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2016/05/16

『スッタニパータ』から『中論』へ

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Dsc02003s
紅白で、ご覧ください。

もう、桜も終わりかけていますが、
八重桜の系統は、まだまだ花盛りです。

       ◇◇◇


『『スッタニパータ』と大乗への道』

いろいろなご感想もいただいています。

本は、出版されてしまうと、
勝手に歩き出すので、
もはや、著者の手を離れて、
独立の存在です。

『スッタニパータ』と、大乗仏教を
結びつけているところに
関心をもつ人も多いようで、
そのようなご指摘もいただきます。


そうなのか。。。

って、思っているところです。


『スッタニパータ』第4章

「八偈品」


ここは、わたしの目には、
はっきりと、
龍樹が見えるのです。


まんま、龍樹だな、って感じなのです。


ブッダの意図を、しっかり読み取った龍樹。


ブッダは、相手にあわせた対機説法によって
あらゆる人にわかりやすく教えを説いた

といわれています。

それは、まったくそのとおりだと思うけど、
ブッダに教えがあるなら、
ブッダの意思や意図もあるはずなのです。

主張はしない
見解はもたない
言い争わない

これらを守りながらも
しかし
教え(法)があるなら

何かは、ブッダの中から出てきているものが、
あるはずなのです。

あらゆるものを傷つけず
しかし
苦しみだけを取り除く

そういう方法を開示する
その「理論」みたいなものが
なければおかしい。。。

何かは言っているのだから
何かはなければならない  はず


こういう意識でさぐると
出てくるものは
  論理
ということになるのです。

「理論」をひっくり返して「論理」にしたのね
って、思った人もいるカモしれない

「家出」をひっくり返して「出家」 みたいに


ブッダだから、まあ、そういうことも言えますが、
ブッダの道は、

出したものは 引っ込める
という道なんでしょうね。

理論を出して、論理で回収

こんな感じなのかな。


こうすると、
あらゆる世界の生きものに
迷惑もかけないし
傷つけないし
壊すこともない


そういう枠組みだよね

「八偈品」は、
そういう枠組みを示す経典です

だから、

ブッダの、意思と意図が、

やっぱり
明確にある


ブッダの、意思と意図をつかんで、

独自に開いたのは
龍樹が最初なんでしょう。


『中論』が、はっきりと見えてきましたね。


「見解を捨てる道」 を説いた龍樹

龍樹の考えたことが、
今なら
ようやく見えてきたかな、というところです。

ブッダに行かなくちゃ
龍樹もわからない

っていう、よく考えれば
あたりまえのことに
ようやく気づいて、ここまで来ました。


『中論』を解明するまで
下積みが長かったけど、
下積みから中積み、
中積みから上積みまで

だいぶ来たようです。


積み上げたものを
きれいに
壊す
中の道、『中論』

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コメント

> 何やってんの ?

にゃんにも。。やってないす。 cat

投稿: 管理人エム | 2016/06/10 20:00

> 字が書いてあるのでパチリ。

と 言ったところで

『書経』の「恵迪吉、従逆凶、惟影響」 の影響が イシに張り付いたままでは
重み サエナイ

読んで知って行いに移る時 経(縦糸)が 妙音を奏でる

丸まって 動かざること 岩のごとくあっても
一キロの岩にある たった一つの 原子 の 配列の中に 配列の法則をつかさどる
1bit 以上の 情報が保存されている

ランダムなる存在を ランダムたらし得る法則を知って 眺める時
一個の石に 全宇宙の ビット が 残らず納まっていると知られる

知るということは 行いに表わすということで
行いとは
自己の形成する「世間」を 打ち破る事

行いはいっしょであろうと 認識は いかようにも変わりうる
変わらぬ認識を 明智 とも 妙智 ともいう

変えぬ認識を ガチガチ  という


何やってんの ?



投稿:  春間 則廣  | 2016/06/10 10:29

追伸:論理で八不は透らないと思われます。
故に三去非も論理では不透かも知れません。

論理を使って論理ではないものを説明してる最大限が中論なのですから。
論理で解釈出来るなら、もっと読み易い論書になってた筈でしょう。

有部がやらかした失態の原因もここにあると言えます。

投稿: 路石 | 2016/05/30 05:28

中論は先ず最初、
不生不滅不常不断不一不異不来不去
の八不が何だか分からない状態から読む事になるでしょう。
仏法は自らを問う法であり、自らを解明する法なのですから
上記の八不が具体的に自らの何に言われてるのか。
戯論寂滅を果たせないと一向に分からないと思われます。
戯論寂滅とは一切妄想を手放す事と同義と言えるでしょう。
妄想を手放せない人に八不はいつまで経っても無理難題です。
もし八不が透ったなら、
己去去らず未去去らず去時も去らず
これも容易く透過出来る事でしょう。

