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2016/07/28

『スッタニパータ』と龍樹とわたし

しばらく写真もとっていないので、
なかなか、ブログの更新ができません。

なので、ふたたび、
『『スッタニパータ』と大乗への道』の写真をあげて、
これを、話題にしてみます。
Photo_2

この本を読んでくれた人で、

確かに「大乗仏教」の思想が、ブッダの口から語られている
と、見てくれた人もいるようです。

が、

ぜんぜん、そう見えない人もいるようです。


ぶっきょうだなあ~~


って、すごく思いますよね。

このちがいだ。

見える人には見えるが
見えない人には見えない

これが、ぶっきょうのぶっきょうたるゆえんです。

経典は、人を煙に巻くような
煩悩のある人をまどわすようなところがあります。

でも!

これは、本当は言い方がおかしいのですが。。
 「煩悩のある人をまどわす」 ように見えるのは、
経典には、徹底的に無我や空の法が行き渡っているからなのです。

だから!

自分の煩悩に自分がまどわされてしまうのです。
経典は、無我で空の実践結果だから、
勝手に、みんなが思い思いに読んで
思い思いに煩悩を発露するのです。

おもしろいなあ。
不思議だわ。

note 私が両手をひろげても、
  お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のように、
  地面を速く走れない。 note


      ◇◇◇


わたしは、
龍樹が、ブッダに出会って
何を見てきたのか
すごくよくわかる
ような気がするのです。

龍樹は、般若経典から学んで
空を説いた
という人がいるけれど、
本当は、そうではないことを
わたしは、知っています。

龍樹は、ブッダの直説から
学んだ 直弟子なのです。

般若経典は、龍樹のお兄さんみたいなもんだ。

龍樹は、
般若経典からも
浄土経典からも
法華経からも
学んでいます。

でも、龍樹は、
生まれた場所は
「如来の家」で、
住んでるところは
『スッタニパータ』 なのです。

『スッタニパータ』「八偈品」は、
四句分別が基調にあって、
そこに
「一切」が、あるのです。

ここをしっかりつかんで、
龍樹は、「如来の家」で育ったのです。


だから、龍樹は、大乗のお兄さんたち(大乗経典)と一緒に
歩んでいるのです。

note 私が体をゆすっても、
  きれいな音はでないけど、
  あの鳴る鈴は私のように、
  たくさんな唄は知らないよ。 note 
                      

夏休みは、『スッタニパータ』の第五章に挑んでみよう。
他にも、宿題いっぱいあるけど、ね。

notes  鈴と、小鳥と、それから私、
  みんなちがって、みんないい。 notes
(金子みすゞ 「わたしと小鳥と鈴と」)
                     
ブッダと、龍樹と、凡夫のわたし

みんなちがって。。。みんな。。。よかったっけ な?

Dsc02056s
だいぶ前に撮った写真で、がまん。

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コメント

「 戒 」


そういう心の状況を作ってはいけない
そういう状況を フィクス FIX するということです

してはしけないこと を しないのではなく
しなければならなくなった、
心の状況を 起こさないように 整える
それが シーラ です
( シーラ は 「縁起」 と 深くかかわっています )

禁止事項であれば、
無限にそれは起きてくる 、、、、

盗んでは いけない(悪い) という戒があったとすれば
盗まなければ よい(悪くはない)  という行いが起きてくる 余地が あります
世には “いたちごっこ” という 語もあります

何故、盗もうとする心が起きてくるのか
その起きる(心の)状況に対しての “カイ” です

もっと穿てば、
盗む という ことは、 所有にかかわります
所有とは 「 有見 」 です
我があり、我がものがあり、他を受け入れないところがあるときに
我の所有 が あります

我がなく、我がものという思いがなければ、盗むという概念は起きません

すべてが我がものである時に、
他に起きる「我」 も すべてを 我がものとします
我( 仏 ) 以外が 仏子 であれば、
どの我 も 嫡子 です

等しく親の恩を受けて、親のものを受けることが適います

仏恩に外れる 仏子 は 存在せず
仏子 の 子は 仏子
仏子の親 は 仏 であり

仏 だけは 「 我 」 と いうことが許されています

( 許されているからと言って、 むやみに使うのは 許されているかな ? )


投稿:   春間 則廣  | 2016/08/28 21:39

エム先生

残暑お見舞い申し上げます。

なかなか読書が進まない今日この頃です。方針としましては、戒がすなわち禅定であり智慧であるという立場、それがすなわち般若波羅蜜に他ならない、という風に考えています。誓願というのは、たぶんそのような意味を指しているのではないか、と勝手に想像している今日この頃です。


投稿: えび天サンバ | 2016/08/28 17:41

> 「常行」「不断」って、よく考えるとわからないですね。

親鸞は 法華経(仏教)の修行僧で
常行堂 の 堂僧 でした

“念”仏 による法華経の修行です

修行は 不断 であり
人生も 不断 です
おなじ不断に 普段から ある から 両者に差異がない

ただし、“差異” を 置くのは
 差異を認めるもの の おき様

>常行や不断は、やがて終わることがわかっているから、そう言うのでしょうか。

わかるということが やがて終わる
疑問は 終わるところを知らぬところに起きる

“  そうではないでしょうか ?  ”

