあげました。

。。で、丁寧に書いてあげたら、
答案全部の内容におよんでしまいました。。あちゃ~


★3) 「水滴がしたたるように、
善の結果も悪の結果も、積もっていきますか?」
と聞くと、
ほとんどの人は「そう思う」といいます。

頭ではそうだと思うけど、だけど、
ついつい。。わすれて。。しまう。。ふう!


 ★の三つに、等しいのは、

わかっちゃいるけど、止められない

 ということでしょうか。

なるほどぉ!!これかぁ、煩悩って。

        ◇◇◇ 


「止めなくちゃ」とわかっているのに、
止められない、止まらない


こういうのを、仏教では 「顛倒(てんどう)」
というんだね。

「矛盾」ということだよね。

自分の中で、矛盾してしまうので、
辛くなる、苦しくなる、いたたまれなくなる

ああ、、
語ることばは、逆になる

「止めたいと思います」と語っているのに、
心の中では、止められないと知っている。

たとえば、

サーリプッタとモッガラーナは、悪い欲にとらわれています
と、コーカーリヤは中傷して述べていたけど、
かれは、二人がそうでないことを
本当は、知っていた、ということだよね。

また、

「自業自得」って、ことばも知っているけど、
どうせ自分にはこないと、どこかで思ってる。
他人の行動を非難するとき、使うことばだもん、
って、軽く、思ってる。


なんで、こうなる、こうなるの?
すぐに、自分を棚にあげちゃう 悪い癖。


       ◇◇◇


なんて、意志が弱いの、ダメな子なの。

豆腐の角に頭ぶつけて死んじゃいたい。。

あ、この言い方、そもそも顛倒。
豆腐の角じゃ、死なないもんね。
わかってるから、言えるのよ。

死なないように、死に方考える。。うぅ、自己嫌悪


おしゃかさまあ、こんなおシャカなわたしを、

なんとかして~~~~

       ◇◇◇


よろしい、よろしい、

豆腐は、味噌汁に入れなさい
そして
死は、乗り越えて行きなさい

え、じゃ、角は?

角は、曲がりなさい

曲がれば、顛倒が、ひっくり返って
元に戻るから。

「死」には、ひっくり返して、「不死」がくる

死と不死は、同時に起こらない
同時に起これば、「矛盾」です

不死を求めるといいんだよ。。

え?不死? 不死って?

死なないの? それもイヤ、
死にたくないけど、死なないのも、やだ、やだ。
みんな死んでるのに、自分だけ死なないなんて、やだぁ


これこれ、なんて、わがまま なんだ!

しょうがないヤツだ、
それじゃ、これしか残ってない。。ごそごそ


これをあげるから、これを持って帰りなさい

空(から)の手だ。

空の手?? なにそれ? 孫の手じゃないの?


ちゃう!!(びしっ!)
死も持って帰らず、不死も持って帰らないんじゃ
空の手になっちゃうだろ。

空の手  って?

手の中には、何もない、空っぽ
ってことでもあるし、
空(そら)のような手で、無限に広がる
ってことでもあるし、
無所有(なにももたない)
ってことでもあるし、
自分をよりどころにしなさい
ってことでもあるし
法をよりどころにしなさい
ってことでもある

いつまでも凡夫凡夫してないで、
秘伝の法、空手を
大事にしていきなさい


ええ~っ?!


おしゃかさま、って、ずる~い、
ほんとに悟ってんの?!

秘伝の法、「空手」なんて、
えらそうにいってるけど、

結局、何もないじゃん、
もってけ、って言ったって、
空っぽなんでしょ、どうやって、もってくのよぉ~

アホじゃないの
矛盾してるぅぅ~


ほら、出たね。
おまえは、わたしをアホだという。
「矛盾」だという。

わたしは、空手をちゃんと得ているよ。
おまえとは全然違って、
だ~れにも文句言ってないよ、わたしは。
そうだろ?

人に文句ばかり言う
おまえこそ、「矛盾」を止めなさい。

全部、理屈はわかっただろう、
あとは、わたしのまねっこをして、

死と不死のどちらでもないところを、
めざすとよい


え?まねっこすると、そうなるんですか?


そうだ!
まねっこすると、そうなる
まねっこしないと、そうならない

まねっこしないと、今のままで、

ま のぬけた ねっこ にすぎない
まねっこしていると、やがて、ブッダになる


Dsc02181s
遙かな道だが、ねっこはあるから、
いつか、きっと、なんとかなるんじゃない。。


終わり方が、いまいち、ブッダっぽくないけど
まあ、空だから、いいってことにしておいて。

空手還郷(くうしゅげんきょう) の お話でした。


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コメント


わたしの問題提起は 仏典に基づくものです
「 自らの言葉で 仏法を語る 」 ここに尽きます


誰それが言っているから これそうだ

アホクサイ
誰それ は 誰から聞いたのですか ?