人は誰でも、実は思考妄想が全く介入しない法性があります。
その法性が思考妄想に塗れるまでの時間は刹那瞬とか。
「あっ」と言う間に考えてしまってるのが日常でしょう。
その「あっ」の刹那瞬前を何とかして解明するのが仏道と言えるでしょう。
中論の殆どはこの「刹那瞬前」を問題にして論敵と議論している書な訳です。
対論者はその事に全く気付いてないので、ぱっと見は詭弁にも見える人がいると甲斐ないとか。

投稿: 路石 | 2016/05/30 05:05

> > 生業への執着もまったく無いから仕事を

生業 と 仕事  が 同格 になっています 、、、、

仕事への執着がある から 仕事を 転々
生への執着に因って  業( 「行」 )は 起きる

執着 は 無明  です
無明 を アカス(開く) “とき”
           その“場所” に 光(明)を見

覆いを外す     (外す 下と上 が 既に存在する)
智慧 を もたらす    ものと  同席する

そういうのを ( 菩薩 ) 行  って 名付けてみると
名称は どう動いているでしょうか

> カッコいいのか、悪いのか、

括弧 の中に 確固(各個) が入る
入っても 良いのか悪いのか 

> あんまりわからないですねぇ

ヒトゴトを言う時
分からなくなる 自分事
人 は マッチャーナ か 、、、、

五蘊を材とすれば 量に乗る

フト (不図) は 量らない  ということ

過去に完了するのは 現在にあるから

あんまり( ゴウリ ) 違い( 差 )がない

あると見れば 転 まで 昇る 階梯がある
ないと見れば 即 今 にある


投稿:  春間 則廣  | 2016/05/23 07:09

> 生業への執着もまったく無いから仕事を転々とフリーター。。。

そういうのを、“菩薩業”って、名づけてみるのはどうでしょ。

虚空を行く、さすらいのフリーター
その名は、菩薩業 

カッコいいのか、悪いのか、あんまりわからないですねぇ  

投稿: 管理人エム | 2016/05/23 06:20

>おお、お皿が空

空の実践者はお腹が空でいつもクークーなっているのかも。
見解も分別も持たなければ娑婆でも定職につき難く、生業への執着もまったく無いから仕事を転々とフリーター。。。

もっと格好良いイメージはないものじゃろうかのー(トトねえちゃん風に言ってみる)

多分、『格好良い』という言葉は春間様からコメントを頂戴しそう。

投稿: 前世は一在家 | 2016/05/22 17:11

前世は一在家さま

お!慈悲深い「空の実践者」confident が登場ですね。

>私「この料理はうまいね。」

協調する実践者

「一緒に食べれば、いっそうおいしいですね」 delicious

おお、お皿が empty

これがほんとの空の実践。。。すみません


投稿: 管理人エム | 2016/05/21 10:05

ミチ先生sun、こん**は。

>彼に、慈悲があれば、彼には論理も具わっているでしょうけど

慈悲のある空の実践者との想定会話。
私「この料理はうまいね。」
彼「とても美味しいと思います。」
私「憲法改正を君はどう思う。」
彼「貴方はどう思われますか。少し難しい問題ですね。」

見解を言っているようで、相手の心を読んで議論を避けているかも。

投稿: 前世は一在家 | 2016/05/20 21:28

あなたが捉える  わたし

> 空の実践者は、自分で空の実践者だということはないと思います。
> 言ったら、空の実践者じゃなくなってしまいます。<

あなたは “ 空の実践者 ” である
わたしが、自らに具わることを 前提として 言っているから
あなたが “空の実践者” であることは
 空の実践者の言葉 によって 規定される

わたしは空の実践者  である   から
実践者として、 空を語る

言っても、なくなるかどうかは
あなた次第

あなたが 空の実践者ではなくなった  と言えば
わたしの言は 空について述べる事柄の根拠を失う

あなたがなくなる  と言えば、 わたしに空がなくなり
わたしは 自性 に ある

わたしにあなたという 存在の基盤が失われる

ありやなしや ?