知ってて 聞いている と 知らないはずです 、、、、

オモハズ 外す はずじゃなかった 、、、、


投稿:   春間 則廣  | 2016/08/23 09:04

えび天サンバさま

ご無沙汰してます。

ようやくここを覗いています。
『ブッダの優しい論理学』を少し改訂していました。
が、何とか終わらせてしまいました。


「常行」「不断」って、よく考えるとわからないですね。

今度の本に「三世」という項目を入れました。
過去・未来・現在の三世です。三世にわたっているものは、「常行」とか「不断」とはいわれないですね。

常行や不断は、やがて終わることがわかっているから、そう言うのでしょうか。
「行(意志)」とかかわるから、そう言われるのかな。

心は、不思議ですよね。意識されなくても、そういう風にいったん思うとそうし続けるところがありますね。
時々忘れても、気づいたらそうしていたりします。でも、それでは、「常行」とはいわないですよね。
意識されるわけでもなく、されないわけでもない、という中道なのかな。。つらつら

どうでしょう think

投稿: 管理人エム | 2016/08/23 07:02

エム先生、お疲れ様です。

最近、魚川裕司という人の本を読みました。で、また先生の新著に向かっているところです。常行三昧という時の「常行」ですとか、不断阿字観という時の「不断」ですとかの意味がとても気になります。八宗の祖龍樹、龍猛大菩薩に会いたいです。(´▽`)

投稿: えび天サンバ | 2016/08/12 15:20

世間に起きるときは、無明に起きる
勝儀でさえ、無明 に捉え込まれ、自我の囲いで育てられる

> ( 両方ありということはありえません )
> ( すでに 両方あり が 片方です  )

*************

あなたはそうかもしれないけれど、
わたしはどちらも肯定する(認める)
どっちもある

どっちもあるという  わたし(だけ)を 認めなさい

*************

という“ところ”に 偏(見)が 起きる

認められる必要がなければ、
提示する必要がない

わたしは、 “ わたし ” の 見解を 問う
ブッダに見解がなくても、
それを 世間に表わすところに 見解が起きる


>>それで良ければ
>>何でもよいということになるということに気が付きますか ?

>気がつきます
>なんでもいいんだ~~

何でもよく はない  ということに対しての
 縁起が >なんでもいいんだ~~ です

何でもいいのなら、ヨクハナク ケッシテイカラズ  を とりなさい

うまいと感じる上等なものを食べようと、まずい、低級なものを食べようと
同じ 食 なら 低級なものを食べなさい

わたしは、衛藤即応 から そう教えを受けています

たった一つが成り立たなければ、
何でもよいが成り立たない

たった一つを 法幢 と 建てる ( 空海 と 共建法幢 )
それが
法仏恩得  です

>宮澤賢治にも、光と影があって、諸法実相を示しているのだな、って思います。

宮沢賢治 を 持ち出しても
宮沢賢治 が 法華経の言葉で語らなければ
賢治が語っても、
“ わたし ” が語っていなければ 誰も語ってはいない

光と影があると顛倒する
光だけがあり、
光の 薄いところが(妨げられるところに) 覆い隠そうとする障がある
 

思うのは 思想信教の自由です
ただし、それは無明に起きている

( 10インチの古いノートで作っています  悪文勘弁 )


PS: HomeP。 の アドレスにメールしています


投稿:  春間 則廣  | 2016/07/31 10:05

>それで良ければ
>何でもよいということになるということに気が付きますか ?

気がつきます。

何でもいいんだぁ~~

って、思って、それから、それなら、ブッダに行くわ、

って、思う わたし

金子みすゞは、どうしてなのかわからないけど、仏教保育という科目で執りあげられたりするので、べんきょしてます。

わずか26歳で生涯を閉じたみすゞ
詩はきれいで優しく美しいのに、死がいつも影をひいている

光と影がある
宮澤賢治にも、光と影があって、諸法実相を示しているのだな、って思います。

投稿: 管理人エム | 2016/07/31 08:25

PLさま うにうにさま 春間さま

おはようございます。

ほんとは、第4章と第5章を訳して出そうと思っていたのですが、第4章だけでへろへろになりました。

パスーラ、マーガンディヤあたりは、最高にむずかしく、むずかしさの極致に至っていると思います。

でも、あんまりむずかしいので、むずかしいことすらわかんないや、ってくらいで、見過ごされてきたのかもしれませんね。

わたし自身、お釈迦さんの直説を得たという確信と実感があり、この本を、すごくありがたく思っています。

投稿: 管理人エム | 2016/07/31 05:15

大乗の何たるかは、まだ私には明らかでないのですが、「『スッタニパータ』と大乗への道」は毎日どこか開きたくなる本になっています。
決っして甘い教えでなく、自分はパスーラと同じだなとか、マーガンディアみたいだと感じて「地獄」を味わうばかりではあるのですがcoldsweats02なのに、ここに戻る以外にないと思えるのは、僕にとっては、ゴーダマさん(と言うのをお許しください)と、その後のたくさんの方々がそこをよりどころにされたこと、かなと思います。僕にとっては、とりあえず、そのことが頼りだと今ま思いこんでます。そこが浄土のようなあこがれだと。
第5章の訳もたいへん楽しみですhappy01
春間さんのコメントも、私は、味わいがあってありがたいです。ライブなサンガの香りだろうか、などと勝手に喜んでます。

投稿: うにうに | 2016/07/29 17:54

「 否定してはいない

  人それぞれ  
  わたしには、わたしの正しさがある 」


そう言う時、(そのわたしの)正しさは、いかに担保されるかな ?