ちなみに 郷 は ゴウ と読みます

( カンキョウ ノ ウタ )

当然ながら 道元は 宋音(唐宋音) にも 通じている ので
そういう読み方をしても 不思議はありません

そういう読み方 が どういう読み方かは
字音に 博識 を 持つ者 が 知ります

漢 から 清 まで 広く通用している読みは 有力です
たとえば 理趣経は  唐の時代の(不空訳)経ですが、
漢音(正音) で  読まれるのが 
“日本においては” 普通ですが 、、、、

多くの経典は 呉音 で 読まれます

唐音が 宋の主流です
( 唐音について知りたければ、湯沢質幸 を 尋ねなさい )
( 「唐音の研究」 序説  を紐解けば 理解が起きるはずです )

郷 は 業 に通じます
業 は ごつごつとして 通りが悪いことに通じます
行 は 真直ぐに通じます

道元が 唐音 を 多く使用したのは 残された資料からも 知ることはできます

しかし、それは 宋代の 新しい 禅宗解釈 の必要性に裏付けされたものです
道元も、その門下の者も 懐奘 も 呉音で 基本となる“仏教”を学んでいます

新しい思想は 新しき皮袋に入れられる

投稿:  春間 則廣  | 2017/02/28 15:22

http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/collections/5/?lang=0&opkey=R148824694321179&idx=5

是の「デジタル画像を見る」にある、「一巻」というのをクリックして、4ページ目に、該当の文章があります。

高精細画像だとけっこう鮮明ですね。

投稿: 管理人エム | 2017/02/28 12:32

>還 は カン でよい 
>どういう 出典による根拠で
> ゲンと読むかを(道元がゲンと読むか) 知らせてください

たしかに『正法眼蔵』と異なり、『永平広録』は、弟子たちの収集したもので、テキストにもいろいろ異同がありますね。

わたしも、実は、あれこれ調べていたのですが、詳しいことはよくわかりません。

『永平広録』として伝わるものは、漢文で書かれています。それをどのように読み下すのかは、読み慣わしてきたものもありそうです。
大きく分けると、『門鶴本』と『卍山本』とあるようですが、この空手還郷も、語録の冒頭にきているのは、『卍山本』と略録で、門鶴本は、1-48に載っています。門鶴本の方が古いようだって、書いてありますね。

電子書籍が見られるので、これで読みましたが、ここは、書き下しているので、「還」を「ゲン」と読むのかどうかはわかりません。

http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/collections/5/?lang=0&opkey=R148824694321179&idx=5
(これ、なかなか貴重でいいですね。『正法眼蔵』も道元直筆のものを、わずかですが見ることができます)

わたしは、『禅入門 2 道元』(鏡島元隆氏)(p.319)の注に、「空手にして郷に還る」を説明して、「くうしゅげんきょう」の読みを得たので、一応これを採用しています。他、ネットなどでも、この読みを紹介していますが、どうして、そう読むのかはわかりません。

また、この、「上堂」ですが、読みが異なっていて、

大谷哲夫『道元「永平広録・上堂」選』(講談社学術文庫)では

只、是、等閑に、天童先師に見えて、当下に眼横鼻直なることを認得して人に𥈞せられず、…

とあり、鏡島本(『道元禅師禅宗 第十巻』p.47)を見ますと、読み下して

ただこれ等閑に先師天童に見ゆるのみなり。然れども天童に謾かれず、天童還って山僧に謾かる。…

となっています。

どちらによっても、解釈することは、それなりに可能と思います。けっこう、謎に思うことも多いのですが、専門に勉強してないので、そのままあるがままに受け取っています。

道元禅師自身の手が入っているもの、という扱いではないので、伝承によりいろいろなのかもしれません。


ふうむ、「カン」でいいのですか。どうして、「ゲン」と読んだのかな?

投稿: 管理人エム | 2017/02/28 12:04

支那声音字彙では 41p 113 に ヒュアン とあります
ヒュイ は 115 で 誤記です

漢字語源辞典では166-46 619p で
166-19 に 元 があります

投稿:  春間 則廣  | 2017/02/27 23:51

確かに 禅学大辞典( 上 242p ) には
くうしゅげんきょう  とありますが

還 は 現音 でも ヒュイ であり 
漢 唐 でも ヒュイ です

還 は カン でよい ( 類音の 元 も ヒュイ と読む )

完全の “元” は カン で読む

どういう 出典による根拠で
 ゲンと読むかを(道元がゲンと読むか) 知らせてください

投稿:  春間 則廣  | 2017/02/27 23:37

★3) 「水滴がしたたるように、
善の結果も悪の結果も、積もっていきますか?」
と聞くと、
ほとんどの人は「そう思う」といいます。

悪は積もります
積んではいないと思っても、ちゃんと積まれています

善は積もりません
積むことができても、積もらないモノです

理由によって 善悪が決まるわけではありません
理由なしで悪いことが 悪です
理由があってよいことであれば、それも悪です

理由があって、悪いことなら
理由が 変えられれば(人の商量が変われば)悪いことではなくなることもあります

善いことは 悪ではない というだけのことです
悪くないだけでは 善いことである理由 が ありません
といって
善いこと(である理由)は存在しないということではありません
悪いことを 悪くないことに することを 善いこと といいます

(これは 人=凡夫 の起こす 善悪にも当てはまります)

善悪 の 内容  は 人が 決めます
( 仏 は  決めない = 内容によって判断しない  ということです )

>  「止めなくちゃ」とわかっているのに、
止められない、止まらない

こういうのを、仏教では 「顛倒(てんどう)」
というんだね。  <

わかっていると 思っている(知っているとする)こと
その構造(おもい)が 顛倒です
わかっていないから、やめ(る理由が)ないのです
理由が分かるとき、やめるということが起きています
( その時 即時に  やめられています )

やめることが 積まれていると思いますか ?


ゲンキョウ アクシュ  の お話でした

投稿:  春間 則廣  | 2017/02/26 20:15

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