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2016/06/19

「信」について

「信をもつものであるからこそ法を受容し、
智慧があるからこそありのままに知ります。
両者の中では、智慧は主要ですが、
一方、それに先行していくのが、信なのであります」
(『宝行王正論』1.5)

法における安楽 と 至福(解脱)

この二つが求めるもので
そこに至る手段が

この
 と 智慧 なのだ 
と、龍樹は述べています。


『大智度論』の中にある

仏法の大海には、信から入って、智慧に至る
(佛法大海信爲能入。智爲能度)

という個所とよく符合しますね。


★「信」 というのは、 「聞こうと思う心」 ということだ。★

「聞こうと思う心」はたとえば、こんな風。
Dsc02037s
どこに行くかわからないけど、行ってみよう

って、思わなければ、誰も、こんな道を行くことはない。

そこから

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こんなに大きな道になってきた

ということもあるだろう

しかし

あれ
Dsc02039s
これって、道なの?

って、ことにもなるかも。。

どっちにしても、聞くことは大事なことです。
Dsc02061s
昔の人が行ったお城への古道に出会うかもしれない。

ブッダの道。


       ◇◇◇


仏教が、むずかしいのは、
「信」を起こすことが、むずかしいからだろうね。

合理的な解釈だから、科学のようですばらしい。
だから、わたしは、聞く。。でも、なに?
りんね?
ジャータカ?

これは、ちょっと信じられないな。
こんなこと、お釈迦さんが説くはずないでしょ、

えい、この個所は、おシャカにしちゃえ

って、ことになってしまうと、どうなるんだろう。

「半分だけ信」ってのは、半信半疑ということだよね。


わからなくても、「聞いておく」 というのが、
「とりあえずの信」 ということかもしれないね。


わからない部分は、ずっと心にとどめて置くのも

「信」のあり方かな

と思っている。

Dsc02064s
そのうち、こんなに花咲くことも、あるかもしれないから。


       ◇◇◇


騙されるのがイヤだって、みんな言うけど

騙されてもいいよ、って言った人は、親鸞だ。


このくらい「信」に信をおくと、
道は、イヤでも開いてくるんだかも。

開く鍵は、魔法のことば 
南無阿弥陀仏


「信」から、入るのが仏教です。


半信半疑から入るのも、仏教です。
自信もって入るのも、仏教です。
不信から入っても、仏教だな。。。

|

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コメント

>信とは、信じると言うこと。みんな難しく考えすぎ。

よくよく考えると、

ほんとは、一番難しいのかもしれない、っていう気もします。

でも、信じることのできる人は、それだけで救われています。また、救っています。

信じてみよう、このサハー世界

投稿: 管理人エム | 2017/02/12 17:33

信とは、信じると言うこと。みんな難しく考えすぎ。ただただ信じる心を持つということ。例えば信じる心があれば信仰心があるだろうし、信じる心があれば釈迦の言うことを信じることができるから一心に釈迦の言うことを信じることができる。信じるとはその人の、道だから。信じると言う道。心に信じると言う気持ちを灯していければどんな困難が起ころうとも信じて前へ、信じて自分の道を進んでいける。そういう志を心に灯し続ける。悟りへの道は厳しいでしょ。だから、信じる心があれば何事にも勝らないものになると言ってるの。

投稿: ruo | 2017/02/06 16:04

おっじゃまー

過去でもなく未来でもなく
今を生きよというのであれば、
輪廻がどうとかあんまり関係ないような

さらに、他人のジャータカなんか

一向宗とか日蓮宗は、
一神教のセクトみたいで面白いです。
結局、無限に分裂していきますよね。
何かの物理法則のようで面白い。

投稿: 莓矢毒蛙 | 2016/06/25 20:03

エム先生、

 ですよね。サンスクリット語でもですか、それは意外です。

 西洋では今、非文献学系の方で優れた方が輩出してきてるように思います。

投稿: o | 2016/06/23 06:33

oさま

>信からしか入れませんよね。

この、「聞いてみよう」という心が起きるかどうかが、無明を破る第一歩ですよね。

あとから考えると、必ずこの「信」という瞬間が、「ああ、あのときだ」と思い出されてきます。

わたしも、「まさか」と思いました。龍樹が正しいなんて、そんなはずはない、とは思ったけど、「でも、そうは言っても、ちゃんと聞くだけ聞いてみなくちゃな。もしかして、正しかったりして。。」と、ちらっと思ったのが運の尽き(笑)

ちらっと思ってみるものです。

>流石に日本仏教の伝統が生きていた方々は、素晴らしいものがあるように思いますが、

昔の人の方が、サンスクリット語でも、漢文でも、優れていたのではないかという気がします。また、知識なども、限られていたでしょうけど、今に比べて劣ってはいないですよね。

世界中のいろいろ資料に接することができて、恵まれているのに、現代の方が仏法に近づけないような気がするのはなぜでしょうね。

投稿: 管理人エム | 2016/06/22 23:54

> 信からしか入れませんよね。

そういうことを信じている ことは、
 「 信爲能入 」 ということ とは、ならない

> なぜなら、凡夫は無明に覆われているから。

師は 凡夫であるか否か、 訊ねてごらんなさい
「凡夫ではない」  というなら “凡夫ではないと言われた” に過ぎません

どのような構造で凡夫があるかを まず説き、
凡夫とする無明を説き、凡夫は凡夫にあらずと説き
凡夫ではない、聖者でもない立場で 説くとき、
説くこと自体が、信に基づいている

