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2016/10/20

ああ!

一ヶ月に一回しか、更新できないこの無念。
ようやく写真も撮って、更新だ。

ああ、もう秋ですね。
Dsc02143s
三色そろって、きれいだな。

我が家では、いろいろあって、いろいろです。
母が入院してまして、今度、退院します。
わたしも、浄泉寺の法話会でお話しして、とっくに帰ってきました。
猫だけ元気で、人を見るとエサをねだる癖がついてしまいました。

あんまり、いろいろ、やるべきことがあるものだから、
いつも、
何か、忘れているんじゃないだろうか、と、
強迫観念がつきまとっています。

だから、

いつも、この世で一番何が大事か、ってことを、

考えてます。

いっちばん大事なことだけ、忘れまい!


この世で一番大事なことは、

     生死

である。


親鸞の語ったことばでいうなら

「生死出づべき道」

ブッダのことばなら

「みずから死ぬ存在であるけれども、
死ぬ存在の中に危難のあるのを知って、
死ぬことのない、
無上の安らぎである涅槃を求めてみたならばどうだろう」
(「聖求経」)

っていうことに、関わること。


しかし、他の立派な人たちは、
さっさと「生死を出る」ということを
考えているのに、

わたしの場合、
「大事なのは生死である」
と気づいただけか。。。

うーん

「生死を出る」という考えにたどり着くまで

まだまだかかりそうだな。

Dsc02144s

道は遠いなぁ

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コメント

“わが” “家”  にも

> いろいろあって、いろいろです。

いろいろな思いが 一つの表現で 言語化されます
一つの “思い” が 「分別」 されて 
色となり 彩りを 見せます

分別せずとも 色はある  と 分別する

誰にでもあること を 自分にあること と 分別する
「 生きるということは 苦である 」
苦にしない ということを 「苦」 に することがない者は
カク 者  と呼ばれ、 心的“欠”陥がある

それがない 者  は   ない と言う  者
( 言った言葉をどう聞くかは    聞く  者 )

>母が入院してまして、今度、退院します。
>わたしも、浄泉寺の法話会でお話しして、とっくに帰ってきました。
>猫だけ元気で、人を見るとエサをねだる癖がついてしまいました。
>あんまり、いろいろ、やるべきことがあるものだから、

誰でも やるべきことが ヤリキレナク ある
やりきれない気持ちも  ある
有っても知らなければ  ない  という

心配事も 心肺機能に付随して それがない 者  はいない
新生児に ない と 心配しない者はいる
見たくなければ 見ても分からず
分からないということも 分かる機縁にない

>いつも、
>何か、忘れているんじゃないだろうか、と、
>強迫観念がつきまとっています。

強迫観念  という言葉は 精神学 用語  です

耳鳴りと同じ
ない人はいない
気にすると 気になる
気にしない時でも 存在がないわけではなく
気にし方に 存在の差異を見出す

他人ごとのごとく 言っているように 思うのは
聞く者の 聞き方

いつも 自分との対話にあると知る者は
心に いつも 気を 配る

投稿:  春間 則廣  | 2016/10/22 08:11

> 三色そろって、きれいだな。

三色  が そろって ある わけではなく
そろわせる 認識の 道 があります

( そこを問題にしない人は 以下を読まないほうがいいかもしれません )

色 には 何の違いもないと 波長の認識域に 
違いを見出します
長い・短い は 縁起である
釈迦牟尼 に そう 教えられています
色の境界はないけれど、
精神科医が 正常と 病者 とを 決めることは妨げられません

異常を 異常と知るとき 病が それを持つ身に出現します
(それまでは 病ではないのです)
精神病の異常に限ります
自ら 異常であるとして 医師を訪ねます
異常である    との 診断を受けつけます

異常であるかもしれない という 疑惑は 正常でなければ起きません
異常ではないと いうことを 異常で知ることはできません

どこに 正常が起きるのか ?
( 正常であるという思い = 正・異 を 考えることもない )
そこには 正常と異常とが 起きています
起きていても問題ないのは 正常です
問題ないとする 異常(性)は 問題にされません
問題ないのは 問題とされない 異常性 です