相手の言い分を認めるなら、自分の言い分がそうなる

自分の言い分を(正しいと)認める時
相手が違えば、否定される

正しいか正しくないかが分からなければ
正しいとされることに従うしかない

従わなければ、
(理由はいかようにもつけられるけれど)
否定されている

自分が正しければ、
それと相違する 相手は 正しくない
相手が正しくないとする根拠は
自分の保持する “正当性” 、、、、
     それはどこに洲を持つかな ?

Su.796・824
「ここにのみ清らかさがある」と言い張って、他の諸々の教えが清らかでないと説く。「自分が依拠しているもののみを善である」と説きながら、それぞれ別々の真理に固執している。
「世間では、人は諸々の見解のうちで勝れているとみなす見解を「最上のも」のであると考えて、それよりも他の見解はすべて「つまらないものである」と説く。それ故にかれは諸々の論争を超えることがない。」


投稿:  春間 則廣  | 2016/07/29 09:53

金子みすゞ 「わたしと小鳥と鈴と」

飛べる小鳥は私のように、
   地面を速く走れない。

鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。 


部分的に取り出して
文学にケチをつけるつもりではありません

取り上げ方を
文学として表現しているのなら、文句はありません

ワタシハコウ ヨ なら
ワタシハドウ ヨ です
( 両方ありということはありえません )
( すでに 両方あり が 片方です  )


あなたはそうかもしれないけれど、
わたしはこうよ
どっちもあるから、わたしを認めなさい


という“ところ”に 偏(見)が 起きる


コレしかない ということを 書きなさい

(過去に綴って、今ここに)書くことしかないということが
ソレしかない ということになります


> みんなちがって、みんないい。 

それで良ければ
何でもよいということになるということに気が付きますか ?

だれでも、これでよい  という “ところ”で 生きているのです

自らの内に有らしめるだけなら、
あってもなくても 問題は起きません
社会に出すと  世間が起きます
世間が起きるところに 虚偽が起きます
虚偽が起きるところに、
虚 を 起こす 書き込みがあり
日記があります
社会に出すことによって、社会的責任を負うのです
( 「負ってる」  って
    自負 という字で表されますが 意味は違います )

ナンデモアリならコレもあり

コレだけあるのを許すのなら
何故コレが許されない ?

コレ と ソレ とは違うけれど
同じ コレ で 表わします

ここは ブッダの僧伽です

「ここは僧伽ではない」 というとき
サンガ  って 何ですか ?

ありもしないモノを否定していることにはなりませんか ?

書きゃいいってもんじゃないから
書きゃいいってもんじゃないように カク

書く覚 シカジカ


投稿:  春間 則廣  | 2016/07/29 09:38

> 見える人には見えるが
> 見えない人には見えない

見えるものを見える といい
見えないものを見えない という

仏教に関わらずとも
人の言葉の約束事です

>これが、ぶっきょうのぶっきょうたるゆえんです。

仏教は
見えないと いう(認識にある)人にも、
見えているという前提で、語られます
見えているから、見えるということが認識に起きる

> 飛べる小鳥は私のように、
   地面を速く走れない。

速く走る小鳥も  います  !

遅くしか走れない ““わたし”” がいても 不思議ではない

> わたしは、龍樹が、ブッダに出会って  何を見てきたのか

どういうふうに(今)出会って “いる”=継続  のか
何を見ているのか

龍樹に出会うと、ブッダにも出会う

> すごくよくわかる  ような気がするのです。

気のせいです
気がするだけです
やっぱりそうだ
と 
見て、出会って、知らなければ
気が晴れることはありません(常に不安に苛まされる)

不安じゃない  と 言ってごらん !

言った途端に 不安になるから 、、、、

> ブッダと、龍樹と、凡夫のわたし

凡夫とわかる 確立した根拠を持つものが ブッダと呼ばれる
たとえそれが 自分であっても
自分で、 自分は ブッダ である とは言わない 約束です
( 言っても。言われたことを知る根拠にかけるモノに
       対面するしかないからです       )

> みんなちがって。。。みんな。。。よかったっけ な?

ワタシハ ブッダカラ
みんな 「平等」 で 違わない=変わるところがない と 聞いています


投稿:  春間 則廣  | 2016/07/28 13:29

う~ん…(^-^)

ありがたや~(-人-)合掌

投稿: PL | 2016/07/28 09:51

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