(その)信に基づく “信” を
 信に値するかどうかを 揀択 することなく 信じる ときに 「信」が起きている

まずは、如来蔵を信じ、道を歩んでみれば
  突き当ろうと 
突き当るということを知ることができる
  あり難さ  ナンマンダブ ナンマンダブ

> 無明は根本的に狂った認識ですから、狂った認識に基いて判断しても迷うばかりになってしまいます。

その “迷うばかり” が すでに、無明によって、定義されている

狂った認識を (正しく狂っていると)正しい認識の基においても、
基に対する、判断が、 迷い=無明=くるい  でしかない

必ず最後において、無明が効いてくる

> よく言われるのが、自分が狂人で師が医者、法が治療法で、医者や治療法を信じなければ狂ったままのように師や法を信じなければ、無明のままという。

無明のまま ということを、甘く見てはいけない
何故 釈迦牟尼が 慙ること  を 要に置くかは
いつであろうと、無明にあることが  「平等」 にあるからです

ブッダ には 無明はないけれど 、、、、

あなたがブッダかどうかを あなたが決めなければ、必ず無明にある
( この文章を “正しく”読めれば、 「 正見 」 が起きている )


こういう形で、真理は 世俗の言葉で表される 、、、、、

( 見なきゃ、あなたは仏陀でしかない )


投稿:  春間 則廣  | 2016/06/22 13:47

エム先生、

 信からしか入れませんよね。なぜなら、凡夫は無明に覆われているから。
 無明は根本的に狂った認識ですから、狂った認識に基いて判断しても迷うばかりになってしまいます。
 よく言われるのが、自分が狂人で師が医者、法が治療法で、医者や治療法を信じなければ狂ったままのように師や法を信じなければ、無明のままという。

 それなのに適当に言葉摘んで無明悟りしてる人がネットに多くて可哀想です。なぜなら、とてつもない悪業と言われるからです。

 科学だとボンサンスみたいな常識が規準になっていて、普遍妥当性を求められますが、仏教ではボンサンスは妄想に他ならず、境地によって認識が異なりますから普遍妥当性などなく、説き方も所化に応じて様々になりますから、

 仏教文献学はマテリアルな資料操作に優れていても、教義については釈尊が仰るように戒みたいなものについては分かるけど、それ以上は厳しいものになってますね。

 流石に日本仏教の伝統が生きていた方々は、素晴らしいものがあるように思いますが、

投稿: o | 2016/06/22 07:17

> 実は原典にあたるほど精通しているわけではありませんが、

原典に当たらなくても、精通できます
原典が、いくら 金言でも
当たる者 に 当てはめる 実践が必要

読みようによって、駄言ともなる

精通すれば、聖者となれますか ?

> 人さまに対して意見を述べられる機会には感謝しております。

そういう意見を 見解という
見解によって、人は 清らかにはならない
Su.839
『教義によって、学問によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、私は説かない。『教義がなくても、学問がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』とも説かない。

「 自浄其意 」 ということを知りなさい

意見を言って満足している 自分に感謝しているだけです
他人がいなければ、言えないだけの 他人でしかない
いうこと自体が 他の為とはなっていない
そういう自我の塊のあなたに、接してくれる他に 感謝しているのではなく
他を引き込んでいられる 自分に “たかぶっている” と 知りなさい

自らが平安にあることによってのみ、他は平安にあることが叶う

>要するに自分は機会を生かしているだけです。

カッテナモンダ


投稿:  春間 則廣  | 2016/06/20 23:02

自分の(初期)大乗仏教に対する理解は、
1.教祖としての釈迦を拝まず
2.解脱ではなく、衆生の救済を目的とすることにした
ことです。
必ずしもすべてに賛同しているわけではありません(解脱の重要性など)し、実は原典にあたるほど精通しているわけではありませんが、人さまに対して意見を述べられる機会には感謝しております。
要するに自分は機会を生かしているだけです。


投稿: ポンジミ | 2016/06/20 20:08

評価できてしまう 自分を
評価することはできますか ?

する必要も認めてはいない

と 
認めます


投稿:  春間 則廣  | 2016/06/20 19:52

自分が親鸞で評価しているところは、阿弥陀仏と言う架空の仏を祈れと言っているところです。
だから、親鸞は「親鸞大聖人」と超人化されることなく慕われているだろうからです。
(初期)大乗仏教を謳っているなら、宗祖の神格化はやっぱり否定すべきだろうと思っております。

投稿: ポンジミ | 2016/06/20 17:59

「シン・芯」 でも それを 身(心・中心)の傍に置く

あらゆる道は、つながって、一つの道を創り出している

東京へ行く道と
京都へ行く道は、同じ行程のときもあり、違う“階梯”にあるときもある
( 飛躍して、意味不明 ? )
東海道は、 上りもくだりも 同じ道
行きと帰りは、同じ道だが 、、、、

意識は 目的を置き、
目的に沿って、道を名称化し
 目的を遂げた “のち” に ある目的を 覆い隠す
( “のち” という、 一人の人生に あまた並列して存在する 行いを、順序に置く )

一つの モクテキ に 繋がる道が、 真理への道とも呼ばれる
( モクテキ  という 黙 において チャクチャク・滴々 と 受け継ぐ 流れを受ける )

道は、上から下へ 垂れてくる  が 下から上へ たどり着くのを拒否しない
西から東へと伝わってきたが、東から西へと 教えを(道にあると)伝える

階梯は 梯子のように、 順を追って、目の前に、求めるところに沿うがごとく
一つづつ 現れるが、
梯子は、一段ずつ登るからと言って、
全段なければ 梯子にはならない

最後の一段を  上る時でも、降りる時でも、
たった一つの“ 欠(今までなかって、今目の前にある)ダン” だと 決する

意を決して、決断を 踏み下げる 、、、、


投稿:  春間 則廣  | 2016/06/20 09:21

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