投稿:  春間 則廣  | 2016/05/20 09:00

前世は一在家さま

>私「この料理はうまいね。」
> 彼「うまいとも、うまくないとも言えない。まずいとも、まずくないとも言えない。」

「彼」は、ほんとうに空の実践者でしょうか?サンジャヤの徒みたいにも見えます。

彼に、慈悲があれば、彼には論理も具わっているでしょうけど、もし、慈悲なくいうなら、それは、空の実践ではないと思われます。

自称「空の実践者」という、自性をもつかも。

空の実践者は、自分で空の実践者だということはないと思います。言ったら、空の実践者じゃなくなってしまいます。

投稿: 管理人エム | 2016/05/20 06:50

えび天サンバさま

そういえば、トップページを書き換えねば。。

って、思いながらも、なかなか。週末には何とかします coldsweats01

実は、わたしも、最近毎日読んでいます。
ブッダ直説、とはっきり、16経を示したところが本のねらいだったかもしれないと思ったりもしています。

投稿: 管理人エム | 2016/05/20 03:59

エム先生

ご高著読了致しました。相当な満足感があります。とりあえずは表紙ページに新著掲載していただくと、少し気分も落ち着きます。(笑)ヨロシクです。

投稿: えび天サンバ | 2016/05/19 20:26

“見解(の仮設)”の実践者 = わたし      の 
“空の実践者” と規定される“見解の仮設”者  との
ひとり 対話 シュミレーション

わかるかな ?  この構造 、、、、

> 私「この料理はうまいね。」

> 彼「うまいとも、うまくないとも言えない。まずいとも、まずくないとも言えない。」

きみに迎合すれば、 ウマイ という
美味くも不味くもないけれど、 美味いという
「 そー うまいね 」 とでもいうかな 、、、、

美味い不味いは 欲求の充足 に よって 規定される
すきっ腹 は 最高の調味料 であり、 
何であろうとも、最高の具材として用意されている

君は、(シチュエイションを含む)
君の好みに合う モノ と 付き合いたいだけ 、、、、

> 現代の娑婆では、分別も見解も無い彼はよく分からない、面白みの無い人のように思います。

そう思う 根拠に基づいて、そういう見解を構築する
そう思う根拠は
(君の根拠に沿う根拠によって)選ばれる根拠に過ぎない

> このような人物を量産する為に釈尊は50年間も法を説かれたのか、

そうです
その通りです
釈迦の説法が、あなたに届いた結果として、
今のあなたの存在がある
あなたの根拠は、釈迦の導きによって生まれ出ている 、、、、

あなたには何の責任もない

そういう風に導く 釈迦の 説法( =責任 ) です


投稿:  春間 則廣  | 2016/05/18 07:18

前世は一在家さま

講義で疲労困憊しまして、今、読んでいるところです。

『論理』はまずいかすら。

論理は、慈悲 そのものなんですが。

あ、今日も講義に行ってきます。

春間さまのは、全部読めてないっすよ。
道場の方も、ざっと読んだところで、宿題いっぱい!

投稿: 管理人エム | 2016/05/18 06:54

ミチ先生sun、住人各位、こん**は。

空の実践者との想定会話。
私「この料理はうまいね。」
彼「うまいとも、うまくないとも言えない。まずいとも、まずくないとも言えない。」
私「憲法改正を君はどう思う。」
彼「改正すべきとも、改正すべきでないとも言えない。」

現代の娑婆では、分別も見解も無い彼はよく分からない、面白みの無い人のように思います。
このような人物を量産する為に釈尊は50年間も法を説かれたのか、疑団。

以上、私の見解です。
見解の仮設(私見)にて固執しませんので言い争う気もございません。

投稿: 前世は一在家 | 2016/05/17 20:51

> あらゆるものを傷つけず

そういうことがまかり通る
理論に
“ ワタシキズツイチャッタ 、、、、 ”
傷ついた と言っているからには、傷ついている 、、、、

> しかし
> 苦しみだけを取り除く
> そういう方法を開示する

言っていることには 根拠があり
その根拠は
自らの正当性に基づく
( 正当性を積み増す → 量が増え 自我が育つ )

苦しみが、苦しみだけで存在しているのなら、
苦しみだけを取り除く  ことは  できないことではない

煩悩が 菩提と 離れることがなければ、 菩提も失せる 、、、、
( 煩悩即菩提  じゃなければ 色即是空 空即是色 ではない )

> その「理論」みたいなものが

理論で量ると 量った理論が 起きてくる(出てくる)
出てくると思いたいけれど、
(我を離れず) “出している”

> なければおかしい。。。

あるものがないのは  おかしい
おかしいことが起きないのは おかしい  かな ?

ある ものが ない
のは
ない ものが ある
と 同値

あるはずのないモノが   ある のは 
( はず という 我が )ない から
あるはずのものが ない  のは
なぜかは 
( はず という 我が )ある・ない を 
決めるから
( あるという 量 は ないという 量 と 同じ量 )

“字”が 同じ
だけではなく  分“量” が 同じ

( 一つのモノを 分けることを 「分」 という )
( 分けることによって 「両」 がうまれ、 量 ということが起きて行く )

分けられないモノは  一つである (とする)しかない


投稿:  春間 則廣  | 2016/05/17 07:31

ミチ先生sun、こん**は。

ブッダの中から出てくるのは『論理』という見解には??
弟子やバラモン相手ならばそうかも知れませんが。

悩める衆生に『論理』というのは??
そこで『慈悲』と『論理』の両輪の法輪展開だと仮設をば。

くるくる回る仮設にて固執も議論も無しです。

投稿: 前世は一在家 | 2016/05/16 23:36

> 縁起を知る時
> どっちでも
> 中道

縁起を知らぬ時
両方を知っても
両方を知る という 偏にある

分かれば、分かったと分かる
中道
分からなくても、
根拠なく、分からないと  “分かる” 中道

クワインはここに葛藤する
葛藤さえしないモノに 
葛藤を見せようとする


投稿:  春間 則廣  | 2016/05/16 09:27

>  出したものは 引っ込める
   という道なんでしょうね。 <

引っ込める もの 
 は
出している もの


出している もの
 は
引っ込める もの


縁起を知る時
どっちでも
中道

投稿:  春間 則廣  | 2016/05/16 07:21

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