三本の 樹木を見て 「 きれいだな 」 と 言ったと 認識を起こします
起こしように沿って、言葉の意味を 限定し、
認識の領域を 限定します

三本の木には 電柱があり 電線があり 原発があり
高級とされる乗用車もあります(ベンツかアリストかは弁別不明です)

青く澄んだ と 名称を与えられる 空もあります

その駐屯地は
人殺しの為に 設置されていると 読み取る人もいます
働き様を変えれば 軍隊ではない と する人もいます

殺されたり 侵略されるから 自らを守るために 行為を先に起こす
自際に殺すのは 後からです   と  後付けをする


そういう構造を 支える 日常があり
後付けの理屈もある

同じような行為をしていれば
同じようとする認識の仕方が 常に 正しいですか ?

この世は この世の思考は
すべて 正しい存在 によって 構成されている
便宜的に 世においては  実在
     思考においては 言語(による実在)
    ( 単語は実在を示しますが、
     どういう実在を示すかは 読み取る者の顛倒にかかっている )

順序さえも 一定の 意識構成上の 構造に沿って
顛倒を生みやすくするように 指し示し方によって 構成される

正しいモノを 組み合わせて 構成すると 正しいモノができている
(  これは 正しい  )
正しいモノを 組み合わせて 構成すると 正しいモノができている  と できていることを 限定する
正しいモノを 組み合わせて 構成すると 正しいモノができている
けれど 正しさは 限定された 世間にしか通用しない
そうであっても
正しいモノを 組み合わせて 構成すると 正しいモノができている

これが 「 はなはきけんにおふる 」 ということの意味です

華 とは 法華経 です
キケン とは 何かを規定することは 危険 ですが
仏法は 「 仏道もとより豊検より跳出せる 」 
規定というモノは ここまで というところに起きる
ここからここまで を 豊検 によって 規定する
( 人の生にあって実り多きことと 実らせるべきことではないこと )
( その量ハカリ事 両方によって 規定される豊検 が 規定そのものです )

きれい  と 言うこと  を  否定しません
きれい の  構成概念を 再度 問います

ガンバッテ 問いに答えなさい
(  こういうと 頑張り は 消えます 、、、、  )

( 表現の不思議に触れられるかな 、、、、  )

投稿:  春間 則廣  | 2016/10/21 08:22

>  親鸞の語ったことばでいうなら
  「生死出づべき道」
  ブッダのことばなら
  「みずから死ぬ存在であるけれども、
  死ぬ存在の中に危難のあるのを知って、
  死ぬことのない、
  無上の安らぎである涅槃を求めてみたならばどうだろう」
  (「聖求経」)
  っていうことに、関わること。    <

誰が言っても  あなたが繰り返す

> しかし、他の立派な人たちは、

ま 立派と 立派でないとは 
生死 にあること は あるけれど 、、、、

> さっさと「生死を出る」ということを   考えている

考えるところは 「生」 のあるところ
出る ところは 足がかりがあるところが
ない限り 行くことはできない

さっさ と もたもた
それは あなたの 「商量」

「 さっさとやりなさい 」 って 言われたことが あるな !

「 何やってんの ! 」 って 聞くかな(聞いたのかな) ?
言う人に順序があって、言う人の 能力がある そういう構造で
言われる人に 順序も 能力もないことになる
けれど
努力・頑張り  で(によって) ないモノでも 獲得できる
( 中論頌 には そう 説かれていますか ? )
わたしは
 ないモノ を 得ることはできない
と 教えられています

人のやり方を認めて その後  自分のやり方の根拠が起きる
「イウコトを聞きなさい」  とは 順序が違うこと が(も) ある

ただし
真理 を 真理とするときには 順序という概念は起きない
違うということは 平等という意味でしかない
後先は 永遠に於いて 平等に並ぶ

後ですればよい
いましてもよい
しなくてもよい

してもよいから そうする(しなくてもよいからしない)

そういうことを受け入れると あなたの守りたい 秩序が 壊れる

壊れてはいけない あなたの 決めた 「 ホウ ・ ホウ 」
 が ホウボウ に ある

投稿:  春間 則廣  | 2016/10/20 11:38

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